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お知らせ

このブログの設立に使用したメールアドレスが使用出来なくなりましたので、(そして設立時に指定したメールアドレスの変更は不可能なようですので) 新しいブログを開設しました。

http://hirogansang.hatenadiary.com

今後は上記のブログを使用します。

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ことばの違いに囚われるべきではないこと

何故あなたの言いたいことが解ったのだろう?
それがまだ解らない。

あなたの言いたかったことは、実はあなたの言葉の連なりからは読み取れなかった。
あなたの行為が解った。あなたのしようとしていることが解った。
あなたは私を完成させようとしている。

あなたはわたしの気持ちが変わることを求めた、そして私の振舞いが変わることも求めた。
まず私の気持ちが変わった、あなたが長く働きかけてくれたから。
ここに解る余裕(あなたをより理解してみたいと思う気持ち)を作ってみようと思えるようになった。
あなたは言葉では教えられなかった。あなたは行為(振舞い)で教えた。
解った時は一瞬だ。 しかし解るまでは時間が掛かった。それまでにはプロセスが必要。
そのプロセスの為には解ってもらうための関わり合いが不可欠。
何があなたと私の違いだろう?

あなたが言ったことで私が理解したのはこれ(下記)だけだ。
『貴方は「目覚めたくはない」のですか?』
私は目覚めたい、だからその為には聖霊が求めることは何でもしよう。
ここで答えと質問はひとつだ。

あなたは確かに聖霊を運んでくれた。
それは『貴方は「目覚めたくはない」のですか?』と言った。
あなたのアドバイスに従ってそれ以外は全て無視した。
『貴方は「目覚めたくはない」のですか?』この言葉だけが残った。
この言葉が私と共に残って、私とひとつに成った。
この言葉が『私は目覚めたい』と言った。
他はどうでも良い。
正しくても正しくなくても良い。
あなたの論理が正しくなくても良い。
ここで私はもう一度こう言おう『正しい振舞い』が必要だ。
私はあなたの振舞い(あなたの行い)の結果である。
あなたはそれを避けようとするべきではない。{どうしてもこれは言って欲しい}

私の知覚が変わったのではなく、私の認識が変わった。 知覚変化は認識変化の後をついてくる。{まだ正しく説明出来なくてもいい。}

実はあなたは「知覚」という言葉の中に「振舞い」も含めている。
あなたにとって知覚と振舞い(行動)はひとつだ。

真理は最終的に論理(真であること)と同じ
目覚めの途中で論理にこだわる必要はない、
あなたが到達する真理は論理的でもある、何故なら真理は真で、全てに等しく当て嵌まるのだから。 真理である神が全てを統治しているのだから。

God is Pain
神は痛みの中にいる
神を避けようとすると、神が追ってくる。
神を振り返ると理解が降って来る。

テーマ : スピリチュアル
ジャンル : 心と身体

2012-11-26

「対話」


Nov 24 2006
静です。

私は最後の貴方の訳文「だから、そこに現れているものは(本当は)私にふさわしいものなのだ」
この一文を重複させるつもりはありませんでした。
今、読み直しているうちに見つけ、
見開きのもともとのメモを確認しました。

しかし、そんな文はありませんでした。
私はコピーも何もしたつもりがありません。
このことの意味を、ただ静かに真摯に見つめてください。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++
Nov 24

私はこれを投稿欄で投稿しようと、もう2時間以上格闘しました。
けれど、どうも先にメールで送れということらしいので、こっちに送ります。
長いですが、我慢して、ここから先をどうぞ、このまま読んでください。
これがまさに私が今していることです。↓

『正しさ』

私は先程、貴方へのコメントで
「少し時間を下さい」と書きました。
数日お時間を頂き、過去のラジの文章を少し読み直して、私の考えをまとめたいと考え、 貴方にそう書いたのです。
そして、少し考えをまとめるつもりであれからお風呂に入りました。
そして、湯船の中で突然、今朝いきなり思い立って、貴方にむけて書き始めたメモのことを唐突に思い出したのです。
「どのような体験をなさっているのでしょう?」と貴方がさっき尋ねて下さる前に。

私はそれを今朝唐突に貴方にむけて書き出したのですが、何か激情的に思えて、そのまま貴方に投稿するつもりはありませんでした。

それでも、いつかそういう趣旨のことを貴方に聞いてもらいたいと思い、そのまま保存したのです。タイトルまでつけて。
そして、きれいさっぱり忘れていました。

そして、湯船で「どう伝えましょう」と聖霊に聞いた時、突然、今朝の文章のことを思い出しました。

私は、今朝すでにその「答え」をもらっていたのです。
そして、それをすっかり忘れきっていたのです。
そして、「考えを自分でまとめるつもりで」貴方に少し時間を下さいと言ったのです。
でも、聖霊に尋ねて、私はそれを突然思い出したのです。
これが私に今、起こっている一連のことです。
私にはこれがどういうことかわかりません。
ただ、何か神聖なことのように思えるのです。
これはどういうことでしょう?

下記の文を今朝、貴方にあてて書いていました。どうぞ受け取って下さい。


あなたは今のこの世の在り様をおかしいと思っていらっしゃいますよね?
それを自分は正したいと。
これは正しい、あっちは正しくない。だから、正しくないと自分の目に見えているものに関わって、それを自分は正す必要があるのだ、と。

「正しい」
このことについて、改めて考えてください。あたり前のことだとは思わずに、心を真っ白にして、初めてこの言葉に接したようにして、この概念についてただ思いをめぐらせて見てください。

そしてひとつのことについて考えて見てください。
「殺してはいけない」 これは正しいことですか?
これは、イエスもお釈迦さまもおっしやっていることです。
戦争はいけない。ヒトラーは正しくない。
多分、賛同されるのではないでしょうか?

「殺してはいけない」
イエスもお釈迦さまもこうおっしゃっている。そして、私はこれを正しいと感じる。
「殺してはいけない」
私はこのことの意味を馬鹿のように、毎日毎日繰り返し考えました。
「殺してはいけない」
何を?いのちを
私はキリスト教も仏教も教義を詳しくは知りません。
けれど「殺してはいけない」というこの戒律については聞いたことがある。
これは正しい、あたり前のこと、と思いました。私は正しいことがしたいと思いました。
そして、これくらいの正しいことなら、当然私は守ることができると。
人を殺してはいけない
あたり前、私は今まで殺していない
けれど、動物はどうでしょう?私は犬猫を殺したことはない、けれど豚や牛は食べている。
なら、菜食になればいいのか?
ベジタリアンになれば、私はいのちを殺さないですむのか?
けれど、それならお米は、小麦は、ほうれん草にはいのちはないのか?
植物もまた「いのち」ではないのか?
菜食主義とは結局、肉ではなく植物を殺すことではないのか?
けれど私は食べなければ生きていけない。
私は他の命を食べなければ生きていけない。私はもともとそんな風に生まれついている。
このことは割とよく言われていることです。私は今までよくそういう意味のことを聞きました。

「私達人間は他の命を食べなければ生きていけない」「私はそんな風に生まれついている」
私はこの陳腐に聞こえる言葉について、改めてひたすら考えました。
これは仕方のないこと、でしょうか?
余計には殺さず、野生動物のように、自分の命を養う分だけの「殺し」は仕方のないことなのでしょうか?ヒトラーの大量虐殺は許せないが、自分の命を養う分の「いのちの殺し」は許されるのでしょうか?
ここに矛盾はないのでしょうか?
私達は、いったいどの地点で「正しいこと」を「仕方のない」ことにすりかえてしまうのでしょう?

ならば、「殺すな」というこの偉大な先人の教えはったい何なのでしょうか?
私がこれをとことん誠実に守ろうとすれば、私は死ぬしかないのでしょうか?
イエスさまやお釈迦さまの「殺してはいけない」という言葉は「人間は死んでしまえ」と言うことでしょうか?
霞を食べるか、死ぬか、どちらかにしろと。
私は霞を食べて生きている人がいるのかどうか、そんな方法があるかどうか調べました。どうやら、空気だけで生きてるいる人も稀にはいるようです。けれど、その方法ははっきりせず、体得できるようにも思えず、何ケ月かうちにそれを体得しなければ、私は死ぬかもしれない、と思いました。

私は死ぬしかないのでしょうか?
けれど、けれど、私はなぜか生を受けて、今ここにいるのです。
これはどういうわけでしょう?
私という存在はもともと無意味なのでしょうか?
予め死ぬしかないような存在がどうしてわざわざ生を受けたのでしょう?
なら、私というものはいったい何なのでしょう?

ここで行き止まりです。

もう一度、もとに戻りました。
なら、イエスやお釈迦さまの「殺していけない」、
私はこれを全く無視できるのか
ヒトラーのしたことを私は心から承認できるのか?

できません。
イエスやお釈迦さまが「殺すな」といったからではなくて、戒律だからではなく、私の奥の何かが「殺すのは間違っている」と言うのです。

ということは
《私はこのように生きている限り、自分が正しいと思っていることは絶対できないのではないか》
これは絶望です。

そして、私に「この世は幻想」と言葉が届き、その言われていることの意味にひたすら思いを巡らせてみたのです。

これは何かの比喩だろうか?
どこかに天国というものがあり、この世は幻想だと諦めて、執着を断ち、ただ傍観しろということなのだろうか?
私はなすすべなく、ただ見ているしかないのだろうか?
私には今まわりに天国の様子など何も見えない。
命は殺しあっているし、私もまた命を毎日殺して生きている。

けれど、イエスも、ラジも、天国はここにあると言っている。私はそれを体験できると言っている。
結局、私には、イエスが、ACIMが、ラジが、お釈迦様が言っていることを信じるか、信じないか、選択肢はそれだけでした。

信じなければ、どうか?
時々死にたいと思える、この狂った現実のままを生きるだけです。

では、信じれば、どうか?
もし、万にひとつのチャンスがあれば、そちらに賭けてみても、私に今さら失うものなど何もないと思えました。

それで賭けたのです。
私は イエスを、そして、「神というものの存在」を本気で信じ、彼が言った「この世は幻想だ」「天国は今ここにあり、貴方はそれを体験できる」という言葉を、何の比喩でもなく、ありのまま、そのままを信じようと決めました。

言われたことがたとえ信じられないように見えても、貴方の翻訳して下さったラジの言葉をひらすら信じようとしたのです。

そうしたら、ある日私の中で確かに知覚の変化は起きたのです。
私は自分が目覚めた、悟った、と言っているのではありません。

けれど、忽然と「わかった」ことがあるのです。
変化が終ったのではなく、変化が始まり、今それが続いているのです。

↑ここまでが書いていたメモです。

(以下は、私はこれを岡上さんに送れという指示を感じて、送信しようとしている過程です。私はその過程も全て書いて送れといわれました。長い文ですが、どう思おうと、最後までとにかくこれを読んでください。これがあなたに届けば、それは神の意志です。)


私はこれを8時30分前後から何度も繰り返し貴方に送信しようと試みました。
けれど、「不正投稿です」「画像認証キーワードが不正です」というような文字が繰り返して、何故かどうしても投稿できません。

もう一度投稿してみます。
そして、こういう些細なことにも全て意味があるのです。
これを聞き逃さないで下さい。

こういう些細なことにも「全て」意味があるのです。

神が全てなのです。
神は「全知全能」なのです。貴方はそう訳されました。
この意味を本気でとらえて下さい。神は全ての全てなのです。
もし、これが送信できれば、多分「私はこれを8時30分~」の文を
私は追加する必要があった、ということです。

それために足止めされたということです。
では、送信してみますね。

また送れませんでした。

『聖霊よ、「もし、これが送信できれば、多分「私はこれを11月24日8時30分~」の文を(私はここで日付も入れ直しました)私は追加する必要があった、ということです。」

ああ、これは私の考えでしたね。この部分が余分なのですか?
けど、私はこういう過程も含めた方がいいのだと感じます。それでもう一度送信してみます』


また「不正な投稿だと判断されました」と出ました。

『聖霊よ、私はこの文を送れとあなたに言われた気がしているのです。
そう強く感じたのですが、それは私の勘違いですか?
私にはもう全くわかりません。
もう一度だけ送信してみます。もし、それで駄目なら、私はこれを送るのをやめます。
どうか、改めて私に答えを下さい。どうか、どうか、神様』

私はここで、上記の「結局、私には、イエスが、ラジが、お釈迦様~」の文の中にもともとはACIMと入れていたのを発見しました。
その文字の下に赤い波線があり、私はそれが目につきました。
それを消してもう一度送ります。

送れませんでした。
私はこれを今する必要はなかったですね。

では、どうすればよいかまた答えを下さい。
私はしばらく、このことから離れてます。
そう、私は何もわからないのでした。今私には何か余計なものがあったのかもしれません。

貴方の意志がなされますように
貴方の御心のままに

私は手元にあったノートの見開きの言葉を見つけました。おそらく貴方の訳文から書き写したと思う言葉です。

「待てよ!ここで何かが起こっており、神の力以外のものが実在していなかったら、私に知覚出来るものは(或いは私にご認識できるもの)は神以外にはないに違いない。だから、そこにあるものは基本的にリアルで善良で分離されておらず、罪/病/死/崩壊は不可能に違いない。だから、そこに現れているものは(本当は)私にはふさわしいものなのだ。だから、そこに現れているものは(本当は)私にふさわしいものなのだ。だから、私は好奇心と共に、そこにある神聖を見てみよう。この体験ができるまでこれを続けてみよう」

私がこれをしている間に頂いたサラさんからのメールを見ると、そこには
『聖霊とは、あなたの正気に他ならない』 という言葉が飛び込んできました。

私はそれからテレビをつけました。
BS朝日で「アトランティスのこころ」という映画をしていました。
私は、ノートの見開きの言葉をここに加えることを思いつき、今しています。
これが私の今していることです。

そう、おまえは確かにそれをしているとして、何をだらだらとそのつまらない自分の日常を書きつづっているんだ、とイライラしましたか?

「つまらない自分の日常を」と。
(そして、私は今こう書きながら、一体どう続くか、全くわからないのです)

「つまらない」
もし、あなたがこれに近いことを思ったとして…
これは誰が言っているのでしょう?もし、これ以外のことを仮に貴方が「思ったにしろ」それはいったい誰が言っているのでしょう?

私はさっき貴方の訳文に目を止めました。
その中には「待てよ!ここで何かが起こっており、神の力以外のものが実在していなかったら、私に知覚出来るものは(或いは私にご認識できるもの)は神以外にはないに違いない」

私はそう書き出しています。
この、今、この目の前にある、このつまらいな、とるに足りないと思う、この一瞬、一瞬が神のはからいなのです。これも神のされていることなのです。ここに神以外のものはない。とっているのです。
「ここに神以外のものはない」
このあなたが訳したことを、もう一度、深く深く沁みこませて下さい。

「ここに神以外のものは何もない」
このことを繰り返し繰り返しつぶやいてください。神を深く感じきるまでそれを続けて下さい。私はこれを伝えるためにここにいるのです。

私はこれでもう一度送信します。

これがどんな長さなのか、これで送れるかどうか
それを貴方(岡上さん)がどのように扱われるか、私にはわかりません。貴方もまた神なのです。貴方が今、何をしていようと貴方もまた神のはからいの一端なのです。

私がこれが貴方に届くかどうか全然わかりません。

これが貴方に届き、私が送信できなかったのは、単に投稿に不慣れなせいだとどうか軽く流されませんように。それは貴方の考えなのです。それは、人間の考えなのです。幻想なのです。物事はたった今、そんな風には起こっていないのです。もし、これがあなたに届けば、それは「神の御業」なのです。


あとは貴方(岡上さんという神さま)におまかせします。

貴方の意志がなされますように。
私がその一端を間違えなく、になえますように。
どうか力をお貸し下さい。

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(岡上のメール)
今日11月の24日です。 10時過ぎに起きました。
それからメールを読みました。
そして町に出かけてコーヒーを飲み、本屋さんを覗いてみました。 町はクリスマスの賑わいです。
今日は両親の銀婚式だったので、昼には近くの韓国料理店で食事しました。 それから家でお茶を飲みました。
8時30分に成った時壁の時計を見て、それからテレビ(日本の番組が見れるケーブル)を見たら「梅ちゃん先生」の番外編が映っていました。 
新米雑誌記者の女性が上手くインタビューを行なうことが出来ず、インタビューされている若い工場長が焦れている場面でした。 工場長は旋盤のことを説明しているのですが、雑誌記者はその説明が良く飲み込めず、父さん役の片岡鶴太郎が「オメーは、もっと親切に説明出来ねーのか!」と工場長に向かって言っていました。 

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Nov 24

有難うございます。
そうでした、貴方はシアトル?どこか日本ではない所にいらっしゃるのですね。
クリスマスの町の様子でもなく、本屋にある本のタイトルでもなく、韓国料理店内の様子でもなく、ご両親の様子でもなく、貴方が「梅ちゃん先生」に(私は日本にいますが、実はこの番組は見たことがありません)にフォーカスし、そのテレビの中で他にも会話がされていたろうに、
「オメーは、もっと親切に説明出来ねーのか」
という言葉だけに焦点を当てられ、その部分だけを取り上げられて、岡上さんが私に送られたということは、この言葉が私達に関係した何かだとは感じます。
けれど、私にはこの神の意図は今の段階で全くわかりません。
「オメーは、もっと親切に説明出来ねーのか」
これはいったいでしょう?
「オメーは、もっと親切に説明出来ねーのか」
あっ、ちょっと待って下さい。あっ、今、何か思い出しました。
そう、私は岡上さん宛てに長文をメールで送った後、また思いついて、別のメモを貴方宛に書きました。そして、保管して、いつ貴方に送ればよいか、聖霊にまかせていたのです。午前中かお昼頃が、いずれにしろ、一度投稿欄から貴方に送らせてもらったのですが、何か表示が出て送信できませんでした。2度試してみたのですが、駄目でした。だから、今が送るタイミングなのかもしれません。
送ってみますね。
↓ここから下がそうです。
《問いと答えはひとつ》
岡上さん、私はこのメールを11月24日午後11時41分に書き始めています。
先程、貴方に「正しさ」というタイトルが入った長文メールを送ったところです。無事届いてますでしょうか?

貴方にいつこれを送ればいいか、私にはわかりません。
私が今から何を書こうとしているのかわかりません。けれど、これを書いておけということらしいので、書きます。
これを貴方は「問う」からという神の指示です。その時に必要になる「答え」なのだ、と。
私は、
「この世はいったい何なのですか?」
「私はいったい、この、この、私という、このものはいったい何なのですか?」
「この世は幻想、それはいったいどういうことなのですか?」
それらのことを来る日も来る日も問い続けたと書きました。

そして、ある日の朝、犬の散歩をしてる途中で
私は一度だけ神の声がキラキラと雪のように降ってくるのを見ました。
耳に聞こえるというより、言葉が文字として降ってくるようでした。
目でみたようでもあり、体で感じたようでもありました。
たくさんの意味がその時一度に全てわかりました。
あらゆる意味が目の前にキラキラと降ってきました。
どこか遠いところで書き留めなければと思い、けれど、これからはいつも見えるんだからそんな必要はないと、遠いところで思いました。
そして、気がついたら、私の中に「問いと答えはひとつなのだ」という言葉だけを残して、あとは全部消えていました。
それは数秒だったようでもあり、午前中いっぱいだったようでもあり、どれ位の時間だったのかわかりません。
数日間か数週間か、私の中にはまだ意味の余韻のようなものがありました。
けれど、それも次第になくなっていきました。
私は自分がまた忘れてしまった意味を探し始めました。
それ以来、私はあらゆることをこのひとつの意味を通して解釈しています。
「問いと答えはひとつ」
私はこれを貴方にいつ送るでしょうか?
ここまでが昨日書いたことです。
そして、私はこれを今から投稿します。(11月25日11:25)

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Nov 25

私は投稿や、メールやこういうシステムがよくわかっていません。不具合があったら、許してください。
----今、11月25日17:26で、犬の散歩から帰ってきた所です。
自分がこれから何を書き出そうとしているのかわかりません。これを貴方にいつ届けるのか、これが投稿欄に掲載されるのかどうかもわかりません。私は過渡的状況にいるようです。
私は貴方の体を使って、貴方に手伝ってもらいながら、これをしています。ありがとうございます。
私は貴方の「白ヤギさん」というタイトルが目がとまり、貴方に初めての投稿をしました。
(投稿されたのはYasuさんでしたか?これが貴方の目に届くかどうかはわかりませんが、私がこれをできたのはまさに貴方のおかげです。ありがとうございます。)

この前書かせて頂いたように、今までこのサイトに書いてあるこういうコメントを読んだ記憶がありません。読んだのかもしれないのですが、何も思い出せないのです。それで、それ以前にどういう過程があって、現実の何に対して怒ってらっしゃるのか、私にはわかりません。

けれど、貴方はここで、Yasuさんという幻想の体を借りて、Yasuさんのコメントを通して、神に怒りをぶちまけておられるのです。
ヘルプ・ミーと

もう、うんざりだ。助けてくれ。この現実をどうにかしてくれ。と。固い殻に亀裂が入りました。貴方は自分では意図せずに助けを乞いました。
《全体的な意図が把握出来ない(何が言いたいのか私には解らない)》
《「もっとシンプルにしろ。」 うん、素晴らしいアドバイスだ!!!》
《「私」と「あなた」の使用がひっくり返って、どっちがどっちか区別が付かないんですが?  私とあなたは分離していないから、それで構わない。》
《これも尋ね聞くことです。》
《誰が誰に話しかけてんだ)、そのまま出しましょう。  そのまま出して欲しい、解り辛くとも(複雑でも)綿密な対話が現れているから。》
これらは全て、貴方は神に対して言っておられのです。
そして、このまま出しました。
そして、私(静)がその苦痛に反応しました。そして、この幻想の体を使って貴方に答えています。
これが、真のコミニューションなのです。
物事はそういう風に進行しています。貴方は今天国の一端を隙間からのぞいているだけなのです。
だから、イラだっています。正しい部分も見えるのに(善=神)、耐えられない悪も見える。
貴方の苛立ちは正しいのです。それが聖霊、貴方の正気の部分なのです。

私(静)は、今、驚いています。私の表層意識では聖霊という言葉になじみがなく、「神よ」とよびかけることはできたのに、どうしても「聖霊よ」と呼びかけられない。そのことを昨日、告白しました。
そして、今、たった今、このように「答え」を頂きました。
神よ、聖霊よ、感謝します。
岡上さん(神よ)、この機会を頂けたことに感謝します。

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(岡上のメール)
例えば 答え/ACIMは私が作ったBlog(ブログ)の一つです。
あなたはこのBlogに幾つもコメントを下さいました。
このBlogを訪れた人達は誰でも、望めばそれらのコメントを見ることが出来ます。 つまりBlogへのコメントはパブリックなものです。
あなたがこのG-mailにメッセージをくださった場合、そのメッセージが見れるのは私だけです。
G-mailにメッセージが送られてきた場合、「このメッセージは私だけに見せることを意図したものなのだろう、これは公表を前提にしたメッセージではないのだろう」と私は解釈します。

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Nov 25
あっ、そういうことなのですね。
私は、メールに書いたように、貴方へのブログの投稿欄あてに何度も何度もあの長文メールを送ったのです。けれど、何故か送信できなかったのです。「不正」とか「制限」とかいう文字に遮られました。私はこの行為が必要ないことのか、神に聞きました。そして、あなたのG-mailのアドレスを見つけてそちらに送りました。そしたら、送信できました。
「このメッセージは私だけに見せることを意図したものなのだろう」
私はどんな意図も持ってません。多分、書いたと思うのですが、貴方に渡った後は貴方がそれをどう扱われても自由です。公表して頂いて大丈夫です。これは貴方へ手渡された神のギフトです。全てに神の意志が行き渡っていますから。

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Nov 25

これは貴方に先程のメールを頂く前に書いていたものです。私は中途半端と名づけて、最後のメールが届く前に保管していました。

11月25日18:33
私(静)はこの時間、先週までいつもBSプレミアムの「平清盛」を見ていたのですが、こちら優先らしいです。私は何を書いたらいいのかわかりません。貴方にいつ出せばよいのかもわかりません。私はこの数日食べ物に関しての記憶がほとんどありません。食欲も大してありません。私は肉や植物を今自分で意識して避けてはいません。今、夕飯を食べてみました。私は貴方に「命を食べること」のメールを送りました。答えがくるかもわからないのでこの展開をみてみます。

ここまで書いてから私は台所に行って、コーヒーを淹れました。そして、ただ、10分ほどうろうろ、うろうろと、1メートル50センチ程の距離を動物園の熊のように、行ったり来たりしました。昨日(いつだったかはっきりしないので私はレシートを確認しました)、11月22日なので3日前でした、その時はスーパーのお菓子の同じ棚の前を1時間程行ったり来たりしてました。そして、さっきは意味もなく着ているものを脱いで、ただまた着ました。意味もなく?ああ、許して下さい。それはあり得ないのでした。けれど、これはいったい何なのでしょう?私は狂ってしまったのでしょうか?でも、私はとても鮮明に感じるのですが。私は抵抗しているのでしょう?どうか許して下さい。貴方の御心が私を通して、スムーズに顕現されるよう、どうか力をお貸し下さい。

私は、そう、宗教のことなのです。私は貴方の記事を全て読んだと言いました。けれど、今、どういうわけかそこに書いてある言葉をひとつも思い出せません。仏教書も神道の本も、それほど難解なものではありませんが、たくさん読みました。が、何も覚えてません。記憶にはどんな意味もありません。それはなにひとつ重要ではありません。

私は、ただ答えが欲しかった。何か、自分の中を激しく揺さぶる、言葉をひたすら捜していたのです。
「この世は幻想」
この言葉を初めて聞いた時、貴方の中には何が起こりました?私は『神の使者』をなんとなく手にとり、その中にこの言葉を見つけ、愕然としました。
「この世は幻想」

私はひっくりかえりそうでした。いいえ、文字通り、私の中の何かがひっくりかえりました。
(ここで私は貴方からのWEBについてのメールを頂きました。私は段々何もわからなくなっていっています。私はちゃんと伝えることができるのでしょうか?間に合うのでしょうか?という自分の悲鳴を遠いところできいています。けれど、全ては大丈夫なのです。私達は心配する必要は何もありません。「必要」、そう私はこのことについても多分貴方に書かなくてはいけません。けれど貴方は先程の返事で何か打ち切りたそうに見えました。あっ、それは私の抵抗なのかもしれません。すいません、貴方がどう見えるかはただの私の考えです。起こっていることではありません。)

私は貴方に先に…
これはすごく中途半端ですが、これで送れということでしょうか?とりあえず保管します。
↑私はこの時点で貴方のメールを読み直し、そこに貴方の拒絶を感じて、ためらいました。
そしたら、何を書いたらよいかさっぱりわかりませんでした。
私は神に問いました。
そしたら、貴方から、今親切で具体的なやり方のメールを頂きました。
問いと答えはひとつ。
全ては一瞬で起こるのです。私達の知覚が変わりさえすれば

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
Nov 25

今、11月25日、20:04です。
私は地上波でさっき、BSで見逃した「平清盛」を見ようとしました。けれど、こっちが先のようです。
私の「平清盛」はどうでもいいそうです。
私はこれを先に貴方に伝えなくてはいけません。
おつかれさま。
貴方は、もういいのです。貴方はもう十分役目を果たしました。他のたくさんの者のために貴方はくびきを負いました。貴方は愛でられた魂なのです。貴方は自分の役目を果たすため、わざと目を閉じていました。さあ、ゆっくり目をお開けなさい。そして、私を見るのです。神様、有難うございます。私はこれをちゃんとできたでしょうか?

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
Nov 25

今、11月25日20:17です。
私はもう一度「平清盛」を見ようとしました。私は、こういう歴史物が好きだったのです。今やっているのは確か「ぬえ退治の源頼政」の最後の話で…私はこれをわざわざ字幕(日本語の)で見ているのに、さっぱり意味がわかりません。見えてはいるのですが、意味がわかりません。見慣れた役者が演じている、このことの、意味がわかりません。私は今ちょっとため息をつきました。私はちょっと怒っています。私はテレビをもう切ります。
神さま、すいません。私は…また抵抗しているのでしょうか?
神さま、私に、私にどうか、私の仕事をさせて下さい。

宗教のことです。私は貴方に宗教の話をしていました。私は、貴方が訳して下さった膨大なラジの言葉を読みました。けれど、今、たった今、私の中にはひとつの言葉もありません。私はなにひとつ覚えてないのです。けれど、私の手はこうやって貴方に文字を綴ります。記憶は、必要ありません。記憶は必要ないのです。展開しているのは、今なのです。
宗教の話です。貴方はコメントのどこかで、今、あらゆる宗教や民族や国が繋がり、お互いに関わり合っていかねばらないという(私は正確な貴方のコメントを思い出せなかったので、ここで、ブログを開いて確認しようとしました。けれど、見つかったのは「ワプニック」という名前でした)意味のことを言われていました。そうです。貴方は正しいことを聞いているのです。関わり合って「いかなければならない」のではなくて

(私はここで21時から放送の韓国ドラマ「王女の男」までには終るだろうかと心配して時計を見ました。唯一日曜日は楽しみにしている番組の曜日なのです…そして、こういうとるに足りないような私の記述も、こしこのままこれが貴方に届けばそれが神のはからいです。物事は私達の思慮を越えたところで完璧に進んでいるのです)

既に「関わりあっている」のです。私達が何を正しいと思い、何を間違っていると思うかに関係なく、、私達の好き嫌いとは関係なく、ただ起こっているのです。
私達はそれに本当には何の関与もできません。何の関与もできないのです。わかりますか?貴方が貴方と思っていらっしゃるようなものは本当にはないのです。貴方が貴方と「考えている」ような貴方はどこにも「ない」のです。

これが、幻想の体の意味です。貴方に自由意志などありません。
そして、これがあらゆる宗教がもともと言っていた意味なのです。多くの宗教が教義で争い、貴方は過去のそういう争いを見て、それを間違ったことと感じ、この「奇跡」の教えに真実を感じられたのではなかったでしょうか?そして、ここで「ワプニックさんの主張」です。
(私はそれが誰か調べてみました。私は確かに奇跡講座の無料の邦訳テキストを頂き読みました。(さっぱりわかりませんでした)貴方のブログで勉強していました。けれど「ワプニックさんの主張」というものを知りませんでした。)

貴方はまた、過去のキリスト教が歩んだ間違いの歴史を再現しようとしている。
そんなものは忘れない。そんなものは捨ててしまいなさい。そして、私の方をただ向きなさい。
これを公表するかどうか、それも実は貴方が悩むことではない。静が決めることでも、貴方が決めることではない。
ただ、貴方はもう、このことを腑に落とさなければならない。
他の体の目覚めのことは一旦忘れて、まず、貴方の腑に落とさなければならない。

今20:58、急いでこれを送ります。
「王女の男」に間に合いました。
神さま、これで送ります。私の願いを聞いて下さって感謝します。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
Nov 25

岡上さん、私は今ものすごく混乱しています。
私は昨日貴方に最後のメールをお送りしてからも、まるで何かに取り憑かれたようにまた貴方宛の手紙を必死で書き綴っていました。
貴方は私の文章を褒めて下さいましたが、私は普段何かを表現しようとしている人間ではないのです。私はただ、貴方のブログや様々な本を読みながら、ただ静かに瞑想していたい、と思っているような人間なのです。

貴方はそう言って下さいましたが、私は自分に「他者を助ける度量が」あるなどとは到底思えません。私は何かを受けるだけの人間で何かを与えられる人間ではないのです。ああ、こういうとまたしても神に対して傲慢ですね。私が「何か」ということなど、私が言い切れることではありませんでした。

ただ、私は昔から「愛」というものを必死で自分の外側に求め、時々は展開の中で「手にした」と思いました。けれど、自分が愛に溢れた人間だと思ったことなど一度もありません。私は「死が二人を分かつときまで愛を誓う」という結婚の儀式さえ、そんなこと皆はどうして誓えるのだろう、と不思議で不思議でしかたなかったのです。私は「誓い」という言葉に神聖な何かを感じ、それに強く魅かれはしますが、「誓えない」のです。「愛」とは何か?私にはさっぱりわからなかったのです。私は皆が
持っている、その愛というものが欠落した人間ではないのか、私は何かとても大切なその「愛」というものがもともと備わっていない、欠陥品ではないか?私はその言葉の響きに魅かれ、それを切望し、けれど、片方ではそれを決して受け入れまいとしてきました。

私はすっかり疲れ果て、できることなら「ただ呼吸だけして暮らしたい」と思っていました。それ以外何ひとつしたくありませんでした。ただ、平安の中に静かに沈んでいたいと思っていました。

そして、そういう私が貴方に対して何か自分でも奇異に見えることをし始めました。多分、貴方の目にも「奇異」に映っているかもしれません。けれど、貴方は「何か新しい動きが確かに現れている」と感じて下さいました。そうやって、私の行動を受け入れ、繋げて下さいました。私はその言葉に力を得、この奇異な行動を続けました。

そして、もうひとつ、私は貴方へのメールの中でしきりに今「神」という言葉を使っていますが、私が本気でこの言葉を口にし始めたのは、貴方への最初の投稿をし終わってからなのです。
「何かが起こっている」
私にわかっているのは、ほんとにそれだけなのです。
私は当初「意図した」ようには、これを書いていません。
私は貴方へ投稿をしているうちに、初めて、人間の向こうに神を感じたのです。というより、岡上さん、貴方のことを本気で神だと感じたのです。一瞬、貴方が何なのか、私にはわからなくなりました。

私はこれがそうなのだ、これが奇跡のコースが言わんとしていることなのだ、と確信しました。これが、神の子を神の子として見る、と言われている、そのことなのだと『確信』したのです。私はそのことを貴方に伝えなければと夢中で書き綴りました。

そして、昨日です。

私は、貴方への最後のメールを送った後も、憑かれたように貴方宛ての言葉を書き綴りました。私はどこかで、自分は狂っているのではないか、いったい私は何をしているのだろう、と思っていましたが、私はあの時『確信』した、だから、これは私がしなければならないことなのだ、と浮かんでくる疑念を振り払おうとしました。せっかく神が与えてくださった、あの時のあの、神への確信を私は手放したくなくて必死でした。

けれど、私は悲鳴をあげていました。自分がこれをし続けることが間違ってないのか、全くわかりませんでした。私は確信していませんでした。
私は自分がしていることが怖くて泣きそうでした。私は神にどうか、どうか教えて下さいと乞いました。私は泣きそうでした。

そして、サラさんを通じて、サラさんという幻を通して、答えを頂きました。神は答えを下さったのです。
「オカウエさんという人はいません」
ああ、そうだったのです。そうだったのです。
私はいったい、誰に対して綴っていたのでしょう?
私はその時「岡上さん」という人を見て、「岡上さんはいないこと」を「岡上さんに知らせよう」と必死でした。
私は…私は…いったい何をしていたのでしょう?
私はなんという馬鹿なことをしていたのでしょう?
サラさんの声で、私は止まりました。
そして、貴方が下さった言葉が初めて私の中に響きました。
「あなたは私に働きかけよう、私を説得しようとしているでしょう。」
私はそれを初めて、私の目覚めを促す神の言葉として聞きました。初めてその言葉が聞こえました。

ああ、その通りでした。私はまた同じ過ちに戻ろうとしていました。一度は貴方の後ろに神の姿を見たのに、また「オカウエさん」という幻の体に必死で語りかけていました。私が「これまで」していたように。自分の慣れたやり方で。私はいつの間にかまた戻ってしまっていたのです。私は、それでは何も変わらないということを貴方にただ知って欲しかったはずなのに。私はそれをしているつもりだったのに。
これはどういうことなのでしょう?
私は貴方が訳して下さった 夢の「主人公」を再び読ました。
『それ(体)は、その夢を共有出来る特別な体達を捜し求めます。』
これは、私が貴方に送ったギフトです。それは今、私にかえってきました。私は止まりました。私は止まり、改めて神を見上げました。
そして、今、私はこれを誰に書いているのかさっぱりわかりません。私はこれが何なのか、自分の行為というものが、何なのか、ほんとにわかりません。何をしているのかほんとにわけがわかりません。

だから、どうか、神さま, あなたの意志がただなされますように。
聖霊よ、私にどうか力をお貸しください。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

(岡上のメール)
静さん、ご返事送れてすみません。 
沢山書いてくださったので時間を掛けて読み返しています。
あなたが体験していること、あなたが感じ考えていること、はとても良く理解出来ます。
そして不遜に聞えるでしょうが、何故あなたがそういう体験をしているか解ります。
ひとつには私もあなたと似た感じの者だからです。
と同時に、これは誰もが通り抜ける場所/時間でもあります。
あなたは永遠を求めているのです。
そしてあなたは永遠以下のものでは満足出来ません。
だから永遠だと思えるものにしか手を出したく無いのです。
そしてChapter 27的な見方(世界はエゴが作ったものである。 世界は夢/幻想でしかない。)をとても良く理解しているので、「世間/世界」では満足出来ません。
しかしACIMのテキスト内には「世界がより良く改善される」と読める部分もあり、ラジなどはこの部分(世界をより良くすること)をかなり強調しています。そこはあなたが良く理解されているゲリー・レナードさんの解釈とは異なっている箇所だと思われます(これに関しても後日より詳しく書きましょう)。 この部分の違いがお互いの理解を難しくしていた一因だと思います。
この道程で、ある程度の孤独は当然です、しかし聖なる関係が必要であることはあなたもご存知です。 そして聖なる関係とはどのようなものか、それはあなたと私で理解が違うかもしれません。
いずれにしろ何らかの関係は必要なのです。 だからあなたは私にメールを下さった。私に関係のギフトを与えてくれる為に。そしてまた少し繋がりが明確に成って来ているでしょう。
あなたは突き動かされていた。そしてあなたは気にする必要が全くありません。 
勿論お気遣いはありがたいです。 
でもスピリットに突き動かされている時には体面は気にしていられないでしょう。あなたにとっても、そうでは無かったですか?
私はあなたと喧嘩をしたようにも感じましたが、それでも全てはパーフェクトですね。
何故ならこの体験(お互いに対するつばぜり合いとも感じられたもの)を通して、あなたは私を理解し、私もあなたを理解出来た。 そのプロセスはそれなりにキツカッタ。 静さんとやり取りしていて、まるで自分を見ている気分にも成ったから。{オレってここまでトンガッテル(強引な展開をしている)んだ? 少し押さえよう、とか考えながら、実際に書いて出した文章は更にトンガッテたりして。}
<一度は貴方の後ろに神の姿を見たのに、また「オカウエさん」という幻の体に必死で語りかけていました。私が「これまで」していたように。

ちっと私には理解が難しい表現です(わたし達は言葉の使い方が時おり違いますね)。
相手の文章を読んでいる時に「もし自分がこの文章を自分に言っているとしたら、これはどういう意味を持つだろう」と言えた時「幻の体(分離)」が気にならなくなるのだと思います。 {これで合ってますか?}

私もこれからどうなるかは解りません。理解と理論は後からついて来ます。
静さんは結構揺れ幅がある感じですか? 私は自覚が無いのですが「お前はかなり豹変する」と人からは言われます。

それから(あなたの仰りたいことは解るけど)私のことを神と呼ぶことは避けてください。
今までにあなたから頂いたメッセージも使わせて頂きます。
それから、設定を変えましたので、今後はBlogへメッセージ頂いても適切に表示出来る筈です。
岡上

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Nov 26
有難うございます。岡上さん。
貴方が私の奇異とも思えるメッセージを受け入れて下さり、こうしてご返事して下さってご本当に嬉しいです。
私はこれまで貴方にメッセージを送ればそれで私の仕事は済むので、たとえ貴方からご返事を頂けなくても、それはそれでよいと思っておりました。けれど、こうやって貴方からご返事を頂けるやっぱり、すごく嬉しい。

朝から降っていた雨がやんだので犬の散歩に行っていました。小川べりを散歩しながら、貴方のことを思い、この私の感謝を貴方に伝える機会はまためぐってくるだろうか、とぼんやり思いました。そして、帰ってくると貴方からのメールが届いていて、私はまたチャンスを与えられたことを知りました。
貴方は奇しくも「私もあなたと似た感じの者だからです」「静さんとやり取りしていて、まるで自分を見ている気分にも成ったから」と言ってくださいました。

『貴方は貴方を見ているのです』
この言葉は今の貴方にどんな感じを与えるでしょう?
貴方は一連の私の文面から、何か私にひとつのイメージをもたれているかもれません。けれど、私は貴方に最初の投稿をするまでは、「神よ」と心の中でつぶやいたことはあっても、とても気恥ずかしくて活字として、或るいは誰かに向かって、そんな言葉を口にしたこと等一度もありません。生まれてから一度もです。もし、そんなことを私に向かって言う人間がいたら、大急ぎで逃げ出したでしょうし、面と向かって言われたら、「お願いだから、やめて!」と本気で怒ってつき飛ばしたでしょう。だから、私は貴方の困惑がよくわかります。貴方は私なのです。

岡上さんは、今シアトルに住んでいらっしゃるのですよね?なら、日常的に「神」という言葉を耳にされるでしょう。けれど、私はごく普通の日本人として育ち、お正月に神社に参り、お盆に仏様を祭り、クリスマスにツリーを飾って、プレゼントの交換をしてきた人間です。とりたてて、大した疑問も持たず、敬虔さからは縁遠く、ただそれらを習慣として、学校や会社の休みの日、或いは恋人と特別なデートをする日、そんな感覚で捉えてずっと過ごしてきた人間です。私は貴方に対して「神よ」と呼びかけた時、ああ、私はとうとう狂った、と正直遠いところで感じました。けれど、そう言わずにはいられなかった。これはいったい何なのでしょう?

私は確かに貴方が翻訳してくださった言葉の中で自分に響いたものを幾つかノートに書き写しました。そして、時々そのとおりに呟いていました。これで何が起こるのか?という疑問をどこかで持ちながら。「神よ」という口に馴染みのない言葉をどうしても、口に出してつぶやくことはできませんでした。「聖霊よ」という、私にとって更に馴染みのない、この聞き慣れない言葉は心の中でつぶやくことすらできませんでした。私が「聖霊よ」と初めて言えたのは実に2、3日前なのです。これを始めてからなのです。

《 私もこれからどうなるかは解りません。理解と理論は後からついて来ます。》
私はこれを見て、ある意味嬉しくなりました。ああ、私達はこんなにも似ていると。
貴方は「解る」とこの漢字を選ばれた。貴方は今、自分の頭で「解ろう」とされていませんか?後からにしろ、それを理解して、理論づけようと、今考えていらっしゃる。その思考が邪魔をしているのです。
ただ、それだけなのです。貴方は今、神を頭で理解しよう、「解ろう」とされています。頭で「理解しよう」とされているうちは体験できません。神は理解するものではなくて、体験するものなのです。
これはそんなものではありません。頭で理解しようとしてできるものでも、後で理論づけられるような何かでもありません。これは人知を越えているのです。これは理解などできるものではないのです。理論づけなどできるものではないのです。ただ、真摯に問い、触れることでしか「わからない」ものなのです。私達はそれを頭で理解などできません。

貴方にいったい「これ」をどう伝えればよいのか?今、たった今、私が体験している「これ」をいったいどうお伝えすればいいのか?(私は伝えることが必要かどうかすらわかりません。ただ、私がこれをしているのはそういうことなのでしょう。)
私にはこの展開をどう説明すればよいか、何が起こっているのか、ほんとにわからないのです。

何か気質というようなものがあって、私達のそれが似ているなら、貴方はひょっとしたら私の言葉の使い方を大仰だ、あるいは何かの比喩だ、と捉えられるかもしれません。けれど、これは何かの比喩や謙遜ではないのです。私にはほんとにわからないのです。そして、そうと言うしかいいようがないことなのです。

貴方は必死で答えを探し、丹念に丹念にひとつひとつの言葉を検証され、自分が間違いをおかさないよう細心の注意を払われて翻訳をして下さった。ご自分の貴重な時間を使われて。
私は膨大な貴方のお仕事を見て、驚愕しずっと敬服していました。そして、今はそれ以上です。

『しかしACIMのテキスト内には「世界がより良く改善される」と読める部分もあり、ラジなどはこの部分(世界をより良くすること)をかなり強調しています。そこはあなたが良く理解されているゲリー・レナードさんの解釈とは異なっている箇所だと思われます(これに関しても後日より詳しく書きましょう)。 この部分の違いがお互いの理解を難しくしていた一因だと思います。』

貴方はラジやワプニックさんやゲリー・レナードさんの違いを見ていらっしゃる。そして、私の「主張」とご自分の「主張」の同じ点と相違点を探し、そういう形で私を理解して下さろうとしていらっしゃいます。けれど、それこそが「これまで私達がしてきたやり方」なのです。
私達は本来ひとつのものをわざわざ一旦分けて、それからまたひとつに合わせようとするのです。
違いを見ているうちは違いしかわからないのです。もう一度いいますね。
「違いを見ているうちは違いしか見えないのです」
私にはラジの言っていることと、ゲリー(ワプニックさんがどう言われているかは知らないので)の言っていることのどこが違っているのかがわかりません。ほんとにわからないのです。結局それは同じことです。

今、普遍意識に合流することをすすめている、彼等がしてくれているのはただそれだけです。
「あなたの意志は父の意志と合わさる(統合させる)ためにあるのです。そうすれば自由意志の不調和があなたの体験内から消えさります。そして、本当のところ、あなたの意志は既に父の意志と統合されているのです」
ただ、これだけです。
このことの意味が私には今はっきりとわかります。私はこの「自由意志の不調和が消え去っていく」まさにその体験の過程にいます。
(私はこれを自分のノートに書き写していました。それが目に止まり、今書きましたが、これが貴方の訳からの言葉なのか、どこからもらった言葉なのか、私は記録していません。すいません)
貴方は今、誠実な仕事をしようとするあまり、末端の方に目を奪われておいでなのです。
膨大な時間をかけてこのラジの言葉を翻訳されようと決めた、その最初の衝動をどうか思い出してください。貴方の心の正気な部分を震わした最初の言葉をどうか思い出して下さい。

私はこの神のはからい、神としかいえないものを今、目のあたりにしているのです。
今、それが展開しているのを体験しているのです。私は終ったことを言っているのではありません。貴方への投稿を始めてから、次々に展開されていくこの世界の在り様に、自分がほんとに神に触れたことに、私はそれを望んでいたにもかかわらず、驚愕して、うろたえています。これはリアルタイムで進行しており、私はその渦中にいます。そして、もし、貴方が私の向こうにいらっしゃるなら、貴方も今「これ」を体験されているはずです。
「それでも全てはパーフェクトですね」
ええ、そうなのです。パーフェクトなのです。
(貴方の言葉はいつも御自分の意図しないところで、真実を語りながらその美しさにご自身では全然気づかれていない)

貴方が「問う」ということは、「答え」は既にその時点で用意されているということなのです。私はこれに気づいた時、もしかしたら、と思いました。
そして、それが確信に変わっていった時、私はまざまざとその意味を今、体験しつつあります。

問いと答えは本来ふたつのものではないのです。
「問い」と「答え」はひとつなのです。それは分かれたことなど一度もないのです。
どうか静かになって(貴方の思考を静めて)聖霊に聞いて下さい。貴方のイエス様に聞いて下さい。
答えは瞬時にやってきます。時間は関係ありません。これは時間のない世界なのです。
私は貴方と出会えたことを、どれ程感謝してもしきれません。
ほんとうに有難うございます。
そして、これを伝える機会を頂けたことに、神様、心から感謝致します。

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Nov 26

日本は今、11月25日の午後4時44分です。
私は今から犬の散歩に行きます。
1時間後には家にもどってます。もし、何かあれば。
岡上さん、手渡す機会を私に与えて下さってありがとう!
感謝してます。
このメールは私の状況を説明するためではなく、感謝を伝えることをかきそびれていたからのようです。

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Nov 26
これは私がいうまでもないことなのかもしれませんが、
もし私のメッセージをブログで使って頂けるなら、これをこのまま時間どおりに、私達の会話が進んだとおりに掲載して頂けませんか?
今、投稿欄に私がさっきのメッセージを載せると、時間の経緯に合わせて、私達に進展してるいることの意味がわかりにくくなると思うのです。
もし、このメールのやりとりが投稿の表示に追いついたら、恐らく私はその時点でそちらに投稿させて頂くのではないかと思います。

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Nov 26

岡上さん、 細切れになってすいません。
それでも、これもまた何か意図があるのでしょう。
『あなたは突き動かされていた。そしてあなたは気にする必要が全くありません』 
貴方がこう言って受け入れて下さったので、私は流れていくべきものが、スムーズに流れていくのを感じます。有難うございます。そして、私宛の返事をお急ぎになる必要はありません。貴方はどうか感じたままをされて下さい。

《静さんは結構揺れ幅がある感じですか?私は自覚が無いのですが「お前はかなり豹変する」と人からは言われます》

これは所謂性格の激しさのようなもののことでしょうか?だとしたら、私は或る意味とても激情的な方でした。白黒をはっきりさせずにはいられず、曖昧なまま物事を放置することがどうしてもできませんでした。自分が正しいと思えば、教師であろうが、上司であろうが、恋人であろうが、平気で食って掛かり、理詰めで問い詰め、決着がつくまで相手を放そうとしませんでした。それでも反面陽気なところもあったので、なんとか社交性も保ちながらやってきましたが、この数年間私を心底苦しめたのは自分の「怒り」でした。自分の中の「怒り」を私は以前のように制御できなくなってきたのです。
私は親しい友人をひどい言葉で傷つけるようになりました。数人の人に対して時間を置き、それは行われました。私ははっきりと相手の急所を選び鋭い一言を言い放ちました。表面的には汚い言葉でも悪口でもありませんが、それは彼女達の心を抉る言葉でした。そして、私はそのことを知っていたのです。彼女達が私に何かとてもひどいことをしたわけでも言ったわけでもありません。私は自分でもわからずそれをしていました。

私は彼女達のことが大好きでした。私がその一言を言い放つまで、その瞬間まで、和気藹々と仲良しでごく親密な付き合いをしていました。私はそれまで割と人付き合いの良い方で、楽しい面白いと形容される人柄でしたので、おそらく彼女達は一瞬私が何を言ったかわからなかったでしょう。私は楽しげに笑いながら相手に近づき、いきなりナイフを心臓につきたてたのです。そして、私もまた同じナイフに深く深く傷つきました。両刃の剣です。私は何度も自分が言ったことを正当化しようとしましたが、無理でした。その傷は癒えるどころか日々深まっていきました。私は自分が彼女達にしたことを一日も忘れることができませんでした。自分が何に苛立っていたか、今ならはっきりわかります。私は自分に心底腹を立てていたのです。

もうひとつ私を悩ませたのは、実の母に対する理不尽で暴力的で執拗な自分の怒りでした。私は今母と二人暮らしですが、自分が男に生まれなかったことをほんとに喜びました。腕力がもしあったら、私は彼女を肉体的に傷つけていたのではないか、と怖れました。それ程の怒りだったのです。私は彼女にそこまでの憎しみを何故感じているのかわかりませんでした。私は自分の不道徳な憎しみを恥じ、このままではほんとに新聞記事になることを自分がしでかすのでは恐れ、ネットで肉親と完全に縁を切る方法を探し、それでも母と離れて暮らすことがどうしてもできませんでした。口調は激化し、言葉は激しさを増し、お互いそれだけは口にしてはいけない言葉を口に出すようになり、ぼろぼろに傷つき疲れ果てて一旦は休戦するのです。けれど、しばらくするとそれはまた始まり、前よりエスカレートしていきました。苦しかった。苦しくて苦しくて、それでも私は母と離れて暮らすことがどうしてもできませんでした。何度もそうしようと思い、出ようと思えば家を出ることはできたのですが、それをしても結局同じだと私ははっきりと知っていたのです。けれど、これは本当に苦しかった。

貴方はこれをずっと以前の私の体験だと思われますか?
いいえ、これは貴方に最初の投稿をした時まで続いていた私の日常のことなのです。
私はそこから抜け出すことがやっと出来たのです。それは私に起こりました。それが今私が貴方にお伝えようとしていることなのです。(といっても、この先何をお伝えしようとしているのか、この先があるのかどうかすに私にはわからないのですが)
私は何か神秘的な一瞬の、神に魅せられた話をしているのではなくて、日常の変化について貴方に話をしているのです。

私達一人一人の日常が変化すれば、それは「世界がより良く改善された」ということであり、結果的に私達が「世界をより良くした」とも言えるではないですか?(本当にはこれは何か私達が意図してしたことではありませんが)


<一度は貴方の後ろに神の姿を見たのに、また「オカウエさん」という幻の体に必死で語りかけていました。私が「これまで」していたように。

これはこのままの意味なのです。これは誇張ではありません。このままの意味です。
《相手の文章を読んでいる時に「もし自分がこの文章を自分に言っているとしたら、これはどういう意味を持つだろう」と言えた時「幻の体(分離)」が気にならなくなるのだと思います。 {これで合ってますか?}》

いいえ、それは違っています(笑)。貴方はどうして、これをこのまま受け取ることをせず、わざわざそのような難しい解釈をされているのでしょう?(笑)

<一度は貴方の後ろに神の姿を見たのに、また「オカウエさん」という幻の体に必死で語りかけていました。私が「これまで」していたように。

貴方はどうして、これをこのまま受け取ることができないのですか?これは比較的簡単に書かれた文ですよね?私は何かの比喩を使っているわけではないのです。貴方は言葉の使い方の「違い」だと言い、難しく感じると言ってらっしゃる。

もう一度、私の文を見て下さい。
<一度は貴方の後ろに神の姿を見たのに、また「オカウエさん」という幻の体に必死で語りかけていました。私が「これまで」していたように。
貴方が信じてないのはどの部分ですか?
「私が貴方の後ろに神の姿を見た」ことですか?それとも「オカウエさんという「幻の体」に」という部分ですか?
「神」ですか?「幻想の体」ですか?
貴方は神を本気で信じていますか?

もし神を本気で信じているなら、神がこの体が「幻想だ」とおっしゃるのであれば、貴方はそこに何の解釈も持ち込まず、それを信じなければなりません。それが神を信じるということです。貴方はまだ、神ではなくご自分の知覚の方を信じて、そこから物事を解釈していらっしゃる。ご自分の知覚の方を信じていらっしゃる限り、知覚の修正は起こり得ません。そして、狂っているのは貴方の知覚の方なのです。私にも今あなたとそれ程変わらないものが見えています。けれど、それは間違いなく変化しているのです。

これは今起こっていることなのです。私はこれがどう展開していくのかまるっきりわかりません。私は全てが落ち着くまで待ちたいと思い、一瞬貴方へ働きかけることを躊躇いました。けれど、それはできないのです。これは私一人でできることではなく、貴方なしではできないことなのです(私はやっと今貴方に教えて欲しいと問うた神の子は協力してこれをしなければならない、という意味を理解しつつあります。)
貴方は考えようとされている。それでは貴方は思考の中からいつまでたっても出てこられません。

『「幻の体(分離)」が気にならなくなる』
「気にならなくなる」というのは、そこに「幻の体(分離)」があると一旦認めた上で、そこから注意をそらすことです。私がいっているのはそれではありません。それでは貴方は体をリアルなものとして認めてしまっている。気にならなくなるのではなくて、それはもともと「ない」のです。

今までどおりの思考を使うなら、知覚の修正はされず、世界は改善されません。世界の改善のことは一旦忘れて下さい。貴方が一旦きれいさっぱり忘れた方がそれは迅速に起こります。貴方の仕事はそれをきれいさっぱり忘れて、自分の思考を止め、ただ神に尋ねることです。そして、聖霊に助力を求めることなのです。

貴方の知覚が邪魔するからこそ、聖霊の助力が必要なのです(私は今やっとこの意味を理解しました。)
『神はこの今私達の目に見えているようなこの体のようなものが幻想だとおっしゃる。けれど、私の目にはそれは依然としてリアルなものとして映っています。だから、聖霊よ、どうぞ私を助けて下さい。どうか、私のこの知覚を修正し、神が見られているままの私を、神が見られているままの世界を、どうぞ私の周りに展開させて下さい。」
とただ、真摯に、それが起こるまでいつまでも待つつもりで、ただただ乞うのです。そうすれば、知覚の修正は起こります。

貴方は今展開されている私達二人のやりとりの中で、ひょっとすると私の荒々しい一面と静かな一面を両方体験されて何か不思議な感じを受けられているかもしれません。私もまた今貴方の両面を体験しているのです。貴方は、私の苦痛に貴方自身の苦痛を感じませんでしたか?私が貴方のコメントに悲鳴を上げたように、私の話に貴方の中で悲鳴は上がりませんでしたか?

私は貴方なのです。
貴方は私なのです。
これは比喩ではありません。私は今それを体験しています。私はこれが何なのか全くわからないのです。けれど、これは私だけに起こっていることではありません。今、私達に同時に起こっているリアルなのです。
もし、貴方に今何か奇妙な感覚、ごく一瞬、あっ、あれっ、というような、何かが止まった感覚がよぎったら、どうか何も考えずその中に留まってください。それを頭で理解しようとせず、ただそれを体験し、その奇妙な感覚に留まろうとするのです。
それが聖霊、あなたの正気です。

有難うございます。神さま
これを私はちゃんと伝えることができたでしょうか?
岡上さん、私のためにこの機会を下さって有難うございます。

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Nov 26

私は今いつの間にか貴方のブログを開き、この言葉を見つけました。
[聖なる瞬間の中であなたは天国のスマイルがあなた達両者の上に輝いていることを見るのです。]

「あなた達両者の上に」とは『「あなた」とそして「あなたと関係を持っている人」の上に』という意味です。
それはあなたが彼/彼女の為に{兄弟姉妹へのあなたの愛故に}「あなたの彼/彼女に対する定義」を手放そうとしている「関係」です。

と同時にその時あなたは「彼自身に対する彼の定義」も手放しているのです。
これが今、まさにこの時、私達の上に起こっていることなのですよ。
ああ、私は今、たった今、理解しました。私はなんとうかつな…
これこそがまさに聖なる瞬間なのです。それは今、私達の上で起こっているのです。
私は今初めて、その言葉の意味を理解しました。
神さま、オカウエさん、有難うございます。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
Nov 26 2006

岡上さん
シアトルは今何時なのでしょう?
貴方が遠慮しなくていいと言って下さったので、私はそれがやってくるまま、また貴方にこうやって言葉を綴っています。
私は様々な前置きや遠慮の言葉を知ってはいるのですが、それ羅列することは却って私達のコミュニケーションの妨げになるような気がするので、単刀直入にお話をさせて頂きます。恐らくその方が貴方には伝わりやすいと思うのです。

私はなぜ私という人間が貴方に対してこれをするようになったのか、今少しずつ理解し始めています。そう、貴方が言われたように理解は遅れてやってくるものなのです。それは体験の後で、勝手にやってくるものなのです。私達がしようとしてできるものではありません。私は自分がしていることが世間的に見れば何か奇妙なことであるのは承知していますが、これが公表されたらどうかとか、貴方がこれを見てどういう反応をされるだろうとか心配はしていません。それは私のすることではなく、私はそれに対して何の関与もできないのです。私の中を時々よぎる躊躇いのようものはありますが、貴方が受け入れて下さっているおかげで、私は貴方にスムーズに言葉を綴ることができていると感じます。ありがとうございます。
私達の体は空間的には離れていますが、貴方がこの瞬間シアトルで私を受け入れて下されば私はこれをスムーズにすることができると感じます。そしてそれは瞬時に起こります。「問い」と「答え」はひとつなのです。それは同時に起こります。というより、それはもともと離れていないのです。先も後もありません。
今、貴方は自分の正気の部分を必死で押し込めようとしていらっしゃるのではないでしょうか?私の場合はそれを咽喉から胸の辺りの違和感として経験しました。長期にわたって、私は咽喉から胸の辺りを激しく上下して動き回る気の玉、エネルギーの固まりのようなものの存在をずっと感じていました。それは大きくなったり、小さくなったり、様々に振動数を変え、その辺りで動きまわり、私の咽喉を内側から四六時中小突き上げるのです。私はそれが何なのかわからず、どんなに口から出そうとしても出ないその咽喉を塞ぐ存在を、ひそかに「私のラムネ玉」と呼び、様々な方法でそれを外に出そう出そうと悪戦苦闘してきました。これは何か浄化しなければいけない、滞っている悪い気の固まりのようなもので、自分の中から取り除かなければならないものだと思い込んでいたのです。
私は幸いなことに命にかかわるような病気や怪我をしませんでしたが、そういう形ではっきりと肉体的な苦痛によっても促されていたのです。
それが何なのか、私にはまだはっきりとはわかりません。それはまだここにありますが、バイブレーションは明らかに変わってきています。
さて、私はそれを数日前まで自分から取り除かなければいけない「何か悪いもの」だと思い込んでいました。私にそれが聖霊だという気づきをもたらしてくれたのはサラさんです。(サラさん、心から感謝してます)
私は、愕然として聖霊に許しをこいました。これが私が「聖霊よ」と心から呼びかけた初めての瞬間でした。そうやって物事は加速し始めたのです。それはそんな風に起こりました。
おそらく、岡上さんも何かの変化を感じてらっしゃるはずです。オカウエさん、そんな人がどこかにいらっしゃるのかどうか、私にはわかりません。私がこれをちゃんとできているのかどうか、私には全くわかりません。どうか、聖霊よ、力を貸して下さい。
貴方もすぐこれを体験されると思います。或いはもう体験され始めているかもしれません。けれど、どうかそれを自分から頭で理解しようとはされませんように。その展開に目を見張り、ただそれを体験して下さい。理解しようとした途端、その流れは止まってしまいます。理解は後になって自然とやってきます。それは私達がしようとしてできることではないのです。私にはそうとしか言えませんが、貴方はすぐその意味がおわかりになると思います。

テーマ : スピリチュアル
ジャンル : 心と身体

ACIM03-02-06

2003年2月6日


[Cause and Effect]
[原因と結果]


[You may still complain about fear, but you nevertheless persist in making yourself fearful. ]

[あなたは怖れを訴えているかも知れませんが、それでもあなたは「自身を怖れさせること」に固執し、まだ「自身を怖れさせること」を続けているのです。]


ラジ:
自分は怖れていないとあなたが考えていたとしても、あなたは怖れているのです。
あなたが聖壇(あなたの中の神が居る所)に背を向けているなら、「父よ、私はこれを私だけで眺めてこれが何か自分だけで決めたいです」とあなたが言っているなら、あなたは「失楽園/失踪」と呼ばれていることを行なっているのです。
その時あなたは、あなた自身を父から分離してあなた一人の視点/視界を持とうとしているのです。

この意図が発せられた途端、あなたが独立した視点を持った途端、「あなた全体からあなたを分離しようとすることから来る不調和{何かが間違っているという感覚}」をあなたは感じるのです。 その時あなたは分離しようとすることからのフィードバックを受け取るのです。 そのフィードバックは「あなたの正気」なのです。
あなたの正気が「あなたは危険な領域に居ます。あなたは危険な領域に居ます。」あるいは「あなたは物事を不自然なやり方で見ています。不自然な振る舞いは愚かなことです。不自然に振舞うのは愚かです。」と言うのです。

それは警告で、「あなたは自分にとって自然な状態から踏み出しています。だからこれはあなたの正気ではありません。」という気付きなのです。 この気付き/認識をあなたは不快と感じるのです。
あなたはこれを不快に感じて当然なのです。 これ(分離)が安楽に感じられたのなら、それはあなたが完全に狂気に陥っていることを意味しています。
あなたがあなたの存在の源(あなたの在り方の源)に逆らって行動し、そうすることに成功していて、そうしながら安楽であったなら、それはあなたが自分を自分の源から実際に切り離したということなるのですが、それは不可能なのです。

だからあなたが独立的地点から全てを眺め出した時、このように基本的な居心地悪さ(不快感)が現れるのです。 それは分離していなかった時には感じていなかった新しい体験、不自然な体験なのです。

しかしこの居心地悪い体験(不自然なエネルギー)を、自然な状態に帰ることを即しているものと認めるのではなく、それを克服するべきものとして見始めてしまうこともあるのです。
(ナチュラルではない)このフィーリングを上手く克服することが必要なのだと考え始めてしまうことも可能なのです。
するとあなたはこのフィーリングを攻撃し始めます。
そしてこのフィーリングが自分の家に戻る為のサインであることを認識せずに(あなたが自分の住家に現在居ないことを示す警戒音であり、住家に戻りことから気をそらされてしまわないよう気をつけることが重要だと認識せずに)、このフィーリングを克服しようと試みるのです。

つまり不快感/痛み/居心地悪さが「住家/故郷」に帰る必要を訴え掛けているものであることを忘れないようにするべきなのです。
{神からの}独立行動は怖れと傷付き易さ(脆さのフィーリング)をもたらすのです。
だからあなた達が目覚めるまで、あなた達が故郷/住家に戻るまで{あなたが聖壇に向き合うまで}、あなた達の全ての体験には怖れが含まれているのです。

先週わたし達は「あなたが外国に行ってそこであなたがマイノリティーであったなら、その国の人達があなたとは異なるものの見方をしていたなら、あなたは居心地悪く感じることでしょう。何故ならあなたはそれらの人達とは相互合意されている定義群を共有していないのだから。」と言いました。
このことからも解るように、あなたが安楽を感じている時、その安楽の幾分かは「あなたと周りの人達との間に合意されている定義群が存在していること」から来ているのです。
その結果(あなた達が定義群に合意している結果)としてあなたはリラックスすることが出来、防御する必要を感じないのです。

しかしそれは怖れが無いからではなく、あなた達が怖れの代用品である「相互合意されている定義群」を使っているからなのです。「相互合意されている定義群」にあなた達が従って、お互いを怖がらせないようにしているからです。 解りますか?

しかしそれは本当の平和ではないのです。それは怖れが無い体験でもないのです。
あなたはこれを理解するべきなのです。


だから、

[You may still complain about fear, but you nevertheless persist in making yourself fearful.]

[あなたは怖れを訴えているかも知れませんが、それでもあなたは「自身を怖れさせること」に固執し、まだ「自身を怖れさせること」を続けているのです。]


質問者:
これは以前にあなた(ラジ)が言った成就と自己満足の違いを示しているのでしょう?
相互合意されている定義群が{もたらすものが}自己満足で、聖壇に向き合い目覚めている者と繋がった時{もたらされるもの}が成就なのですね?

ラジ:その通りです。


[I have already indicated that you cannot ask me to release you from fear. I know it does not exist, but you do not. If I intervened between your thoughts and their results, I would be tampering with a basic law of cause and effect; the most fundamental law there is. I would hardly help you if I depreciated the power of your own thinking.]

[「あなたを怖れから解放することを私に頼むことは出来ない」と私は既に言っています。怖れが存在していないことを私{イエス}は知っていますが、あなたは知っていません。もし私があなたの思考とその結果の間に分け入ったなら、その時私は(一番基本的法則である)原因と結果の原則を侵害したことになります。あなたの自身の思考の力を私が軽減したとしても、あなたの助けには成りません。]


ラジ:
「あなたの思考があなたがリアリティを体験する方法を完全に統治していること(あなたの思考に従ってあなたがリアリティを体験していること)」を発見するチャンスを誰かがあなたから奪ったなら、あなたは無力にされてしまい、『「現在あなたがバイアス(偏見)と共にリアリティ/天国を体験に対していること」に対してあなたが持っている権威』を認識することが出来なくなってしまします。

すると(あなたのバイアス/偏見に対するあなたの権威を認めていない状況では、あなたの歪んだ知覚に対するあなたの影響力をあなたが自分で認められていない状況では)あなたは風に吹かれている葉っぱのようで、風の流れによってあちらに吹かれこちらに吹かれて{自分とは関係の無いものに影響されて}いるようで、{あなたは自分を無力に感じ}だからあなたは憂鬱に成ってしまうのです。

するとあなたはより一層の機能不全(不具合/不健康/無能力)を体験し、あなたはより臆病に成ってしまうのです。

だからあなたは、あなたの思考とあなたの体験が密接に関連していることを発見しなくてはいけないのです。あなたは自分が権威を持っていること(自分の思考を通して自分の体験に良い影響を与えることが出来ること)を体験する必要があるのです。

それは何故でしょう?
先ず第一に(例えそれがエゴの力であっても)あなたの力が感じられるように{あなたに決定権が与えられていることが理解出来るように}。
あなたはあなたの力を発見し、それにより「より建設的に自分のマインドを使ってより調和した体験(より健全な体験)が出来ること」を体現しそれを自分に証明する必要があるのです。

このことを通して(偶然や運命に左右されているのではなく)全てに対して自分で与えている意味/思考/アイディア/定義/だけに自分が影響{悪影響}されていることをあなたは学ぶのです。

あなたがこれを学んだ時、あなたの思考とあなたの体験の関係が絶対的であることを学んだ時、あなたは決して無罪な被害者(自己決定権を持っていない者)では在り得ないと気付いた時、その時あなたは神を見て下記のように言えるように成るのです。

[もし神が無限の知性であるならば、そして神のマインドが存在の原因(生きとし生ける全てを存在させている原因)であるならば、今私には「神の思考が創造の全てを統治している可能性」を認めることが出来ます。そして神は不可分(分離不可能)で切り分けられておらず、だから神の思考の中には矛盾/闘争があり得ません。だから創造の中には闘争/対立/矛盾はあり得ません。そして聖壇に向き直り神に譲ることが必要なのだと私は学んだので、そして神は気まぐれではないと私は知っているので、神の気まぐれ故に自分が不利に置かれてしまうと心配することなく、私は神に譲ることが出来ます。私は神の怒りを心配する必要はありません。{何故なら神は慈悲深いのだから。}私の思考と私の体験の絶対的繋がりを私は体験しているので、「不可分で分離していない場所から来ている神」は絶対的に安全な臨在(神の現れ)なのだと私は知っています。]

反対に、あなたが自分の思考と体験の絶対的繋がりを見ていないなら、あなたは生命/人生そのもの対して危険を感じてしまうのです。その場合あなたは神に対して完全に自分を譲ることは出来ないのです。何故なら、あなたにとって神とは「あなたが生命を見ているやり方(人生に対するあなたの見方)」を反映しているのだから。だから(あなたが自分の思考と体験の関係を明確に理解し体験していないなら)あなたは神を気まぐれと見てしまい、神が分離している、時には神があなたに対して怒っており時にはあなたを愛している、と見てしまうのです。その場合あなたには神に譲る勇気が持てないのです。

さて以前にも指摘した通り、あなた達が独立的に物事を見ることを選択したとしても、あなた達が全てに対する自分達の定義群を作ったとしても、あなた達が神の子に成り続けること(神の子として在り続けること)を止めることは出来ないのです。
あなたは「あなたが居るそこに神が成っているもの」にあなたが成ることを止めることは出来ないのです。

もちろん、あなたは知性を持っており、あなたは思考を持つことが出来ます。
そして基本的にあなたの思考には力と権威があるのです。

しかし神に譲ってあなたの権威と力を放棄して、あなたの源と繋がり直し、あなたの思考が神から来るようにするまで、そうして神から権威を得るまで(独立的でない権威を得るまで)、あなたが自分の力と権威を見つけることは出来ないのです。

あなたの考える能力(キャパシティー)は、アイディアを体験するあなたの能力は、聖なる能力なのです。

(あなた一人の見方を得ようとして)「父の視点とあなたの繋がりを消す為にあなたが選んだ視点」からあなたがこの聖なる能力(思考能力)を体験している時、あなたの聖なる権威は歪んでしまうのです。
そしてあなたが聖壇に背を向けている時(あなたが自分の源を無視している時)あなたは自動的に怖れの状態入ってしまうので、あなたの全てのアイディアや思考が怖れから発生するようになり、それは常に自己防御的行為に成るのです。

しかしこれはあなたに対する有罪宣言ではないのです。
これは(聖壇に背を向けることは)神の子全員が持っている能力なのです。
あなた達にはその能力(祭壇に背を向ける可能性)が与えられているのだから、{例え長い間祭壇に背を向け続けていたとしても}あなた達は罰に値する何か悪い事をしている訳ではないのです。

例えば、あなたは沸騰したお湯が出ている蛇口の下に手を置くことが出来ます。
そうすることはあまり理に適ったことではありませんが、それであなたが死ぬことは無いでしょう。それは痛いかもしれません、とても酷い妬けどをするかもしれません。{しかしそれは有罪宣言に値する行為ではないのです。}

父の視点から独立して天国を眺めようと試みているので、あなた達は怖れの状態にあるのです。しかしそれは罪悪ではないのです。だからこれは罰に値することでは無いのです。
そして今現在もあなた達は別に懲罰されてなどいないのです。

しかしあなた達は天国での不自然な在り方を選んでいるのです。だからその在り方は居心地が悪いのです。 
居心地が悪いからといって、自分が有罪にされていると感じるのは止めなさい。
気落ちすることも止めて、あなたがしていることを理解しなさい。それ(神から分離しようとすること)を止めるという知的な選択が出来るように。

質問者:私はこれをより実際的な状況に当て嵌めて考えたいのです。
神の動きが解るように学ぶことをわたし達は(少なくとも私は)していると思います。
動きがどこに行こうとしているか私に見える時に動きに譲ることを私は学んでいます。
動きに譲った方が(動きに逆らうよりも)遥かに易しいのだから。 何故なら私が抵抗していても抵抗していなくとも動きはそれが行く所に行くのだから。

ラジ:
しかし神の動きがどこに向かって動いているかあなたに解っていない場合でも、神の動きに譲ることは価値あることなのです。このことは指摘しておきましょう。

質問者:そう出来るようになることが最終的な目的なのでしょう。
わたし達は普段自分達がどこに行こうとしている知っていると思っています。しかし多くの場合譲ることは(わたし達が考えていたのとは)全く違う所にわたし達を導きます。
何故なら、もし神の動きがどこに行こうとしているかわたし達に見えたなら、わたし達はそれ(神の動き)に抵抗しようとさえしないでしょう。自分達がそれに抵抗出来るとも考えないことでしょう。
しかし時には譲ることが苦痛に満ちているのです。

ラジ:いいえ、{神の動きである創造の}流れに逆らうことが苦痛に満ちているのです。

質問者: しかし、例えばあなたの受難(イエスの磔刑)に関して言えば、最終的には神の動きは明確だったわけです。

そしてあなたの母であるメアリー(マリア)やあなたの弟子のメアリー(マリア)やジョン(ヨハネ)は、何も出来ることが無かったので(彼等が磔刑に対して介入することは出来なかったので)彼等は譲っていたわけです。そして十字架を見上げあなたを見て、あなたが彼等から引き千切られていくのを感じました。
その時点での神の動きを信頼することが彼等には出来たのかもしれません。
しかし彼等にも痛みや涙を止めることは出来なかったのではないでしょうか?

これは過激な例かもしれません。しかしわたし達は自分達の生活の中でこのようなこと{自分達の体が自分達の源だと考えること}に慣れ親しんでいるのです。だから変化の動きは時にはとても痛みに満ちているように見えます。

ラジ:ハイ、その通りです。

質問者:それに対する薬(答え/癒やし)が今ある筈なのです。

ラジ:その通りです。
痛みの理由は、慣れ親しんだものにしがみ付きたいという願いです。
(良きものが変化しているのに)その現存している形(今まで良きものが現れていた形)をそのまま保ち続けたいという願いが痛みの原因なのです。
だから私は「痛み/不具合は変化に逆らうことから来ているのです」と言っているのです。

そして答えは「状況の中に残っている良きことに対する定義」を手放すことなのです。
「あなた達が神から分離したままでも安楽を感じられるよう長い間保って来た定義」を手放すのです。それ以上の開示/変化は在り得ないとあなた達が考え始めてしまっている状態を手放すのです。

「聖壇に向き合うこと」こそそのような時(今までの安定/安楽を手放すよう求められている時)に必要とされている答え/癒やしなのです。

「父よ、ここでは何が起こっているのですか?」
「私のガイドよ、ここで起こっているリアリティは何なのですか?」
「予測されていなかった(私があまり歓迎していない)動きが起こっていることに対して私はどうしたら適切に振舞えるのでしょう?」
「どのようにしてこの動きと調和すればよいのでしょう?」

あなたはそう言って答えを期待するべきなのです。

それは何故でしょう?
それは「神が成っている啓示の動き」の真ん中に(真っ最中に)あなたが居るべきだからです。
それは何故でしょう?
それはあなたが(神の栄光を称える)という自分の役割を満たし、その働きを全開にしたいからです。

エゴが見る限りは人間的状況にしか見えない「そこ」に起こっている神の意志の現れ{を見たいとあなたが望んだから、神の栄光が見えるのです}。

しかしあなたには自分が慣れ親しんできたことにしがみ付こうとしてしまう傾向があります。 何故ならそれ(あなたが慣れ親しんできたこと)が失われることは獲得ではなく損失として認識されてしまうから。


「この山を登ろう。」
「でも、私はここの谷に残りたいの。」
「いいや、わたし達は山頂に行くんだ。」
「でもここは空気がしっとりして緑が豊かで、それからここには川だってあって。楽しいじゃない。それに山の頂に昇るのは難しいわ。」
「でもそうする価値がある。」
「うーん、解らないわ。お願いだから今日ではなく明日にしましょう。」

しかしあなたが(聖霊に)譲ってハイと言い、山の頂に行ったなら(聖霊の導きに従ったなら)、そこからの視点はより広大であることが解るのです。
そしてあなたは自分が今まで考えていたよりも多く持っていることを知るのです。
何故なら山頂に上ったその時でも谷(あなたが持っていたもの)はまだあなたに与えられ続けており、それでいてより多くがそこに(あなたのマインドの認識の中に)付け加えられたのだから。

あなた達は失うことを怖れています。しかし現在持っているもの以上を得る為には、今持っている僅かなものをあなたが手放す必要があるのです。 
現在あなたは「自分が所有していると考えているもの/世界に対する自分の認識」を物凄く強く握り締めているので、あなたはそれ以外のもの(現在のあなたの知覚/認識以外のもの)は何も抱擁出来ないでいるのです。

そこにより多くが与えられる(受け取れる)ように、あなたはそれ(世界に対する知覚/認識)を手放す必要があるのです。

質問者: アーメン


別の質問者:
少し前にあなたが言いましたね。 私も解り始めたと思います。
私が一人で考えている状態、それをACIMのこのセクションでは原因と結果と呼んでいるのです。

そして数週間前にあなたは「{エゴの思考の}結果は例えば高血圧であって、思考の結果として拳銃やナイフが出現する訳ではない。 ものを出現させることは創造なのだから。」と言いました。
数年前にあなたは「原因とイベント」というフレーズを使っています。
「原因とイベント」が父の思考なのですね。

ラジ: 神の動きが原因とイベント(出来事)なのです。
質問者: そして私の孤立した思考が、私を恐れに満ちて弱々しく頑なにしているのです。
ラジ: ハイ。
質問者: そこでは創造が見えていないのです。

ラジ:するとそこに現れているのは原因の猿マネ(模そう)とイベントの猿マネ(模そう)で、イベントの猿マネが「結果」と呼ばれているのです。

質問者: おお、10年と掛からずにこれが明確に解りました。ありがとう。
ラジ: どういたしまして。これはあなたにとって向上でしょう。
質問者: 勿論。


別の質問者:
相互合意されている定義群(mutually agreed upon definitions)に関して今晩少し話しましたね。 この意味は重大なので私はこれに関して色々考察しています。

わたし達が他者と話して何らかの主題に関して合意している時、わたし達は本当に自分達が何に対して合意しているのか気付いているでしょうか? そして私の疑問は...

ラジ: 時には、口を全く開かず聞いている(見ている)だけの時にもあなた達が何に合意しているのか{あなた達は良く理解していません}。

質問者:そうです。
わたし達は父と繋がって(わたし達の目の前にある全ての物や事や人に関して)父の視点/視界を訊ねるべきだと私は知っています。

ラジ:何故あなたはそれをするのでしょうか?
あなたの行動(振舞い)が、怖れからではなく愛から行なわれるように、あなたはそれ(父に訊ね聞くこと)をするのです。

質問者:  ええ、そうです。
私の質問は、全てを硬く重くしてしまっている定義群に関してなのです。
これらの定義とは何なのですか? わたし達が作った合意とは何なのですか?
私がこれに関して考えようとすると圧倒されてしまいます。
これが意味することは、全てはわたし達が学んできた噓に基づいているということに成りますね?

ラジ:そうです。 しかしそれらは(全く根も葉もない噓ではなく、根拠の全く無い空想ではなく)真理に対する噓なのです。

あなたが噓に自分の意識を集中させて、噓を研究して、噓がどれだけ大きなものか見たなら、それはあなたを圧倒してしまうでしょう。

しかし必要なのは噓を研究/検査することではないのです。
丁度、自分達の人生がどれだけ怖れに支配されているか(そして今までどうしてそれに気付いて来なかったか)調べることが必要ではないように。
そのようなことは大した違いをもたらしません。

要点は「あなたの注意が父のもとに戻され、目の前のあらゆることの意味を知ろうとして父に訊ねるまで、あなたは怖れの中に居る」ということなのです。

そしてあなたには解決策が与えられているのです。
「父に向き返り、真理が何か父に訊ね、本当の平和を体験することが出来る」とあなたは知っているのです。
するとあなたは神が成っている流れの中でどの様にして適切に振舞い喋るべきか知るのです。 こうしてあなたは夢の中に変革(目覚め)をもたらす仲介者に成ることが出来るのです。

質問者。 なるほど、あなたの言いたいことが解りました。だからわたし達はアジェンダ(自分の計画)を持たずに毎日朝を迎えなくてはいけないのですね。

ラジ: その通りです。
これは何もしなく良いという意味ではありません。
「食べたり、出勤したり、その他のことをしない」という意味ではなく、「あなたは怖れの性癖から行動しようとしなくなる」という意味なのです。

あらゆる行動がどのようにリアリティと関係しているか常に気付いていられるように、『「あなたが食べ働き全ての行動をしているそこ」に在る天国の中で本当は行なわれていること』とあなたの行動がどのように関わっているか気付いていられるように、あなたは「目覚めた者」とつながり続けようと求めるようになるのです。

質問者: 私が質問しているのは「自分はこうするだろうと考えた計画」に私はもうこだわらなく成って来ているからです。
つまり“軽い”計画は今でのあるのですが、「鍛錬」という言葉{に表されている自分の計画へのこだわり}はもう適用されないようです。


ラジ:ハイ

父のリード(導き)に任せた時あなたは、あなたが居るべき所に行き、あなたがするべきことをするのです。

そしてこれは予測不可能で、こう起こるべきだとあなたのエゴが考えた通りには物事が起こらないことが「命/人生が楽しく成っている場所にあなたが居ること」を意味しているのです。

あなたのエゴはこれに反論しようとするでしょう。
「それでは自分は無責任に成っている。自分は失敗してしまう。これを続けたなら惨敗すると。」とあなたのエゴは言うでしょう。

質問者: そうです。すると私は波紋を広げてしまい。皆が私のことを嫌うのです。

ラジ: こうも言えるでしょう。 あなたはもはや「その場に形成されている相互合意されている定義群」に従って行動してはいないので、あなたは「システム」に従わなくなっているのです。

質問者: ルール(社会規範)にとらわれなくなるのです。
ラジ:ハイ。
質問者:オーケー。 私は...に関して理解したい...

ラジ: そして、それが起こっているのではないのです{規定されたルールが物事を発生させているのではないのです}。

質問者: 相互合意されている定義群に関してより詳しく知りたいのです。相互合意されている定義群と言われても何のことか良く解りません。これは何を意味しているのですか?  今の瞬間の中でだけそれを見ることが出来るのかもしれませんが。

ラジ: それは...、それは...わたし達がコースを読み始めてから何度も相互合意されている定義群に関して話して来ました。 わたし達が続けて行くに従って「相互合意されている定義群」が何なのより明確にして行きましょう。

今晩あなた達はお互いに対して比較的居心地良く安全に感じています。
これもまた相互合意されている定義群の結果なのです。
あなた達は一定の行動規範(行動ルール)を持っています。この場においてあなた達は(自分達の職場の行動規範とは異なった)一定の行動規範を持っているのです。あなた達は一定の振舞い方や言葉の使い方に合意しているのです。

あなた達はこの集まりの中で話せること(しかし他の集まりの中では話せないこと)を共有しています。だからあなた達は行動規範と呼べるものを持っているのです。
そして初めて会った人に対する行動規範と知り合いに会っている時の行動規範には違いがあるのです。あなたは自分が対面している人に合わせて振舞いを変えるのです。
だからあなた達は行動規範がどの様なものか理解しています。
相互合意されている定義群をこのように説明することも可能です。

質問者: 解りました。ありがとう。


ラジ:だからあなた達は、自分達が属している各グループに付属している「相互合意されている定義群」を各種持っているのです。


あなたが、どれでもいいから何か一つ「相互合意されている定義群」を真っ直ぐ見てみたなら、それは何一つ「本物/真摯」ではないのです。 
相互合意されている定義群が本物(真摯)でないのは、それらが状況に左右されて変ってしまうからです。

相互合意されている定義群は状況毎に取り替えられるのです。

しかしあなたがどのグループの中に居ようとも(あなたがどの人達と対面していたとしても)本物はそれそのものであり続けるのです。

だから毎日あなた達は状況に合わせて適切な絵(相互合意に合致した絵)を提示して生きています。

そしてそれは、既に存在している相互合意されている定義群故に、上手く働くのです。
あなた達は「これらの相互合意されている定義群がどのようなものか」討議して決めた訳ではないかもしれません。 それらは試行錯誤によって自然と決まったのです。

何が受け入れられ何が受け入れられないかが、失敗と成功を通して学ばれ、それが共有されて来たのです。
だからあなた達はこうして暗黙の内に「相互合意されている定義群(ここでは常識/社会規範/グループ内のルール)」を互いに教え合って来たのです。

そしてコースの要点は、わたしが今まで話して来たことの要点は、どうしたら本物の場所(真摯な場所)にあなた達が到達出来るか示すことなのです。
あなた達の源と繋がり直すことから来る「本物の場所/状態」に行き、あなた達の源に抵抗せずに振舞えるように成ることが要点なのです。
「あなたが居るそこで神が成っている全て」によって構成されている「あなたの存在のエッセンス」に逆らわずに行動出来るように成ることが要点なのです。


[I would hardly help you if I depreciated the power of your own thinking. This would be in direct opposition to the purpose of this course. It is much more helpful to remind you that you do not guard your thoughts carefully enough. You may feel that at this point it would take a miracle to enable you to do this, which is perfectly true. You are not used to miracle-minded thinking, but you can be trained to think that way. All miracle workers need that kind of training.]

[あなた自身の思考の力を私が軽減したとしても、それはあなたを全く助けません。そのようなことはこのコースの目的に反するものです。「あなたは自分の思考を注意深く守っていない」と指摘する方がより有益なのです。「この時点でそう出来るように成る為には奇跡が必要だ」とあなたは感じるかもしれませんが、それは全く真実なのです。あなたは「奇跡的マインド思考(奇跡志向の思考)」にはまだ馴れていません。しかしそのように考えるようあなたをトレーニングすることが出来るのです。全てのミラクルワーカー(奇跡の為に奉仕する人)はそのようなトレーニングを必要としています。]


[All miracle workers need that kind of training.]
[全てのミラクルワーカーはそのようなトレーニングを必要としています。]

ラジ: そのようなトレーニングをしたからと云って、あなたが自分個人の主権の上に奇跡(癒やし)を行なえるようになる訳ではありません。

あなたがもうこれ以上怖れに脅かされなく成るように、あなたはこのようなトレーニングを必要としているのです。 あなたが存在の動き内に潜在的に在る喜びの中でリラックスしそれを浴びることが出来るように、あなたはこのようなトレーニングを必要としているのです。 

あなた自身の中に怖れを発生させることをあなたが止めた時、あなたは「父よ、ここでは本当は何が起こっているのですか? 何が真実か私に見えるように助けて下さい。私が適切に動き振舞うことが出来るように。」と言うのです。

あなたがこれをしている時、あなたはあなたの独立を放棄しており、動きの流れの中に戻っているのです。
こうしてあなたはミラクルワーカーに成るのです。
つまりあなたは変化の仲介者(エージェント)に成るのです。

そうするとあなたの存在はもはや夢の継続を他の人達に対してサポートしなくなるのです。
夢(幻想)へのサポートが軽減されるのです。

そしてあなたの存在が、他者を祝福し癒やすダイナミックなエネルギーの焦点に成るのです。
これは言ってみれば副作用なのです。 このことを私は指摘したいのです。

ミラクル・ワーカーに成ることが要点なのではないのです。
どの様にしたらあなたの存在の源と対立せずに居られるか学び、「あなたが何か/あなたが誰か」よりクリアに示す体験の中にあなたが帰って行き、あなたが怖れをもとに行動しなく成り、あなたが怖れを発生させなく成ることが要点なのです。

するとあなたはもう夢の継続をサポートしなくなるので、あなたは自然と瞬間的に抵抗無く夢を解除する者に成るのです。

それはあなたが夢を解除しようと決めたからではなく、夢への自分の参加を引き抜き、父と繋がって父の意志があなたを通して表現され、それ(父の意志があなたを通して表現されること)が変容を引き起こすからなのです。

だからあなたが目覚めの中を進んで行ったなら、あなたはミラクル・ワーカーに成るのです。
しかしあなたは自分でそのような者(ミラクル・ワーカー)に成ろうとするのでは無いのです。


質問者: では「奇跡的マインドの思考」とは問題に面した時聖壇に向き合って「父よ、あなたはこれをどう見ていますか?」と訊ね聞くことなのですか?
私は奇跡を愛(思考ではなく愛のフィーリング)と考えていました。

ラジ:
奇跡は瞬間的な知覚のシフトです。

「奇跡的マインドの思考」とは、聖壇に向き合う理由をあなたに与えた全ての思考(その思考がどのようなものであれ)なのです。 
あなたが聖壇に向き合い聖壇の言うことを聞いたなら(あなたが聖壇の手足に成ったなら)、あなたは愛されている体験をして、あなたはその愛を自分の中だけに閉じ込めておくことは出来なく成ります。だからあなたの中から愛が溢れ出し、それが全ての人達を祝福するのです。

そしてそのプロセスにおいて、あなたは怖れの声を自分の教師にすることを手放しているので、あなたは「怖れから切り離す事が出来ない知覚」も手放しているのです。
そして新しい知覚があなたに与えられるのです。
だからそこには瞬間的知覚のシフトが在るのです。
これがあなたの癒しであり、この癒やしが(この愛が)あなたから溢れ出って全ての人達を祝福するのです。

質問者:
あなたは数週間前に「あなた達の動機がだらしのないものでも構わない」と言いました。
「理屈に合わない理由からあなた達がこれ(聖霊/神に訊ね聞くこと)をしてもOKだ。」とあなたは言いました。
「自分勝手に見える理由からこれをしても良い」とあなたは言ったように私は受け取りました。

ラジ:
聖壇に向き合うことをあなたにさせた理由が何であろうとも、どのような不明瞭な思考を理由にあなたが聖壇に向き合おうとしたにしろ、(その思考があなたを真摯に聖壇に向き合わせたのなら)それが奇跡的マインド思考なのです。あなたが何らかの理由や思考故に聖壇に向き合ったから、あなたが奇跡を受け取り易くなる(奇跡が体験し易くなる)のです。


質問者: つまりどのような性癖から(どのような不明確な思考から)訊ね聞くことへ決意を与えてたとしても結果(答え)が得られるのですね。

ラジ:その通りです。

質問者:目覚まし時計を(目覚まし時計が周期的に鳴るようにしておいて、それが鳴ったことを)理由にしても良く、どのような理由からこれを行なっても良い訳です。


ラジ:その通りです。
新年の誓いを訊ね聞く理由にしたって良いのです。
それは聖霊に訊ね聞く理由としては少し馬鹿げて見えますが、そう考えることで上手く行くなら、それで良いのです。

ここで一つ明確にして置きましょう。
何が馬鹿げていない理由(訊ね聞く正当な理由)なのでしょうか?

あなた自身と十分繋がり、現状では自分はまだそれ程ハッピーではないと知り、あるいは自分が何かを怖れている(痛みを感じている)と知り、そのような体験をし続けたくはなくと思い至り、別の方法(より良きやり方)があると気付くこと、が正当な理由です。

苦しみを求めず、それ故にあなた達の最上の定義や思考を超えて{神/聖霊に}意識を届けて「ヘルプ」と言うのです。

あるいは自分の兄弟が苦しんでいる(悲しんでいる/痛みを感じている)ことを認識し、兄弟を気遣って、父に意識を届け兄弟の為に「助けて下さい。」と言うのです。

これらはその瞬間のあなた自身との真摯な(本物の)繋がりから(そして苦しみ以外のことを体験していることが自分の生得権だという永遠の気付きから)来ているものなので、そしてこれらはあなた達の最上の思考の外にある源に対して助けを求めることなので、これらが良き理由なのです。
この違いが解りますか?

質問者: 良き理由は瞬間的/自発的なのです。

ラジ: しかし新年の誓いを理由にこれ(訊ね聞くこと)をしたとしても、それでも結果は得られるのです。

[I cannot let you leave your mind unguarded, or you will not be able to help me. Miracle working entails a full realization of the power of thought in order to avoid miscreation. Otherwise a miracle will be necessary to set the mind itself straight, a circular process that would not foster the time collapse for which the miracle was intended.]

[私は、あなたがあなたのマインドを守らないまま(思考を律しない状態)にさせておくことは出来ません。 そのような状態では私はあなたを助けることが出来ないから。奇跡の為に働くには、誤創造を避ける為に思考の力を十分に理解する必要があるのです。でなければマインドそのものを正しくする為に奇跡が必要に成ります{しかしマインドが正しくなければ奇跡は体験出来ません}。この悪循環状態では奇跡の目的である時間の短縮(時間の崩壊)が起こらないのです。]

ラジ:
そして奇跡の目的は、あなたのマインドを真っ直ぐに正すことではなく、知覚のシフトを起こさせることなのです。

比喩的に言うなら、奇跡の目的はあなたの車を正しい方向に向けることで、車のエンジンを修理しようとすることが奇跡の目的ではないのです。

奇跡の目的は、あなたのマインドを真っ直ぐにすることではなく、あなたのマインド内に間違った知覚が入って来ないようにすることなのです。
私が言おうとしていることが解りますか?

自分のマインドを真っ直ぐにすることが奇跡の目的だと考えていたのでは{自分のマインドを正すことだけに集中していたのでは}、奇跡的マインドまで(奇跡の出現まで)辿り着けないのです。

[The miracle worker must have genuine respect for true cause and effect as a necessary condition for the miracle to occur. Both miracles and fear come from thoughts. If you are not free to choose one, you would also not be free to choose the other. By choosing the miracle you have rejected fear, if only temporarily. You have been fearful of everyone and everything. You are afraid of God, of me and of yourself. You have misperceived or miscreated us, and believe in what you have made. You would not have done this if you were not afraid of your own thoughts. The fearful must miscreate, because they misperceive creation.]

[奇跡が起こる必要条件として、ミラクル・ワーカーは本当の原因と結果に対して敬意を払う必要があります。奇跡も怖れも思考から来るものです。 それらのいずれかを選ぶ自由をあなたが持っていなかったなら、あなたはどちらも選ぶことは出来ません。 奇跡を選ぶことにより、あなたは(例え一時的にしろ)怖れを退けたのです。あなた達は全ての人と全ての物事を怖れて来ました。あなたは神を怖れ、私を恐れ、あなた自身を怖れています。あなたはわたし達を誤知覚し誤創造して来ており、あなた自身が作ったもの{あなたが作った誤創造}を信じているのです。あなたが自分の思考を怖れていなかったなら、あなたはこれ(誤創造)をしなかったでしょう。 「怖れている者」は創造を誤知覚している故に、誤創造せずには居られないのです。]


ラジ:興味深いですね。

[The fearful must miscreate, because they misperceive creation.]
[「怖れている者」は創造を誤知覚している故に、誤創造せずには居られないのです。]

ラジ:創造を誤知覚している時、あなたの振る舞いは無知から起こっています。だからその時あなたの行動はあなたの無知を反映しているのです。

ここで私が強調したいのは、誤創造とは(新たな創造ではなく)創造そのものを変化させること{変えて見せること}なのです。
例えば高血圧とか胃潰瘍などが正常な状態からの変化であるように、誤創造とはリアルなものを変えることなのです。

[The fearful must miscreate, because they misperceive creation. When you miscreate you are in pain. The cause and effect principle now becomes a real expediter, though only temporarily. Actually, “Cause” is a term properly belonging to God, and His “Effect” is His Son. This entails a set of Cause and Effect relationships totally different from those you introduce into miscreation. The fundamental conflict in this world, then, is between creation and miscreation.]

[「怖れている者」は創造を誤知覚している故に誤創造せずには居られないのです。あなたが誤創造している時、あなたは痛みの中に居るのです。そのような時には原因と結果の原則が解決を促進させるものとして働くのですが、それは一時的なものに留まります。 本当は「原因」とは神に相応しい言葉で、神の「効果」が神の子なのです。ここにあなたが誤創造の中に導入しているものとは全く違う「原因と結果の関係」があるのです。だからこの世界の根源的対立/闘争/摩擦は創造と誤創造の間に在るのです。]


ラジ: 『創造と「創造に対する変更(干渉)=誤創造」の間にこの世界の根源的摩擦がある』と言っても良いでしょう。


[All fear is implicit in the second, and all love in the first. The conflict is therefore one between love and fear.]
[全ての恐れは第二(誤創造)の中に明確に現れており、全ての愛は第一(創造)の中に現れています。だからこの闘争/対立/摩擦は愛と怖れの間で起こっているのです。]

ラジ:その通り。だから目覚めのプロセスはあなた達がもう一度愛することを学び直すことなのです。
そしてあなた達は怖れの中に居り常に自己防御を行なっているので、どのようにして愛するべきか知らないのです。

だからどのようにすれば愛することが出来るか学ぶ為に、あなた達は今まで自分達が全てに意味を与える為に使ってきたものから(つまり相互合意されている定義群から)顔を背ける{注意/意識を引き抜く}必要があるのです。

そして今まであなたの注意は相互合意されている定義群に与えられて来たので、聖壇に向き合っている時あなたは全く馴染みのない方向に注意を与えているように感じてしまうのです。

しかし聖壇に向き合っている時あなたは住家(故郷)に意識を向けており、あなたのマインドの中で閃きの光を燈す基礎を築いているのです。 あなたのマインドが全体/完全/十全であって、あなたのマインドが十全以外のものに成ったことは決して無いのですが、あなたの独立行動(独立的立ち振る舞い)があなたの注意を「あなたのマインド中のとても狭い帯域」に閉じ込めてしまっているのです。

だからこれは全て愛に関することなのです。そして愛を説明することは出来ません。
愛の体験が待っている方向にあなたを向けさせることが出来るだけなのです。
そして私は常にあなた達全員をその方向に向けさせようとしているのです。
そして前回、愛の体験にはお互いとの関わりが必要だと私は明確に述べたのです。

これには関わり合いが必要なのです。何かに対して「それは修正を必要としている/していない」と調べない{聖霊に訊ねない}ことによって『安全』な所に留まることが出来ると考えるのではなく、関わり合いが必要なのです。
ニュートラルな非参加者/観望者に成るのではなく{聖霊/神に訊ね聞いた上で}何らかの態度を表明することが必要なのですが、これは必ずしも楽しい楽なことではありません。

「(自分達が安全であることを感じ安心出来るように)同じ相互合意を共有しているグループ」を捜しそれに参加することによりあなた達が得ている安楽が「愛が何であるか」あなたに照らし示すことは決してありません。

相互合意された定義群に基づくグループに所属することからあなたが得ている安楽が「愛が何であるか」をあなたに照らし示したことは一度もないので、{そのような安楽にあなたが甘んじている限り}自分の票を投げ入れることによって(聖霊から得た啓示を言い表すことによって)愛の現われに成れる境地にあなたはまだ到達していないのです。

しかしあなた達は曖昧な態度を捨てて意思表示をする居心地悪い状況に直面し続けているのです。

私が何を言おうとしているか解りますか?
あなたの安楽ゾーンは(あなたのエゴ/分離感覚が安楽に感じる場所は)洞察とインスピレーションが起こる場所ではないのです。
そのような場所は神の表現が行なわれていない「安全地帯」なのです。

するとあなた達は「愛が何か」に対する無知の中に留まってしまい、あなたが愛されているその愛のフィーリング(何故なら「あなた」の中心と周縁の全てが神の全体なのだから)を無視してしまいます。 それでは定義としてではなく行為として「愛に成る体験」や「あなたの役目を満たして、その働きが何か発見することにより新しくなる体験」が得られないのです。

質問者:前回その概念が私を困惑させました。
何故なら私は票を投げ入れること(意見を表明すること)をとても頻繫にしており、それは裁きから来ているからです。しかし私が事態を見ている時、それに対してどうしたら良いか(どうしたらよい結果が得られるのか)私には本当は解らないのです。

ラジ:前回私があなたの票を投げ入れなさいと言った時それは...という意味ではなかったのです。 うーん、何と言ったら良いか。

質問者: 「あなた個人の意見/会見を述べなさいと言っていた訳ではない」ということですか?

ラジ: あなたの言う通りです。

質問者:だから聖壇に向き返らなくてはいけない、そして質問をする訳ですね。

ラジ: その通りです。

質問者: そして答えを得て、その答えを得たまま口を閉ざしていてはいけないと言うことなのですね。
ラジ:そうです。

質問者: つまり参加するわけです。

ラジ: そうです。あなたは行動するのです。 あなたは自分の振る舞いの中で答えを体現するのです。

質問者:つまりただ座って「おお、これは素晴らしい考えだ!」と言うだけではないのですね?

ラジ: その通りです。
あなたの首を掛けなくてはいけないのです。少なくともエゴはそう考えます。

その時あなたは自分の魂(ソール)によって真摯に成ろうとしているので、エゴはそれを自分の首を掛けること(自分にとって危険なこと)と見るのです。

しかし{あなたが聖霊と繋がって行動したなら}あなたと相手が繋がり、自分が考えていることをあなたが伝えている時、あなたの感じていることはもう隠されていなくなるのです。

その時あなたの行動と思考が一つに成り、それがあなたの中で分離不能な体験(絶対的に一つに繋がっている体験)に成るのです。

不可分性(分離不可能な状態)は力のように感じられるのです。そしてそれがノーマル(当たり前)に感じられるのです。

あなたは統合されていることを感じ、だからあなたは自分の統合性(誠実)を感じるのです。
あなたが感じる力は、何かに対する力ではなく、それは純粋性なのです。ピュアな状態が力のように感じられるのです。

もしあなたがコップの中に水を満たし、そこから全ての不純物を抜き取ったなら、その時その水の中には小さな隙間が無くなっているのです。その時水は(不純物に邪魔されずに)水自身を完璧に触ることが出来ているのです。

不純物が取り除かれた時、水の中の全ての分子が水の他の部分と完全に繋がっているのです。
これが合一(Unity、一体性)です。これが誠実(Integrity、統合性)です。
そしてこの中で(この状況で)怖れを体験することは不可能なのです。

これが強さのように感じられるのです。だからこれが力に感じられるのです。
これが「愛が何であるかという体験」の一部なのです。

聖壇に向き合った結果としてあなたに知らされたことが行動に移された時、その時あなたの叡智とあなたの意志が統合/全体/不可分性を表現する為に繋がったのです。

その時あなたの意志は「父があなたに示したことを行なう召使」に成っているのです。

だからその時あなたの意志は(分離した視点を持っているエゴではなく)父の召使に成ったのです。

そしてそこには自己主張/自己固執の体験(自分の意志を通そうとすること)が存在していないのです。

それは神の現れ(光臨)に成っている体験で、あなたの全ての真実がその行動の中に体現されている全く真なる存在の現れなのです。

私があなたにこのフィーリングを与えることは出来ません。
私があなたに与えられるのはこのフィーリングに対するヒントだけです。
あなたがこの体験を自分に与えられるように、私はあなたにインスピレーションを与えることしか出来ないのです。

そしてあなたがこの体験を自分に与えられるように成るには、あなたは関わり合い関係を持つ必要があるのです。 
あなた自身や兄弟姉妹の痛みや苦しみを継続させるのではなく、それを否定する(癒やす)必要があるのです。


質問者:
「水の全てが水そのものを触っている状態」とは「無限のグラウンディング」の意味なのですね。

ラジ: その通りです。

質問者: それは自動的に瞬間的に起こるのです。
しかしそれが浸透するまでには(それが認識されるまでには)時間が掛かるのです。
瞬間的に起こったことが浸透するまでには十年の時間が掛かったりするのです。

ラジ: ええ。 しかし何故それは3ヶ月掛かると言えないのでしょうか?
何故10年と決めてしまうのですか?
認識が浸透するまで3秒しか掛からないことも可能でしょう。

それが瞬間的に起こらなかったとしてもあなたが罪悪感を感じる必要は無いでしょう。
しかしあなたがそれを認識出来るように成るまでにとても長い時間が掛かるに違いないと決め付けてしまうのは止しなさい。
何故ならあなたは思考の力を使って「真理が理解され体験されるまでに十年掛かるようにしてしまうこと」も可能なのだから。 あなたは思考の力を使ってそのようは約束/宣言をしてしまうことも可能なのだから。


質問者: 私が言いたかったのは「重要なのは時間の長さではなく真摯さである」ということです。

ラジ:ええ。

質問者:そして時間は、好奇心を発揮した時から成就(神の意図が満たされること)が起こるまでの期間は、より短く成って来ているのです。

ラジ:ハイ。 しかし理解して欲しいのは...一旦テキストに戻りましょう。


[Otherwise a miracle will be necessary to set the mind itself straight, a circular process that would not foster the time collapse for which the miracle was intended. ]
[でなければマインドそのものを正しくする為に奇跡が必要に成ります{しかしマインドが正しくなければ奇跡は体験出来ません}。この悪循環状態では、奇跡の目的である時間の短縮(時間の崩壊)が起こらないのです。]


ラジ:
今わたし達は目覚めのプロセスについて話しているのです。
次のイメージを使って話してみましょう。

あなたは天国の中の芝生の上に寝転がっていて、人間的存在の夢を夢見ているのです。
だからあなたは既にここ(天国/故郷/住家)に居るのです。
あなたは既にキリストと呼ばれている「神の現れが十全に体現されているもの」なのです。
しかしあなたの夢は「存在が時間の中でゆっくりと起こっている」と言うのです。

瞬間的な癒しが起こり得る唯一の理由は、一つの瞬間に現れていた物理的確証が一瞬後に新しい物理的確証で置き換えられる理由は、時間の短縮(時の崩壊)が起こるからです。

そして物理的確証(物理的状況/身体的状況)が変化する唯一の理由は、怪我が幻想だったからです。 怪我は「本来は全く一瞬も歪むことが不可能なもの」に対する歪んだ体験をあなたにもたらした特定の権威思考の結果だったのです。間違った権威思考をあなたは自分に対して事実として示したのです。

あなたはあなたの体験内でリアリティを変えることにより歪めているのです。
そしてあなたは「この歪みの体験を超えるのに10年は掛かる。」などと言うのです。
あなたはそう言って、あなたがそう言うことにより、時間の短縮(時間の崩壊)をより難しくしてしまうのです。


質問者:
そしてポールの手が痛んでいてあなた(ラジ)に助けを求めていた時にこの反対(時間の延長)が起こっていたのですね。
一週間後にポールは焦れ出してしまい短気を起こしたのですが、あなたは癒やしを求め続けるようポールに即したのです。
そして三ヵ月後にポールの手の痛みが無くなったのです。
そしてポールは短気(焦れ出してしまうこと)は癒やしではないと理解したのです。

ラジ:その通りです。
質問者: これも同じレッスンの一つだったのですね。
ラジ:その通りです。

質問者:そして私が学んでいたことは...それは...

ラジ: あなたの学習(浸透/癒やし)を遅らせていたのも、あなたの自己主張(willfulness、自分の意志を通そうとすること)だったのです。

質問者: その通り。そして私は「瞬間的な目覚めは私がそれを許可した速度でやって来ること」を今学んでいます。

そして目覚めが来るまでに一週間掛かったとしても数ヶ月掛かったとしても、それが来てくれたことに私は感謝するのです。

ラジ:正しいです。

コース(ACIM)は理解が難しいものとして意図されてはいないのです。
コースの各ページはあなたが発見を体験し、誤認識が崩壊し消えて行き、(今まで誤知覚/誤解が表れていた)そこに神が存在している光景を真っ直ぐ見られるように成ることをサポートしているのです。
それは未来に保たれていることではなく、今起こるのです。

今目覚めることに対するあなた達の興味と好奇心をサポート出来るように、これらのことが分かち合われることが可能な世の中に成って来ているのです。


以上


Chapter 2 -- Cause and Effect (Part 1)  Section VII: First Edition page 27 Second Edition page 31 



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この英文はJanisさんが編集/校正してくれました。 残念ながら私はJanisさんの連絡先は存じ上げません。

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Author:翻訳 岡上
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