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ACIM-12-11-12

2012年11月12日


二つのステップを実践している時あなたは平和を実行しているのです。
あなたはあなたの中の祭壇(パーソナルでプライベートで忙しいあなたの思考に占領されていない静けさ)を選んでいるのです。
この内なる静寂の中で、外のものには注意を与えていない所で、真理を知りたいとあなたは求めるのです。
あなたは父の視点を求めるのです。 そして父の視点/視界は初めからあなたの中に置かれており、あなたの中から父の視点が取り外されたことは今まで一度もないのです。

平和を選ぶプロセスには四つの障害があります。
第一の障害は「平和を捨てたくなること」です。(これに関しては既に述べました)
第二の障害は「体が提供しているもの故に体に価値があるという信念」です。(今夜はこれに関して述べます)
第三の障害は「死の魅力」です。
そして第四の障害が「神への怖れ」です。
これらは1234と進むにつれてより難しく見えることでしょう。
だから最後の障害が「神への怖れ」です。

だから一から四まで順番に話していくことで理解がより容易に成るのです。
聖なる瞬間の中であなたの平和を選択することが一番易しいことです。
これは神への怖れ(神の存在への恐怖)を手放すことよりも簡単です。
あなたが現在自分のことを「罪人/必滅者/より向上しなくてはならない欠陥のある存在」として考えている限り、あなたに問題(瑕疵)があり神がそれに罰を与えると考えている限り、神という存在への恐怖を手放すのは難しいのです。
だから初めから神への怖れと向き合うことは無理なのです。

平和を抱擁することは、平和を妨げているものを手放すことは、{四つの障害の中で}一番簡単なのです。
そしてこれ(平和を受け入れること)が聖霊/父とのコミュニオン(霊的交歓)を可能にします。
これが簡単にホンの少しの間ドアを開くのです。
これが僅かの時間でも聖なるガイダンスを聞くことを可能にするのです。
そしてこれ(二つのステップ)を実践し続けることにより、これ(聖なる瞬間/コミュニオン)がより頻繫に起こり、コミュニオンがあなたを変えるのです。
コミュニオンが、平和に対するあなたの怖れを減らし、「平和への第二の障害」に直面する自信と理解をあなたに与えるのです。

そして次の障害(第二の障害)が下記です。

[II. The Belief the Body is Valuable for What it Offers.1]
[II 体が提供しているもの故に体が貴重で大切だという信念]

さて体はあなた達に何を提供しているのでしょうか?
体はあなたの存在を身体的に表現して、力によって押し出し、出現させているのです。
体があなたに提供しているのは「力」であって、この力があなたの存在を身体として押し出しているのです。
体は力を使ってコントロールする能力を提供しているのです。例えそれが誰かを怒鳴って強い語調を使って命令するだけであっても。 それでもそれはコントロールの目的で力を使うことなのです。影響を与えて物事を起こそうとすることなのです。
(過去にも話しましたが)幼児としてのあなたの身体感覚は、あなたの体だけではなく、あなたの父母の(そして兄弟姉妹の)体の感覚も含んでいたのです。 
そしてあなたは、あなた自身を個別の体として体験しており、あなたの両親や兄弟姉妹の体をも個別の現れとして体験しているのです。
しかし「あなたは(見かけ通りの)個別の体ではなく、人々も個別の体ではない」ということがあなた達の意識/注意から漏れており、あなたの両親や兄弟姉妹もこれをあなたに教えてはこなかったのです。

しかし彼等は(わたし達は)マインドの現れなのです。 {体として受け取られている}これら全ての形や感触の意識体験もマインドの現れなのです。
「人々はマインドであって体ではない」ということが忘れ去られているのです。
だから発育の全プロセスでこの誤解(誤知覚)が認証され強化され続けているのです。
誰かが瞑想などをして、二つのステップ(聖なる瞬間)などを通して、「(物質や形ではなく)マインドが存在の基盤である」と発見するまで{個別の体が自分だと思われ続けるのです}。

しかし誰かがこれ(体が意識を提供してはいないということ)を発見し全ての人に届く方法でこの存在の真理を教えるのです。
だからわたし達全員はシフトすることを学んでいるのです。
体に対する誤知覚/誤認識があるので、それに関して理解することが重要なのです。
この事に関してコースは次のように述べています。

[I am not a body, I am still free to be as God created me.]

[私は体ではない。私は今でも「神が私を創造した通りに成る自由」を持っている。]

多くの人達が形(体)との完全な自己同一を行なっているので、スピリチュアルな教えは「体は幻想である」と言っているように理解されています。
しかしそれは真実ではありません。
「あなたをアイデンティファイ(識別)するもの」は存在しているのです。
{あなたを示すものとしての体は実存しているのです。あなたの体はあなたが考えるようには存在してはいないのですが。}
「あなたを体験可能にしているもの」が存在しているのです。
私はこのことを繰り返し述べており、奇跡である意識のシフトが起こる為には、これを言い続ける必要があるのです。
あなたは体ではありませんが、あなたが体を持っていない訳ではないのです。
あなたは「あなたを示すもの」を持っているのです。
そしてあなたは「神があなたを創造した通りに成る自由」を持っているのです。
つまりあなたは今でも「マインドに成る自由」を持っているのです。
「(その中で創造の全体験が起こっている)意識体験に成る自由」をあなたは持っているのです。

マインド(意識体験)の中では、「全てのアイディアを作ったマインド」によってそれらのマインドが実感的/体感的に体験されており、しかし{マインドは}「(そこに見えるものとして描かれている)アイディア以下のもの」には成っていないのです。
「{創造の}アイディア以下に成る」ということは、見える様子に成る{見えている様子だけが全てだと信じてしまう}ということです。
{「見える様子{としての体}と自己同一してしまうこと」が誤認識なのです。}
あなたはそれ{見える様子としての体}ではないのです。{あなたの源は体ではないのです。}
目覚めはこの誤認識からあなたを引き抜くのです。

だから平和があなたの知覚をシフトさせた時、「体が提供しているもの故に体が貴重で大切だという信念」の上を平和が流れ渡って行くのです。
あなたが怒っている時、あなたが憤慨している時、あなたがムカムカしている時、あなたは身体的感覚(センセーション)を体験しています。
あなたが憂鬱に成っている時、あなたは頭の中に重さを感じます。
それは頭痛ではないのですが、まるで重いヘルメットを被ってそれがあなたを下に押し下げているような下方向のフィーリングなのです。
あなた達は普段「感覚をまず第一に体験して、それから憂鬱が自分に訪れた」と考えています。 しかし実際には{まず第一に}そこにはアイディアが存在していたのです。
「体と力を使って何かを行いあなた自身を持ち上げることに関して無力である/実行力がない/能力がない/力を失った」というアイディアがまず第一に在ったのです。
そしてあなたはそれを信じたのです。
あなたはそれにチャレンジして(このアイディアに異を唱えて)、「待てよ! 父よ、あなたがこれらの感覚を私に与えているのですか?」とは言わなかったのです。
「聖霊よ、私が得ているこの体験は本当のものなのですか? 私は憂鬱なのでしょうか? 私は自分の体を通して力を使って世界の中に私の存在を確立する方法を発見する必要があるのでしょうか?」

勿論答えは「NO」です。
しかしこれらの試みを放棄することはとても難しいのです。何故ならあなた達は身体的感覚を持っており、身体的感覚を尊んでいるのだから。
あなた達は身体的感覚が重要/大切だと考えているのです。
あなたは身体的感覚を行動に移すべきだ、身体的感覚が自分を動かしており、それ故に自分が苦しむことも致し方ない、と考えているのです。

しかしそれは真実ではありません。
これ(身体感覚を尊ぶこと)は「体があなたを生かし続けているので、だから体は根源的価値を持っているとあなたが感じていること」から発生しているのです。
それ(体/身体感覚)が{神から離れた個別独立存在としての}あなたを成功させ、それが創造と秩序の保持をあなたに可能にしているのです。
しかし勿論それはあなたのプライベートでパーソナルな秩序感覚であって、全ての人々や全ての物を含んだ秩序ではないのです。
だから平和はこの障害の上を流れ渡って行く必要があるのです。

そしてあなたのマインドの枠組み(思考形態)に注意してください。
感情がシフトし動いて、これらの感情が正当に見えており、これらの感情があなたを安全にする為に(何らかの)力の使用を求めているように見えている時、より注意深くしていなさい。
「しかし私か他の人がより大きな調和の為に力を使って変化を起こさなかったなら、私の(我々の)為に成ることは起こらない。物理的力の使用なしには何も起こりえない。」とあなたは言うでしょうか?

しかしそれは真実ではありません。
少し考えてみてください。
何らかの変容を体験したことの全く無い人が居るでしょうか?
あなたか他の人が身を持って愛を表現していた故に、時には奇跡的な変化が現れていなかったでしょうか?
瞬間的な知覚変動の結果として変容が起こったことが無かったでしょうか?
あなたのマインドが(あなたのパーソナルな考える能力を遥かに越えた)何か奇跡的なことで満たされた結果として変容が起こったことが一度も無かったでしょうか?
勿論それは起こっていたのです。

しかしあなたが聖なる瞬間を実践していて、父があなたに与えた愛と恩寵であなた自身(あなたというマインドの現れ)を満たさせていた時、完全な安全が(絶対的不死身が)あなたの生得権であることが{まだ十分に}理解されていなかったのです。
あなたの体験があなたの上に与えられているのは、あなたが以前程強くそれ(父があなたの上に与える愛と恩寵の体験)に抵抗していないからなのである、ということが理解されていなかったのです。

あなたの生得権は(あなたの健全/全体は)「世界の中でのあなたの存在感を強化する方法として体を使用することを放棄すること」に掛かっています。
{独立した力の存在/源として世界の中に存在し世界に影響を与えている「体」の使用を放棄することで、あなたの生得権(あなたが父から受け継いでいるもの)があきらかになるのです。}

これ(このような体の使用)を放棄することが難しいのは、生後直ちにあなた達が感覚の洪水に押し流されてしまうことによってこの誤知覚が開始しており、そして『感覚を体験している「何か(マインド)」がそこにあるという事実』に対してあなた達が完全に無知だからです。
しかし感覚を体験しているマインドが実在しているのです。

本を読み始めましょう。


[We said that peace must first surmount the obstacle of your desire to get rid of it. Where the attraction of guilt holds sway, peace is not WANTED.]

[平和はまず第一に「平和を捨てたいとあなたが思ってしまう」という障害を克服しなくてはならない、とわたし達は言いました。罪悪の魅力が支配力を握っている限り、平和は求められていないのです。]


何故ならあなた達には、平和より重要なことがあるから{あると思われているから}。
怖れと興奮の刺激から沸き起こっているアクティブなことがあるから。
「これ(怖れと興奮)が生命を動機付けているヴァイタリティー(生命力)で、これが自分達を発見に駆り立てている」とあなた達によって解釈されているのです。
あなたは発見しようとする性質を持っているのです。あなたは発見のメカニズムなのです。あなたは発見の為に存在しているのです。{これは間違っていません。}
「平和ぁ? そこでは何もエキサイティングなことは起こっていないでしょう。そこには私を行動に駆り立てる怖れが全くないから。」と言ってあなたは平和を求めないのです。
{ここでは「発見しようとすることは良くないことである」と言っているのではなく、「人々は平和の中には発見がないと考えてしまっている」と言いたいのです。訳注}

[The second obstacle that peace must flow across, . .]
[平和が次に越えていかなくてはならない第二の障害は...]


春一番の雨が川床の上を流れ渡って行くように、平和がこの障害の上を流れ渡って行くのです。
平和は流れて行くのです。ぶつかって粉砕していくのではなく、平和はそれ自身を流れさせて行くのです。
それは流れて行き、力の使用は必要とされないのです。

[The second obstacle that peace must flow across, and closely related to the first, is the belief that the body is valuable for what it offers.]

[平和が次に越えていかなくてはならない第二の障害は(これは第一の障害と密接に繋がっているのですが)「体が提供しているもの」故に体が大切だという信念です。]

そして体が提供しているものは「力の現れ(存在感)、動機を引き出し物事を起こすエネルギーの現れ」なのです。


[For here is the attraction of guilt made manifest in the body, and SEEN in it.]

[何故なら、この信念によって、罪悪の魅力(牽引力)が体の中に顕在化(表現)されており、体の中にこれ(罪悪の魅力)が見られているのだから。]

あなた達が平和を持ちたがらないのは、第一に「自分以上の者に成ろう」とあなたを動かす怖れの刺激に反応出来るようにしていたいからです。
そして第二に{自分以上の者に成ろうとする}これらのゴールを達成する為の体をあなたが持てるように{あなた達は平和を持ちたがらないのです}。
しかし第一部分も第二部分も真実ではないのです。

あなたは体ではなく、神があなたを作ったままのものなのです。
だから「 あなたを示しているもの(としての体)」はあなたを示し続けるのですが、あなたはそれ(体)を行動の焦点としては使わなくなるのです。
あなたはあなたのマインドを認識しているのです。
『「(外からの力なくして)創造の動きと一緒に流れている注意の現われ」としてのあなたの意識体験』をあなたは認識しているのです。
それ(創造の動き)にあなたの注意を与えることにより、それ(創造の動き)と一緒に流れて行くことにより、あなたは「神が成っている創造の動き」を認証しており、あなたは神のパートナーに成っているのです。
あなたは自分の注意を神の動きに与えることにより、神と協力しており、創造の動きを認めて賞賛しているのです。

しかし、
[This the value that you think peace would rob you of.]
[この価値(体の中に現されている罪悪の魅力)が平和によって奪われるとあなたは考えているのです。]

(あなたの存在に力を与えているものとしての)体が失われてしまうとあなたは考えているのです。


[This the value that you think peace would rob you of. This is what you believe that it would dispossess, and leave you homeless.]

[この価値(体の中に現されている罪悪の魅力)が平和によって奪われるとあなたは考えているのです。だから平和がこれ(体の中に表されている罪悪の魅力)をあなたから取り上げてしまい、あなたを宿無し(ホームレス)にしてしまうとあなたは信じているのです。]

「私は体ではない。私は今でも「神が私を創造した通りに成る自由」を持っている。」という言葉をあなたが聞いた時のように、「平和があなたの個性の可視性と可触性(あなたの体と呼ばれており、あなたが生まれて30秒以内に特定の定義をその上に与えていた、見れる様子と触れる様子)を取り払ってしまう」とあなたは考えています。


[This is what you believe that it would dispossess, and leave you homeless. And it is this for which you would deny a home to peace.]

[だからあなたは、平和がこれ(体の中に表されている罪悪の魅力)をあなたから取り上げてしまい、あなたを宿無し(ホームレス)にしてしまうと信じているのです。この信念故に、あなたは平和に棲家を与えることを拒否しているのです。]


さてあなたは「平和」と「聖なる瞬間」とそして「必ず聖なる瞬間と共にやって来るガイダンス」を体験しているかもしれません。
しかしあなたはその体験を長く保つことが出来ないでいます。
だからそれ(聖なる瞬間)は去って行ってしまい。あなたはそれを新しく一から始め直さなくてはいけないのです。
だからあなたは聖なる瞬間を頻繫に行なうのです。
そしてあなたが聖なる瞬間を実践する度に、それはより容易に成っていきます。
あなたが聖なる瞬間を実践する度に、平和の期間がより長く成って行きます。
しかし生活が{聖なる瞬間の}邪魔をして、『物事をコントロール出来るようになる為に「あなたの存在を示す力」として自分の体を使う必要』が表れたなら、平和は失われてしまうのです。
だからあなたは聖なる瞬間をまた実践しなくてはいけないのです。
そしていつの日かあなたは完全な決意(コミットメント)をそれ{平和/聖なる瞬間}に対して与えなくてはいけないのです。
何故なら、「あなたの生得権(あなたが父から得ているもの)の完全な体験」をあなたに戻すことが出来るのはそれ{平和}だけなのだから。


[. . . it is this for which you would deny a home to peace. This “sacrifice” you feel to be too great to make, too much to ask of you.]

[この信念故に、あなたは平和に棲家を与えることを拒否しているのです。『この「犠牲」は大きすぎて、あなたには重過ぎる』とあなたは考えているのです。]

あなたの体が失われてしまうというこの信念故に、この犠牲は大き過ぎるとあなたは考えているのです。

しかしそれは平和に住家を与えることの意味をあなたが理解していないからです。
私の説明していることをあなたがまだ理解していなかったから、あなたはこの犠牲は大き過ぎると考えていたのです。
しかし今あなたはこの理解を得ており、『「あなたが全ての体験の基点(始点)としている体」を放棄すること』がより容易に成りました。
あなたに損失を与えること{を心配すること}なく、全ての体験の立脚点としての体を手放してみることが出来るでしょう。
視点(立脚点)としての体を放棄して、マインドを自分の視点(立脚点)として受け入れことが必要なのです。
「あなた全てを体験している焦点」をマインドとすることが必要なのです。
あなたは初めからマインドで在り続けており、このことに関して想像したり何かを作り上げる必要は全くないのです。


[Is it a sacrifice, or a release? What has the body really given you that justifies your strange belief that in it lies salvation?]

[これは犠牲なのでしょうか? それとも解放なのでしょうか? {これは本当は解放なのです。}「体の中に救済がある」というあなたの奇妙な信念を正当化する為に、体はどの様なものを本当にあなたに与えたのでしょうか?]


体がある程度の(もしかしたらあなたを救っているように見える)コントロールをあなたに与えているように見えています。
体があなたを救っているように見えているかもしれません。体があなたの人生をある程度しのぎ易く見せているかもしれません、あるいは体があなたの人生を物凄く祝福されたものに見せているかもしれません。
しかし重要なことは、あなたは体ではなく、{だから}「自分の視点(立脚点/源)としての体を放棄することは愚かなことだ」とあなたに信じ込ませている体の使用方法を止めなくてはいけないということです。
例えこれが本当かどうか確かめる為だけに実験的に行なうだけであっても、あなたはこれ(自分の立脚点としての体の使用)を放棄しようと思える地点まで到達する必要があるのです。
もしこの実験を行なわなかったなら、あなたはあなた自身を体と(したがって傷付き易い無防備な者と)見続けることでしょう。

あなたはあなたの個人性の可視性/可触性を卵と精子から発生したものとして体験することも出来るのです。
「(聖なる源と全く関係を持っていない完全に物理的な生物としての)あなたの体の体験」は快楽と痛み(相反/闘争する体験)に成るでしょう。 その場合、快楽と痛みを避けることは出来ないでしょう。
あなたが「体との自己同一(body identification)」から「マインドとの自己同一(Mind identification)」へシフトするまでそれら(対立が快楽や痛みとして現れている状態)が続くでしょう。


[What has the body really given you that justifies your strange belief that in it lies salvation?]

[「体の中に救済がある」というあなたの奇妙な信念を正当化する為に、体はどの様なものを本当にあなたに与えたのでしょうか?]


体はそのようなものを何もあなたに与えていません。

[Do you not see that this is the belief in death? ]

[それが(体の中に救済があると信じることが)「死」への信念であることがあなたに見えていますか?]


頭の中の肉片が働いた結果としてアイディアが得られるという奇妙な能力を持っている体。 このような体とあなた自身を自己同一し続ける限り、あなたがアイデンティティとして体をこのように使い続けている限り、あなたは「あなたの永遠と調和/健康/平和の静かな体験である全て=あなたと父の関係」から除外されているのです。
あなたと父の関係が、「あなたが誰か」あなたに知らせており、「父の視点がどのようなものか知りたいと熱望できる場所」にあなたを置くのです。
何故なら、今{父との関係にあなたが注意を与えているその時}父の視点があなたに意味を与えており、父の視点にあなたの注意を与えることが意味深く成っているのだから。

体があなたに何か(価値あるもの)を与えたという信念は、{アトーンメント(贖罪)を殺人として知覚する焦点(視点)}なのです。

[Here is the focus of the perception of Atonement as murder.]

[ここにアトーンメント(贖罪)を殺人として知覚する焦点(視点)が与えられているのです。]


アトーンメントに対するエゴの定義は、「あなたがエゴを手放すこと」ではなく、「あなたがあなたの致死性を確認/体現すること」なのです。


[Here is the source of the idea that love is fear. The Holy Spirit's messengers are sent far beyond the body, calling the mind to join in holy communion and be at peace. ]

[ここに「愛が怖れである」というアイディアの源があるのです。 精霊は、体を越えてより遠くまで送られて「聖なるコミュニオンの中で繋がり平和に成るよう」マインドに呼び掛けるのです。]


何故なら、マインドこそがあなたなのだから。
そして「あなたであるマインドに呼び掛け、聖なるコミュニオンの中で繋がり、平和に成ること」は、あなたの注意を原初の場所(本来の場所)に戻し、あなたの注意を聖なる働きに戻すことなのです。
だからそれ(マインドに呼び掛けること)はアトーンメントを促進し、あなたの目覚めをプロモートするのです。
そしてこれをすることにより、あなたは死の魅力(これが平和への次の障害です)の内実を理解出来るポジションに移行するのです。 怖れることなく死の魅力を理解し、明晰な理解の下に死が誤知覚/誤解であり、死の魅力を放棄することが幻想からの解放を意味しており、死の魅力を手放してもあなたは何も失わないことが理解されるのです。


重要なのは:

[The Holy Spirit's messengers are sent far beyond the body, . .]

[精霊は体を越えてより遠くまで送られて、]


あなたが知覚している体を遠く超えて、体の細々した個別の形を超えて、広大なスペースに比べてちっぽけに見えている体を超えて、聖霊は送られていくのです。
もしあなたが自分の個別の分離した形(体)から他者の個別の形(体)に何かを送っていると考えたなら、マインドの合一(統一)は決して体験出来ません。 その場合「 意識としてのあなたのリアリティ(実情)」と「意識としてあなたとコミュニケートしている人のリアリティ」は決して体験(表現)されないのです。


だから、
[The Holy Spirit's messengers are sent far beyond the body, calling the mind to join in holy communion and be at peace. ]

[精霊は体を越えてより遠くまで送られて、「聖なるコミュニオンの中で繋がり平和に成るよう」マインドに呼び掛けるのです。]


聖霊は体を超えて「全てを内包している無限存在の注意/意識であるマインド」に呼び掛けるのです。
そうして平和が体の価値(体がすることが出来るように見えており、あなたの健全にとって必然に見えていること)を超えて流れていくのです。


[Such is the message that I gave them for you. It is only the messengers of fear that see the body, for they look for what can suffer. ]

[このようなメッセージを私はあなたの為に彼等(愛のメッセンジャー達)に与えたのです。怖れのメッセンジャー達だけが体を見るのです。何故なら、怖れのメッセンジャー達は「苦しむことが出来るもの」を探しているのだから。]


(あなたはこのように考えたことは無いかもしれませんが)あなたは常にコントロールを使用しており、「痛み/被害/その他ペナルティの脅し」を通してコントロールを上手く使っているのです。 あるいは「不親切/無視/認証の与えないこと」などを使ってコントロールを発揮しているのです。 それは意地悪なのです。
あなたはこれらのことが身体的に感情的にメンタル的に痛いことを経験から知っており、これらが機能/影響することをあなたは知っています。
だからこれらを使用することに価値があるとあなたは学んでいるのです。


[It is only the messengers of fear that see the body, for they look for what can suffer. Is it a sacrifice to be REMOVED from what can suffer?]

[怖れのメッセンジャー達だけが体を見るのです。何故なら、怖れのメッセンジャー達は「苦しむことが出来るもの」を探しているのだから。「苦しむことが出来るもの」から取り除かれることが犠牲でしょうか?]


怖れのメッセンジャー達だけが「個別のものとして作り上げられている個人」として体を見ているのです。
上記の文章は、体から取り外されることを言っているのでしょうか? それとも体に対する誤知覚/誤認識から取り外されることを言っているのでしょうか? 勿論これは後者です。


[The Holy Spirit does not demand you sacrifice the hope of the body's pleasure; . .]

[精霊はあなたが体の喜びの望みを「犠牲」にすることを要求しません。]


誤認識(誤解)の中であなたの体は快楽と痛みを楽しんでいるのです。
痛みに関しては既に話しています。


[The Holy Spirit does not demand you sacrifice the hope of the body's pleasure; it HAS no hope of pleasure. ]

[精霊はあなたが体の喜びの望みを「犠牲」にすることを要求しません。精霊は快楽の望みは持っていません。 ]


「あなたが知覚している通りに存在していないもの」がそれ(存在しているとあなたが思っているもの)に対して効果を持つことは出来ません
それ(体)はどのような体験も持ていないのです。
体と自己同一視していなければ失われてしまうとあなたが考えている「喜び」は、初めから不可能な状態だったのです。
そこ(体との自己同一)には全く喜びの体験は存在していなかったのです。
あなたが「体との自己同一」から「(体や樹やテーブルなどあらゆる形を認識している)マインドとの自己同一」にシフトした時、体との自己同一の痛みや快楽の幻想が消えるのです。


[But neither can it bring you fear of pain. Pain is the only "sacrifice" the Holy Spirit asks, and this He WOULD remove.]

[そして精霊があなたに痛みの怖れを持ってくることも無いのです。痛みだけが精霊が求めている犠牲なのです。 そして彼(精霊)はそれ(痛み)を取り除くのです。]


自分の体を使用して問題と対処しようと固執する傾向をあなたが手放した時、それ(痛み)は常に取り除かれるのです。
物事を起こす力を提供するものとしてあなたが体を使わなくなった時、そしてあなたが聖なる瞬間の中に入り聖霊(父の視点/立脚点であり、あなたの正しいマインドに過ぎないの聖霊)と繋がった時、あなたは痛みと偽りの快楽が消えていることを見つけるのです。
そしてそれら(快楽と痛み)が奪われるという脅しが消え去り、それらの効果の脅威が消え去るのです。 何故なら、その時あなたは神の法が全てを統治しているアリーナ(場所/状態)の中で働いているのだから。
しかし神の居ない行為(神を認めていない意識状態から行なわれている行為)を達成しようとする道具として使おうとすることから体を解放した時にだけ、これが起こるのです。
神の居ない行為とは、事態の中に神が呼び込まれていない行為です。 あなたが神と一緒に行動していないことです。


[Peace is extended from you only to the eternal, and it reaches out from the eternal in YOU.]

[平和はあなたから永遠に向かってだけ差し伸べられて(拡張されて)いるのです。そして平和は「あなた」の中の永遠から広がり伸びているのです。]


「体としての(必滅者としての、物理的宇宙の中の生物としての)あなた自身に対する概念」を放棄した時、(間違った自己信念の下に今まで存在し続けて来た)あなたの神聖があなたに照らし出されるのです。
あなたの神聖の光明から、あなたの中の永劫から、それらがわかち合われるのです(あなたの神聖が共有されるのです)。
これが聖なる瞬間の祝福であり、聖なる瞬間の働きなのです。
これ(聖なる瞬間の祝福/働き)が「常にひとつであり続けてきたもの」を全てに対する意識体験として再統合するのです。
この全てに対する意識体験のその中では誰も何も遠ざけられておらず、あなたの不可侵/不死身と平和と喜びが絶対的に存在しているのです。 私が言いたいのはこれなのです。
「体が提供しているもの故に体に価値があるという信念」を放棄することによりこの体験が得られるのです。
「自分が誰か知ることなく、神を何処にも見つけることなく、あなたが体を使っている目的」を放棄するのです。


[Peace is extended from you only to the eternal, and it reaches out from the eternal in YOU. It flows across all else. The second obstacle is no more solid than the first. For you will neither to get rid of peace NOR limit it.]

[平和はあなたから永遠に向かってだけ差し伸べられて(拡張されて)いるのです。そして平和は「あなた」の中の永遠から広がり伸びているのです。それ(平和)は{永遠/平和以外の}その他全てに向かって流れ渡ります。第二の障害は第一の障害よりも確実なものでは全く無いのです。何故なら、あなたは平和を捨てたいとも、平和を限定しようとも、意図していないのだから。]

あなたは本当は平和を捨てたいとも、平和を限定したいとも思ってはいないのです。


[What are these obstacles which you would interpose between peace and its going forth but barriers you place between your will and its accomplishment? ]

[あなたが平和とその進行の間に挟んでいる障害達は何なのでしょう? それらはあなたの意志とその達成の間にあなたが置いたバリアー(防壁)にしか過ぎないではないですか。]


これらの障害達は「あなたの意思」と「あなたのその意識が達成されること」の間にあなたが置いたバイリアーに過ぎないのです。
平和と平和の進行の間にあなたが置いた障害達は、「あなたの意思」と「あなたの意志が達成されている状態」の間にあなたが置いたバリアーに過ぎないのです。

つまり、
[You WANT communion, not the feast of fear. You WANT salvation, not the pain of guilt. And you want your Father, NOT a little mound of clay, to be your home.]

[あなたは怖れの祝宴ではなく、コミュニオン(霊的交歓)を欲しています。あなたは罪悪の痛みではなく、救済を欲しています。そしてあなたは、卑小な土くれの塊ではなく、あなたの父があなたの家になることを求めています。]


これらがあなたの意思なのです。
「あなたの意志(あなたが神と共有している意図)をブロックしてしまうもの」を差し挟むのは止めたなら、あなたはそれ(神の意志)を明確にあなたのものとして体験し、あなたは統合されて「ひとつ」になるのです。


あなたと兄弟姉妹の関係が、
[In your holy relationship is your Father's Son. ]

[あなたの聖なる関係が、あなたの父の子供なのです。{あなたの聖なる関係の中に「あなたの父の子」が居るのです。}]


あなた達の関係の中に居るあなたの父の子が、父の子孫で、あなたと聖なる関係を築いている人は、この聖なる人は:

[He has not lost communion with Him, nor with himself. When you agreed to join each other, you acknowledged this is so. This has no cost, but it has RELEASE from cost.]

[彼(神の子)は彼(神)とのコミュニオンを失ってはいないのです。そして彼(神の子)は彼自身とのコミュニオンを失ってもいないのです。あなた達がお互いと繋がることを合意した時、あなたはこれ(神の子は神とのコミュニオンも神の子自身とのコミュニオンも失っていない)が真実だと認めたのです。これはコスト(損失)ではありません。 そうではなく、これはコスト(損失)からの解放を持っているのです。]

聖なる関係の中で、神の子は神の子自身とのコミュニオンを失っていないのです。


[You have paid very dearly for your illusions, and nothing you have paid for brought you peace.]

[あなたはあなたの幻想の為に大いなるものを支払ったのです。そしてあなたの支払いは、あなたに平和をもたらしませんでした。]


生後数分間に起こった誤知覚をあなたが保っている限り、あなたは幻想の為に多大なコスト(損失)を払っているのです。
何故なら、あなたはこれらの誤知覚を受け入れてそれらをより確実に強め、それらを永続的な定義にしたり、それらを「あなたの体/兄弟姉妹/世界」に対する「意味/意図」として受け入れているのだから。
それ故にあなたは今まで「体との自己同一」から「マインドとの自己同一」へとシフトするきっかけを持っていなかったのです。


[You have paid very dearly for your illusions, and nothing you have paid for brought you peace.]

[あなたはあなたの幻想の為に大いなるものを支払ったのです。そしてあなたの支払いは、あなたに平和をもたらしませんでした。]


何故なら、あなたはまだあなたの誤認識(間違った自己同一)の中に捕らわれているのだから。
そしてこれ(間違ったアイデンティティ、体との自己同一)があなたの聖なる体験の全ての分部を色付けしており、それを不聖なものに見せているのです。


[Are you not GLAD that Heaven cannot be sacrificed, and sacrifice cannot be asked of you? There IS no obstacle which you can place before our union, for in your holy relationship I am there already. ]

[天国が犠牲に出来ないことを、そしてあなたから犠牲が求められないことを、あなたは喜びませんか?わたし達の合一(union)の前にあなたが置ける障害は存在していません。 何故なら、あなたの聖なる関係の中に私はすでに居るのだから。]


「わたし達の合一」とは「あなたと私の合一」です。
あなたは私を探す必要はありません。
病院の出産室であなたが初めて息を吸って「自分は孤立した形である」と急に考え始める前から、私はあなたと共に居たのだから。
あなたが生まれた時私はあなたと共に居り、その時あなたは「聖なるあなた」であって、今でもあなたは「聖なるあなた(神の子)」なのです。
しかしあなたは今やっとこの意味(神の聖なる子供としてのあなたの意義)を再度認識出来る状態に戻って来ているのです。


[We will surmount all obstacles together, for we stand within the gates, and not outside.]

[わたし達は「一緒に」全ての障害を克服します。 何故なら、わたし達は(門の外ではなく)門の中に立っているのだから。]


言い換えれば、わたし達は「存在」の意識体験/注意状態の中に立っているのです。
わたし達は存在意識の中に存在しており、その外に存在しているのではないのです。
あなたは「(空間を通してコミュニケートしている、そして完全に統合することは出来ない、パーフェクトな合一は体験出来ない)沢山の個別の体達の中の一つの体に自分が成っている絵」の中には居ないのです。


[How easily the gates are opened from within, . .]
[門は、いとも簡単に内側から開けられるでしょう。 ]

つまり、マインドとして自己認識している場所から、この障害はいとも簡単に乗り越えられるのです。

[門は、いとも簡単に内側から開けられるでしょう。]
 
あなたの地球/世界の中の道や都市や国の中で門が開くのではなく、あなたの中の祭壇から外側に門が開けられるように、障害はいとも簡単に消え去るでしょう。
マインドとして自分を認識する体験を受け入れる為に下記を理解することが必要なのです。 何故なら(マインドとして自分を認識する体験を受け入れたなら)門は簡単に開けられるのだから。


[How easily the gates are opened from within, from within, to let peace through. . .]

[この門はいとも簡単に内側から開けられるでしょう。 そして平和が通って行って、]

あるいはあなたの中から平和が広がって行って、


[. . . to bless the tired world! Can it be difficult for us to walk past barriers together, when you have joined the limitless?]

[疲れている世界を祝福するのです。あなたが無限と繋がっている時、わたし達が一緒にバリアーを通り抜けることが難しいでしょうか?]

いいえ。
勇気を持ってあえてこれ(あなたが無限と繋がりわたしと一緒に体を超えて行くこと)を試してください。
わたし達が一緒に体験を持ち、そして「問題を解決する唯一の方法は体を通してストレス/怒り/憤慨/憎しみを表現し、あなたの世界の中であなた自身に力を通したより多くのコントロールを与え続けることだという信念」からあなたが解放されるように。

[The end of guilt is in your hands to give. Would you stop now to look for guilt in each other?]

[罪悪の終わりはあなたの手の中にあり、あなたはそれを与えればよいのです。今あなた達は立ち止まって、お互いの中に罪悪を探そうとするのですか?]

「あなたの良きことを阻んでいる何か」を力で凌駕する為にあなたの体をこわばらせてアドレナリンを漲らせる機会をあなはた探しているでしょうか?
その他の選択肢があるのに?
体が提供しているように見えているもの故に体に価値が在るわけではないという気付き(意識)があるのに。
あなたの中の愛、あなたの中の真理、あなたの中の原則、あなたの中の命が全てを統治しており、インスピレーションを与え、光明を与えて照らし出し、それが創造と呼ばれている動きなのです。

(体が提供しているように見えているもの故に尊ばれている体を持ってはいない)あなた達全員を私は愛しています。 (全てを抱擁しており、全てを一つのピュアな生命の現れとして祝福している)マインドの現れであるあなた達全員を私は愛しています。



Chapter 19 – Section: OBSTACLES TO PEACE – Part: II
Sparkly Book – p.464 / JCIM – p.194 / CIMS – p.391
Chapter 19 – Section: B. THE SECOND OBSTACLE: First Edition–p. 384 / Second Edition–p.412
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テーマ : スピリチュアル
ジャンル : 心と身体

ACIM12-10-21

2021年10月21日

前回わたし達は下記を聞きました。

{Love, too, would set a feast before you, . .1 ]
[愛もまたあなたの前にご馳走/祝宴を広げます。 ]

この体験は、この瞬間あなた達全員がしている存在体験は、愛があなたの前に祝宴(ご馳走)の体験を広げていることなのです。
しかしあなた達はそれを体験していないのです。 何故なら、あなた達は自分達の定義群を通して全てを見ることに夢中なのだから。
それでも「創造の動きとは愛そのものがあなたの前に祝宴(ご馳走)をおいていることなのだ」と言えるのです。
これだけがあなた達の目の前に常に存在していることなのです。
「(創造の全てを作っている)父の愛の動きによってあなたの前に祝宴(ご馳走)が設定されること」だけが常にあなた達の目の前に在るのです。


前回わたし達は下記の文章も読みました。

[ And in a holy instant grace is said by everyone together, as they join in gentleness before the table of communion.]

[そして聖なる瞬間の中で全員が一緒にグレース(食前の感謝の祈り)を言って、コミュニオン(霊的交歓)のテーブルの前で優しく繋がるのです。]

聖なる瞬間の中で、あなたが立ち止まり二つのステップを行ない聖なる瞬間の中に入った時、その時何が起こっているのでしょうか?
その時あなたはあなた自身を挿入して(あなた自身を押し入れて)いないのです。
その時あなたは平和に統治させているのです。
あなたがあなたの思考を止めたので、あなたは平和が存在することを許しているのです。
そして思考なくして意識することをあなたは体験しているのです。
そして瞑想の実践を通して、二つのステップ(聖なる瞬間)の実践を通して、あなたは(少しの間だけではなく)より長い時間静けさの中に留まることを学ぶのです。
あなたが許可したこの平和が恩寵の状態なのです。
これが恩寵の状態なのです。何故なら、静けさの中であなたはジャッジメント(裁き/判断)を実践しておらず、独立を実践しておらず、父からの離縁をあなたは認証(確認)し続けていないのだから。 言ってみれば、その時あなたは子宮の中にいるのです。
その時あなたは孤児院と創造(創造そのものの体験)の間の連絡口に居るのです。
その時あなたはシフト(奇跡と呼ばれている瞬間的知覚のシフト)が起こり得る場所にいるのです。


[. . . And in a holy instant grace is said by everyone together as they join in gentleness before the table of communion.]

[そして聖なる瞬間の中で全員が一緒にグレース(食前の感謝の祈り)を言って、コミュニオン(霊的交歓)のテーブルの前で優しく繋がるのです。]

聖なる瞬間がコミュニオンなのです。
聖なる瞬間とは、あなたが父の臨在(父の現れ)を直接体験していることなのです。
その時あなたは(あなたの正しいマインドに過ぎない、そしてクリアな意識の全てである)聖霊の現れを体験しているのです。 
このコミュニオンの中であなたは真に見ることを学ぶのです。
何故ならコミュニオンが起こっている時、聖霊と私(イエス)と父はひとつの意図しか持っておらず、それはわたし達と共に(わたし達の視点から)あなたに全てを見せることなのです。 あなたが今まで見ていた全てのことを、わたし達の視点/視界からあなたに見させて、それを自分の視点/視界としてあなたが喜べるように。

そしてこの体験の中で「わたし達のこの視点があなたの視点であったこと」があなたに思い出されるのです。
この発見の中で、この意識の中で、あなたは「神の子としてのあなたの生得権」に喜んで譲ることが出来るように成るのです。
{その時あなたは}全てを見て、それら全てを「それそのもの」として(その真の姿で)認識するのです。 何故なら、あなたはそれらを父が見ているように見ており、父が見ているように見ることにより、あなたは創造を認めており、父の意志を認証しているのだから。


では本を読み続けましょう。

[I am made welcome in the state of grace, . .]

[私は恩寵の状態の中で迎え入れられ歓迎されるのです。 ]

(あなたの意図の欠如によって祝福されている)静けさの中で、そしてそのガッカリするような結果として、私は迎え入れられ歓迎されるのです。


[I am made welcome in the state of grace, which means you have at last forgiven me.]

[私は恩寵の状態の中で迎え入れられ歓迎されるのです。 恩寵(グレース)とは「あなたがやっと私を赦してくれた」という意味です。]

これは不思議に聞えるかもしれません。
「自分がイエスを嫌っていてイエスを赦す必要がある」とは考えたことはない人達もいるでしょう。
しかしあなたが創造を見ていて、神が成っている全てをあなたが見ていて、「私はそれを私自身で定義したい」とあなたが言っている時、あなたは創造を否定しているのです。
その時あなたは自分のマインド内で「価値のないもの」として創造を断罪(判断)したのです。
何故なら、あなたのマインドの中で価値在るものに成っているのは「(あなた自身の権威の上で神に成ろうとする)あなたの目的の為に創造を再定義するあなたの能力」なのだから。  
「あなた自身の源(神)を持たずに物事の定義者に成ろうとするあなたの意図」が(あなたが定義している)そこに見えているのだから。


だから、

[I am made welcome in the state of grace, which means you have at last forgiven me.]

[私は恩寵の状態の中で迎え入れられ歓迎されるのです。 恩寵(グレース)とは「あなたがやっと私を赦してくれた」という意味です。]

あなたは静寂の中に入って来て静寂を許可したのです。(静寂を自分で満たすのではなく)静寂の子宮の中に在るものをあなたは尊んだのです。
だからあなたはジャッジメント(断罪)無く来たのです。
全く断罪せずに来たのです。これが赦しです。


[For I became the symbol of your sin, and so I had to die instead of you.]

[何故なら私はあなたの罪のシンボル(象徴)に成っており、だから私はあなたの「代わり」に死ぬ必要があったのです。]


もちろん、これは本当ではありません。
しかしこれ(この見方)が相互合意されており、あなた達の多くがこの定義を受け入れ保っているのです。


[To the ego sin MEANS death, and so Atonement is achieved through murder.]

[エゴにとって罪は死を意味しており、だから{エゴにとっては}アトーンメント(贖罪/和解)は殺人によって達成されるのです。]

独立的立脚点/独立的視点からは罪は死を意味しています。
つまりエゴの宗教の真髄は殺人であり、殺人がアトーンメント(贖罪)なのです。
しかし実際にはアトーンメントは生命であって、生命がそれそのものとして修復されることなのです。 何故なら、あなたは静かに成って、生命が(聖霊の条件の中で、父の表現の中で)あなたに届き響いたのだから。


[Salvation is looked upon as a way by which the Son of God was killed instead of YOU.]

[救済は、神の子が「あなた」の代わりに殺されたこととして見られています。]

しかしこれは真実ではありません。
しかし救済はそのように見られているのです。
これが相互合意されており、救済をそのように見続けることが聖なる瞬間を否定するのです。 {神の子が「あなた」の代わりに殺されたことが救済なのだと信じることにより}「あなたがあなたの正気と繋がり直すこと」が否定されているのです。
神の聖なる子として意識的にもう一度統合されることが、{神の子が「あなた」の代わりに殺されたという}この考えにより否定されているのです。
これが真実です。


[Yet would I offer you my body, you whom I love, KNOWING its littleness?]

[しかし私があなたに私の「体」を捧げるでしょうか? 愛しているあなたに私が自分の「体」を与えるでしょうか? それ(体)が卑小なものだと知っていながら。]

死んだ私の体を私があなたに捧げるでしょうか。 いいえ。 そのようなことを私は決して行わないのです。


[Or would I teach that bodies can [not] keep us apart?]

[それとも私は「体がわたし達を隔てておくことは出来ない」と教えるでしょうか?]

<いいえ、私はそのようなこともしませんでした。{この言葉はラジが原文を「それとも私は「体がわたし達を隔てておくことが出来る」と教えるでしょうか?」と読み間違えたことから発生している間違いです。}
私は「体がわたし達を隔てておくことは出来ない」と教えるのです。


[Mine was no greater value than yours; no better means for communication of salvation, but NOT its Source.]

[私の体はあなたの体より価値のあるものではなかったのです。私の体は{あなた達の体同様に}救済のコミュニケーション手法(伝達方法)でしかなかったのです。しかし体はその{救済の}源ではなかったのです。]

つまり私の体と、そしてあなた達の体は、救済のより良き伝達方法以上のものではなかったのです。


[. . . for communication of salvation, but it is NOT [its] Source. ]

[救済のコミュニケーション手法(伝達方法)でしかなかったのです。しかし体はその源{救済の源}ではなかったのです。]

救済の源は体ではないのです。

[No-one can die for anyone, and death does not atone for sin. Yet you can LIVE to show it is not real.]

[他の人の代わりに死ねる人は誰も居ません。そして死は罪をアトーンしません(死は罪を償いません)。しかしあなたは「生きて」死が「リアル」でないと示すことが出来るのです。]

あなたは生きて、罪がリアルではないと示すことが出来るのです。

[The body DOES appear to be the symbol of sin, while you believe that it can get you what you want.]

[「あなたの望んでいるものを体があなたに与えることが出来る」とあなたが信じている限り、体は罪のシンボル(象徴)に見えます。]

孤児に成ろうとしているあなた達は、惨めな孤児であるあなた達は、実在する個人/存在に成ろうとしているのです。 あなたのプライベートな努力によって永遠に神聖でリアルな個別存在に成ろうとしているのです。
あなた達はどうやってこれをしようとしているのでしょうか?
あなた達は自分達の体を使ってこれをしようとしているのです。
あなたの体は「(あなたとあなたの兄弟を犠牲にした上で)あなたのリアリティをあなたの体験としてコントロールする方法」なのです。  と同時に{あなたの体は}「あなたに対する兄弟の誤用と誤解の上にあなたの体験を作る方法」なのです。


[While you believe that it can give you pleasure, you will also believe that it can bring you pain.]

[「体があなたに快楽(楽しみ)を与えられる」とあなたが信じている限り、「体はあなたに痛みを与えることが出来る」とあなたは信じ続けます。]

あなたが父から離縁を得た時、あなたは想像上の独立状態内でリアリティを否定してるのです。その時「あなたに関する神のリアリティ」をあなたは否定しており、あなたはあなた自身をリアルにしようと試みており、そのプロセス上であなたは喜んだり痛みを感じたりするのです。


[To think you could be satisfied and happy with so little is to hurt yourself, and to limit the happiness that you would have, calls upon pain to fill your meager store and make your lives complete.]

[「あなたがこんなに僅かなもので満足しハッピーになれる」と信じることは、あなた自身を傷付けることなのです。それはあなたの幸福を限定し、あなたの貧しい貯蔵庫(蓄え)を痛みで満たして、あなたの生活を完成させる為に痛みを呼び込むことなのです。]

あなたの健全/全体が欠如している所で、あなたの平和が欠如している所で、あなたの存在の調和と安全と不死身が欠如している所で、あなたがそれらを否定している所で、あなたは、[あなたの貧しい貯蔵庫(蓄え)を痛みで満たして、あなたの生活を完成させる為に痛みを]呼び込んでいるのです。
痛みと罪悪の体験は、あらゆる痛い体験は、「あなた独自の救済プラン(あなた自身であなたの健全/全体性を確保しようとすること)への決意」をより一層強くする為に使われているのです。
そしてこれ(あなた自身で健全/全体性を勝ち取ろうとすること)は達成不可能なので、これをしようとしているあなたは不可能と直面することになり、あなたはこれを「脅威/逆境/道を遮られること」として体験し、「リアルに成る」という目的を勝ち取る為にこの「逆境/脅威」を乗り越えることがあなたの役割であると思われているのです。


[This IS completion, as the ego sees it. For guilt creeps in where happiness has been removed, and substitutes for it. ]

[これがエゴが見る完成なのです。何故なら幸福が取り除かれた所に罪悪が入り込み、罪悪が幸福に取って代わっているのだから。]

そして{幸福が取り除かれた所に}怖れも入り込んでくるのです。
父からの離縁に対して決意を与えた瞬間にあなたは罪悪と怖れのペアに直面したのです。

しかし、
[Communion is another kind of completion, which goes beyond guilt, because it goes beyond the body.]

[コミュニオンはもう一つの(エゴが目指す完成とは別の)完成なのです。これは体を越えて行くものなので、これは罪悪を越えて行くものなのです。]


コミュニオンとは私/聖霊/父と繋がることです。
コミュニオンの中で父と繋がること。 これは「赤ん坊が柔らかな毛布に包まれてその柔らかさや暖かさとコミュニオンを持っているようなこと」だけではなく、「コミュニケーション/対話/双方向のやり取り」の体験が起こるのです。 これが聖なる瞬間の働きなのです。

あなたが聖なる瞬間を持って、自分がコミュニケーションを持っていることを発見した時、自分が「答え/理解/今までの体験を超えた体験で満たされていること」をあなたが発見した時、あなたがガイドや聖霊と共に居て、ガイドや聖霊と共にあなたが「あなたを悩ませていたこと」を振り返った時、そのようにして聖なる瞬間を実践した時、あなたと「あなたの兄弟/私/聖霊の視点」が共に赦された世界を見るのです。
{その時}あなたは天国を見るのです。 その時もうそれ(天国)は「あなた達が抱いている(あなた達が自信を持っている)定義群」によって不明瞭にはされていないのです。

ポールは今こうして聖なる瞬間の中で私と一緒に居て、あなた達やこの部屋のすべての物と関わり合うことが出来るのです。
彼の体は存在しており、しかし彼は体と自己同一(アイデンティファイ)はしていないのです。
コースの中に書かれているように、彼は体をわきに置いたのです。
これは彼が体を死なせて腐敗させ全幻想の虚無の中に消滅させたということではありません。
そうではなく、あなたがコミュニオンの方向を向いている時、それは体を越えてあなたを運ぶのです。 それはあなたを「自己防御(体は頻繫にこの目的で使われています)」を超えた所に連れて行くのです。 あるいはあなたが求めるものを得ようと体を使って強制/強要することが止まるのです。

つまり体が、あなたの意志に従うのではなく、聖なる瞬間の中で開いて行く(展開される)「存在の意味の目的」に従うのです。
「体をわきに退けなさい。」“setting the body aside, laying the body aside.”という言葉に読んでも悩まないでください。
あなたが聖なる瞬間を実践している時、あなたは今まであなたが使ってきた体の使用をわきに退けているのです。
あなたが自分の最上の判断/思考/概念を手放して、それらが存在していない静けさの中であなたは伸び出し「父よ、聖霊よ、ここの真理は何ですか?」と訊ねるのです。
「私が体験するべき生得権(父から来ているもの)は何ですか? 私は健全/全体で、私は神の聖なる子供なので、私は神に向き直り、全てのリアリティに対する私の理解を神から得たいのです。」

あなたの体は消滅しませんが、それはもうエゴが使おうとしていた目的では使われなくなるのです。 そしてエゴの目的とは、愛無くして全ての人と物をコントロールし、「体と自己同一している者」の自分勝手な目的に仕えることなのです。
その結果が戦争なのです。
その結果が殺人/死/病で、ひとつのものが他のものと闘争(攻撃)しており、他のものを屈服させるか破滅させている状態なのです。
これを放棄することは犠牲ではありません。

{上記を話したことにより}聖なる瞬間がどれだけ重要かよりクリアに成りました。聖なる瞬間の意義と働きがより一層クリアに成りました。
そしてあなたが何を体験することを期待出来るかよりクリアに成りました。あるいはあなたの体験するべきことの性質がよりクリアに成りました。

あなたが今まで知ってきた全てに反することをするように私は言っているのです。
そのやり方はシンプルです。「口を閉じなさい」。
これはシンプルです。静かに成りなさい。
静けさを尊びなさい。
何故なら、反発されていない静けさの中であなたは恩寵の状態を体験しており、その中でアトーンメント(贖罪/和解)が発生可能に成っており、その中であなたの正しいマインドの中に帰って行くことが可能なのだから。

そしてあなたは自分が安定を体験していることを発見するのです。
風に揺るがされないジブラルタルの岩のような不動を、オピニオンの変化や「過去にあなたに怖れをもたらして来たあらゆるもの」によって揺るがされない体験を、あなたは体験するのです。
これが「神の法が全てを統治しており、あなた自身の意識の中であなたの神聖があなたに対する否定不可能な事実である場所/状態」にあなたを置くのです。
この恩寵のギフトをあなたの兄弟姉妹(同胞)に持って行きなさい。
これが世界を変容させ、あなたの意識の中で世界をそのオリジナルでパーフェクトな状態に修復するのです。 そして世界はパーフェクトで在り続けて来たのです。

今週中は私が今夜話したことと共に優しく居てください。
そして、これが難しく思えても、これが役立たずに見えても、{聖なる瞬間を実践している時に}あなたが何も達成してはいないように見えても、これを止めないでください。
あなたはあなた達の自信に反することをしようとしているのです。
だからこのあなた達の自信を破るには辛抱強く続ける必要があるのです。
より軽い心で続けられるように成る為には、辛抱強く努力する必要があるのです。
聖なる瞬間の中ではコミュニオンが必然的に起こるのです。
私は聖なる瞬間の中に居ます。
愛があなたの前に祝宴(ご馳走)を広げています。私はあなたの前に祝祭を置いています。聖霊があなたの前に祝祭を置いています。
あなたがここに招待されているのです。 あなたはここに招待され続けて来たのです。
そしてあなたは罪人ではないので、あなたは常にここに歓迎されているのです。
あなたは神の子供なのです。あなたはそれをクリアに体験しているか、そうでなければ、ガラス(知覚/認識の歪み)を通して暗くそれ(神の子)を体験しているのです。
いずれにしろ、あなたはそれを見ているのです。
いずれにしろ、あなたは全く変わることなく神の神聖なる子であり続けているのです。


Chapter 19 – Section: THE ATTRACTION OF GUILT
Sparkly Book – p.463, 4th Full Par. / JCIM – p.194, 1st Par. / CIMS – p.390, Par. 56
First Edition – p. 383, Last Par. / Second Edition – p.411, Par. 17

テーマ : スピリチュアル
ジャンル : 心と身体

ACIM12-10-14

2012年10月14日

まだポールが私と話し始めたばかりの頃の話です。
ある時点で『「人間的状況の中にいる人間としての彼」に向かってヴェールを通して私が話しかけている、とポールが考えていること』が私に明確に理解出来ました。
しかし「彼が考えているようなことが起こっているのでは無く、{比喩を使って表現すれば}潜水艦の中に居る彼が潜望鏡を水面(ヴェール/敷居)の上に伸ばしており、私が居る場所(光明状態/悟りの状態/目覚めている状態)で彼が私を認識しており私とコミュニケーションしているのだということ」を私は彼に教えました。
全創造の中から彼が認識出来てコミュニケート出来たのは私だけだったのです。

あなたが二つのステップをしていて「父よ(あるいは聖霊よ)、ここの真理は何ですか?」と言って、あなたが答えを聞いて、あなたが「癒やしをもたらす真理の意識体験」で満たされている時、それ(答え/真理の意識体験)は孤児状況内に居る孤児としてのあなたに提供されているのではないのです。 
それ(答え)は「人間的状況内に居る人間としてのあなた」に提供されているのではないのです。

あなたが自分の孤立を放棄した時、あなたは境界線を越えて「父/聖霊/イエス/ガイドが聞える場所」まで届いているのです。
これは『あなたは「多数の中の一人」ではなく「多数/全体であるひとつ」である』と言う真理を説明する為の前情報です。 
あなたが二つのステップをしている時、あなたは自分の孤立を手放し「あなた自身の権限の上に独立者として存在する硬い意図」を放棄しているのです。
そしてアトーンメント体験(目覚める体験)の中にあなたの注意を移し、だからあなたの注意はもう人間的状況(人間的存在)の中には居ないのです。
このポイントに居る時あなたは神の聖なる子として働いているのです。 そしてあなた達は本当は常に神の聖なる子で在り続けているのです。
あなたがこの繋がりを作った時{神の子としての神との繋がりを再発見した時}、あなたは私/イエスか聖霊か父かあなたのガイド(それらは全て同じ意図を持っています)と繋がり、わたし達と繋がるのです。
そしてあなたは振り返って「あなたに助けを求めさせた状況/状態」を眺めて、それをわたし達の視点から見るのです。 何故なら、その時あなたはその地点(わたし達の視点)から状況を見ているのだから。
聖なる瞬間の実践はあなたを聖霊とのコミュニオン状態(スピリットをやり取りしている状態)に置きます。 
聖なる瞬間の実践によってあなたは「あなたの正しいマインドに過ぎない聖霊」と「聖霊と同じ働きを提供している私」と「あなたの上に常に(全てに対する真理である)父自身の視点を与えている父」とのコミュニオン状態に入るのです。
この場所からわたし達と一緒にあなたは振り返り「あなたに助けを求めさせる原因となった視点」を放棄して、わたし達と一緒に真理を見るのです。

では今一度下記の言葉を繰り返し言いましょう。
あなたは多くの人達の中の一人(多の中のひとつ)ではありません。{人間的状況ではそのように見えていますが。}
あなたが「多を成り立てているひとつ」なのです。
あなたが「多くの人々そのものである一人」なのです。
あなたが聖なる瞬間を行なっている今、あなたは「多であるひとつ、全ての人々である一人」なのです。
あなたが助けを求め、あなたに助けが与えられ、あなたが助けを体験している時、その助けの体験の中であなたは神の視点と共に「あなたが問題と呼んできたもの」を振り返っているのです。

さて「多であるひとつ」とは神のことではないですか?
「全ての創造を永遠に作り(設立し)続けているもの」は神ではないですか?
「創造の動きに成ることにより創造を永遠に新しくし続けているもの」は神ではないですか?
それは神なのです。

だから神の体験がこの体験なのです。
そしてこれと同じ体験をすることがあなたの生得権なのです。
何故なら、あなたは父からこれ以外の能力(キャパシティー)は与えられていないのだから。
あなたの役割は「父が成っているもの、父が成っていること」を体験することなのです。
あなたの役割は意味/意義を体験することなのです。 
「創造の動きの中で父が体現している意味/意図だけを体験すること」があなたの役割なのです。

アトーンメントの体験は、孤児的視点からシフトすることなのです。
目覚めの体験は、独立的思考者の立場からシフトすることなのです。
これは「真理を独立的に受け取っている者の立場」からシフトすることなのです。
そしてあなたは動くのです。
わたし達の隣に来て、そして振り返り「わたし達が見ているもの」を見るのです。

それ(わたし達が見ているもの)は、ついさっきまであなたが居た場所であり、そこであなたはストレスを受け苦しんでいたのです。 
しかしわたし達はそれ(あなたが居た場所/境遇)を父の視点で見るのです。
だから国家の癒やし(国家状況の修正)は、人々の癒やしは、あなた達が自らを父の視点と意欲的協力的に並べた(同じにした)結果なのです。
父の視点/視界を体験し、そこから全てを見ることがあなたの生得権なのです。
そこ(父の視点)からあなたは正義の制裁の必要は見つけないのです。その時あなたは、嫉みや裁きや復讐の正当性は見つけないのです。


あなたが求めるべきは、分裂したマインドではなく、健全なマインドに成ることなのです。
そして健全なマインドとは、あなたが居るそこで「(あなたの全てとして神が成っている)永遠の聖なる知性の体験」なのです。
だからこれは決して人間的状況内から「人間的状況の真理はなんなのでしょう?」と訊ねて、人間的状況内から人間的状況を修正しようとすることでないのです。

このことに関して静かに思いを馳せてみなさい。
その時あなたはどうなるのでしょうか?
あなたにはわかりません。
そしてあなたが(そこで何が起こるか知らずに)聖なる瞬間の中に入った時、あなたは『聖なるヴィジョン(聖なる認識)を体験して、必要とされている新しい視点を得ることが出来るポジション』に居るのです。
あなたが私の傍に来て後ろを振り返り、私と一緒にあなたが今来た場所を見て、それを父の視点である私の視点/視力で見るのです。 父の視点をあなたの視点として体験することがあなたの生得権なのです。
この光景をあなたのマインド内に置いてください。
あなたはこのようにして、あなた自身が「多であるひとつ」に成っている体験をしていることを見つけるのです。
何故なら、父が体験していることをあなたが体験しており、そのことの中であなたは父の共同創造者に成っているのだから。

その時(あなたが父と同じ体験をしている時)全てが瞬く間に変わるのです。
そして今全てが変わり得るのです。 12月21日に変わることも勿論可能ですが。
今がその時なのです。 そしてこれはあなたが考えている程複雑なことではないのです。

私を聞いている(このテキストを読んでいる)殆どの人達は啓示の体験(聖なる洞察/源とのコミュニオン)によって変えられたことが既にある筈です。
この体験をあなたがしていた時、「ビッグバンから始った(聖なる源とは全く関係のない)物理的宇宙の一部である惑星上の人間的状況からこの体験をしてはいなかったこと」をあなたは理解していなかったかもしれません。
しかしあなたは父の視点(立脚点/立場)から眺める体験をしていたのです。
「上手く機能している独立存在に成ろうとしているあなたの意図」によってあなたの神聖がブロックされてしまわず、あなたの神聖が直接体験された光明の瞬間(照らし出される瞬間)をあなたは体験していた筈です。
これがそうなのです。
その時あなたはあなたの神聖を体験していたのです。
その時あなたは「多であるひとつ(多を設立しているひとつ)」に成っていたのです。何故なら、その時あなたは「多としてのひとつ」の目を通して見ようとしており、「全てに対する様々に異なったあなた自身の解釈を持とう」としてはいなかったのだから。

本を読みましょう。

[The fierce attraction which guilt holds for fear is wholly absent from love's gentle perception.]
[怖れに対して罪悪が持っている強い魅力は、愛の優しい知覚からは全く欠落しています。]

これが孤児院の視点(あなたが多数の中の一人でしかない状態)と父/聖霊の視点の違いなのです。
父/聖霊の視点(視界)の中であなたは「多であるひとり、全体から切り離されていない多を構成している(成り立てている)ひとつ」なのです。

[What love would look upon is meaningless to fear, and quite invisible.]
[「愛が見ているもの」は怖れにとっては無意味で、怖れには「愛が見ているもの」は全く見えないのです。]

これに関して考えてみなさい。
あなたが聖なる瞬間の中で助けを求めている時、{今まであなたは}「無味なこと/無意味なもの」を見て「それ(無意味なもの)をどうかする為の助け」を求めていたのです。
しかしそのように助けを求めることは答えではないのです。
何故なら、それではあなたの視点が変わることには成らないから。
それではパワーによる修正(力の使用)を求めずに「答えを知っている場所」からあなたが見ることに成らないから。
それではあなたのハートが溶けて愛が流れ出し愛が受け取られることが無いから。
それでは{そのようにして助けをもとめていたのでは}「(あなたが反応/反発状態にあってそれ故に居心地悪く不愉快に成り助けを求めざる得なかった時には存在していなかった)あなたのスピリットの優しさ」が現れることがないなら。


[Relationships in this world are the result of how the world is seen.]

[この世界の中の関係は「(あなた達が)どのようにこの世界を見ているか」というその結果なのです。]
この世界の中の関係は「あなたが世界を眺めている場所/状態」の結果なのです。


[And this depends on which emotion was called on to send its messengers to look upon it, and return with word of what they saw. Fear's messengers are trained through terror, and they tremble when their master calls upon them to serve him.]

[そしてこれは「どの感情を使ってメッセンジャーを送り、それに世界を見させたか。その結果としてメッセンジャーがどのような世界を持って戻ってきたか。」に掛かっているのです。怖れのメッセンジャーはエラー(間違い)によって躾けられており、マスターがこれを呼びつけて自分に仕えさせようとするとこのメッセンジャーは震えるのです。 何故なら恐れはその友に対してさえへも非情なのだから。]

これはあなた達に対するとても酷い断罪に聞えるでしょう。
特にあなたがストレス(危機)の真っ只中に居て、怖れのメッセンジャーを送り出して、「怖れるに足ることが実際に起こっている」と証明しようとしていたなら。 「怖れが正当化されており、それを修正する為に状況に対して正しく力を用いるべきだ」とあなたが証明しようとしている時{上記の文章はあなたに対する不当な酷評に聞えるでしょう}。

しかし実際にあなたが切羽詰ったなら、そしてあなたの世界があなた自身を防御することを要求しているように(攻撃的に)見えたなら、あなたは怖れに屈して怖れのメッセンジャー達を送り出し、そのようにしてあなたは「自分が怖れのメッセンジャーのマスター(主)としてどれ位有能か」発見するのです。  
あなたは恐怖を通してこのメッセンジャー達を訓練して来ており、自分に仕えるようこのあなたがこれらのメッセンジャー達を呼びつけた時、彼等(メッセンジャー達)は震え慄くのです。
あなた達が追いつめられている時、あなた達はかなり醜くなることが可能なのです。
しかしあなた達は「私はホラー映画の登場人物からは程遠いから。私は悪を作っているものとは関係ないから。」と言うのです{そう言って自分達が怖れのメッセンジャー達のマスターであることを否定するのです}。


しかしあなたの怖れのメッセンジャー達は、

[Fear’s messengers are trained through terror, and they tremble when their master calls upon them to serve him. For fear is merciless even to its friends. Its messengers . . .]
[怖れのメッセンジャー達はエラー(間違い)によって躾けられており、マスターがこれを呼びつけて自分に仕えさせようとするとこのメッセンジャー達は震えるのです。 何故なら恐れはその友に対してさえへも非情なのだから。このメッセンジャー達は...]

攻撃が正当化されていることを確認する為にあなたが送り出しているメッセンジャー達は、
[Its messengers steal guiltily away in hungry search of guilt, for they are kept cold and starving, and made very vicious by their master, who allows them to feast only upon what they return to him.]
[このメッセンジャー達は空腹で罪悪を探し、それを後ろめたく盗むのです。 何故なら彼等は凍えて空腹で、自分達のマスターによって凶暴にさせられているのだから。このメッセンジャー達は自分達がマスターに持って帰って来たものだけを食べることが許されているのです。]

これは「まだ孤児院内に居て独立存在としての自分を基盤に思考している人達全員」のことを延べているのです。
そしてラッキーなことに、これに対する修正はシンプルです。
そしてラッキーなことに、あなたが「実際のあなたでないもの」に成ることは達成出来ていないのです。
だからあなたに下される懲罰は無いのです。
あなたの独立を捨てて、ヴェールを抜けて、謙虚にそして決意を持ってあなたのガイドか聖霊か父と繋がったなら、あなたから苦しみが取り除かれるのです。

[No little shred of guilt escapes their hungry eyes.]
[だから僅かの罪悪でさえも彼等の空腹な目を逃れることは無いのです。]
あなたが送り出したメッセンジャーの目を逃れるものは無いのです。


[And in their savage search for sin, they pounce on any living thing they see, and carry it screaming to their master to be devoured.]

[そしてこのメッセンジャー達が凶暴に罪を探している時、彼等は生きているもの全てに襲い掛かって、叫びながらそれをマスターのもとに持って行き、それを貪り食べます。]

罪悪であってもなくても、怖れのメッセンジャーは全てに対して(天国の全ての部分に対して)無差別に襲い掛かるのです。
そしてこの「マスター」とはあなたのことなのです。
だから聖なる瞬間を実践することが重要なのです。
(意図的にあるいは無意識の内に)酷いことを見つけ出そうとするメッセンジャー達を送り出して、自分の同胞や自分自身を告発したり懲罰してしまわないように。
それらのメッセンジャー達があなたに送り返して来る知らせ(酷さの確証)を信じてしまい、(憎しみの証拠や怖れ懲罰の現われではなく、愛の軟膏の癒しを必要としている)兄弟姉妹や人種や状況をあなたが断罪してしまわないように。

[Send not these savage messengers into the world, to feast upon it, and to prey upon reality.]
[これらの獰猛なメッセンジャー達を世界の中に送って世界を食い荒らさせリアリティをその餌食にするのは止めなさい。]

怖れのメッセンジャーはリアリティを餌食にするのです。
怖れのメッセンジャーは天国である全てを貪り食うのです。
怖れのメッセンジャーは(顕在化した神のリアルな現れである)神の子供達を餌食にするのです。
あなたの目の前にあるのはひとつのもの(天国)だけなのです。
あなたは天国を、在りのままに見ているか、そうでなければガラス(知覚の歪み)を通して暗く見ているのです。
あなたが見ているひとつのものはリアリティなのです。
このひとつのものが神の創造なのです。
このひとつのものが今今今今、今起こっている創造の動きなのです。
もしあなたがそれ以外のものを見ているなら、それ(あなたが見ている天国以外のもの)を信じるのは止めなさい。
あなたが見ているものを基準に何かをすることを止めて、「父よ、ここの真理は何ですか?」と言って父か聖霊か私が聞えるだけ十分静かに成りなさい。
するとあなたは「わたし達」と意識を共有し、「わたし達」が立っている所からあなたは振り返って全てを見るのです。 
わたし達が存在している所から(わたし達と一緒に)あなたは振り返り、「多であるひとつに成る体験」をあなたはするのです。
兄弟姉妹や全ての創造のパーフェクション(豊かさ)から切り離されていない「ひとつ」に成るのです。


[Send not these savage messengers into the world, to feast upon it, and to prey upon reality. For they will bring you word of bones and skin and flesh.]

[これらの獰猛なメッセンジャー達を世界の中に送って世界を食い荒らさせリアリティをその餌食にするのは止めなさい。何故なら彼等(怖れのメッセンジャー達)は骨と皮と肉の言葉をあなたのもとに持って来るのだから。]

上記の意味をシンプルに言えば:
あなたが「多の中のひとつ」として自分を認識している時、あなたが一生懸命自分の独立的存在を有効にしようと独立的に頑張っている時、「これらの行為をしている体が自分である」とあなたは認識するのです。

[. . . bones and skin and flesh.]
[骨と皮と肉の. . .]

それだけではなく、怪我することの出来る、死ぬことの出来る骨/皮/肉。つまり必滅者(モータル)を怖れのメッセンジャー達があなたの下に持ってくるのです。
これは神の創造に対するとても破壊的で馬鹿げた知覚/認識です。
神の創造は、罪/病/死が不可能な、神の動きの実現(実体化)なのです。
全創造の可視性/可触性(見える様子/触れる様子)同様に、それら(骨/肉/皮としてとらえられているもの)も永遠なのです。
しかしあなたが怖れのメッセンジャー達を送り出したなら、それらは怖れのメッセージをあなたの下に持って来るのです。

[. . . they will bring you word of bones and skin and flesh.]

[彼等(怖れのメッセンジャー達)は骨と皮と肉の言葉をあなたのもとに持って来るのだから。]


そして勿論それら(怖れのメッセンジャー達)は、あなたの兄弟姉妹に関してあなたに話し知らせるのです。
そして{怖れのメッセンジャー達があなたに知らせるメッセージが}「兄弟姉妹に関する真理があなたにとっても真理であること」をあなたに証明するのです。その為にあなたはこれらのメッセンジャー達を送り出したのだから。 {ここでいう「真理」とは、より正確には「あなたが真理だと思っているもの」です。訳注}


[They have been taught to seek for the corruptible, and to return with gorges filled with things decayed and rotted.]

[彼等は腐敗するものを探すように教えられており、戻って来て爛れ腐ったものを吐き出すだけなのだから。]


つまり怖れのメッセンジャー達があなたに教え伝えることは、神の創造に対するひどい誤知覚/誤認識で、それはリアリティから程遠く歪められており、それらは全く神に似ていないものを表しており、神聖でパーフェクトで愛らしいものを何も表明していないのです。


[To them such things are beautiful because they seem to allay their savage pangs of hunger. ]

[彼等にとってはそのようなものが美しいのです。その理由は、そのようなものが空腹の痛みを和らげるように彼等には感じられるからです。]


彼等(怖れのメッセンジャー達)は腐敗するものを自分達のマスターの下に持って来て、腐敗するものを食らうのです。
だから彼等(怖れのメッセンジャー達)はそれを喜びます。
何故なら、彼等(怖れのメッセンジャー達)は少しの間満腹し満足し「正義が行なわれた、目的が達成された、修正が行われた」と思うから。
しかしそこには少しの癒やしもないのです。


[For they are frantic with the pain of fear, and would avert the punishment of him who sends them forth by offering him what they hold dear.]

[何故なら彼等(怖れのメッセンジャー達)は怖れの苦痛でパニックしており、自分達が大切にしているものを彼(マスター)に捧げることにより、自分達を送り出した彼の罰を避けようとしているからです。]


例えどれだけ上手く隠されていても、神が見られていない物理的な宇宙/世界の中での孤児の働きはこれなのです。


「あなたが謙虚に成って聖なる瞬間を実践した結果」としてあなたが体験する聖霊は、

[The Holy Spirit has given you love's messengers to send instead of those you trained through fear. They are as eager to return to you what they hold dear as are the others . . . ]

[聖霊は「あなたが怖れで躾けた者達」の代わりに送り出すよう、愛のメッセンジャーをあなたに与えています。(怖れのメッセンジャー同様に)彼等は彼等自身が大切にしているものを持ってあなたのもとに帰ってきます。]


[If you send them forth, they will see only the blameless and the beautiful, the gentle and the kind. They will be as careful to let no little act of charity, no tiny expression of forgiveness, no little breathe of love escape their notice. And they will return with all the happy things they found, to share them lovingly with you. Be not afraid of THEM. They offer you salvation. Theirs are the messages of safety, for they see the world as kind.]

[あなたが彼等{愛のメッセンジャー達}を送り出せば、彼等は無垢(無罪)と美と優しさと親切心だけを見ます。彼等は非常に注意深く見ており、どれだけ小さな親切も、どれだけ僅かな赦しでも、どれだけ小さな愛であっても、彼等の注意から漏れるものはありません。そして彼等は自分達が見つけた全てのハッピーなものを持って来て、それらを愛情深くあなたと分け合うのです。彼等(愛のメッセンジャー)を恐れるのは止めなさい。彼等はあなたに救済を捧げ差し出しています。 彼等は安全のメッセンジャーなのです。何故なら彼等は世界を親切なものとして見ているから。]

この文章はかなりポリアナ(良い子ちゃん)に聞えますね?
これはポジティブ・シンキングを実践しているように聞えますね?
見るべきものを見ぬ振りしているだけのように聞えます。
問題を起こしているものが{実際にはそこに在るのに}そこに存在していないフリをしているだけに聞えますね?

孤児はそのように考え振舞うのです。 独立存在はそのように(実際には問題が存在していると)考えるのです。
何故なら「全ての悪を乗り越え退治した結果として自分はリアルに成れる」と独立存在は信じているから。
「危険がそこにあり、危険に対して自分を防御しなくてはならいこと」を怖れのメッセンジャー達が沢山持ち帰っており、それを認めて、それに対処することにより自分の独立がリアルに出来ると独立存在(神から離れようとしている孤児)は信じているのです。

[If you send forth only the messengers the Holy Spirit gives you, . .]
[「聖霊から与えられたメッセンジャー達」だけをあなたが送り出して、]

これをすることはあなたの性癖(今まであなたが慣れ親しんで来た振舞い)ではないので、その為には信心が必要なのです。 

[If you send forth only the messengers the Holy Spirit gives you, WANTING no messages but theirs, you will see fear no more. ]

[「聖霊から与えられたメッセンジャー達」だけをあなたが送り出して、このメッセンジャー達からのメッセージだけを求めたなら、あなたはもう恐れは見ません。]

するとエゴは「噓だ、そんなことがある筈は無い」と言うのです
「{そのようなことをすれば}あなたは今まで以上に無防備に(傷付き易く)成ってしまうのだ。 何故なら、{その様に振舞おうとしている}あなたは事実を無視しているのだから。 ここが対立/闘争の世界である、ここがポジティブとネガティブが常に拮抗している分離された世界である、世界の中では常に人々が競い合いストレスと醜さが表れているのだ、というリアリティを無視しようとしているのだから。」
だから聖霊に手(意識)を伸ばし聖霊の教えの明晰から利を得る為に、あなたはこの示唆(この世界が闘争の世界であるという示唆)と対峙し、この示唆に反して振舞うのです。
すると何がリアルで何が真理か(そして何がリアルでないか、あなたがもう何をしなくても良いのか)聖霊の明晰があなたに示すのです。


[The world will be transformed before your sight, cleansed of all guilt and softly brushed with beauty. ]
[世界はあなたの目の前で変換/変容され、全ての罪悪が洗い流され、美によって丁寧に磨かれるのです。]

そして次が要点です。
[The world contains no fear which you laid not upon it. ]
[その時世界は「あなたが世界の上に置かなかった怖れ」を持ってはいないのです。]


孤児としてのあなたは、「あなたの外に」世界が成立しており、この世界の中には「怖ろしいもの」が存在しており、「怖ろしいもの」はそれ自体でそれ自体の権限の上に存在しており、あなたはその無垢な被害者(影響力を持っていない被害者)だと確信してしまっているのです。
しかしこれは真実ではありません。
しかしあなたが聖なる瞬間に固執し続け、それを実践し続けて、「愛のメッセンジャーがあなたに送り返して来るもの」だけをあなたが求めるようになるまで、あなたには真実が発見出来ないのです。

[The world contains no fear which you laid not upon it. And none you cannot ask love's messengers to remove from it, and see it still.]

[その時世界は「あなたが世界の上に置かなかった怖れ」を持ってはいないのです。あなたが愛のメッセンジャーに「世界から取り除いて欲しい」と頼んだなら、愛のメッセンジャーに取り除くことが出来ない怖れは存在してないのです。]


あなたが愛のメッセンジャーに頼んでこれ(怖れ)を取り除いてもらったなら、もうあなたがこれを見ることは出来ません。
これはダチョウが首を地面の中に突っ込んでしまうようなことなのでしょうか?
違います。
これは「あなたが潜望鏡を父の視点の中に伸ばして、そこに全く怖れが存在しておらず、怖れの結果も存在していないという真理」を見ることなのです。


[The Holy Spirit has given you His messengers to send to each other, . . ]

[聖霊は「自分自身」のメッセンジャー達をあなたに与えました。 あなた達がそれらをお互いに対して送り、...]
あなたの兄弟姉妹と創造の全ての部分に対して聖霊のメッセンジャー達を送り出すのです。


[. . . and return to each with what love sees. They have been given to replace the hungry dogs of fear you sent instead. And they go forth to signify the END of fear.]

「愛が発見したもの」と共にそれらのメッセンジャー達があなた達のもとに戻ってくるように。あなたが送り出していた空腹な怖れの犬達の替わりに、これら愛のメッセンジャー達があなたに与えられたのです。そして愛のメッセンジャー達は{世界の中に}出て行って、怖れの終わりを示し知らせるのです。]

これはとても非現実的に聞えるかもしれません。
何故なら、あなたが世界を見渡したなら、あらゆるメディア(媒体)には人類の平和への脅威と謀略と計画的な憎しみが満ちており、それらは非常にリアルに見え、それらのことに関してどうにかして対処しなくてはならないと思えるから。

このことに関してわかり易いように説明しましょう。
あなた達は病を感染させるバクテリアや細菌に満ちた世界を見ています。
体がおかしくなり急に破壊されてしまう傾向がある世界を見ています。
するとあなた達はあのヴァイルス(ビールス)やこの細菌の予防の為に薬を摂取します。
何故なら、メディア媒体ではなく、空気が危険に満ちているように見えているから。


しかしこの世界/地球の中には継続的に意識的にヒーリングを行なっている人達が居ます。

そして彼等は「この体は致死的に病んでいます。この臓器はあれやこれによって腐食されています。」と戻って来て言うメッセンジャー達には注意を与えていないのです。
癒やしを実践しているこれらの人々は、自分達の下に戻って来て「ここに修正不可能な病があると(修正不可能なダメージがあると)主張するメッセンジャー達」に従って自分達を律する(統治する)ことはしないのです。
これが重要なのです。

{癒やしを毎日実践している}彼等は彼等のやり方で二つのステップを実行し「父よ、ここの真理は何ですか?」と訊ね聞くのです。
「父よ、私にはここに表れているものが{真実ではないと}わかっています。私の下に帰って来ているメッセンジャー達は神の正直な真理は述べていません。これらの者は噓を付いています。 
何が起こったとレントゲン写真が言っていたとしても、どれだけ物理的な証拠があろうとも、私はこれらがあなたの意図では無いことを知っています。
だから私はこれらのメッセンジャー達は信じません。
私は(多数の中の一人である)独立者としてこれと対処しようとはしません。
そうではなく、私は父であるあなたと繋がることを選び、あなたの声に耳を澄まし、あなたが私に真理を暴き示し、その真理が噓を噓と証明するでしょう。これらのメッセンジャーが正当ではなく信頼の置けるものではないことを真理が証明するでしょう。
そして私はこの確証が見えるように成るまで、あなたとの繋がりと共に留まります。」

こうして致命的と思われている病が消えることや、指に刺さって化膿を起こしている銀が指先から突然出てくることなど、あらゆる癒やしが毎日起こっているのです。

多であるひとつに成るとは、骨と皮の肉の言葉を喋るメッセンジャー達がそこに居ないということです。

[. . . words of bones and skin and flesh . . .]
[骨と皮と肉の言葉...]

何故なら、聖なる瞬間の中で父の法が(創造の法が)行き渡り全てを統治しているのだから。
だから地球上で癒やし(ヒーリング)を毎日実践し体験している人達は、(自分達自身が送り出した結果として自分達の下に戻って来て事態を揺るがしている)怖れのメッセンジャーを信じる必要は無いことをデモンストレート(体現)しているのです。
そして闘争や問題と係わるのではなく、父(あるいは聖霊あるいはイエス)と繋がって振り返り、わたし達(父/聖霊/イエス)と一緒に事態を眺めて、彼等(癒やしを行なっている人達)は(闘争や問題があったと思われていた)そこに何もないことを発見するのです。 その時、瞬間的癒やしと呼べるものを彼等は見つけたのです、

あなたがニュースを聞いている時、あなたは{わたし達と}繋がらずにニュースを聞いており、「ウーン。これらの無法者を取り押さえなくてはいけない。これらの人でなし達を痛めつけて、人でなし達がしていることを止めさせなくてはいけない。」と言ってしまっているのです。
そうしている時あなたは怖れのメッセンジャーがあなたの下に持って来たものに注意を与えているのです。
それ(怖れのメッセンジャーが示しているもの)はネガティブな解釈で、人々の行為として見えているものも(ちょうど臓器が癌に侵されてみえているように)世界/状況の中から力で排除するべきものに見えているのです。
それを止めなさい。{怖れのメッセンジャーがあなたに示している解釈を受け入れ続けることは止めなさい。}
{怖れのメッセンジャー達を信じることを止めなさい}このようなことを聞いた時、あなた達はこれを信じて、それを{自分の視点から}行なおうとしてしまうのです。 興奮してこれを{自分だけで}実行しようとしてしまうのです。
するとあなたは(事態がどれだけ危険か示す確証を見つけようとする)より多くの怖れのメッセンジャーを送り出し、物事を変える為により多くの力を投入しようとしてしまうのです。
しかしあなたが聖なる瞬間を実践したなら、それ(危険な状態の示唆)は(どれだけそれがリアルに見えていたとしても)幻想であることがわかるのです。

もう一度言いましょう。
毎日病が癒やされています。体に力を加える事によってではなく、物理的プロセスが変わるように押し付けることによってではなく。
そうではなく孤児院からの視点を放棄して聖霊/父/イエス/ガイドが居る所でわたし達(聖霊/父/イエス/ガイド)と繋がって、そして振り返りあなたを悩ましていたことをわたし達の視点(立脚点)から見るのです。
すると癒やしが起こり、それは奇跡的なのです。何故なら、力が全く使われなかったのだから。


[If you send forth only the messengers the Holy Spirit gives you, WANTING no messages but theirs, you will see fear no more. ]

[「聖霊から与えられたメッセンジャー達」だけをあなたが送り出して、このメッセンジャー達からのメッセージだけを求めたなら、あなたはもう恐れは見ません。 ]

あなたは癌が臓器を蝕むことを見ないのです。
そしてレントゲン写真もそこにパーフェクション(完璧)があることを示すのです。
何故なら、そこに神が居り、そこに創造が在り、(分離/分極/闘争を否定している父の唯一性同様に)創造はパーフェクトなのだから。
これが真実です。
そしてこれは「わたし達」が居る所にあなたが来て「わたし達」と一緒にあなたがいま来た場所を振り返り、「わたし達の視点/視界(あなたの本当の視界)」でそれを(幻想なしに)見ることから来るのです。

すると、
[Love, too, would set a feast before you, on a table covered with a spotless cloth, set in a quiet garden where no sound but singing and a softly joyous whispering is ever heard.]

[愛もまたあなたの前にご馳走を広げます。 清潔なシーツに覆われたテーブルが静かな庭園の中にあり、そこには歌と静かな喜びの囁きだけが聞え続けているのです。]


「それは話がうますぎる。このような考えは幻想だ。」
しかしこれを真理として抱擁してください。
でなければ、あなたはこれを否定してしまっており、この体験からあなた自身を隔ててしまっているのだから。


[This is a feast which honors your holy relationship, and at which everyone is welcomed as an honored guest.]

[これはあなたの聖なる関係を称える祝宴なのです。 そこでは全ての人々が大切なゲストとして迎えられています。]

あなた達よりも以前に聖なる瞬間を実践した人達さえもが、あなたの苦しみの正当な理由に見えてしまっています。
「嫌な奴/悪い奴」の上に力を下さなければ解放が受け取れないように見えてしまっています。


[And in a holy instant grace is said by everyone together, as they join in gentleness before the table of communion. And I will join you there, as long ago I promised and promise still. For in your new relationship am I made welcome. And where I am made welcome, there I AM.]

[そして聖なる瞬間の中で全員が一緒にグレース(食前の感謝の祈り/恩寵)を言って、コミュニオン(霊的交歓)のテーブルの前で優しく繋がるのです。そして私が約束している限り、そこで私もあなた達と繋がります。そして私はこれからも約束します。何故ならあなた達の新しい関係の中で私が歓迎されており、「私が歓迎され迎え入れられている所」に私は居るのだから。]


私が歓迎されている所に聖霊が居るのです。
私が歓迎されている所に父が居るのです。
私が歓迎されている所に「あなた(達)」が居るのです。
そして私とあなたが居る所には「上手く対処しなくてはならない嫌な奴」は居ないのです。

多くの癌は致命的だという信念が与えられています。そしてその他の多くの病も致命的なものだと信じられています。
しかしそれらの病が何らかのシフトを通して癒やされる(修正される)ことが毎日起こっています。 

「多であるひとつ」があなたのマインドに成ることをあなたが許して「多数の中のひとつ」から「多であるひとつ」へシフトすることにより、癒しがもたらされるのです。
「多に成っているひとつ」のマインド(つまり神のマインド)の視点/立脚点から全てを見る意欲をあなたは発揮するのです。
この行為を通してあなたは「より大きな自己(セルフ)」を意識的に体験するのです。
これが必要とされていることなのです。


Chapter 19 – Section: THE ATTRACTION OF GUILT
Sparkly Book – p.462,2nd Full Par. / JCIM – p.193, 5th Full Par. / CIMS – p.389, Par. 51
First Edition – p. 382, 2nd Full Par. Line 8 / Second Edition – p.410, Par. 11, Line 6

テーマ : スピリチュアル
ジャンル : 心と身体

ACIM12-10-09

先に進む前に明確にしておきたいことが幾つかあります。
目的を満たす(成就させる)ものは決断/選択であると私は言いました。
これは「決断が目的を満たす」という意味だと取られてしまう可能性があります。
決断/選択という言葉はかなり好ましいものとして受け取られています。
何故ならそれは力を思い起こさ、物事を起こす能力を思い起こさ、何かを特定の方向に動かす能力を想像させるからです。

選択の力とはニーソート(New Thought=昔のアメリカのスピリチュアル・ムーブメント)/形而上哲学/ニューエージが流行らせたものです。
多くの人達はコントロールを保って安全でいたいと願うので、選択の力が安全をもたらすなら、それを学び熟練し実践したいと願うのです。

しかし私が「目的を満たすのは常に選択である」と言っている時、それは「コントロールを実践する為に選択すること」とは関係がないのです。
選択することは広く行われており、それは非常に尊ばれていることですが、目覚める為に必要なのは「選択の実践を放棄すること」なのです。
聖なる瞬間に入る為に、孤児院の状態/必滅状態に人を押し留めている自治を破る為に、「選択の実践」を止める必要があるのです。

目的/意図の選択(目標設定)には二種類のものしかありません。
一つは想像上のもので、もう一つはリアルなものです。
しかしそれらは両方ともリアルなものとして扱わられています。
第一の目的の選択(目標設定)はあなたを夢の中に留めるもの(あなた達を孤児院の中に輪廻転生させ続けるもの)です。

それはあなたのロジックから来ている選択で、コントロールを保とうとすることから来ている選択で、それはある程度の平和を保つ為にあなた自身のマインドをコントロールしようとするだけでなく、あなたの同胞(孤児院内の同胞)をコントロールする為の選択決定です。
だからこの選択(決意)は夢を継続させてしまうのです。真実に対する無意識状態を続けてしまうのです。
何故なら、これは孤児のあなたが「リアルで有効な人間に成ろうとしているあなたのプライベートなゴール/目的」を確立しようとして使っている選択だから。
そしてこれ(ある程度の平和を自分の為に確立すること)は「あなたの同胞である孤児達に自分達は孤児だと信じ続けさせること」によってなされるのです。
それは勿論{独立を保持しようとしている}あなたの利益になるのです。
「自分達は利益を得ていると同胞達に感じさせること」をあなたはするのです。それはあなたが彼等に本当に利益を得てもらいたいからではなく、あなたは彼等に{独立存在としての}あなたの実在性/有用性を認めてもらいたいからなのです。

もう一つの目的の選択(目標設定)は常に決断の結果で、それは目覚めようとする決断です。 罪/病/死の夢の中から抜け出る決断です。
神の居ない宇宙の中で、全てのものが偶然に発生しており、偶然に委ねられていることから飛び出す決意です。
これをする方法が「ACIM(ア・コース・イン・ミラクルズ)」に記載されており、これがわたし達が話して来たことなのです。
そしてわたし達は近年このことを「二つのステップの実践」として言い表して来ました。
あなたのロジック/理屈/理由から出て来ている「パーソナルでプライベートな意思決定」を放棄して、パーソナルなマインドの動きを止めて、重要な決定をする時に普段行うプロセスを全て止めて、その静けさの中で「父よ、聖霊よ、私の同胞に関する、ここの真理は何ですか? 私と関係しているこの人の真理はなんですか?」と訊ねるのです。
自分自身をより良く知ろうとして訊ねるのではなく、あなたの兄弟をより良く知ろうとしてこれを訊ねるのです。
そして兄弟に関する真理の答えの中であなた自身の真理が自動的に瞬間的に学べるのです。 そしてあなたとあなたの兄弟が癒やされ、天国が微笑むのです。

コースの中には下記の文章もありました。
[You have no purpose apart from each other.1] Ch19-5
[あなた達はお互いを離れた目的は持っていません。]

この文章があなたの世界の全ての問題に対する答えなのです。
さてあなた達は「自分達は自分達から離れた目的を持っていない{自分達は共通の目的を持っている}」とある程度は信じています。
しかしあなた達が共有しているその目的(意図)は、お互いをコントロールして殺し合いが起こらないようにしながら、お互いを決定的に台無しにはせずに、あなたの兄弟の不利益の上に自分が成功することです。
そして{お互いをコントロールしようとする試みの下に}あなたの成功の為に努力するということは、必然的にあなたの兄弟達があなたの成功を阻んで兄弟達自身の利益を守ろうとすることに成ります。
このように社会的生存が終らぬ競争に成っており、しかしあなた達にはある程度の知性があるので、比較的平和な{生存競争の}スタイルを確立して来たのです。
しかし私がここで言いたかったのは{「目的を満たすものは決断/選択である」という言葉の意味は}、そのようなことではないのです。

下記がシンプルな事実です。
[You have no purpose apart from each other.]
[あなた達はお互いを離れた目的は持っていません。]

そしてこれはゴールデン・ルール「人々からこうしてもらいたいとあなたが思っているように、人々に対して行いなさい。」と同じようなものなのです。

“Do unto others as you would have them do unto you.2 “
{マタイ書では“So whatever you wish that men would do to you, do so to them; for this is the Law and the prophets.”  人々にこうして欲しいとあなたが願っていることを何でも人々に対して行ないなさい。何故なら、これが法で、これが預言者達{が言い表していたこと}なのだから。}

ゴールはあなたの兄弟へ愛を拡張する(愛を差し伸べる)ことであって、怖れやコントロールを与えることではありません。
現在地球上に表れている境界(区切り)は、地表に描かれている境界線ではなく、特定地域に住んでいるグループがなんらかの理由で他の地域のグループを排除しようとしていることなのです。

そして愛さない選択がされているのです。憎む決断がされているのです。

例えそれが軽い反感であっても、それはまだ愛{ダイレクトな愛の表現}ではないのです。

[You have no purpose apart from each other.]
[あなた達はお互いを離れた目的は持っていません。]

とするとあなた達は目的をもっており、その目的は:

Do unto others as you would have them do unto you.
[他者達から自分はこうしてもらいたいとあなたが思っている通りに、他者に対して振舞いなさい。]


つまり、あなたは常に自分の前に{自分を気遣う前に}あなたと関係している全ての人(全てのもの)に対して気遣いを差し伸べる(気遣いを与える)のです。
「えー、私がそうしたら誰々が怒って、私のことを拒否して、私が言うことは受け入れない! 彼は頑固だから。彼等は頑固な人達だから。」
こう言ってあなたは「愛を遠ざけるべき対象」として彼等を「カテゴリ分け」してしまうのです。

そして「豚に真珠を与えるべきではない。自分自身を彼等に対して差し伸べるべきではない。」というスピリチュアルなスタンスの中で考えたりするのです。
愛の拡張を(愛を差し伸べることを)する為に、あなたは時にはリスクに見えることをしなくてはならないのです。
父があなたに差し伸べている(あなたを満たしている)愛の現れの前に立って、その愛を差しの出さなくてはいけなのです。 時にはそれが良く受け取られなかったとしても。
「それはリーズナブルではない?」
しかしそのような愛を遠ざけること(意地悪なこと、反発的なこと)を言う余裕は(スピリチュアルな余地は)あなたにはないのです。

福島の原子炉がメルトダウンした時{常識的に考えたなら}その問題を安全に(作業者の健康を損なわずに)修正する方法はなく、もし問題が修正されなかったなら日本全体が影響を受けたでしょう。
だからこの問題を修正する必要があり、人々は危険の中に飛び込み、危険を否定し、危険が去るまで信心{自分達の振舞いに対する信頼}を通して危険を否定し続けなくてはならなかったのです。
人生においては「メタフィジカルな、スピリチュアルな高み」から出て、とても実際的に対処し関わり合わなくてはいけない場面があるのです(例えそうすることがリーズナブルに見えなくとも)。

[You have no purpose apart from each other.]
[あなた達はお互いを離れた目的は持っていません。]

あなたの国が経済的問題を抱えているなら、あなたの国人々が(人類が)不当に扱われているなら、その時「父よ、ここの真理は何ですか? 父よ、私の兄弟に関する真理はなんですか?」と言うべきなのです。
ここにリアルな意味があるのです。「父よ、私の兄弟の必要は何ですか?わたし達の隣国は何を必要としているのですか?」
何故なら、あなたが知りたいのは状況/必要の真理だけではなく、あなたは必要に答える真理(必要を満たす真理)が知りたいのでだから。
だからあなたは修正に参加しなくてはいけないのです。
どのようにして?
(反発的思考やコメントがあなたの口やマインドから飛び出して来なくなるまで)二つのステップを辛抱強く続けることにより{あなたは修正に参加するのです}。
「あなたに出来ることが何もない。あなたは何もしなくて良い。このことに関わり合うよりも適切なことがある。」という様な信念に騙されてしまわないように。

愛が必要を満たすのです。
しかしあなたが必要を無視していたなら、愛が必要を満たすことは出来ません。
あなたがタイムアウトして(関係を無視して)いたなら、それ(神の動きである愛が必要を満たすこと)が起こりません。
けれども神の聖なる子に成ることがあなたの役割なのです。
つまり(「あなただけ/あなた独自」という卑小な存在を残さないことにより、神のマインド以外の余地を残さないことにより)あなたのマインドが神のマインドに成ることがあなたの目的(使命)なのです。
二つのステップを行うことで、聖なる瞬間に入ることで、そしてあなたのマインドがチャージされて(霊で満たされて)あなたに真理が見れるまでそれを続けることにより、兄弟の必要にあなたが答えられるように、必要を解決する役割が果せるように、「兄弟の必要を見ようとする意欲」が必要なのです。

あなた達は論理的(知性的)過ぎるのです。
わたし達はそれを放棄して、何らかの進歩を体験し、何らかの恩寵を体験出来るように成るべき時点に来ているのです。

友達の家の植毛紙の壁紙が貼られていたリビングルームでポールがした体験について私は話しました。
彼は植毛紙に関して(植毛紙と彼の関係に関する)変容的体験を持ったのです。彼はこの内的体験から「植毛紙の実体は(そして全ての実体は)生きている愛だ」と学んだのです。
ポールはこの体験を期待していたでしょうか?
もし彼が「このことに関する真理」を知りたいと求めていたなら、彼は説明を求めなかったでしょうか?
答えは「その通り」です。

背徳者(ならず者)にしか見えないあなたの兄弟にこれを応用してみましょう。ジャンキーに見える、ろくでなしに見える、意地悪なクズに見える、兄弟姉妹にことを当て嵌めてみましょう。
「ここの真理」にあなたを満たさせた時、あなたの意地悪なろくでなしの兄弟姉妹が急に明確に生きている愛の現われ(愛の臨在)に成るのです。
その人が居る所で(その体が消える訳ではないのですが)あなたは楕円の光を体験し、楕円の光りが照らしている中であなたはその人を本当にはじめて見ていることがわかるのです。
この光りは生きている光りです。
その光は(あなた達が慣れ親しんでいる)人間の体の特徴は備えていませんが、それでもあなたはその人を明確に神の子として認識するのです。
そして今までのあなたの概念が(例えそれがどれだけ良いものだったとしても)あなたの期待を超えて変容されて行くのです。

「私が兄弟を癒やせるために、私の兄弟の真理は何ですか?」と訊ねているとあなたは考えたかもしれません。
しかし「あなたが兄弟の真理を学んだ時、あなたが兄弟を癒やす必要が無いことをあなたが見ることが真理」であったならどうでしょう。
だからロジックはどうでも良いのです。
そして意味(あなたが学んだ真理)を述べる為に、体験した後からあなたは言葉を捜す必要があるかもしれません。


だからこの宗教が何を信じているとか、あの宗派はどれを信じているとか、それらの違いはどうでも良いのです。
信心が神の子なのです。
神が全てを表現していて、神が自身を表現していて、{様々な宗教を信じてる}彼等が居るそこで神が自身を表現し体現しているのです。
あなたの思考が何の為か自分で知っていると頑なに成ったり、コースの意味が何であるか自分はわかっていると執着するのは止めなさい。
コースはロジックや言葉を使っていますが、そして変容を引き起こすアイディアを美しく語っていますが、そのゴールは「あなた達の現状に対するセンス(感覚)を超える変容」を目指しているのです。
そして聖なる瞬間の実践は、この瞬間、この瞬間、この瞬間に限定の拘束(あなた達が全てのものに与えた定義群)からあなたが逃れる方法なのです。

だからお喋りを止める選択が、常に目的を満たす選択なのです。

そしてあなたの最上の思考を超えて聞き、今今今創造者が現している特定のアイディアを知りたいと求めるのです。創造者が今現している特定のアイディアがあなたであって、そしてあなたと関係している全ての者/物なのです。

これは全くシンプルなことです。
聖なる瞬間の中で「目覚めの呼び声に対する答え」が与えられているのです。
これを私が繰り返し言っているのは、あなたがこの点をまだ完全に把握していないからです。
あなたが父の答えに聞き入っている時、あなたは存在している全ての者/物と関係しているのです。「全ての中に父が体現している意味」を父があなたにコミュニケートし伝えるのです。
つまりどのような行動をあなたがしているにしろ、一日中「父よ、ここの真理は何ですか?」と言い続けること{そして聞えたことを体現し行動に移すこと}以外にするべき事は何もないのです。 「自分は{真実を}知っていないという好奇心に満ちた(知りたいと願う子供のような)注意に成ること」だけがあなたのするべきことなのです。
これがシンプルなことなのです。

これを難しくしているのは、静けさから出てしまう方法をあなた達が開発していることです。 「何か他のもの(現在の自分以外のもの)が聞けるだけ十分静けさの中に留まらない方法」をあなた達は持ってしまっているのです。
それだけなのです。
そこ(静けさの中)にはあなたの権威に認証を与えるものは何も無いので、{その意味では}これはエキサイティングではなく魅力的でもないのです。
真理を知ることが平和なのです。
真理を知ることは平和の中で起こるのです。
平和は刺激的ではありません。
しかし平和の中から創造の動きが立ち上がっているのですが、あなた達は長い間この事に関する認識を体験して来ませんでした。
そしてこれ(平和の中から現れ出る創造の動きを体験すること)は「あなたのマインドのビジネス(心配事)の中の体験より」も遥かにエキサイティングなのです。

しかし一体何がエキサイティングなのでしょうか?
罪悪はエキサイティングです! 罪悪はとても刺激的です。
罪悪はあなたを奮い立たせ、より一層の努力へ駆り立てます。
罪悪によってあなたは自身を向上させようとします。
だからあなたは人生の刺激と罪悪を同一のものと考えています。
このことに関して少し静に見てみなさい。
「人生/生命が起こるままにしている時にこそ完全に生きているのだ」ということを想像するのは難しいでしょう。
しかし目覚めたいのならば、自分の生得権(父からあなたへ与えられている力)を体験して「罪/病/死/神の居ない状態(これが継続され続けている闘争状態なのです)」から解放されることを求めるなら、あなたはそうし始めるべきなのです。


新しいセクションのタイトルは:

[THE ATTRACTION OF GUILT]
[罪悪の魅力(牽引力)]

罪悪の魅力の刺激が、あなたを抜け目無く忙しくさせており、問題を乗り越えることにより生き残ろうとさせているのです。
しかし問題が起こっているのはあなたが時間を掛けて二つのステップを行なっていないからなのです。

[The attraction of guilt produces fear of love, for love would never look on guilt at all. It is the nature of love to look upon only the truth, for there it sees itself, with which it would unite in holy union and completion. As love must look past fear, so must fear see love not.]

[罪悪の魅力は愛に対する怖れを作り上げます。愛は罪悪を全く見ようとしません。真理だけを見ることが愛の「性質」なのです。何故なら愛はそれ自身しか見ておらず、聖なる合一(統合)と完成の中でそれ自身と一緒になるのだから。愛は怖れを越えて見ており、怖れは愛を見られないのです。]

もしあなたが罪悪を認めなかったなら 、もしあなたが罪悪を実践しなかったなら、あなたが罪悪に抵抗しようとして罪悪を使ってしまわず、罪の使用に異を唱えて罪悪を実践してしまわず、その代わりに愛を実践したなら、罪悪の表明/表現が消え去るのです。 何故なら愛の明晰の中では(愛がクリアに表現されている状態内には)罪悪が存在していないのだから。
{あなたが罪悪を使っていなかったなら}生きている愛の現われである植毛紙 を誤解することは出来ず、それを怖れることもありません。 それは「全ての実体は生きている愛であるという叡智を突然あなたに提供する」以外のことはしないのです。
あなたは突然「あなたが見ているもの」に関する宇宙的(普遍的)叡智/知識を得るのです。
そしてあなたはこの体験と共に留まり、このヴィジョンと共に留まり、「あなた自身で物事(存在)を引き起こすこと」には戻らないのです。 
その場合ヴィジョンが続いて行きアトーンメント(和解/贖罪)が起こり得たのです。

[As love must look past fear, so must fear see love not.]
[愛は怖れを越えて見ており、怖れは愛を見られないのです。]

怖れが愛を見られたのなら{愛を見ることが怖れている人に出来たのなら}、体験されていた全ての怖ろしいことが無に成り、怖れは存在しなくなります。
これが要点なのです。

[For love contains the end of guilt, as surely as fear depends on it. Overlooking guilt completely, it sees no fear.]

[何故なら怖れが罪悪に依存していると同じ位確実に、愛の中には罪悪の終わりが含まれているから。愛は愛だけに惹き付けられるのです。愛は罪悪を完全に無視して(見越して)怖れを見ません。]

「愛がそのようなものであると知ることは素晴らしいですね。でも私にこれは当て嵌まりません。」とあなた達は言ってしまっているのです。
だから「あなたにとって愛がこのようであるべきだ」とわたし達は言っているのです。
怖れがあなたのお腹にしがみ付こうとしている時、怖れを認証(実体化)してしまうことをあなたが無視するだけで{怖れを認めないだけで}これは可能なのです。
あなたが怖れを認証することを無視した時、怖れが不当なものであるという揺るがぬ確信を持ってあなたが怖れを去らせた時、怖れは去って行き、対処するべき怖れは無くなり、「自分自身を向上させなくては生きていけない」とあなたを駆り立てるものは何も無くなるのです。
聖なる瞬間を実践することによりヴィジョンを保ち続けて、「怖れを認証/有効化すること」をあなたが無視したなら、あなたは神の如きヴィジョンの安定を確保するのです。

[Being wholly without attack, it COULD not be afraid. Fear is attracted to what love sees not, and each believes that what the other looks upon does not exist.]

[愛は全く攻撃を持たないので、愛には恐れることは出来ないのです。恐れは「愛が見ていないもの」に魅了されます。そして(怖れと愛は)それぞれに、他方が見ているものは存在していないと信じるのです。]

勿論、愛は怖れが実在していないことを知っています。怖れは存在しておらず、「愛は怖れを見ないこと」を{怖れは}知ってもいないのです。{何故なら怖れは存在していなのだから。}


[Fear looks on guilt with just the same devotion that love looks on itself. And each has messengers which they send forth, and which return to them with messages written in the language in which their going forth was asked.]

[愛がそれ自身を見ている時と同じぐらい強い献身でもって、恐れは罪悪を見ます。そして(愛も怖れも)自分達が送り出すメッセンジャーをそれぞれに持っており、それらは(それらが放たれた時の言語で書かれた)メッセージを持って帰って来ます。]

では何があなたの役目なのでしょう。何があなたの目的/意義なのでしょう。
あなたの役目は、どのメッセンジャーを送るか決めることではなく、愛を送る選択をすることです。 
愛を見つけ探し出し、愛の確証をもって帰ってくる、愛のメッセンジャーを送り出す選択をすることがあなたの役割なのです。
他の...をするよう私が言うとあなたは考えたでしょう。 しかし何か他のことをするのではないのです。
私は「怖れや憎しみのメッセンジャーを送り続けることを止めて、愛のメッセンジャーを送りなさい」とは言いません。
「愛のメッセンジャを送り出しなさい」と私は言いましょう。
もし自分がこれをしていないと気付いたなら、その時していることを止めなさい。そして愛のメッセンジャーを送り出しなさい。

あなたはどのようにしてこれ(愛のメッセンジャーを送り出すこと)をするのでしょうか?
これは“Mother, may I?”(お母さんこれをしても良いですか)というゲームをするようなものです。


つまり「父よ、私はしても良いですか?」。

あなた個人で(あなただけで)行動することを止めて、父に向き直り、聖なる瞬間を持って、父が何をしろと指示するか聞き入るのです。

そして父があなたに教えたことを実際にするのです。

そして父は常に(父があなたを満たしている愛から湧き出る)愛の使者を送り出すようあなたに言うのです。

[Love's messengers are gently sent, . .]
[愛のメッセンジャーは優しく放たれ、]

つまり怖ろしいメッセンジャーを送り出すスリルや興奮はないのです。
あなたの兄弟を脅し何かをさせようとする罪悪のメッセンジャーではなく、あなたの進行を刺激する罪悪のメッセンジャーではなく、

[Love's messengers are gently sent, and return with messages of love and gentleness.]
[愛のメッセンジャーは優しく放たれ、愛と優しさのメッセージと共に戻って来ます。]

{愛のメッセンジャーは}それ程刺激的ではないかもしれないけれど、愛の意味で満たされて優しく放たれ{愛のメッセージと共に戻って来ます}。

あなた達はお互いから離れた目的/使命は持っていません。
そして「あなた達がお互いに対して持っている目的」とは愛のメッセンジャーを送り出すことなのです。
どれだけ危険に見えてもメルトダウンの中に入って行くのは、あなたの兄弟と兄弟に関する真理がそれだけ重要だからです。
そしてあなたが与えたものをあなたは{自分の為にも}保つのです。
だからあなたは危険をかえりみず(危険と呼ばれているものを信じず)進んで行って、それが危険でないこと(その行動の中に危険が無かったこと)を暴き示すのです。
そしてあなた達両者はパーフェクションの中に保たれ癒やされ、(パーフェクトな状態/認識が行き渡って全てを統治しているが故に)癒しが必要でない状態に成るのです。

しかし怖れのメッセンジャーは、

[The messengers of fear are harshly ordered to seek out guilt, and cherish every scrap of evil and of sin which they can find, losing none of them on pain of death, and laying them respectfully before their lord and master. Perception cannot obey two masters, each asking for messages of different things in different languages. What fear would feed upon, love overlooks. What fear demands, love cannot even see.]

[怖れのメッセンジャーは罪悪を探す為に厳しく命令され、見つけることの出来た悪と罪の全ての破片を大切に扱い、痛みや死によっても何も手放さず、それらを自分達の主でありマスターである者の前に丁寧に並べます。知覚は(それぞれのメッセンジャーに異なる言語で異なる要求をしている)二人のマスターの命令は聞けません。「怖れが滋養にして貪っているもの」を愛は無視します。 愛には「怖れが要求しているもの」を見ることさえ出来ません。怖れに対して罪悪が放っている強い魅力は、愛の優しい知覚からは全く欠落しています。「愛が見ているもの」は怖れにとっては無意味で、怖れには「愛が見ているもの」は全く見えないのです。]

例えばあなたがコース(A course in miracles)を読んでいる時、ロジック/論理とあなたのバックグラウンド(過去)故に、「あなただけで、あなた一人で、怖れと罪悪の酷さを耐え忍び、変容をもたらす能動的な愛の現れに成る方法を学ぼう」としてしまいます。
しかしそれは起こりません。何故なら必要とされていることはこれ(あなただけで、あなた独自にしようとすること)ではないのだから。
必要とされているのは『あなたの兄弟の必要故に「自分自身の手で偉大に成ろうとするあなた」を静まらせて父と繋がること』なのです。

あなたの兄弟の真理の為にどのようなメルトダウンの中にでも歩いて行ける意欲を持ちなさい。
「兄弟をあなたの注意に値しないものにしているメルトダウン」など在り得ないという真理の為に動きなさい。
『父に向かって「ここの真理は何ですか?このことの意味は何ですか? ここの体験は何ですか?」と訊ねて兄弟にあなたの注意を与えること』があなたを傷付けることは在り得ないのだから。 その真理の為に働く意欲を持ちなさい。

「自分で他の人のマインドを変えなくてはいけない」という期待が多すぎるのです。
それよりも{そのような期待を持ち続けるのではなく}、父と繋がったあなた自身が無防備に成って、(他の人に対するあなたの信念/確信/決断にも関わらず)そこに在り続けて来た真理を父に暴き示させるのです。
今が癒やされるべき時です。
今あなた達全員が「自分達の誤認識/誤知覚」と「それら(自分達の誤認識/誤知覚)への確信/決意」から癒やされるべき時なのです。
今、神の恩寵があなたの上に置かれるべき時なのです。神の恩寵があなたにインスピレーションを与え、あなたが「自分の兄弟姉妹の真理の証人、癒しをもたらす真理の証人」に成れるように。
それは{真理が暴き示され癒しが起こるのは}「何が癒やしをもたらすかあなたが初めから知っていて、あなたが自分の偉大なスキル(技)を実践したから」ではないのです。
「あなたの無垢」とそして「兄弟と共にメルトダウンの只中に突入して行くあなたの意欲」故に、父の愛が今一度現れ出られる場所にあなた達は居たのです。何故なら、その時あなた達は父の愛をブロックしていなかったのだから。
これがシンプルなことです。

二つのステップを行う勇気を持つことが、実際に口を閉じることが、余りシンプルに思われて来なかったのです。 
「父が表現している意味を聞こう」という好奇心に満ちた注意を与えることが、今まで十分シンプルにとらえられて来なかったのです。
「父の表現している意味/意義」を父があなたへ暴き示し、父とのコミュニオン(霊的交歓)の直接体験をあなたに与えること{がまだシンプルに体現されていなかったのです}。

これらの言葉をスピリチュアルな戯言(たわごと)と考えることは容易いでしょう。
しかし私はあなた達一人一人の中に在るものに関して話しているのです。
メルトダウン/危険に面してあなたが体験するコミュニオンに関して話しているのです。「あなた達が全ての上に被せている限定」にあなたが直面している時あなたが体験するコミュニオンに関して話しているのです。
あなたの普通(普段の行動)から外れたことをする時間を取って、「何かが上手く行かない理由をあなたへ叫んでいる言葉」を静まらせなさい。
「兄弟や隣人や隣国に対してあなたが訊ね聞くべきではない正当な理由を述べている言葉」を静まらせなさい。 特定の人達を気遣わない(ケアーしない)理由を黙らせなさい。
何故なら、気遣う行為をしていないなら、あなたは繋がる行為をしていないのだから。
その時、あなたはあなたの正しいマインドに立ち戻る唯一の方法を行なっていないのだから。

目覚めのプロセスの殆ど大部分は、口を閉じるプロセスです。
「あなた一人であなた自身の権限の上で何かを行なうこと」を減らすプロセスです。

これはあなた一人だけでは何もしていない境地に至るプロセスなのです。

自分ですることだけがあなた達の慣れ親しんでいる唯一のことで、自分自身ですることだけが上手く働いている様に見えていますが、そうしている時あなたは「物事の働き」を取り逃がしているのです。
そしてあなたは喜びと不可侵/不死身と祝福と安全と罪/病/死の不在などの全てを取り逃がしているのです。
何故あなたは考えたいのでしょう。あなたは何故これらのこと(自分一人で自分の権限の下に考えること)をしたいのでしょうか?
それは罪悪の興奮が「あなた自身の権限で、あなた自身の手で、何者かに成ろう(そしてあなたの存在/有効性/実在性を証明しよう)とする意欲を動かしているエンジン」だからです。
これをしている時(自分一人で考えて自分の実在性を証明しようとしている時)あなたは「あなたの為に既に達成されていること」をしようと試みているだけなのです。

そして「あなたの注意を必要な場所に向けること」を私は続けるのです。
そして「(例えそれが上手く行くとあなたが考えていたとしても)上手く働かないことを手放すよう」私はあなたを励まし続けるのです。
少なくとも「私が言っていることが真理かどうか決意を持って試して見るよう」あなたにインスピレーションを与えることが私の役割なのです。
これが真実/真理であると証明する体験をあなたに与え、それがあなたにインスピレーションをもたらし、あなたの内側により聞き耳を立て続けられるように成り、目覚め/アトーンメント(贖罪/和解)をより頻繫に体験させることが私の役目なのです。


Chapter 19 – Section: THE ATTRACTION OF GUILT
Sparkly Book – p.461 / JCIM – p.193 / CIMS – p.389
First Edition – p. 382 / Second Edition – p.410
2 Mathew 7:12 and Luke 6:31
3 Matthew 7:6



テーマ : スピリチュアル
ジャンル : 心と身体

プロフィール

翻訳 岡上

Author:翻訳 岡上
ACIM - A Course In Miracles

hiro.okaue@gmail.com

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