第二章
1991年 1月5日 土曜
ラジ: ではもう一歩先に進めましょう。
貴方は「ある種の状況では、ガイダンス(指示)を聞き入れる事が出来ない」と言わなくなる必要があります。
貴方が考えている障害の一部は、身体に関する状況です。
貴方が何かの行動をしていた場合、ガイダンスを聞く為には「その行動を止めて座り、自分の行動を意識しなくて良い状況を作る必要がある」と貴方は考えています。
しかし、例えば貴方は自分の中心を意識して(センタリングして)、なおかつワークショップに必要な行動をして来ました。
ワークショップ中には身体を色々と動かす事になります。 それらの行動はセンタリングを妨げるものではなく、中心を意識する事を妨害はしません。 体の動きそのものは、中心を意識する事を妨げるものではありません。
必要なのは「無条件の許可を与える事」なのです。それが出来ればジョギングしながらでもガイダンスを聞くことが出来ます。
身体を忙しく働かせている事は、(ガイダンスを)聞く事の障害にはなりません。
センタリング(自分の中心に居る事)やガイダンスを体験している時にも、貴方は(自分の注意を動きに与えずに)身体的に動いている事が可能です。 何故なら体の動きそれ自体は「問題/主題ではない」からです。
体と体の動きは「見れるもの/触れるもの」を示し、(貴方が「聞いている」結果として、あなた自身が「知っている」事)その体験/表現を可能にする目的だけの為に存在しています。
全てのもの/全ての形は「知っている事/状態」の動きの表現、つまり「自身」の動きの表現なのです。
「知っている事/知っている状態」と共に居て、「知っている事」から存在していなさい。何故なら、そうすれば『「自己」に対する誤認識故に形にこだわり続ける事』が止まるので、全ての形が「存在」を示すように成るからです。
私がこの事を言っている理由は、貴方が「思考」から「知っている事/知っている状態」へとシフトする時、『貴方は「自身」に対して無意識に成ってしまう事はなく、体に対して無意識に成る事もない』と明確に解っている必要があるからです。
つまり「自身」と「体」が(物質的)体と同一視されなく成るだけなのです。
自意識と身体意識が二次的なものになり、最終的には「知っている事」の「行動」の中でそれらは存在しなく成るのです。
しかしそれでも意識は、完全なアイデンティティそして(自己)認識と共に体験されるのです。 これも重要なポイントです。
我々が定期的に会話するのは大切な事です。 瞑想が「中心にいる(センタリングしている)体験」を貴方に思い出させる様に、我々の会話は「知っている事」の体験の性質/本質を貴方に思い出させます。
これ(我々の対話)がその純粋な喜び/整合性/自然さに対するクリアな視点を貴方にもたらします。
そして『この体験の中でも「自身」(アイデンティティと自己認識、「マインドと体」と呼ぶ事も可能です)の体験は全く失われない事』を貴方に思い出させます。
この体験は、貴方の(偽りのアイデンティティである)「相棒」やその「判断/裁き」やその分離感覚を表現せず、それらを成立もさません。
これを貴方に思い出させて、「分離/分割されていない事が望ましい。恐れを感じず、忙しく(偽りの)自己を表明し続けようとせず、不能も体験しない事が望ましい。(偽りのアイデンティティである)相棒を手放す事が望ましい。」と貴方に実感させる事が重要なのです。
『貴方が「知っている事」に成っている時に可能な』統一/統合(Integrity)の体験だけが、「無知や恐れに(シフトして)戻りたい」という願いを喜んで放棄出来る様に促進するのです。
貴方が何かに慣れ親しんでいたとしても、その何かが望むべき事であるとは限りません。
それが心地良い場合もあるでしょうが、それは満たされた(満足の)フィーリングをもたらしません。 何故なら、それは成就(満たし満たされる事)を抱擁(内包)していないから。
それ(無知や恐れ)は調和/一致や合一/統一の体験ではないのです。
貴方が(今)慣れ親しんでいるものは『貴方の「存在」の平和』はもたらしません。
貴方の「存在」の平和を貴方が感じている時(貴方がそれを今感じている様に)、「貴方の慣れ親しんで来たものは、この体験を含んでは居ない」と貴方にも明確に解ります。
貴方がプライベートな会話を行っている時にも、より注意深くしていなさい。 何故なら、そうしている時にも貴方は(その時同時に)この成就この調和を体験してるのだから。
しかし貴方はまだこの恩寵を完全には受け取っていません。
何故なら、貴方が「ドア/通り口」として立っている事が、貴方が(ドアとして立つ事により)「真理の声」の現れに成っている事が、『「存在」に対する貴方のリアルな意識体験』を作っていると貴方は未だ気付いていないから。
貴方はこれ(ドアとして立っている事)を「貴方」のリアリティとしてではなく、「実際に行われている何かリアルな事(#2)」の「楽しい副作用」のように考えてしまっています。
『貴方が体験している成就は、貴方が貴方「自身」と調和/同一化する体験である』と言う事実に注意を払いそれを認めれば、『「自身」の本質/整合性(integrity)は私や貴方{のパーソナリティ}から発生しているものではない』と解る事でしょう。
それ(成就/「貴方」)こそが「貴方」のリアルな体験なので、会話が終った後(あるいは一日の終わりに)それを手放してしまい、後に残ったもの(つまり幻想の相棒)が自分だという考えに戻る必要は無いのです。
[クリスが部屋に入って来て(ポールに)質問する。]
今貴方はクリスによって「中断」されました。 しかし、貴方は「我々の会話からかけ離れた中断」としてそれに対処はしませんでした。
貴方は、比較的簡単に自分の中心から「自分がクリスと対話している事」を見ました。 その結果「中断」はとても短いものでした。
しかし、もし貴方がこれを妨害と考えてこれに対応し、(少しの嫌気と共に)自分の注意をセンター(中心)から外部の注意力へとシフトさせてしまっていたなら、この出来事はより長引き、クリストファーは貴方に無視された様に感じた事でしょう。
貴方の「中心」に居て、そこから行動すれば、体験はシンプルにクリアにフルになります。
貴方は眼を開いたまま、貴方の「中心」に居続ける事を学ばなければいけません。
バイオフィードバックに関する貴方の体験(ビジュアルな体験はとても刺激的で、故に「ゼータ帯域やデルタ帯域から出る事」を妨げてしまう様に見える事)から受けた印象とは相反するかもしれませんが、実際には「貴方が自分の注意を置いている所」がより重要なのです。
貴方の注意が『「中心にいる事」の入り口』に向けられているか、それとも「刺激の入り口」に向けられているか、が違いをもたらします。
「刺激の入り口/境目」は体と関連した状態でしか意味を持っている様には見えません。
体はそれ自体で感じることが出来、意識を持つことが出来る(様に見えていますが)、その様な機能を持ってはいません。 体はただ単に(「知っている事」の結果として体験される)「意味」の表現の見える様/触れる様なのです。
「視覚的刺激が、中心に居る事の邪魔に成る」と言い立てる貴方の体験と知識に(惑わされて)、眼を開けて震わせる必要はありません。
「クリスが部屋に入って来た時の様な(そして今も起こっている様な(#3))」世界の中の行動が、「ドア」と成って立つ貴方の能力に影響を与える事が無い様に、視覚的な刺激がが(ドアとして立っている貴方の)邪魔に成る事もありません。
その様な環境的要素が邪魔に成ると貴方が考え、その様に貴方が結論を出してしまい、『「知りたい」という望みを表現する事』(それが「知っている事」が起こる事に対して許可を与えた事に成るのです)を控えた時にのみ、その様に(「知っている事」の邪魔に成っている様に)見えるのです。
貴方には既に必要な要素が(実体験として)揃っており、貴方はそれらに慣れ親しんでいます。
我々はただ単に、これらの要素を前に出して貴方に見える様にして、貴方が条件付けやエゴの古い性癖に捕らわれる事無く、思考から「知っている事」へと重心をシフト出来る様にしているのです。
貴方は一日中コーヒーを飲み、我々の会話中もタバコを吸い続けています。
それらも「動き」です。 それらは内部的そして外部的な行動なのです。
貴方はそれらが、「中心に居て(センタリングしていて)聴いている事」の障害に成るとは解釈していません。
しかしそれら(コーヒーを飲む、タバコを吸うなど)の行動は、コミュニケーションの一部ではありません。
貴方は頭を掻いたり、体を動かしたりしており、それらはコミュニケーションの一部ではありません。
貴方は『「知っている事」の表現とは直接関連していない日常的動き』が、「中心に居る事」に影響を与えるとは考えていません。
貴方はこれらの会話やワークショップをしている時には平安でいます、何故ならそれらは教育プロセス(と私が呼んでいるもの)、つまり特定の焦点の定まった「愛の表現」を伝えているからです。
しかし貴方は、クリスと一緒に居る時や晩御飯を食べている時や友達と一緒に居る時に「中心に居る事」を見つけることが出来ていません。
(ワークショップや我々の会話以外の時には)「自分の中心に居て、そこから世界に存在する事が(その為の基準が)」貴方には見つけられていません。
しかし私が指摘した様に、中心に居ても貴方は「頭を掻いたり」、今さっきした様に「舌を使って食べ物のカスを出したり」、コーヒーを飲んだり、(「教える事」なく)さっき部屋に入ってきたクリストファーと話したりする事が問題なく出来ています。
貴方はこれらの様な事柄の中でも「中心にいる事」が出来ています。
これらの実例を基にして貴方は、(我々の会話やワークショップの時以外にも)体験のレベルにおいて目覚めてこの世界に居る事、貴方の「中心」からこの世界に居る事が出来る様に成らなければいけません。
貴方は「知っている事」の視点から、その他の日常的状況の中に存在出来る様に成らなければいけません(貴方の「相棒の条件付けやその伝統的な反応」に依存する事に戻るのではなく)。
こうしなければ貴方は、『貴方の「知っている事」』から存在する事に慣れ、『貴方の「知っている事」』を探求し始められないのです。
『「知っている事」から存在する事』が、必ずしも問題を解決する事に成るとは限りませんが、貴方が今までにこれを体験して来た99%は「問題解決」と関連していました。
貴方はどの様にして「中心」から晩御飯を食べるのでしょうか?
貴方はどの様にして「中心」からオセロ・ゲームをするのでしょうか?
貴方はどの様にして「中心」から誰かを抱擁するのでしょうか?
貴方はどの様にして「中心」から風景を眺めるのでしょうか?
私は答えは言いません。
私に言える事は「それを探求しなさい!」です。
目的意識を持って、それを探索しなさい。 貴方が(意識的に)ワークショップや我々の会話を自分の「中心」からしている時の様に。
ここではこれが貴方にとってキーと成るので、次の事を覚えておきなさい。
これ(全てを中心から体験/行動する事)をしたなら貴方は、貴方の「存在」の平和/調和/統合性を体験します。
それは満たされる体験であり、それは(恐れ/不能感覚/相棒の全ての性質などを外した)「自身」の体験なのです。
貴方が「考え」出したら、スーザンがそれを指摘して貴方を助ける事を私は奨励します。
ポール、貴方の相棒(偽りの貴方)が独善的に自己防衛し始めた時、その行動を自分のものと考えそれにエネルギー(感情)を与えたなら、貴方は貴方「自身」の体験/貴方の統合性の体験/貴方の平和の体験/貴方が満たされる(成就の)体験を貴方から隠してしまう事に成ります。
この会話の間、貴方は疑いを体験しています。 しかし貴方はその疑いにエネルギーを与えておらず、それを脇に退けています。 これは良い事です。
もし貴方が自分の疑いにエネルギーを与えたなら{疑いに感情を与えて活性化したなら}、貴方は「知っている事」を体験する事は出来ません。
これを覚えていてください。
貴方は解析的/論理的に理解する必要はありません。 理解が一番重要な事では無いのです。
重要なのは貴方の「平和」を体験する事です。 重要なのは貴方の調和の体験です。
重要なのは貴方の「整合性(Integrity)」(それはフィーリングです)なのです。
(矛盾に歪められていない)そのフィーリングの現れの中で、貴方は「真理」の透明度なのです(貴方は透明な真理なのです)。
貴方は表現されている「理解」であり、表現している「理解」なのです。
しかし理解は所有物ではありません。
だから貴方が理解したければ、「理解しようとする」のは止めて、「知っている事」を招き入れなさい。
[無言]
ポール: 終わったんですか?
ラジ: いいえ。言い終わっていません。
今言った事を私は浸透させているのです。
良いです。 貴方が居る所に、自分を居させなさい。
次に起こる事を掴もうとしたり、既に起こった事を掴もうとする事は止めなさい。
私が言った事を浸透させている時、貴方は「私がその次に言う事」に注意を払い続けました。
貴方は「私の言った事」を掴もうとせず、それを意識的に体現しようとはしませんでした。 つまり貴方もそれを浸透させたのです。
他の事柄が(次に起こるだろう事が)急務を要する様に見えていた時も、貴方はそれにエネルギーを与えませんでした。 その時貴方は、多くの質問の忙しい表現で一杯には成りませんでした。
貴方は私と共に居続けて、次の言葉/次の「知っている事」(それがいつ起こるにしろ)を聴き続けました。
ポール、ここに貴方の平和があるのです。『「知っている事」が体験されている』今に貴方の静かな注意を与え続け、今にあり続ける意志の中に、貴方の平和があるのです。
ここ以外に貴方が居られる場所をありません。 貴方が居るべきところはここ以外にはありません。
今晩は、(貴方の思考ではなく)『貴方の「知っている事」』の中から存在する事、を探索してください。
貴方はテストされる訳ではなく、評価される訳でもありません。
ただ単に、それを探索しなさい。 これを探索していけば、全てのものに用途がある事が解り、より深い意味や関係などは後に明確に成るでしょう。
そして私に質問してください。 今までの訊ね聞くプロセスが今後変化するに違いないと決め付けるのは止めなさい。
貴方は分解/分離されている訳ではありません。 貴方は私から独立して、私に二度と訊ねない様に成る訳ではありません。
貴方が訊ねていて私が答えている時、それは「貴方」が答えて居るのです。
そして「貴方」が答えている時、私が答えて居るのです。
これが解るように成って下さい。
だから、これら全ては(ただ単に「貴方が情報を得て、貴方の神聖を体験出来る様」に助けているだけではなく)貴方の神聖の実際的体験として完全に貴方と繋がって居るのです。
貴方は自分にとって前例のない事を体験しています。 だから貴方はそれに対してすぐ引き出せる反応/理解を持っておらず、機械的に落ち着きを取り戻したり適切に対応する事は出来ないのです。
貴方は最終的に理解に辿り付く訳ではない事を強調して置きましょう。
理解にたどり着く事がゴールなのではありません。
何故なら、「生命/人生」は概念内で動き開き続けている(開示されている)ものではないからです。 「生命」は「存在」の「絶対的に原初の動き」を反映している、動きなのです。
だからここでのゴールは、ゴールを持たずに今に居続け、「存在」の動きとその意図をサポートする為に立ち続ける事です。 「存在」は決して概念に閉じ込められる事は無く、常に原初(オリジナル)の開示を完全に表現しているのです。
だから(予測不可能なオリジナリティが起こっている)「確定されていないポイント/入り口/分岐点(スーザンはこれを今朝「波の頭」と言いました)」に立っていなさい。
さて、経済的な悩みがあるでしょう。 この悩み/不安は思考から出てきています。
今の時点で、貴方は自身を「知っている事」に対してオープンにしています。
貴方/私として示されている「知っている事」は、お金について示して(話して)いませんね?
だから、これは問題ではないのです。 {だから、これは今我々が注意を払うべき事ではないのです。}
これは調和/一致が求められている所ではありません。 これに関する調和/一致は求められては居ないのです。
我々が話している事は、貴方の経済に(そして他の事にも)直接関係しています。
エゴだけが(幻想の)相棒だけが、「知っている事」が「問題である様に見えているもの」に対処する様に求めるのです。
「知っている事」は問題を認めません。 「知っている事」は解決/回答だけを示すのです。
明日貴方と会話を続けられる事を楽しみにしています。
(#2)これはラジのことを言っています。
(#3)隣で新しい家を建てている音がしていました。
ラジ: ではもう一歩先に進めましょう。
貴方は「ある種の状況では、ガイダンス(指示)を聞き入れる事が出来ない」と言わなくなる必要があります。
貴方が考えている障害の一部は、身体に関する状況です。
貴方が何かの行動をしていた場合、ガイダンスを聞く為には「その行動を止めて座り、自分の行動を意識しなくて良い状況を作る必要がある」と貴方は考えています。
しかし、例えば貴方は自分の中心を意識して(センタリングして)、なおかつワークショップに必要な行動をして来ました。
ワークショップ中には身体を色々と動かす事になります。 それらの行動はセンタリングを妨げるものではなく、中心を意識する事を妨害はしません。 体の動きそのものは、中心を意識する事を妨げるものではありません。
必要なのは「無条件の許可を与える事」なのです。それが出来ればジョギングしながらでもガイダンスを聞くことが出来ます。
身体を忙しく働かせている事は、(ガイダンスを)聞く事の障害にはなりません。
センタリング(自分の中心に居る事)やガイダンスを体験している時にも、貴方は(自分の注意を動きに与えずに)身体的に動いている事が可能です。 何故なら体の動きそれ自体は「問題/主題ではない」からです。
体と体の動きは「見れるもの/触れるもの」を示し、(貴方が「聞いている」結果として、あなた自身が「知っている」事)その体験/表現を可能にする目的だけの為に存在しています。
全てのもの/全ての形は「知っている事/状態」の動きの表現、つまり「自身」の動きの表現なのです。
「知っている事/知っている状態」と共に居て、「知っている事」から存在していなさい。何故なら、そうすれば『「自己」に対する誤認識故に形にこだわり続ける事』が止まるので、全ての形が「存在」を示すように成るからです。
私がこの事を言っている理由は、貴方が「思考」から「知っている事/知っている状態」へとシフトする時、『貴方は「自身」に対して無意識に成ってしまう事はなく、体に対して無意識に成る事もない』と明確に解っている必要があるからです。
つまり「自身」と「体」が(物質的)体と同一視されなく成るだけなのです。
自意識と身体意識が二次的なものになり、最終的には「知っている事」の「行動」の中でそれらは存在しなく成るのです。
しかしそれでも意識は、完全なアイデンティティそして(自己)認識と共に体験されるのです。 これも重要なポイントです。
我々が定期的に会話するのは大切な事です。 瞑想が「中心にいる(センタリングしている)体験」を貴方に思い出させる様に、我々の会話は「知っている事」の体験の性質/本質を貴方に思い出させます。
これ(我々の対話)がその純粋な喜び/整合性/自然さに対するクリアな視点を貴方にもたらします。
そして『この体験の中でも「自身」(アイデンティティと自己認識、「マインドと体」と呼ぶ事も可能です)の体験は全く失われない事』を貴方に思い出させます。
この体験は、貴方の(偽りのアイデンティティである)「相棒」やその「判断/裁き」やその分離感覚を表現せず、それらを成立もさません。
これを貴方に思い出させて、「分離/分割されていない事が望ましい。恐れを感じず、忙しく(偽りの)自己を表明し続けようとせず、不能も体験しない事が望ましい。(偽りのアイデンティティである)相棒を手放す事が望ましい。」と貴方に実感させる事が重要なのです。
『貴方が「知っている事」に成っている時に可能な』統一/統合(Integrity)の体験だけが、「無知や恐れに(シフトして)戻りたい」という願いを喜んで放棄出来る様に促進するのです。
貴方が何かに慣れ親しんでいたとしても、その何かが望むべき事であるとは限りません。
それが心地良い場合もあるでしょうが、それは満たされた(満足の)フィーリングをもたらしません。 何故なら、それは成就(満たし満たされる事)を抱擁(内包)していないから。
それ(無知や恐れ)は調和/一致や合一/統一の体験ではないのです。
貴方が(今)慣れ親しんでいるものは『貴方の「存在」の平和』はもたらしません。
貴方の「存在」の平和を貴方が感じている時(貴方がそれを今感じている様に)、「貴方の慣れ親しんで来たものは、この体験を含んでは居ない」と貴方にも明確に解ります。
貴方がプライベートな会話を行っている時にも、より注意深くしていなさい。 何故なら、そうしている時にも貴方は(その時同時に)この成就この調和を体験してるのだから。
しかし貴方はまだこの恩寵を完全には受け取っていません。
何故なら、貴方が「ドア/通り口」として立っている事が、貴方が(ドアとして立つ事により)「真理の声」の現れに成っている事が、『「存在」に対する貴方のリアルな意識体験』を作っていると貴方は未だ気付いていないから。
貴方はこれ(ドアとして立っている事)を「貴方」のリアリティとしてではなく、「実際に行われている何かリアルな事(#2)」の「楽しい副作用」のように考えてしまっています。
『貴方が体験している成就は、貴方が貴方「自身」と調和/同一化する体験である』と言う事実に注意を払いそれを認めれば、『「自身」の本質/整合性(integrity)は私や貴方{のパーソナリティ}から発生しているものではない』と解る事でしょう。
それ(成就/「貴方」)こそが「貴方」のリアルな体験なので、会話が終った後(あるいは一日の終わりに)それを手放してしまい、後に残ったもの(つまり幻想の相棒)が自分だという考えに戻る必要は無いのです。
[クリスが部屋に入って来て(ポールに)質問する。]
今貴方はクリスによって「中断」されました。 しかし、貴方は「我々の会話からかけ離れた中断」としてそれに対処はしませんでした。
貴方は、比較的簡単に自分の中心から「自分がクリスと対話している事」を見ました。 その結果「中断」はとても短いものでした。
しかし、もし貴方がこれを妨害と考えてこれに対応し、(少しの嫌気と共に)自分の注意をセンター(中心)から外部の注意力へとシフトさせてしまっていたなら、この出来事はより長引き、クリストファーは貴方に無視された様に感じた事でしょう。
貴方の「中心」に居て、そこから行動すれば、体験はシンプルにクリアにフルになります。
貴方は眼を開いたまま、貴方の「中心」に居続ける事を学ばなければいけません。
バイオフィードバックに関する貴方の体験(ビジュアルな体験はとても刺激的で、故に「ゼータ帯域やデルタ帯域から出る事」を妨げてしまう様に見える事)から受けた印象とは相反するかもしれませんが、実際には「貴方が自分の注意を置いている所」がより重要なのです。
貴方の注意が『「中心にいる事」の入り口』に向けられているか、それとも「刺激の入り口」に向けられているか、が違いをもたらします。
「刺激の入り口/境目」は体と関連した状態でしか意味を持っている様には見えません。
体はそれ自体で感じることが出来、意識を持つことが出来る(様に見えていますが)、その様な機能を持ってはいません。 体はただ単に(「知っている事」の結果として体験される)「意味」の表現の見える様/触れる様なのです。
「視覚的刺激が、中心に居る事の邪魔に成る」と言い立てる貴方の体験と知識に(惑わされて)、眼を開けて震わせる必要はありません。
「クリスが部屋に入って来た時の様な(そして今も起こっている様な(#3))」世界の中の行動が、「ドア」と成って立つ貴方の能力に影響を与える事が無い様に、視覚的な刺激がが(ドアとして立っている貴方の)邪魔に成る事もありません。
その様な環境的要素が邪魔に成ると貴方が考え、その様に貴方が結論を出してしまい、『「知りたい」という望みを表現する事』(それが「知っている事」が起こる事に対して許可を与えた事に成るのです)を控えた時にのみ、その様に(「知っている事」の邪魔に成っている様に)見えるのです。
貴方には既に必要な要素が(実体験として)揃っており、貴方はそれらに慣れ親しんでいます。
我々はただ単に、これらの要素を前に出して貴方に見える様にして、貴方が条件付けやエゴの古い性癖に捕らわれる事無く、思考から「知っている事」へと重心をシフト出来る様にしているのです。
貴方は一日中コーヒーを飲み、我々の会話中もタバコを吸い続けています。
それらも「動き」です。 それらは内部的そして外部的な行動なのです。
貴方はそれらが、「中心に居て(センタリングしていて)聴いている事」の障害に成るとは解釈していません。
しかしそれら(コーヒーを飲む、タバコを吸うなど)の行動は、コミュニケーションの一部ではありません。
貴方は頭を掻いたり、体を動かしたりしており、それらはコミュニケーションの一部ではありません。
貴方は『「知っている事」の表現とは直接関連していない日常的動き』が、「中心に居る事」に影響を与えるとは考えていません。
貴方はこれらの会話やワークショップをしている時には平安でいます、何故ならそれらは教育プロセス(と私が呼んでいるもの)、つまり特定の焦点の定まった「愛の表現」を伝えているからです。
しかし貴方は、クリスと一緒に居る時や晩御飯を食べている時や友達と一緒に居る時に「中心に居る事」を見つけることが出来ていません。
(ワークショップや我々の会話以外の時には)「自分の中心に居て、そこから世界に存在する事が(その為の基準が)」貴方には見つけられていません。
しかし私が指摘した様に、中心に居ても貴方は「頭を掻いたり」、今さっきした様に「舌を使って食べ物のカスを出したり」、コーヒーを飲んだり、(「教える事」なく)さっき部屋に入ってきたクリストファーと話したりする事が問題なく出来ています。
貴方はこれらの様な事柄の中でも「中心にいる事」が出来ています。
これらの実例を基にして貴方は、(我々の会話やワークショップの時以外にも)体験のレベルにおいて目覚めてこの世界に居る事、貴方の「中心」からこの世界に居る事が出来る様に成らなければいけません。
貴方は「知っている事」の視点から、その他の日常的状況の中に存在出来る様に成らなければいけません(貴方の「相棒の条件付けやその伝統的な反応」に依存する事に戻るのではなく)。
こうしなければ貴方は、『貴方の「知っている事」』から存在する事に慣れ、『貴方の「知っている事」』を探求し始められないのです。
『「知っている事」から存在する事』が、必ずしも問題を解決する事に成るとは限りませんが、貴方が今までにこれを体験して来た99%は「問題解決」と関連していました。
貴方はどの様にして「中心」から晩御飯を食べるのでしょうか?
貴方はどの様にして「中心」からオセロ・ゲームをするのでしょうか?
貴方はどの様にして「中心」から誰かを抱擁するのでしょうか?
貴方はどの様にして「中心」から風景を眺めるのでしょうか?
私は答えは言いません。
私に言える事は「それを探求しなさい!」です。
目的意識を持って、それを探索しなさい。 貴方が(意識的に)ワークショップや我々の会話を自分の「中心」からしている時の様に。
ここではこれが貴方にとってキーと成るので、次の事を覚えておきなさい。
これ(全てを中心から体験/行動する事)をしたなら貴方は、貴方の「存在」の平和/調和/統合性を体験します。
それは満たされる体験であり、それは(恐れ/不能感覚/相棒の全ての性質などを外した)「自身」の体験なのです。
貴方が「考え」出したら、スーザンがそれを指摘して貴方を助ける事を私は奨励します。
ポール、貴方の相棒(偽りの貴方)が独善的に自己防衛し始めた時、その行動を自分のものと考えそれにエネルギー(感情)を与えたなら、貴方は貴方「自身」の体験/貴方の統合性の体験/貴方の平和の体験/貴方が満たされる(成就の)体験を貴方から隠してしまう事に成ります。
この会話の間、貴方は疑いを体験しています。 しかし貴方はその疑いにエネルギーを与えておらず、それを脇に退けています。 これは良い事です。
もし貴方が自分の疑いにエネルギーを与えたなら{疑いに感情を与えて活性化したなら}、貴方は「知っている事」を体験する事は出来ません。
これを覚えていてください。
貴方は解析的/論理的に理解する必要はありません。 理解が一番重要な事では無いのです。
重要なのは貴方の「平和」を体験する事です。 重要なのは貴方の調和の体験です。
重要なのは貴方の「整合性(Integrity)」(それはフィーリングです)なのです。
(矛盾に歪められていない)そのフィーリングの現れの中で、貴方は「真理」の透明度なのです(貴方は透明な真理なのです)。
貴方は表現されている「理解」であり、表現している「理解」なのです。
しかし理解は所有物ではありません。
だから貴方が理解したければ、「理解しようとする」のは止めて、「知っている事」を招き入れなさい。
[無言]
ポール: 終わったんですか?
ラジ: いいえ。言い終わっていません。
今言った事を私は浸透させているのです。
良いです。 貴方が居る所に、自分を居させなさい。
次に起こる事を掴もうとしたり、既に起こった事を掴もうとする事は止めなさい。
私が言った事を浸透させている時、貴方は「私がその次に言う事」に注意を払い続けました。
貴方は「私の言った事」を掴もうとせず、それを意識的に体現しようとはしませんでした。 つまり貴方もそれを浸透させたのです。
他の事柄が(次に起こるだろう事が)急務を要する様に見えていた時も、貴方はそれにエネルギーを与えませんでした。 その時貴方は、多くの質問の忙しい表現で一杯には成りませんでした。
貴方は私と共に居続けて、次の言葉/次の「知っている事」(それがいつ起こるにしろ)を聴き続けました。
ポール、ここに貴方の平和があるのです。『「知っている事」が体験されている』今に貴方の静かな注意を与え続け、今にあり続ける意志の中に、貴方の平和があるのです。
ここ以外に貴方が居られる場所をありません。 貴方が居るべきところはここ以外にはありません。
今晩は、(貴方の思考ではなく)『貴方の「知っている事」』の中から存在する事、を探索してください。
貴方はテストされる訳ではなく、評価される訳でもありません。
ただ単に、それを探索しなさい。 これを探索していけば、全てのものに用途がある事が解り、より深い意味や関係などは後に明確に成るでしょう。
そして私に質問してください。 今までの訊ね聞くプロセスが今後変化するに違いないと決め付けるのは止めなさい。
貴方は分解/分離されている訳ではありません。 貴方は私から独立して、私に二度と訊ねない様に成る訳ではありません。
貴方が訊ねていて私が答えている時、それは「貴方」が答えて居るのです。
そして「貴方」が答えている時、私が答えて居るのです。
これが解るように成って下さい。
だから、これら全ては(ただ単に「貴方が情報を得て、貴方の神聖を体験出来る様」に助けているだけではなく)貴方の神聖の実際的体験として完全に貴方と繋がって居るのです。
貴方は自分にとって前例のない事を体験しています。 だから貴方はそれに対してすぐ引き出せる反応/理解を持っておらず、機械的に落ち着きを取り戻したり適切に対応する事は出来ないのです。
貴方は最終的に理解に辿り付く訳ではない事を強調して置きましょう。
理解にたどり着く事がゴールなのではありません。
何故なら、「生命/人生」は概念内で動き開き続けている(開示されている)ものではないからです。 「生命」は「存在」の「絶対的に原初の動き」を反映している、動きなのです。
だからここでのゴールは、ゴールを持たずに今に居続け、「存在」の動きとその意図をサポートする為に立ち続ける事です。 「存在」は決して概念に閉じ込められる事は無く、常に原初(オリジナル)の開示を完全に表現しているのです。
だから(予測不可能なオリジナリティが起こっている)「確定されていないポイント/入り口/分岐点(スーザンはこれを今朝「波の頭」と言いました)」に立っていなさい。
さて、経済的な悩みがあるでしょう。 この悩み/不安は思考から出てきています。
今の時点で、貴方は自身を「知っている事」に対してオープンにしています。
貴方/私として示されている「知っている事」は、お金について示して(話して)いませんね?
だから、これは問題ではないのです。 {だから、これは今我々が注意を払うべき事ではないのです。}
これは調和/一致が求められている所ではありません。 これに関する調和/一致は求められては居ないのです。
我々が話している事は、貴方の経済に(そして他の事にも)直接関係しています。
エゴだけが(幻想の)相棒だけが、「知っている事」が「問題である様に見えているもの」に対処する様に求めるのです。
「知っている事」は問題を認めません。 「知っている事」は解決/回答だけを示すのです。
明日貴方と会話を続けられる事を楽しみにしています。
(#2)これはラジのことを言っています。
(#3)隣で新しい家を建てている音がしていました。
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