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訳者 あとがき

訳者あとがき

これでラジとポールの二冊の共著の日本語訳を終了しました。
今回もマキさんとwanna(♂)さんには校正でとてもお世話になりました。
どうもありがとう御座います。

コメントを下さったuniさん、すみれさん、蓮さん、まるさん、もりGさん、みぃさん、ありがとう。
毎日元気づけてくれた私のパートナー、ありがとう。
そしてこれを読んでくれた貴方に、ありがとう。

ポールさんのWebはこちらです。
http://www.nwffacim.org/


岡上
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テーマ : スピリチュアル
ジャンル : 心と身体

第二十五章

1991年 3月29日 金曜


ポール: この時点で貴方が言うべき事を何でも聞きたいです。

ラジ: ポール、貴方が体験している行き詰まりは「誘惑」です。

「物事を自分の責任の下に行いたい」と云う誘惑です。
「貴方の昔の条件付けに戻って、昔からの行動様式や状況への反応に戻りたい」と云う誘惑です。

今がまさに自己防御が不必要な時期なのです!
今こそ貴方が私とつながり続ける事に固執するべき時なのです。
丁度、愛には見えない事に貴方が直面している時こそ、(癖になっている/条件付けられている嫌悪の反応ではなく)愛が必要とされてる時であるのと同様に。

「父」は脅かす体験を貴方に与えているのでしょうか。 絶対に違います。
「天国」は危機を開示しているのでしょうか? 不可能です。

ポール、ここでの事実は『貴方のエゴ/「条件付けられた思考」が危機と定義しているものと貴方が対峙している』ではないのです。
貴方が直面しているものは、「愛」の顕示/表明でしかないのです。
貴方は無知に基づいて、限定された知覚に基づいて、破滅を投射しています。
そして、そのような投射を信じる事は、貴方をより強く限定された知覚に依存させてしまいます。
特に今まで我々の話してきた全ての事を振り返れば、これが理解出来るはずです。

貴方はもう少しで、記憶と『取得した「知的」動きの反応』に基づいて行動を起こす所でしたが、その様にはせず、貴方は何もせずに私のもとに戻り、この会話をする事を選びました。
貴方は自分を危うくする/自分に危害をもたらす行動を取るべきではありません。

我々の関係には、唯一つの機能しかありません。
その機能とは、指し示し、光を当て、貴方「自身」を意識体験(つまり「父」との合一の意識体験)として引き出す事です。
聖書的な言い方をすれば、これは「私の中にも入っていた/そして入っているマインドを、貴方の中にも入れなさい。」と云う事です。
この意味は(実存する唯一無限の)「マインド」から独立して働こうとするマインドを主張せず、つまり(貴方に得る事の出来る唯一無限の)「アイデンティティ」以外のものを主張しないと云う事です。

貴方のエゴは自己に由来するものです。 しかし貴方の「意識」は、貴方の「存在」は「神」に由来するものです。
さて貴方はどちらに自分の運命を委ねるのでしょうか? 貴方は自分の信心をどちらに与えるのでしょう? どちらを貴方は信用するのでしょう?
我々は、この難関を突破するまでもう少しだけエゴを信用し続けるべきでしょうか? 家賃が払えるまで、請求書の支払いが出来るまで? それが出来たら安心して、時々私と繋がれる様に成りますか? 貴方の「持って生まれた権利」と時々繋がれる様に成りますか?
聖書が勧告している事は、「選びなさい! 選択しなさい!」"Choose ye!" Make the choice!” です。

ポール: 解りました。

私の次の質問は「どの様にしてこれをしたら良いのでしょう?」です。
今のように貴方と話してない時やワークショップをしていない時に起こった事に対しては、どの様にして貴方の言う事を実践すれば良いのでしょう?

ラジ: 簡単です、ポール。 行動と共に居るのではなく、私と共に居る事によって、それをしなさい。
つまり、貴方が行動をしている最中にも、私と一緒に居続けなさい。 丁度貴方がワークショップでそうしている様に。

ワークショップや会話が起こっている時にも貴方は明確に存在しています。
貴方は椅子に座って、手や腕を動かして、口や舌や声帯なども動かしています。
つまりそこでは行動が明確に起きています。
貴方は椅子の中で自分の姿勢を動かしたりしています。 しかし貴方は、状況や「自分が話している相手」に注意を払ったりはしていません。

貴方は意識的に私と共に居ます。
その結果貴方は「(貴方を通して)私と話している人」とより本当に一緒に居り、貴方の世界とより本当に一緒に居るのです。


出来るだけ簡単に表現してみましょう。

貴方の向きが私と揃っている時(私と同じ方向を向いている時)貴方が体験しているものは聖なる関係なのです。
貴方が同胞(や貴方の世界内のその他のもの)と向きを揃えている時、貴方は特別な関係を持っています。

これが最終的に意味する事は「全ての幻想は特別な関係の結果なのです。」です。

「目覚め」の過程でほころび始めるヴェールは、(エゴと呼ばれている幻想を含んでいる)特別な関係のヴェールです。
(言うまでもない事ですが、これがキー・ポイントです。)

上記の様な文は、『人は同胞の人間達との関係から身を引いて、彼/彼女の「ガイド」か「精霊」か「神」とだけ関係を持つべきだ』と理解する事も可能です。
そしてこれは貴方が「人間関係として認識しているもの」を拒否する事に繋がり得ます。
もしこれを信じたなら、それは悲惨な事に成ってしまうでしょう。

事実は次の通りです。
人が特別な関係の中にいる時、その人はどの様な関係内にも居ません。 
何故なら、その関係内のそれぞれのパートナーは、(父を無視する基本的文脈内で育成された)自己感覚だけで代表されているから。 
それぞれのパートナーは、(相手の「存在」の本質的要素を無視する基本的文脈内で育成された)自己感覚だけから表明されているから。

だから、その関係内には誰もリアルな人は居ないのです。
何故なら、各人の自己感覚は、「その二人が一緒に自分達を定義する様に決めた事」(それがどの様な事であっても)を相互理解した決定の上に育てられているものだから。
そして定義は、決して、それそのものでは在り得ません。

しかし、貴方は「貴方自身に対する定義」に慣れ親しんでいるので、そして他者達も「彼等自身に対する定義と、貴方に対する彼等の定義」に慣れ親しんでいるので、定義を放棄する事は、関係を放棄する事の様に見えるのです。
とても大きな損失に見えるのです。

しかし貴方は十分な経験を持っており、貴方の周りの人達も十分な経験を持っています。 そして貴方と一緒にいる人達は、『「我々」の関係から貴方が存在している時』の事を十分体験しており、その時彼等は自分達が本当に抱擁された事、本当に感じられた事、本当に関わり合った事を知っています。

そして関係は何時でも癒し/啓蒙/変容(それらは決して特別な関係の枠組み内では起こった事がありません)をもたらすものであり続けています。
だから貴方は{特別な関係を手放しても}自分が無意味には成らないと知っています。

貴方が我々の関係(あるいは、一瞬一瞬の中の一体感/ひとつである事/合一の意識体験)の中から他者(や貴方の世界)と関係したとしても、貴方の世界の中で他者達と(あるいは貴方の世界と)関わり合う能力を貴方が失う事はありません。

貴方と私のこの合一(あるいは「結婚」と言っても良いでしょう){だけ}が永遠に続く状態だと考えるのは止しなさい。 
何故なら前にも言ったように、この私との合一(この状態は確かに永遠の事実ですが、この結合は意識体験として永遠に存在し続けますが)のこの時点での役割は、貴方が(我々が実際に居る)「ここ」で「意識」を取り戻す事を助ける事だからです。
貴方が「貴方である者」の意識体験を完全に取り戻す事を助ける事だからです。

現在、「私より無知に見えている貴方」が私と繋がっています。
これは確かに依存関係に見えるでしょう。
しかしこれは事実、貴方の意識を私が居る「ここ」(貴方が本当に居る「ここ」)に置くようにする為の方法なのです。

「貴方が本当に居る所」に貴方の意識を据え続ける結果(例え、私がこのエクササイズの焦点であったとしても)、貴方は目覚めるのです。
貴方は正気(センス)を取り戻すのです。スピリチュアルなセンス/感覚、「貴方に対する完全な理解」を取り戻すのです。 私より劣った知性としてではなく、私より無知的にではなく、私の様に(正気を取り戻すのです)。


人が自身の「ガイド」か「精霊」か「父」と繋がって、特別な関係と自己同一したり、それにエネルギーを与える事を永遠に無視したなら、その結果は決まっています。

目覚める事!意識を回復する事!卒業!

これがその結果です。



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ジャンル : 心と身体

第二十四章

1991年 3月25日 月曜


ラジ: ポール、貴方は要領を得始めています。
これを貴方が理解する必要はありません。
貴方は私と共に居て(スーザンが言った様に)「ドア」に成る必要があるだけなのです。

貴方は何が「狭間」にのし掛かっていて、そこから動き出ようとしているか、全く理解していません。
しかし貴方はプレッシャーを感じています。 貴方はその現れを感じています。

「ドア」には、その機能以外の定義はありません。
「狭間」には、その機能以外の定義はありません。
その(「ドア」/「狭間」の)機能は、「神」がそこを通って「自己表現」をする「場所」に成る事です。

貴方の受けた教育、そして貴方の周りの人達の態度は「貴方には責任があり、だから、貴方は責任を取れる(説明出来る)様になる必要がある」だと云う事は私も良く理解しています。

しかしポール、私は貴方に次の事を言いたいです。
もし{今}「狭間」の機能が起こっていないなら、貴方は「狭間」に成る事に関して責任を取る事は出来ません。{出来ない筈です。}
もし{今}「存在」の動きがそこ(狭間)を通っていないなら、(貴方は)それ(狭間)に対して責任を取る事はできません。{出来ない筈です。}

だから『「狭間」がその機能を果たせる様になる前に、貴方が「狭間」として責任を取れる(説明出来る)様に成る必要がある』と云う前提(条件付け)を貴方は捨てる必要があるのです。
そして「狭間」がその機能を実際に果たした後には、その責任/説明を示す必要は何処にも現れません。

万が一、他者が責任/説明を求めた場合、それに答えるには、自身を説明/定義出来る様に「狭間」がその機能を止める事が必要になります。
{そして狭間がその機能を一旦果たした後、そこで何が行われていたか説明する事は狭間には出来ないでしょう。‐と云う説明がここから抜けていると思います。 訳}

その様な要求に答える事は不可能だと貴方は理解しなければいけません。
だから貴方は「責任/説明を求める要求」に対して答えようとする事を無視しなければいけません。
そして自分に何らかの説明が出せる事を期待するのも止めるべきです。

貴方は、貴方だけでは何者でもの無いのです。 何故なら、貴方は貴方一人では存在していないから。 だから貴方は、貴方一人で貴方自身の責任を負う事は出来ないのです。

彼等(他者達)も彼等自身に対して責任を持つ事が出来ると信じられる様に、貴方が自分で貴方自身に対して責任を負う様に、他者は要求して来ます。 
それに従ってはいけません。
これは、貴方が座った時「貴方の立ち姿がどこかに行ってしまった事」に対して責任を取ろうとする様なものです。

貴方がワークショップをしている時、貴方は事前に「何が起こるか」考えようとはしていません。
貴方は(あたかもプランが存在しているかの様に考えて)自分が「プラン」を理解する事を要求してはいません。
そしてワークショップはただ起こるのです。それは美しい事です。それは意味深い事です。 それは変容をもたらす事です。

ならば何故、貴方は「四次元」に成る事の意味をあらかじめ理解しようとするのでしょうか? またその他の(貴方が些細な事と考えている)行動をどの様に取るか、どうしてあらかじめ理解しようと試みるのでしょうか?
人生/生命はどの様な先入観/前提にも従う事無く開き示されるものです。

貴方は、ワークショップで何が話されるのか前もって考えてみる事も出来ます。
しかしそれはエネルギーの無駄使いです。
何故なら、貴方がプライベートな視点/立場から「生命/人生」の動きを統治する事は出来ないから。
そして、その時実際に自然と起こる事は、貴方の先入観/前提とは関係なく起こるのだから。

貴方が体験しているソワソワした感じは、「動き」が狭間を越えて動いて行く事を「求めている」フィーリングなのだと、私は貴方に指摘したいです。
しかし、もし貴方が「ドアとしての貴方が誰か」理解する事に固執したなら、貴方は「その(ドア/狭間の)機能から分離したもの」に成ろうと(自分一人で行動しようと)してしまうでしょう。

貴方が貴方自身に対して責任を取れる様(説明出来る様)であるべきだ、と云う示唆は、
『貴方の「存在」の機能と関わらない事を貴方が選択して、貴方自身に対して責任を持てる様(説明出来る様)に成ろうとする行動』を促進してしまいます。
その様にして貴方はエゴとして機能し続けようとしてしまいます。 しかし貴方のエゴは崩れつつあります。

過去のどの時点で、貴方は貴方自身に関して良く説明が出来ていたでしょうか(責任が取れていたでしょうか)。今の時点で貴方が貴方自身に対して説明責任を負おうとしたなら、それは酷い失敗を招く事でしょう。 それは完全に失敗してしまいます。
だからその様な事をしようとするのは止めなさい。 貴方の時間を浪費するのは止めなさい。

ポール: 私は静寂を体験しています。
私は(貴方を)ブロックしているのですか? それとも貴方がただ何も言っていないだけなのですか?

ラジ: 私は何も言っていません。

ポール: いずれにしろ私はまだ行き詰っています。
私が言いたいのは「私の目の前に出されている要求は、依然として私の面前にあります。」と云う事です。
私はただここに座って貴方が次に何か言うまで待つべきなのですか?
静寂を感じ、『「私がこの静寂の中に座っている事」が正当な時間の使い方だ』と云う自信を感じるべきなのですか。 (これをしている限り)私はとても厳しい要求と向き合う事を避けている様に思えるのですが?

ラジ:  いいえ、ポール。

「知る事」を熱望する事によって、貴方が「知る事」に許可を与えるべきなのです。
そして何かを「知る」一番簡単は方法は質問する事です。

ポール: 一番シンプルな質問は「責任を取る事の問題に関して話してくれませんか?」だと思います。

ラジ: 喜んで。

人に責任が取れる(説明が出来る)唯一のものは、彼/彼女自身が「創造したもの」だけです。 {人が自分で「創造」したものは、相互合意だけです。 訳}
だから人は、自分以外の人(他者)に対してだけ責任を取る事が出来るのです。
{だから人は、自分以外の人(他者)に対してだけ(相互合意に基づいて)責任を負っている様に見せる事が出来るのです。訳}

何故なら、人が一人で放って置かれたなら{他者と相互定義を共有する関係を築かなければ}彼/彼女は「生命/人生」の豊かさを「生命」自身が「生命」を開いていくに従って体験するだけだからです。
{人は、彼/彼女の「存在」の豊潤さを「存在」がそれ自身を開く様に体験します。}

だからポール、責任を持つ(accountability)とは「人がパーソナルでプライベートな創造者で/(神のみが源である)「創造の動き」から分離していて/それ自身だけで存在している」と云う信念からもたらされたエゴの動きなのです。

責任のゲームをプレーする為には、最低二人の人が必要に成る事を理解して下さい。

「創世記」の第三章の寓話の中で、イブは林檎を食べてそれが美味しい事を発見しました。 そこには恥や罪悪はありませんでした。
彼女がそれをアダムに提供して彼がそれを食べたとき、彼と彼女自身が一緒に恥(羞恥心)を体験している事を彼等が見つけたのです。

つまり、イブは「父」との関係の中で父から裁かれたのではないのです。 これは重要なポイントです。
(イブが林檎を食べた時)そこに居たのは、一緒に「父」に背いている二者ではありませんでした。
そこには、「父」とイブしか居ませんでした。 そこにあったのは、「父」と「父の自己表現」だけです。
罪(罪悪感)は、人(ひとり)と「父」の関係内では不可能な体験です。 例え人(ひとり)が「父」から独立して行動している様に見えたとしても。

この時点では、背く(反抗する)行動の中で{他者と}繋がる事はまだ起こっていません。
だから、この時点では「合意された反抗」の中で{他者と}繋がる事はまだ起こっていません。
この時点で存在していた唯一の関係は、「父」と「父の自己表現」の(いまだ純粋な)関係だけでした。

その時点では幻想は起こっていません、「父」は自身の「自己表現」と倒錯した(欺瞞的)やり方で関わり合う事は出来ないからです。

「父」の居る所に罪が無い様に、そこには恥の体験も無いのです。
だから人が「父」に近づいて行けば、その人がどれだけ「父」から離れていた様に見えたとしても、そこでは罪と恥の解除が起こるのです。

他のエゴ感覚と繋がったエゴ感覚の中だけで 、「恥と罪の体験」が起こりそれがリアルに見えるのです。
アダムが林檎を食べる事に参加した時(この本当の意味は、彼がイブと一緒に「父の意志」に反して行動する事に同意した時、です)に始めて、恥と罪の体験と「赦しを求める声/必要」が発生したのです。

責めているのは「父」ではありません。
貴方を(あるいはその他の誰かを)「恩寵を失った状態」に留まらせているのは、「父」ではありません。
裁きを与えるのは「父」ではありません。 罰を要求するのは「父」ではありません。

さて、これはどう言う意味なのでしょうか?
この意味は「エゴ達がお互いに繋がって、(彼等全員を有罪にする)恥と罪の裁き(判断)の定義を作った(創造した)」と云う事です。
エゴ達の繋がりの結果が、『人が「持って生まれた権利」と「天国」を体験出来る様に成る前にペナルティを払う(罰を受ける)事の強要』として現れるのです。

どうして「目覚め/覚醒」する為に「赦し」が不可欠で、何故これがコースの中心的主題なのか解りますか?(#14)
それは、赦しこそが裁きを撤回する事だからです。
裁きを使って貴方は、『兄弟自身が持っている「父」からの分離感覚』に兄弟を縛り付けているのです。

解りますか? この様にして一人一人の人がそれぞれに対して責任/原因を負わせているのです。

{エゴにより}貴方の良き働きの責任/功績を貴方が負うものとして示唆されています。
貴方は、自分に価値があり/自分が信頼でき/自分に意味があり/自分が有用な貢献をしていると「説明が出来る方法」(自分自身に原因が求められる方法)で貴方自身を管理しなければいけないと{エゴから}示唆されています。

しかしこれらは、貴方の罪に対する責任を隠す為の誤魔化しなのです。
何故なら、貴方が功績を十分に上げられれば、十分な資格が取れれば、十分な信用が築ければ、それによって「暗黙の内に示されている貴方の罪」の責任から貴方を免除する事が出来る(と考えた)から。
『「父」の意志から背いて行動する相互合意』から派生している「相互合意されている恥」』の責任から貴方を免除する事が出来ると考えたから。

この様にして、(罪の意識を持って貴方自身の責任を取るのではなく、プライドを持って自分の責任を取れる様に)貴方自身を管理する事が大切に成ったのです。
{この様にして、(罪の意識を持って貴方自身を説明するのではなく、プライドを持って自分を説明出来る様に)貴方自身を管理する事が大切に成ったのです。}

しかしその様な事をしても、罪への基本的な責任は解除されません。
(「あたかも神が存在しないかの様に、他のエゴと共に行動する」相互合意を手放すのではなく)『分離した良き人間に成ろうとする全ての試み、あたかも私生児であるかの如く行動して「父」の直接で唯一の「自己表現」ではないフリをする全ての試みから発生している罪』への基本的な責任は解除されません。

「卒業」とは文字通り、貴方が基本的な相互合意と恥と罪と「それらに内在/関連している罰」を手放すプロセスの事です。
「卒業」とは、貴方が『私の意志ではなく、貴方/「神」の意志が成されます。』と言って、それからもう二度と「貴方自身の独自に意志を持つ能力感覚」には依存しなくなった時の事です。
貴方は「父の意志」だけを知りたいと希望するのです。

貴方は「聞く事」によってこれを行います。 私が今喋っている時、丁度貴方がしている様に。
これを行えば、貴方は『自分では責任の取れない/説明の出来ない体験、他者から「説明」するよう要求されても答えられない体験』の中に自分を置く事に成ります。 

この様に「責任を取るよう/説明出来るよう強要される事」の原動力は、貴方自身と貴方の周りの人の「条件付けられている思考」から来る強要なのだ、と理解出来なければいけません。

貴方は最低限、イブの寓話のポイントまで戻って行かなければいけません。
イブが林檎を食べた後で、神に逆らった後で、しかし父以外の何者とも未だ関係を結んでいない地点まで、貴方は戻らなければいけません。

彼女は(云わば)反抗行動を探索していたのですが、しかし彼女はその時でもまだ「父」から分離しようのないパーフェクトな「一体性(Oneness)」の中に居ました。
それは、その時点ではまだ(「リアル」な分離感覚を確立する為に必要な)「他者との繋がり」が行われていなかったからです。
この時点ではイブまだ彼女自身を「三次元だけに限定された枠組み」に限定しておらず、まだそれを抱擁していなかったのです。

だから、貴方が私とだけ関係している時、貴方はパーソナリティー/「自己に対する限定された感覚」とは関係していません。
(以前にも言ったように)その時貴方は、『それ自身も完全に「ドア」として立っている者』と関係しているのです。
だから、貴方は私の中に「父の意志」が表現されたものを体験するのです。
だから、貴方は私を通して「父」と直接の関係を持つのです。

他のエゴ達との相互合意から身を引く決意をして、人間として存在する貴方の最上の感覚(プライベートな感覚)から退散する決意をして、私と繋がった時、貴方は「父」と繋がっているのです。

これをしたなら、『寓話の中のイブがまだ「父」との関係内だけに存在していて、しかし「父の意志」に逆らって行動していた時点』まで貴方は自分を戻す事になります。
これが貴方を貴方の「無垢(無罪の状態)」にまで戻します。

イブの反抗が彼女を有罪にしたわけではありません。
反抗の中で(「父」以外の)他者と繋がる行為が、恥と罪の幻想を作っただけではなく、
「エデンの園/天国」と『「神」の表現としての「本当の彼女」』の歪んだ体験全体を作ったのです。

責任(説明責任)に対する要求は、貴方が貴方自身と貴方の真実性を宣言する事への要求なのです。
しかし貴方にはその様な真実性はありません。 貴方はその様な自己も持っていません。
「貴方」の現れは、「神の現れ」の宣言なのです。

これが貴方の「事実」です。 そしてこの「事実」を人間的に説明する事は出来ません。
この「事実」に対して責任を取る事は人間には出来ません。
({神から}分離した自己感覚が「天国」の全ての側面に当て嵌めた)(その様にして「天国」の体験に対する歪みを混乱を作った)定義の範囲内では、この「事実」を説明/確認する事は出来ません。

これをより詳しく見ていきましょう。
私が説明したとおり、イブが林檎を食べた事は彼女を罪人にはしませんでした!
それは「父」からの分離を彼女に体験させませんでした!
だから、彼女個人の反抗行為は幻想を作りませんでした!
だから貴方個人の反抗行為は幻想を作りませんでした。 それは貴方を罪人、失踪した「神」の迷い子にはしませんでした!

罪の感覚と幻想の体験は、『「父」に逆らって行動する事への合意』の中で他者と繋がる事(つまり、「父の意志」と一致していない意図をそれぞれに持つ事)から全て発生しています。 
(分離行為そのものではなく)この相互合意により、全ての幻想が実体と形を持つ様に見え始めたのです。

これがどういう意味だか解りますか? 
この意味は「幻想に対して責任を負っている個人は誰も居ない」と云う事です。

幻想は、{エゴの}同士意識から立ち昇って来たマインドの毒気の様なものです。
これは繋がる事により『どうにかして「父」に対して本当に反抗出来る』と云う(全く間違った)感覚から来ています。

これは二人の子供が物陰に隠れてトウモロコシの糸でタバコを作ってそこに座り、面白がって「父さんは僕を殺すな」、「僕が何をしているか知ったら、母さんに殺されちゃうな」と言う様なものです。

しかし母と父の性質は愛であって、物陰のこの馬鹿げた行動がどの様な裁きの対象にも成り得るとは(つまり、子供の想像の軽い娯楽以外のものとは)考えられないので、彼等には怒る事さえ不可能なのです。

しかしそれでも子供達が、自分達の想像を信じてしまえば、罪と恐れの感覚を作る事が出来ます。 それは彼らの両親への態度に影響を与え、共有されている幻想の行動(共有されているネガティブな夢)を強化してしまいます。
彼等の夢想はリアリティとは全く一致していませんが、それには罪の意識が付随しています。 彼等の両親はその様な罪を子供達に与えてはいないのですが。

しかし子供っぽい夢想の中で彼等が両親に投射した恐ろしい顔故に、子供達は懲罰を恐れ始めます。 そして彼等の両親との関係(きずな)は、お互いとの間に(共有されたネガティブな夢によって)築いた関係(きずな)で取って代わられます。
子供たちは、トウモロコシの糸を吸った行動そのものから苦しんでいるのではなく、共有している夢想体験への信心(罪悪感を感じる相互合意)故に苦しんでいるのです。

時間が経つに従って、子供達は「彼等自身が有罪だという相互合意」に従って自分達を定義し始めます。
夢想/想像した両親の怒りと懲罰故に、彼等は両親からよそよそしく(他人行儀に)成って行きます。

そして子供の一人が自分の尊さに気付いてそれを表明した時、もう一人の子供が「お前は、自分を誰だと思っているんだ? 僕達はお互が有罪だと知っているじゃないか?」と言うのです。
状況が困難になり一人が「僕は、我々がお互いの無知を作っているこの関係にはもう余りエネルギーを使いたくない。 僕は故郷に帰りたい。 僕は父と母との関係を新しくしたい。」と言った時も、その子自身の条件付けとパートナーの(もう一人の)子の(幻想に対する)補強が「貴方にはそれは出来ない」と言うのです。
「時が経ち過ぎている。 貴方の罪の意識から行われた行動は、とても沢山蓄積されており、だから貴方は全く受け入れられないだろう。」と言うのです。

{両親/「神」から隠れた}物陰では{子供達が自分達は両親に背いたと想像しただけなので}本当の行動は何も起こっておらず、英知と愛に満ちた父と母は微笑んで「彼等の苦しみは無意味だ。 彼等が帰って来るのを心待ちにしている。 昔と全く変わらず彼等を愛している。」と言っているのです。

ここでのポイントは『それぞれの人(各個人)は本当は一つの関係しか持っておらず、
その関係は父/母「神」との関係である』と云う事です。
そして自己主張/自己顕示(willfulness)の行動は罪を作っては居らず、それが分離感覚を発生させる事は出来ず、恥や罪悪や懲罰を作る事も出来ないのです。
だから恥/罪悪/懲罰の意識感覚に対して責任を負っている人は誰も居ないのです。
「天国」に対する歪められた感覚に対して責任を負っている人は誰も居ません。
二人の個人が寄り集まって反抗する事を互いに合意した時にも、個人が恥や罪悪や(罪人に値する)懲罰の感覚を作った訳ではありません。
何故なら個人は(懲罰や苦しみがリアルに見えていたとしても)、それぞれ一人一人としては「本来のそれ自身」(「父」の直接表現、無罪)のままなのだから。 

懲罰や苦しみは、『相互合意されている罪悪』と『罪悪の枠組み内」から自分自身に対して知的に正当に愛に基づいて「責任を取って/説明して(相互合意の中からは実存して見える)罪悪を超越しようとする試み」』の結果なのです。

相互合意は知的現象であって、リアルなものではないのです。
取り除かれるべきヴェールは、この相互合意のヴェールなのです。 この忍び笑う/陽気な/恐れに満ちた/スリルに満ちた相互合意、『人が実際に「父」に背き、(「父」こそが「愛」で、「父」にはそれ以外は不可能なのに)「父」の愛を失う事が出来る』と仮想する相互合意が、このヴェールなのです。

だから、「卒業」と「目覚め」はつまるところ、相互合意から身を引き、(「良き人と成る為の自分の内部概念」や「他者が持っている良き人の定義」と同等に成る為に)自分自身に対して(説明)責任を負う事を無視し、代わりに「父の声」を聞く為に自分の中に耳を澄ませる事です。 
「父の声」が狭間を越えて動いていく度に、貴方という「ドア」を通り抜けていく度に、その「父の声」を聴いて、あるがままに{「父の動き」、「創造の動き」に}任せるのです。

幻想が(夢想に浸る事と、夢想が「リアリティ」よりもリアルだと信じる事への)相互合意から発生しているのなら、どの個人も幻想に対して責任を取る事はできません。

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(#14)A Course In Miracles. (奇跡のコース) 

テーマ : スピリチュアル
ジャンル : 心と身体

第二十三章

1991年 3月22日 金曜


ポール: OK。 私はここにいます。
そして、貴方とそして「昨夜から朝まで現れ続け私をサポートし続けてくれた者達」に感謝したいです。 
私は今日より安定した感覚を得ています。

質問はありません。 貴方の言う事が聞きたいです。

ラジ: ハイ、ポール。

貴方が体験している安定感と平和は、(我々の観点からは)無意識の要素に対するこだわりが減り、より一貫して貴方が「ここ」に(「貴方」が居る「ここ」に)我々と共に意識を現している事を示しています。

この存在感の「ここ」での安定は(これが貴方にとって「ここに居る」最低限の意識体験であったとしても)(昨日私が述べた)結晶化の顕在化/実現なのです。
だから、この結晶化は(貴方の限定された枠組みから)「貴方が理知的にアハと気付き、そしてより洗練された知的プロセスへと至る道筋を効率良く進んでいく事」ではないと思い至る事が出来ます。

以前にも言ったとおり、貴方は理解を通して天国へ入る訳ではありません。
貴方は天国の中に譲って入っていくのです。 これがどう云う意味だか解りますか?
これは貴方が「理知的/思考的」に何かを行う事がより少なく成って行く事、
つまり『理屈を使って障害を避けながら「満たされる事/満足」に向かって行く「小さなマインド」』を貴方が段々使わなく成って行く事です。

貴方が天国へ譲って入って行く時、貴方は「貴方を貴方として示してきた{貴方にアイデンティティ感覚を与えて来た}」マインド行動を放棄しているのです。

貴方に気付いて居て欲しいのは、貴方が譲って行くに従い、貴方が自分の世界からより大きく離れている様な感覚が現れて来る事です。
私が言いたいのは、「貴方の安全や健康に対する表面的な脅し」(これが貴方の知覚している世界の一部として見えています)から大きく乖離した感覚が現れて来るという事です。

これは『貴方の「存在」の「平和」を体験する、より大きな能力』で、これが「リアリティ」(我々の居る「ここ」、「貴方」が本当に居る「ここ」)の中で貴方が(必要)最低限の「意識」を持つ事を安定させているのです。 

貴方は自分の靴紐を引っ張り上げて(自力で)「天国」に入る事は出来ません。 何故なら貴方は既に「ここ」に居て、今までずっと「ここ」に居続けて来たのだから。
自分の靴紐を持ち上げて自身を引っ張り上げようとする努力(自力で何とかしようとする努力)は、三次元の限定的枠組み内で行われる事であり(必然的に貴方の存在を三次元的/無知的に確証してしまう)三次元的行動なのです。

だから「貴方の成就は「神」の恩寵により起こる」と言われているのです。
貴方の成就は、貴方のスキルや能力や力や持続行為や服従行為や宗教的儀式によって起こるのでは無いのです。
貴方は「神」の恩寵によって、貴方の成就(貴方が満たされる事)を体験し「天国」内で目覚めるのです。

そして「神」の恩寵は、貴方や他の人達に対する特別な施しではありません。
貴方が目覚める日に「神」が貴方の為に神聖なる法令にサインし、「神」の恩寵によって貴方がその時「目覚める人」に成る訳ではありません。

「天国」の中で目覚め三次元的枠組みから逃れる為に貴方は何もする必要が無いのは、貴方が初めから三次元的枠組み内には居らず、どの様な時にも貴方は「天国」内に居続けて来たからです。

プライベートでパーソナルな自己感覚だけが、「それ自身が設定した限定内」でそれ自身を体験します。  「プライベートでパーソナルな自己感覚が設定した限定内」でその自己感覚は「目覚める権利」を得る為に「大いなる努力」をして何かを達成しようとするのです。

貴方は「神」の恩寵により目覚めるのです。 つまり卑小な三次元的モータル(死すべき者)としての貴方の努力を放棄する事によって、目覚めるのです。 何故なら貴方は「天国」に居り、貴方は「キリスト」なのだから。
貴方は「神」の現れが表現されているものなのです。
だから、三次元的に限定されているモータルとしての貴方は何もする必要がありません。

私は昨日『貴方は(それ自身が四次元的存在である事を知っている)「四次元的な何か」に注意を払う必要がある』と言いました。
これが「繋がる事/一緒になる事(Joining)」なのです。

貴方は既に下記の事を沢山経験しているので、私は次の様に貴方に訊ねましょう。
貴方が私と繋がっている時、それは何か明確な三次元的行動でしょうか?
もちろん、答えは絶対否です。 私と繋がる為には貴方が無防備に成る必要があります。
繋がるには、貴方は静かに成る必要があります。 つまり貴方は思考という自己主張を放棄する事により『「四次元的なもの」と繋がる能力』を不明瞭にする事を止めて、貴方の四次元性の体験/貴方の神性の体験/「ここ・天国」内の貴方の存在の体験にアクセスする必要があります。

つまりそれを貴方の中に入れるのです。 つまりそれを受け取るのです。
つまりアグレシブ(攻撃的)に成ろうとせず、(三次元的)世界の中で能動的に存在しようとしない事です。
つまり「繋がる事」とは、男性的に繋がるのではなく、女性的に繋がる事なのです。

ハイ、私はここで確かに文字通り男性的/女性的なセクシュアルな繋がりの違いに関して述べています。
女性のパートナーの体験は、より柔軟で、よりリラックスして、より譲るほど、より満たされる体験に成ります。

さて、今日貴方は我々と「とても一緒」に居ます。
私は、貴方がより意識的に成っていると言っているのではなく、貴方の「意識的である」度合いがより安定していると言っているのです。

「これは努力{貴方のパーソナルな力}を必要とするプロセスではない、そして、貴方がするべきなのは私の「声」に注意を払い続ける事だ」と覚えていられれば、
そして『この「声」には源があるに違いなく、この存在が(その他の者と一緒に)居る「場所」があるに違いない』と覚えていられれば、
貴方の意識のポイントが、「意識的気付きの体験」の中により深く深く現れていける様に成るのです。

貴方の正しい「マインド」の中に貴方が居る事はとても自然な事です。
だから、そこでは「限定的な枠組み」と「全てに対する定義」を支えようとする「疲れる努力」が必要とされておらず、目覚めは自然と起こり始めるのです。
我々が常に喋り続ける必要は無いのです。 何故なら、貴方の静寂の中にも、私の静寂の中にも、「ここ」の非常に活動的な繋がりがあるからです。

貴方が自分のアイデンティティに関して、もはや訊ねていないのは喜ばしい事です。
この事もまた、貴方が「ここ」に居続ける事を継続させ安定させています。 
例え、現時点では貴方の『「ここ」に居る体験』が、絶え間ない「平和」の体験と「我々の存在」(貴方と共に「ここ」に立って貴方をサポートして居る我々の事です)だけに限定されていたとしても。

貴方には、(実際貴方が既にそうしている様に)「ただ気付いている事」を体験し続ける様にお勧めします。
そして貴方が我々と共に居る「ここ」は、既に貴方がとても慣れ親しんでいる「場所」です。

例えば貴方が夜に夢を見ていて、自分が不思議な環境内にいる事を発見し貴方の中で警告シグナルが鳴り目覚めた時、貴方は自分がベッドに居る事をすぐに悟り、自分が体験していた不思議な環境とは全く違う所に貴方がいる事を悟り「どうしたんだろう?」と言うかも知れません。
しかしその時貴方は自分がリアルな世界(慣れ親しんで来たベッドルーム)の中にいる事を瞬時に悟るでしょう。
この「意識」を取り戻すプロセスは -それは夢(三次元に限定された枠組み)の中には含まれて居ない体験を抱擁/内包していますが- 貴方が永遠に親しんで来たものなのです。

そして貴方は我々を認識するでしょう。 そして貴方は貴方「自身」を認識し、この「場所/リアリティ/天国」を認識するでしょう。
「平和」の感覚やトーン(雰囲気/音)と共に居なさい。
そしてこの「平和」の中で「孤独ではない体験」の感覚やトーンと共に居なさい。
リアルな動きは{まだ?}起こっていませんが、「ここ」にクリアな意識存在を貴方が示していると私は言う事が出来ます。

ポール: 続けて下さい。

ラジ: はい、貴方は公然とした意志の執行により「夜の夢」から目覚めます。
そして貴方は、意志の放棄を通して「昼の夢(人生の夢)」から醒めて「天国」に入ります。

今貴方(の意識)は、彷徨い始めています。 それは思考の結果ではなく、貴方が没入している瞑想的状態に注意を払う事により。

瞑想的状態を焦点にしないで下さい。 私と繋がり続け、そして「ここに居る我々全てとの一体感のフィーリング」と繋がり続けてください。

[電話が鳴りました。そのまま瞑想をしました。]

ポール: 私は最低でも半時間ここに座っていました。
かなり長く座っていたと思います。

何かここでは起こっていたのでしょうか? それとも私はただ三次元的な瞑想(それがどんな意味にしろ)の中に落ち込んでいたのでしょうか?

ラジ:  ポール、ここでの要点は、この期間中貴方は私に「私がここに居るか?」聞き続け、私が「私の声を聞きなさい」と言うのを貴方が聞き続けた事です。 それを何度も何度も繰り返した事です。

ポール次の事を理解して下さい。
貴方は「貴方自身をある場所からある場所に移動させる必要」は全く無いのです。
貴方はその様な事は出来ません。 何故なら、貴方はこれを全て貴方の目的地(と同時に貴方が夢に侵入した地点)から行なっており、従って貴方が移動出来る「ところ」など無いからです。

だからここでのキーは、私の「声」を聞く事です。

テーマ : スピリチュアル
ジャンル : 心と身体

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翻訳 岡上

Author:翻訳 岡上
ACIM - A Course In Miracles

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