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ACIM10-04-03#2

「愚かな振る舞い」は「愛を求めている声(Call for Love)」だと以前話しました。
これは「貴方が体として愛する事を求められている」と云う事ではありません。
何故なら、それ(体として愛する事)は特別な憎悪を隠す特別な愛でしかないから。 それは一つの幻想が他の幻想に対して何かしようとしている事であり、その結果「救済」はもたらされません。

何故なら、貴方の注意が行った所に貴方の信心も行き、貴方の信心が行った所に顕示(貴方の見ている「現実」)が現れるのだから。
その顕示は(その時貴方に見えているものは)「より優れた体に成らなければならない」と貴方に思わせてしまう事になるでしょう。


本を読みましょう。 少し戻って読み直します。

“ There IS no conflict in the choice between truth and illusion.1 “

[「真理か幻想か」の選択には闘争や葛藤はありません。]

葛藤はありません。

「愛への呼びかけ」(嫌な行為)がなされている時、その呼びかけをしている人{の体}に向き合うのではなく「父」に向き合えば、その時貴方は真理を選んでいるのです。 そして...

“There IS no conflict in the choice between truth and illusion. Seen in THESE terms, no one would hesitate. “

[「真理か幻想か」の選択には闘争/葛藤はありません。 この様に見れば躊躇する人は誰も居なくなります。]

しかし殆どの人達は、身体認識(体との自己同一)を元に物事を見ようとしてしまいます。 その場合、貴方は躊躇するべきなのです。

“But conflict enters the instant the choice seems to be one between ILLUSIONS, for this choice does not matter. “

[しかし異なる幻想の間を選択している限り、闘争/葛藤が入ってきます。 何故なら、これはどうでもよい(違いをもたらさない)選択だから。]

これが「どうでもよい」のは、どちらを選んだにしろ「幻想を選んだ事」には変わりないからです。  どちらにしろ、そこで選ばれているのは幻想なので貴方はまだ欺かれており(意味ある事は)何もまだ起こっていないのです。
だから貴方が(異なる幻想の)どちらを選んでも、その結果に違いはないのです。
いずれの選択も貴方を孤児院から連れ出す事はありません。

“Where one choice is as dangerous as the other, the decision MUST be one of despair.
Your task is not to seek for love, but merely to seek and find ALL of the barriers within yourself which you have built AGAINST it. “

[ある選択がもう一つの選択と同等に危険な時、その決定/結果は失望に違いありません。 貴方の仕事は愛を探す事ではなく、愛に対する障害を全て探す事です。]

ここは注意して読む必要があります。 この文章はとても重要です。
この文は自分を裁判に掛けて、自分の欠点をあげつらう様に指示している訳ではありません。
自分の欠点を調べる事が貴方の仕事なのではありません。
(理解ではなく)信念が貴方を統治している場所を探す事が貴方の仕事なのです。
そして貴方は「何が信念か」自分一人で調べる事は出来ません。
だから、

“Your task is not to seek for love, but merely to seek and find ALL of the barriers within yourself which you have built AGAINST it.”

[貴方の仕事は愛を探す事ではなく、(貴方が自分の中に作り上げた)愛に対する障害を全て探す事です。]

これをどうやって行うべきか私は言い続けてきました。
貴方はどうやって愛に対する全障害(バリヤ)を探すのでしょうか?
「貴方が知っている事全て、貴方が考えている事全て」がバリアだと仮定してみる事によってです。 『「父よ、ここの真理は何ですか?」と毎日言う事よりも貴方にとって大切な事はない』と思う事によってです。
例えば好奇心に満ちた子供の様に。 「パパ、アレは何? これは何? あれは何? ここの真理は何?」

その様な好奇心を持ちなさい。 何故なら、貴方が自分で答えを作る事に固執しなくなった時、貴方が得る答えが真理と幻想の違いを示して見せるから。
その時示される真理はとても素晴らしく、見間違えようがないので、貴方は即座に幻想を手放します。 

“It is not necessary to seek for what is true, but it IS necessary to seek for what is false. Every illusion is one of fear, whatever form it takes. And the attempt to escape from one illusion into another MUST fail. If you seek love outside yourself, you can be certain that you perceive hatred within and are AFRAID of it. Yet peace will never come from the illusion of love, but ONLY from its reality. “

[「何が真理か」求める必要はありません。 しかし「何が間違っているか」知ろうと求める必要があります。 全ての幻想は(それがどの様な形を取るにしろ)恐れです。 一つの幻想から他の幻想へ逃げようとする試みは失敗するだけです。 貴方が貴方自身の外に愛を求めている場合、貴方は自分の内部に憎しみを知覚しており、それを恐れている事が確実です。 しかし平和はリアリティだけから来るもので、決して愛の幻想から来るものではありません。]

この文は誤解され易いかも知れません。

“It is not necessary to seek for what is true, but it IS necessary to seek for what is false.”

[「何が真理か」求める必要はありません。 しかし「何が間違っているか」知ろうと求める必要があります。] 

「何が真理か」求める事は、これをアイディア(概念)として受け取った場合、その様に考えた場合、往々にして、口/思考を閉じて何が真理か「父」に訊ねる事には繋がりません。
貴方は思考と論理と理由付けと調査を使って「真理を求める事」をしようとしてしまいます。
何か行動をしようとするのではなく、「何が真理か」あるいは「何が幻想か」発見しようとするのではなく、貴方の役割は自分の注意を自身の思考的マインドから外す事です。

だから貴方は「したいと思っている事」/「ついしてしまう事」の反対をしなければいけないのです。
貴方は(瞑想している時の様に)静かに成る必要があります。 そこでは静かに成る以外の目的は存在していません。
真理を聞こう考えて瞑想するのではなく、瞑想の中で貴方が体験する平和の中で理解が開いて行きます。 これが自然と起こるのです。 貴方がこれをする訳ではありません。
これは重要な点です。


“Recognize this, for it is true, and truth MUST be recognized if it is to be distinguished from illusion: The special love relationship is an attempt to bring love into fear, and make it REAL in fear.”

[これを認識しなさい。 何故なら、これが真実で真実が認識されなければ真理を幻想から分離する事は出来ないから。 特別な愛の関係は、愛を恐れの中に引き入れて、恐れの中で愛をリアルにしようと云う試みなのです。]

これはどういう意味でしょう?
(特別な愛の関係は)恐れに満ちた状況内に愛を持ち込み、その中で愛をリアルにさせ、その状況内で変容を起こさせようとします。 「神」の法が絶対的に統治している場所(愛と憎しみの葛藤という幻想が起こっていない場所)に貴方達を引き入れる事無く。

恐れの中で愛を「リアル」にするとは、愛を恐れに対して有効に働くもの/力にして、恐れを変えようとする事です。
しかし、恐れはただ一つの事によってもたらされた幻想です。
そのただ一つの事とは、『「父」から離縁して独立した存在に成ろう』と貴方が決意した事です。
だから、恐れの体験を消滅させる唯一の方法は、(貴方がとても大切にしている)独立を放棄する事です。

これがイースターのメッセージです。 

“In fundamental violation of love’s condition, the special love relationship would accomplish the impossible. “

[特別な愛の関係は、愛の条件の本質に反して、不可能な事を成し遂げようとします。]


“How but in illusion COULD this be done? “

[この様な事が、幻想以外の所で行えるでしょうか?]

もちろん、行えません。

イースター・メッセージとは「対立している力」の幻想から抜け出る事です
「神と悪魔/霊と物質、それらが戦っている。 どちらが勝つのだろう?」(という幻想から抜け出る事です)。
「神と悪魔」と云う概念は、貴方が自分の正気を放棄した(貴方が「父」から離縁した)時だけに可能なのです。
この(力の闘争の)幻想を修正する唯一の方法は、貴方が「父よ、助けてください。 お父さん、『貴方』の真理を示して下さい。」と言う事です。

貴方は墓の中でこれを言うのです。
貴方は墓の中でこれをするのです。
貴方はこれをして墓から出てくるのです。
これが(全瞬間内に宿っている)イースターの意味です。 

ハッピー・イースター! 意味深いイースター! 目覚めたイースター!

目覚めた意味/意図。 この日の全体験の背景に「存在」のリアルな平和をもって{過ごしなさい}。


「Northwest Foundation for A Course In Miracles」の行動は全て無料で(読者にどの様な義務も負わせる事も無く)提供されています。 これは無条件に差し伸べられた愛によって実施されています。 ギフトとはその様なものだからです。 貴方と同等の方が既にこのギフトを貴方に差し出したので、これらの資料が貴方に提示されています。  Rajの指示により、これらの資料が売買される事はありません。 



A Course in Miracles Study Group with Raj, April 3rd 2010
The Northwest Foundation for “A Course in Miracles"
Phone: 360-638-0530 Fax: 360-881-0071
Website: http://www.nwffacim.org
E-Mail: paul@nwffacim.org

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テーマ : スピリチュアル
ジャンル : 心と身体

ACIM10-04-03#1

April 3, 2010 ©NWFFACIM
2010年4月03日

原文テキスト
http://www.nwffacim.org/tgp/forums/thread-view.asp?tid=29283&mid=141847#M141847
オーディオ&ビデオ
http://www.nwffacim.org/tgp/forums/thread-view.asp?tid=29247&mid=141775#M141775


ページ位置の確認。
A Course In Miracles (reference pages)
Chapter 16 – Section – ILLUSION AND REALITY OF LOVE
1 Sparkly Book – p.387, 2nd Full Par. /
JCIM – p.162, Next to Last Par. /
CIMS – p. 325, Par.35
First Edition – p. 315, 1st Full Par. /
Second Edition – p. 338, Par. 6



今晩は、ようこそ。  


今現在ポールの居る所ではまだ土曜ですが、聞いている人によっては既に日曜なので、今日の話は「イースター(復活祭)・メッセージ」とも言えますね。
もっとも我々の話はいつだってイースター・メッセージですが。

我々は常に、墓から脱出する事(孤児的状況から出ること)について話してきました。
真の貴方(貴方であるもの/貴方である事)に対する圧倒的無知の状況から抜け出る事に関して、貴方をメクラにしている無知から開放される事に関して、我々は話してきました。

「今までは死んでいた貴方が、無知から抜け出て生き返る事」と言っても良いでしょう。

しかしより適切な表現としては「前まで貴方は真理に対して無知だったのですが、今貴方は真理に気付いている」です。

この様にして死から生(無知から光明)への橋を渡る事が我々の主題なのです。

そして我々は特別な嫌悪関係に関して話して来ました。
これはイースターとも関係があります。

貴方が父から離縁して独立した存在に成ろうと決めた時、独自に現象を起こし、その源に成ろうとした時、貴方は自分の「源」の体験を失い(その結果「貴方そのもの」の体験を失った)だけでなく、直ちに恐れと罪に気付いたのです。

その時シフトが起こったのです。
その時貴方は「マインド-認識」から「身体-認識」へと移ったのです。

これが起こる前(貴方が父を離縁する前)貴方は、全ての「創造と存在と生命」の体験が起こっている無限の「マインド」として自分自身を体験していました。

貴方はどの様な形(form)の中にも自分を見つける事は無かったのです。
と同時に「創造」の全ての形は、貴方から離れようがなく、それらは貴方の「存在」の無限の一部だったのです。
貴方はどの様な形にも囚われていなく、「貴方」の無限性(果てしの無さ)は全体性/完全性の意味{全体である事}から離れ様が無かったのです。

しかし貴方が父を離縁し(自分の独立)に固執した時、貴方は無限の視点を失い、貴方は「貴方が体と呼んでいるもの」を自身と同一視するように成ったのです。

その時突然、貴方の周りの全てのものは体(物体)として認識されるように成りました。 木の体、猫の体、兄弟の体、姉妹の体、惑星の体。

貴方は全てを体(物体)として見るように成りました。

そして体としての貴方の体験を恐れと罪から分離する事は出来ないので、罪と恐れが(貴方以外の)その他全ての形(物体)と結び付けられました。

だから貴方はその時直ぐに自己防御的に成ったのです。


『この(自己防衛と呼ばれている)防御する必要こそが体である事』に関しては今まで余り話して来ませんでした。


貴方達がして来た全ての事、考えた全ての結論、全ての論理、相互開発した全ての合意は、形のはかなさ/頼り無さから来る恐れによって色付けされています。
そして貴方の恐れは、全てに対して浸透しています。
それ故に貴方は自分の体を、自己防御と自己保身の二つの目的で使用して来ました。

そして貴方は自分の体を他の人々の体に対抗して使っています。
そして貴方の体が貴方の救済になり、と同時にそれが貴方の破滅の原因に成りました。

例えば、もし貴方が自分の身体を上手く使って自身を護ったなら、それが貴方の救済/安全になります。
しかし、もし他者達が彼等の身体を使い貴方を傷付けたなら、貴方の身体が貴方の破滅の原因に成ります。

この認識が重要なのは、貴方が橋を渡って故郷へ帰る為には、身体認識(体との自己同一)からマインド認識(マインドとの自己同一)にシフトする必要があるからです。

これは貴方の体をガードしたり自己防御する事を放棄して、聖なる瞬間の中に入って行く事を意味しています。  これは完全に精神的な環境の内で行われる完全に精神的な行為なのです。

貴方が「二つのステップ」を行って聖なる瞬間の中に入った時(例えそれが一瞬であっても)その時貴方は「マインド」であって、貴方は自分を「マインド」として認識しています。

ここで神の法が全てを統治しています。
ここで変容が起こっています。
ここで癒しが起こっています。

先週我々が話していた時、特別な関係がどれだけ酷いもので、そして目覚めていない人達全員がそれを使っている事に関して話していた時、私が言っている事は思考だけに当て嵌ると貴方は考えたかもしれません。 これは貴方がマインド内で知覚した事、あるいは貴方が誤認識している事だけに関して言っているのだ、と貴方は思ったかもしれません。
しかし(貴方がしている事は)全てマインドの行動(精神的行動)なのです。

貴方が気付くべきなのは、貴方がとても頑なに身体をアイデンティティ(自分を示すもの)として使って、他者に反応したり他者の行動を要求したりしている事です。 これは致命的で破壊的な事です。
これは貴方が聖なる瞬間に入る事(貴方の「マインド」内に入って行く事)を完全に邪魔する破壊的な事です。

「聖なる瞬間」の中で、貴方の「存在」の統合性と完全性が精神的体験として貴方に示されます。
この体験は全てを抱擁しているので、貴方を完全にリラックスさせ、貴方に身体的防御を手放させます。

そして身体を防御していない所、その必要が感じられていない所で、身体の癒しが起こり得るのです、そして兄弟姉妹に対する貴方の振る舞いが変わり得るのです。その様にして社会的変革も起こって行くのです。


私は誕生した様に見えていました。 私の現われが身体(生物的物体)の出現として知覚される事がとても重要だったのです。
私の現われが旧約聖書のダビデの家系と繋がる事が必要だったのです。
私が出現すると云う預言が、自分達を「身体でしかないもの」と考えていた人達により実証される様に。

(バプティズマの)ヨハネが私に洗礼を施した時、私が私自身と私の源に目覚めた、と云われています。 {ラジは過去に自分でその様に言っています。訳}

しかし、それらの事が私の「マインド」から離れた事は決してありませんでした。
そして目的の成就の為、私は常に「父」からの指示を得ていました。
だから私は人生の中のどの時点でも、自分の事を体とは考えていませんでした。

私はどの時点でも『「マインド」(によって満たされているもの)としての私』に対して無意識ではありませんでした。 これは重要なポイントです。
何故なら、今日の私とキリスト教に関する歴史や教えは「私が体だった」と云うアイディアを提示しています。 「神」が人に成り、「神」がモータル(必滅者)に成り、神が(貴方の様に)物理的/生物的な存在に成ったと考えられています。

このアイディアを放棄するべき時です。
これが真実ではないと知るべき時です。
そして私は貴方に話しかけ、コースを読む事を通して「(私と同様に)貴方は決して物理的生物ではない」と知らせ続けているのです。
自分は物理的/生物的な体だと信じている今も、貴方は常に「マインド」の完全な表現であり続けて来ました。
私と全く同様に「父のマインド」/「父の意志」の完全な表現、「神」を体現しているものなのです。 
そして貴方は「マインド/意識」であり、体ではないのです。

初めの内は人々の注意を引く為に、神聖な者があたかも人間に成った様に見える事が必要だったのです。
しかしそれは神聖であったので、それは人間的状況の酷さを全く表現しませんでした。 だからインスピレーション(人々に霊感をもたらす事)が可能だったのです。
そして二千年後の今、貴方達はまだ自分達が体だと信じており、私も体だったと信じており、私が体であった事(「神」が人に成った事)が重要だと考えています。 

しかしそれは違います。 (この様な考えからは)シフトするべき時です。
「神が人に成った」と信じるのではなく、人が自身の神聖に気付きそれを受け入れるべきなのです。

何故なら、貴方はこの気付きを通してのみ、身体認識(身体を自己と認識する事)を放棄し「貴方の救済が身体的な救済なのだ、貴方の身体的救済が他者の身体の犠牲の上に可能なのだ」という信念を放棄出来る様に成るからです。 この様な信念を通り越せるように成る必要があります。
これを通り抜けられる様に成る事が、特別な憎悪関係を放棄する事に繋がります。

身体が物質(もの)として(そして貴方自身を示すものとして)誤って使用されている唯一の理由は、貴方が自分の(そこにある)神性を否定する事にこだわっているからです。
これが特別な憎悪関係の一部分です。

最初に「神」が人の前に現れた、と言われています。 しかしそれは本当の最初ではありません。
貴方達は全員、「神のように(God-like)に成るべき時が来ている」と云うアイディアを受け入れられるだけ成熟しています。
人が引き上げられるべき時が来ています。 生物的なリアリティから引き上げられるのではなく、「貴方は生物だ」と云う信念から引き上げられるべき時が来ています。

貴方の日常の中で、聖なる瞬間を貴方が持つ事を最も妨害しているのは何でしょうか?
それは自分の体の面倒を見る事です。
痛みを軽減したり、体をスッキリさせたり、健康に気をつけたり、(獣や人間などの)略奪者から体を護ったり。
その様な時、貴方はそこで必要とされている事が「二つのステップ」なのだと気付かず、自身の身体を守ろうとしてしまいます。

しかし本当に必要なのは、{身体として反応する事を}躊躇して「ここの真理は何だろう?」と訊ね聴いて、(貴方を聖なる瞬間へと導く)真理の流入の為のスペースを空ける事です。 この聖なる瞬間の中で神の法が成り立っており、体を何かの為に使ったり/体を何かに対して使ったりする事なく、明瞭化が癒しが解決が起こるのです。
これがとても大切な事、とても大切なイースターのメッセージです。

ある人達のマインドの中では、私は反逆者でした。
ある人達のマインドの中では、私は政治システムを脅かすものでした。
ある人達のマインドの中では、私は宗教を脅かすものでした。
ある人達のマインドの中では、私は救世主でした。

人間的状況の激流から人々を救う救世主。 我々が今話している事をせずに済ませられる様、人々をマジックで救う救世主。
今の貴方自身を見つめて、そこに現れてくる新しい視点/新しい自己認識に重心を移して変化する事。 新しい認識/視点によって自身が変化して行く事を許可する事。 (人々は、これをしないで済ませようとしてしまいました。)

そして結局どうなったでしょうか? 
そこで自己防衛が起こったのです。
そうして体達が他の体達と争いました。
私の為に他の体(私に危害を加えようとした体)と争った体もいました。
私を恐れた者達は、私の体に対して行動し、それに危害を加え、既存秩序への混乱を取り除こうとしました。

この様にして、特別な憎悪関係の連鎖が各個人の中で起こって行きました。
その様な自己認識の中では、罪と恐れが必然であり(貴方が孤児としての自分を主張している限り)それが永遠に続いて行きます。

脅威に対する唯一の解決方法は、ストレスを発生させている者の体に衝撃を与えて、彼の行動がこれ以上ストレスを生まない様(行動を変える様)にするか、殺してしまう事だと云う信念が繁栄していました。

つまり(比喩的に言って)先週貴方は何人の人を迫害したでしょうか?
貴方は何人の人を体として見て、体として対応して彼等がより良い振る舞いをする様に強要したでしょうか。
あるいは、肩や顔を殴ったり、取っ組み合ったり、喧嘩したりして、彼等をコントロールしようとしたでしょうか?
貴方達の内何人が、自分達の兄弟姉妹を(「マインドの現れ」つまり「神のマインド」/「精霊」ではなく)体として扱ったでしょうか?

貴方がそうしたのであれば、貴方は自分自身を「神の聖なる子供」としては見ていなかった事が解ります。 貴方が自分を「神の聖なる子供」としては見なかったので、貴方の振る舞いも変化しなかった事が解ります。

だから変化への呼び声(変化を要請している声)がまだ聞えているのです。
イースター(復活)への呼び声(要請)が、今日貴方の生活の中で今だ絶えず起こっているのです。

聖なる瞬間を選択するとは、この声(要請)に答える事です。
貴方の周りには、自分の事を体だと考え、貴方の事を体だと考え、貴方をコントロールしなければならないと考えている人達も居るでしょう。
あるいは、貴方が救世主の体で、彼等は貴方によって救われる必要があると考えているかもしれません。 彼等は貴方が救世主だと貴方に納得させようとしているかも知れません(貴方はその様なところには居ないのに)。

そして貴方は、その過程で死ぬ事無く(他の人達の)その様な行動や信念と関わる方法を見つける必要があります。
貴方自身を体として認識する事を受け入れる事なく、体として防御的に反応する事なく、「二つのステップ」を行う必要があります。
これが何故重要か解ったでしょうか?

(もう何回も言ってきた様に)貴方は日常生活を続けながら「この意味は何だう? あの意味は何だろう? ここで知るべき事はなんだろう? 私がここで取るべき行動は何だろう?」と訊き続ける必要があるのです。
「私の体としての条件付けが全く別の事を言っているのに、何故貴方(精霊/ガイド)が示唆している行動が適切なのだろう? 」
貴方が常にこう訊き続ける事が、「ここの真理は何だろう」と訊ね続ける貴方の好奇心が、貴方の身体認識の性癖/性向から貴方を取り外すからです。
身体認識の性癖/性向とは、コントロールする目的で貴方の身体から他者の身体へ向けられている注意の事です。
これらの要素はお互いを影響し合いながら、起こり続けます。


さて、私は(イエスとして現れていた頃)『自身が「マインド」である事を認識し続けていた』と言いました。
『私の「存在」に対する意識体験は、「父」の「存在」に対する意識体験と全く異なっていない』と私は常に気付いていました。
そして(無限の「マインド」としての)父の「存在」に対する意識体験が、全「創造」を起こしているのです。

「はりつけ」や「復活」に関する多くの映画とは異なって、私は苦しみませんでした。 何故なら、私は一時も「自分が体の中に居る」と云う信念を持ってはいなかったからです。  皆がイエスと呼んでいた体が、十字架の材木や石や遠くの木や空や雲やその他諸々のものよりも特別だと云う信念を私は持っていませんでした。

私として認識されていたその体は、私の「存在」の全体を示すより特別なもの、生命の他の表出より特別なものではなかったのです。 
だから、私はそれ(自分の体)には縛られていませんでした。
だから(私が以前にも言った様に)磔刑に見える事が行われていた時、私はただ私自身を(体から)取り除いて、近くの丘から眺めていました。

これは幽体離脱と呼ぶべき現象でしょうか? 自分が体だと考えている人が、自身を体から一時的に動かしたなら、そう言えるでしょう。
しかし、私はただ単に自分の注意を(体と同じぐらい重要な)他の場所にシフトさせたのです。 そして人類のマインドにとって重要な出来事が起こって行く事、開いて行く事を許しました。

それが終わり、十字架に掛けられたと皆が信じていた体が墓に入れられた時も、私はそこには入りませんでした。
私はリラックスし続け、余り考えませんでした。 何故なら、そこには余り考えるべき事は無かったから。
そこには「霊の動き」が有るだけでした。 そこには「神性の動き」だけが起こっており、全世界の人間の意識に対して働きかけていました。 (それは一部の地方だけに起こった事ではありませんでした。)
何故ならこの事は、孤児意識の取り壊し/孤児院が存在するという信念の崩壊/人が持っている「自分は自分が考えている通りの存在でしかない」と云う信念の崩壊を意味しているからです。
だから、私は辛抱強く待っていました。

(現状態の)貴方がこの様な状況に面していたなら、色々な事を考え、色々計画した事でしょう。
墓から出たとき貴方は何と言うべきか? 準備して、スピーチを用意して、誰かに誤解を与えないようにして。 と、こんな具合にしませんか?
忙しい、忙しい、考えて、考えて、その時余り平和はなく、そよ風を感じる余裕も無い事でしょう。 人類の意識に優しく意味深い効果をもたらす「創造の動き」のそよ風です。

(途切れる事無く)「マインド」としての「存在」に成っている私の意識体験の中で、私は三日後まで待っていました、そして私は自分の注意を適切な場所にシフトして、墓から出てきました。
これが「復活」と呼ばれている出来事です。
これが「生命に帰る」と呼ばれている事です。

これは『「体達が他の体達に対して行動/反応している事」により影響され撹乱されている様に見えてた真理』を再度正しく確立し直した事なのです
しかしこれはより正確には、真理が人間意識を取り込む「プロセス」の(途切れない)「動き」だったのです。

それだけです。 {でもそれは磔刑と復活の様に}見えていました。
しかしその様に見えていた事が実際に起こっていた訳ではありません。
そこでは、消し去ることが不可能なインパクトを持って、愛が表現され体現されていました。 否定する事の不可能な、癒しの恵みが起こっていました。

さて私は何故この様な話をしているのでしょう?
貴方が「自分は体である」と信じている世界に存在している時でも、貴方の周りの人達が「彼等自身が体である」と信じてしまっている世界に貴方が居る時でも、そして彼らが貴方に対処する唯一最上の手段が貴方の体を操作する事だと信じている世界に貴方がいる時でも、貴方がその様な環境に左右されず、それによって衰弱したり破壊されたりしないでいる方法があると知る必要があるからです。

その方法とは孤児院を放棄する事です。 それだけです。
孤児院を放棄するとは、(恐れと罪と自己嫌悪が絶えず起こっている)独立的マインドを放棄する事です。 その様にして貴方は{体/形に縛られている世界から}抜け出るのです。

より優れた体に成って、他者の体を操作する事によって孤児院から脱出する事は出来ません。
より愛情深い体に成って、周りの体達に良い影響を与える事によって孤児院から脱出する事は出来ません。
貴方は愛や憎悪の幻想内で機能するわけでも無いのです。

貴方が貴方の「父」を離縁したステップ(行動)が、孤児院を成立させている(様に見せている)唯一のものです。
私は私の「父」を離縁しませんでした。だから私は磔になって苦しみはしませんでした。
私が体験したのは復活ではなく、人類のマインド定義が死に(ある程度の)真理が復活した事だったのです。
何故でしょう? それは私が離縁しなかったからです。 だから私の為に神の法が成り立っていたのです。

貴方達一人一人が「自分達の知っている事はかなりの確立で間違っている、あるいはとても歪められている」と仮定出来る様に成れば、貴方達は聖なる瞬間に入り、より頻繁に「何が真理か」訊ける様に成ります。  現在の自分達のマインド定義の外へ伸び出て、貴方の体(それが自分「自身」だと貴方はまだ考えています)の向こう側にあるものと繋がる事が出来ます。
そうすれば、孤児院は崩れ出します、その壁は崩れ出し、貴方は境界線を越えて見る事が出来る様に成ります。
貴方の復活が起こるのです。
貴方は橋を渡り切る事を決意し、これが復活に相当します。

アセンション(昇天)は、(人間の生命が引き上げられ、体の存在が終焉した)他の次元への動きだったのでしょうか?
その様な事が起こるのでしょうか? いいえ、全く違います。

確かにアセンション中、私の体(皆が私の体と認めていたもの)が空へ昇って行きました。
しかしこれは、私が人ごみから抜け出て山に移動した時や、海の片側から反対側に瞬間移動した時と同じ行動だったのです。
これは単に注意/意識のシフト(移動)です。
橋を渡る事は、貴方が注意をシフトさせる事なのです。
これがアセンションに相当するものです。

これが起こった後も貴方は、今自分を示しているもの全てを持ち続けます。
しかし、貴方はその中に(縛られて)いる様には感じなくなるのです。
そして貴方が「創造」の一部分を、排他的に自分として認識する事も無くなります。
それだけでなく、貴方は貴方の注意の焦点でさえも無いのです。 何故なら「創造」の全ての側面は「神の現れ」の体験を完全に/ 豊かに、そして「神で在るもの」の栄光の内に示すものだから。

私は上記の言葉をわざと使っています。 これが神性とスピリットと真理と愛の(貴方が今まで体験したどの事よりも)豊潤な体験だと理解出来る様に。
橋の向う側とは、貴方の注意の届いている先の事です。
ある人が今日少し前に言った様に「貴方が注意を与えている所に、貴方の信心も行きます。」

貴方が橋を渡ろうとしている時(体として反応したいと云う)体からの要求に邪魔されない様にしなさい。 何故なら、貴方の注意が行く所に貴方の信心も行くのだから。
そして貴方の信心が行く所で、貴方の信念が体現されます。

だから、もし貴方が「神の聖なる子供」ではない人と関わったり、対決したり、その様な人から要求を突きつけられたり、その様な人から自分を護る必要を体験したいと思ったなら、その様な定義に貴方の注意を与えなさい。 そうすれば貴方の信心もそれについて行くでしょう。 そして貴方は「神の神聖なる子」を完全に取り逃がし、その人の「リアリティ」を完全に見失ってしまうでしょう。

貴方の繋がりの欠如は、コミュニケーションの完全な欠乏をもたらします。
そして「救済/安全」と「その正反対のもの」が争っていると云う幻想が貴方を捉えてしまっている様に見える事でしょう。
それらは何もリアルではありません。

そして貴方は自分一人では何に信心を与えたら良いか知りません。
だから「何かに自動的/習慣的に自分の注意を与えてしまっていないか」気をつけていなさい。

貴方の「救済」は貴方が「二つのステップ」を実践する事にかかっています。
(習慣から精神的あるいは身体的に反応してしまわないよう)躊躇して、一歩下がって「ここの真実は何ですか?」と訊ねるのです。
これが貴方の救済です。 これをしたなら貴方が直面している事は「体が他の体に対して何か要求している事」ではなくなります。
(その時)貴方の直面している事は、貴方が聞こうとしている答えに成ります。
それは他者が貴方に突きつけている要求ではなく、貴方が訊ねていた質問に対する答えに成ります。 

これが要点です。

テーマ : スピリチュアル
ジャンル : 心と身体

ACIM10-03-27#2

“Be not unwilling now, you are too near, and you will cross the bridge in perfect safety, translated quietly from war to peace. For the illusion of love will NEVER satisfy, but its reality, which awaits you on the other side, will give you everything.”

[今諦めてしまうのは止めなさい。 貴方は既に近くまで来ています。そして貴方は(戦争から平和へと静かに翻訳して)完全な平和の内に橋を渡るでしょう。 何故なら、愛の幻想は決して貴方を満たす事が出来ず、(橋の反対側で貴方を待っている)リアリティが貴方に全てを与えるから。]

「橋の向こう側とは貴方の注意の向こう側(貴方の注意が届いている先)だ」と私が言った事を思い出してください。
だから、我々は内部自己批判をして、貴方自身に関する酷い事をあげつらう必要は無いのです。
我々が話しているのは、現状を正直に見て、『貴方が特別な関係を持っている限り、貴方がその様な関係を育て強化している限り、貴方は「自分が誰か」解らない』とクリアに示す事です。
貴方は(自分が現在もその中にいる)天国に対して自分を無意識にさせています。 そうして貴方は罪と病と死の三位一体に縛られています。

もし貴方がこれを真正面から見たなら、このような事を続ける事は意味をなさないと気付き、橋を渡る決意をする事が賢明だと思い至るでしょう。
そして橋を渡る事は、大きく成る事(より優れた者として育って行く事)とは関係ありません。
これは何かに成るプロセスではありません。
貴方はパーフェクトなポイントの後ろに居るのではなく、そこに向かって進んでいる訳でもない事を覚えておいて下さい。
既に貴方はパーフェクトなポイントに居り、そこから自分自身を理解するべきなのです。

これは距離を伴わない旅です。
これは貴方が自分の注意を「自分の正気を取り戻す為に必要な場所に」向ける事です。
だからこれを読みながら、これが物凄く難しい、時間の長く掛かる困難な事だと考えるのは止めなさい。
(パチンと指を鳴らして)聖なる瞬間、それで全てです。 立ち止まりなさい、貴方の「条件付けられている反応」を放棄しなさい。
静かに成って「父よ、ここの真理は何ですか? 精霊よ、ここの真理は何ですか? 私の「ガイド」よ、ここの真理は何ですか?」と言いなさい。
そして答えを聞きなさい。 真摯に「真理を受け入れる事」以外を求めていない「マインドの現われ」に成りなさい。

我々はシンプルな事に関して話しています。
貴方がまだ橋の向こうへと行けていない理由は、貴方がまだ孤児でいる事を気に入っており、これがどれだけ酷い事か気付いていないからです。 これがどれだけ憎しみに満ちた事か、どれだけ破壊的な事か貴方は気付いていません。
貴方はこの破壊性を、自分にとって挑戦し甲斐のあるチャレンジ(試練)として受け取っています。 「このチャレンジに対して受けて立ち成功する事が出来る」と云う確信を貴方は何処かから得ているのですが、それは真実ではありません。

“Be not unwilling now, you are too near, and you will cross the bridge in perfect safety, translated quietly from war to peace.”

[今諦めてしまうのは止めなさい。 貴方は既に近くまで来ています。そして貴方は(戦争から平和へと静かに翻訳して)完全な平和の内に橋を渡るでしょう。]

『「得る事」から「与える事」へと翻訳させて』とも言えます。

本当に貴方は直ぐ近くまで来ています。


“For the illusion of love will NEVER satisfy, but its reality, which awaits you on the other side, will give you everything.”

[何故なら、愛の幻想は決して貴方を満たす事が出来ず、(橋の反対側で貴方を待っている)リアリティが貴方に全てを与えるから。]

橋の向こう側とは、貴方の注意/意識の届いている先です。
それだけです。 
「これは短い橋なのですか? それとも長い橋? 向こう側までどれだけの距離がありますか?」 などと空間的に考えるのは止めなさい。
貴方の注意の届いている先が、橋の向こう側なのです。

“The special love relationship is an attempt to limit the destructive effects of hate by finding a haven in the storm of guilt.”

[特別な愛の関係とは、罪悪の嵐の中で安全地帯を確保して、憎しみの破壊的効果を減らそうとする試みです。]

ドラマチックな表現です。
しかしこれは(罪と恐れが手を組んでハッキリと存在し、それらが安全と成功の確保を求める動機に成っている様に見えている)孤児としての境遇を説明しているのです。
貴方にとって、これはとても妥当な事に見えるのではないでしょうか? 

しかし実際にはこれは妥当な事では無いのです。
これは、貴方を孤児院から出す事なく、貴方を無意識のままに留めてしまうプロセスなのです。
この考え/境遇が「現状の先を見てみよう」と貴方に示唆する事は無いのです。

“The special love relationship is an attempt to limit the destructive effects of hate by finding a haven in the storm of guilt.”

[特別な愛の関係とは、罪悪の嵐の中で安全地帯を確保して、憎しみの破壊的効果を減らそうとする試みです。]

ソフトで優しく慈しむ場所。 貴方達二人がお互いを励まし合い気を許して、お互いの恐れを刺激しないで居られる場所。
貴方達はゲットする為に一緒にいて、お互いに譲るよう要求します。
「もっと下さい。もっとくれ。」と。
「私は落ち着かない。私は気が立ってしまった。 もっと頂戴。私は怖い、慰めて!」
そうして相方が(貴方が心地よいと定義しているやり方で)気を配ったので、貴方は恐れを少し脇に退けて、もう少し平和を体験します。
こうして貴方は、貴方の愛する人が貴方を慰めたと自分に信じ込ませます。
しかし貴方達二人は、幻想の中に浸っていて、一時的な気休め(お互いを騙し合う事)以外のものは何も行われていません。

“The special love relationship is an attempt to limit the destructive effects of hate by finding a haven in the storm of guilt.”

[特別な愛の関係とは、罪悪の嵐の中で天国(安全地帯)を確保して、憎しみの破壊的効果を減らそうとする試みです。]

そこから出ようと試みる事なく、破壊的な事を減らそうとするのです。

“. . . the storm of guilt. It makes no attempt to rise ABOVE the storm, into the sunlight.”

[それ(特別な愛の関係)は、嵐から抜けて日の光の中に出ようとはしません。]

孤児院から出て、地平線を越えて行こうとはしません。

“On the contrary, it emphasizes guilt OUTSIDE the haven by attempting to build barricades against it, and keep within them.”

[特別な愛の関係は、罪悪に対するバリケード(防御壁)を築く事により、天国(安全地帯)の外に罪悪を強調し、お互いをその関係内に閉じ込めようとします。]

「貴方は私の救済です。 貴方が私に平和をもたらします。 貴方が私に安全を感じさせます。 私は貴方の外には「私のよきもの」を探さず、貴方が私の外に「貴方のよきもの」を探す事も許しません。 我々はお互いへの気遣いの中にそれぞれを拘束して、ある程度の平和を得ます。」

得る事、取る事、ゲットする事。そこには愛がありません。 No Love。

“The special love relationship is not perceived as a value in itself, but as a place of safety from which hatred is split off, and kept apart.”

[特別な愛の関係そのものが「価値あるもの」として認識されるのではなく、それは(憎しみが分離されて保管される)安全な場所として認識されます。]

二人の恋人はある程度の安楽を得られるかもしれません。 しかし罪と病と死の三位一体が起こっているなら、そこには安全/安心はありません。 そして愛の勝利は、空虚な勝利なのです。
そして私は「貴方の持って生まれた権利は、それ以上のものなのだ」と言い続けているのです。
貴方はそれ(特別な愛の関係)以上のものに値するのです。
貴方には持って生まれた権利があり、それは「貴方で在る者/真の貴方」つまり「神の神聖な子供である貴方」が既に永遠(の存在)だからです。
これを、罪/病/死の想像上の脅威無く体験する事が貴方の持って生まれた権利なのです。
罪/病/死などの脅威は、貴方の持って生まれた権利の意識体験には含まれておらず、貴方がそれらのものから手を切るべき時が来ています。

“The special love partner is acceptable only as long as he serves this purpose. Hatred can enter, and indeed is welcome in SOME aspects of the relationship, but it is still held together by the illusion of love.”

[特別な愛のパートナーは、彼がこの目的を果たす限りにおいて受け入れられます。 憎しみがこの中に入る事も可能で、この関係の中の特定の要素には進んで取り入れられます。 それでもこの関係は愛の幻想によって保持されるのです。]


お互いをお互いに縛り付けている幻想、あるいは、一つの幻想がもう一つの幻想を自分の近くに縛り付けている事。 これは狂気です。

これはまだ、貴方の持って生まれた権利ではありません。
これはまだ、貴方の健全な「マインド」の全てではありません。

これは(この様な幻想は)、この瞬間の貴方である(貴方がこれ全体をまだ意識的に体験していないにしろ)「神の聖なる息子/娘」ではありません。

そして、もし誰も貴方に幻想(全く正気を反映していない特別な憎悪関係そして特別な愛の関係)が起こっている所を示さなかったなら、貴方はその「部分的な体験」から「全体への体験」へとシフトして行くことが出来ません。
誰かがこれを貴方に指摘しなければ、貴方は他の(特別な関係以外の)場所を見てみようとせず、既に確立されている範囲内で「何とかしよう」とし続けてしまうだけです。

“Hatred can enter, and indeed is welcome in SOME aspects of the relationship, . “

[憎しみがこの中に入る事も可能で、この関係の中の特定の要素には進んで取り入れられます。]

何故なら、少しの憎しみは関係を活性化させ、それを「イキイキ」させ、貴方達をより親しくさせ、そして仲直りする事は素晴らしいからです。

“Hatred can enter, and indeed is welcome in SOME aspects of the relationship, but it is still held together by the illusion of love. If the illusion goes, the relationship is broken or becomes unsatisfying on the grounds of disillusionment.”

[憎しみがこの中に入る事も可能で、この関係の中の特定の要素には進んで取り入れられます。 それでもこの関係は愛の幻想によって保持されるのです。 もし幻想が無くなれば、関係は壊れるか、あるいは幻滅的な満たされないものに成ります。]

幻滅とは、貴方が懐いていた幻想がその真の姿(それが幻想である事)を見せたと云う事です。

“Love is NOT an illusion. It is a fact. Where disillusionment is possible, there was not love but hate. For hate IS an illusion, and what can change was NEVER love. It is certain that those who select certain ones as partners in any aspect of living, and use them for any purpose which they would not share with others, are trying to LIVE with guilt rather than DIE of it.”

[愛は幻想ではなく事実です。 幻滅が可能な所には、愛ではなく憎しみが在ったのです。 何故なら、憎しみは幻想で「変わる事の可能なもの」は初めから愛では無かったから。 生活の何らかの側面において特定の人をパートナーに選んで、彼等を何らかの目的(他者達とは別け合う積りのない目的)で使用している者は、罪悪故に死ぬのではなく罪悪と共に生きようとしているのです。]

解りますか? 貴方は自分の特別な関係を使って、居心地の悪い罪悪状態の中で(気を紛らわせて)心地よく生きる方法を得ようとしているのです。
甘い誘惑を使って(心地の悪い状況から)気を紛らわせようとしているのです。  しかし甘い誘惑もまた幻想でしかありません。
だから貴方は[罪悪故に死ぬのではなく罪悪と共に生きようとしている] のです

もし貴方が甘い幻想を受け入れて、罪悪体験の中で心地よく過ごす事が出来なければ、その時貴方は罪悪と直面する事になります。
罪悪には情け容赦がありません。 罪悪(感)は「疑わしきは罰せよ」なのです。 罪悪は非情で、意地悪なのです。 罪悪と共に生きる事は死する事です。

しかし貴方が罪悪を真っ向から見つめる気持ちに成れたなら、特別な愛の関係の甘い偽りが無い所で、貴方はその真の姿を見る事が出来、貴方は{賢明な}選択をする事が出来る様に成るのです。
これを行っても、貴方が罪悪により死亡する事はありません。 何故なら、罪悪の真の姿を正直に評価したなら、貴方は{正しい}選択をするからです。 貴方は橋を渡る事を選択するのです。

その時貴方は、{今までの行動/反応を}躊躇して静かになり「父」か「精霊」に「ここの真理は何ですか?」と聞ける様に成っています。
そして「貴方の最良の判断以外の所から来るもの」で自身が満ちる事を許可できるだけ無防備に成っており、コントロールを放棄しています。

“This is the choice they see.”
[これが彼等の見ている選択です。]

“. . . to LIVE with guilt rather than DIE of it.
And love, to them, is only an escape from death. They seek it desperately, but not in the peace in which it would gladly come quietly TO them. “

[罪悪故に死ぬのではなく罪悪と共に生きようとしています。
彼等にとって愛とは死からの逃避でしかありません。 彼等はそれを激しく求めます。 しかし彼等が愛を平和の内に求めたなら、愛は喜んで静かに彼等のもとに来た事でしょう。]

解りますか? これが「ゲットする事」と「許可する事/なすが儘にさせる事」の違いです。 これが「コントロールする事」と「許す事」の違いです。

“And when they find the fear of death is still upon them, the love relationship LOSES the illusion that it is what it is not. For then the barricades against it are broken, fear rushes in and hatred triumphs.”

[そして、死の恐れがいまだ彼等のもとにある事を知ったなら、愛の関係は(フリがばれる事により)その幻想を失います。 その時、恐れに対するバリケードが破れているので、恐れが突入して来て憎しみが勝利します。]

「オオ。 お願いだから私に特別な関係の優しさを下さい。 憎しみの勝利を解除出来る様に!」
この様にして貴方は無駄な努力を続けて来たのです。 それを真正面から見て「これを見る他のやり方がある筈だ!」と言う代わりに。

貴方は口を閉じ(思考を止めて)、自身{貴方の現在の自己感覚}の外にある「何か他のもの」に訊ねられるだけ、十分謙虚に成るべきなのです。
この様にして貴方は自分の「父」からの離縁を取り消すのです。
この様にして貴方は橋を渡り始めるのです。 

貴方は橋を渡って何処に行くのでしょうか?
貴方は「貴方の注意の届いている所」へ行くのです。

“There are no triumphs of love. Only hate is concerned with the "triumph of love" at all. The illusion of love CAN triumph over the illusion of hate, but always at the price of making BOTH illusions.”

[愛の勝利と云う様なものはありません。 「愛の勝利」にこだわるのは憎しみだけです。 愛の幻想が憎しみの幻想に勝利する事は「可能」です。 しかし、それは常に両方の幻想を起こす事によってのみ可能なのです。]

つまり{この様な状態の時}貴方はまだ捕らわれているのです。 まだ罪/病/死の三位一体が{貴方の状況/マインドを}統治しているのです。

“As long as the illusion of hatred lasts, so long will love be an illusion to you.”

[憎しみの幻想が続いている限り、貴方にとって愛は幻想であり続けます。]

だから

“. . . long as the illusion of hatred lasts, . .”

[憎しみの幻想が続いている限り、]

ここで覚えておいて欲しいのは「兄弟姉妹が貴方の感じている憎しみを起こした訳ではない」と云う事です。
(貴方の)外側にある状況が「貴方の感じている憎しみ」を起こした訳でもありません。
貴方の性格上の問題が、憎しみを生んだ訳でもないのです。

とてもシンプルな理由によって、憎しみの幻想が体験されているのです。
その理由とは、貴方が「お父さん、私は貴方から離縁したいです。父よ、私は貴方を無視する事にしました。」と言った事です。
「父よ、私は自分の相続権を拒否します。 私の全ての豊かさだけでなく、『私で在るもの』(真の私)に対する意識も拒否する事にしました。」

これが成立し続けている限り、憎しみが続きます。 憎しみの幻想が保持されます。

“As long as the illusion of hatred lasts, so long will love be an illusion to you. And then the only choice which remains possible is which illusion you prefer. “

[憎しみの幻想が続いている限り、貴方にとって愛は幻想であり続けます。 その場合、貴方に可能な選択は「どちらの幻想をより好むか」だけです。]

つまり貴方は今日少し憎んで、明日少し愛します。 この様に振舞って、その時々で罪と病と死から「安全と安心」を確保出来ると思う方(憎しみか愛のどちらか)に味方するのです。

しかし貴方が孤児の境遇を放棄するまで、実際に安全と安心を得る事は不可能です。
貴方が「もしかしたら、神聖に成る事はそんなに悪くもないかもしれない。 私が既にそうなのならば、それを受け入れても悪くは無いかもしれない。」と言って自分の神性を認め直すまで。

「私は特別な愛の関係の醜さと憎しみを真正面から見つめてみよう。
そして私はこの破壊性を見つめ、どの様な場合でもこれが建設的になる筈は無いと気付き、私の知性は『これ(特別な関係)を今以上求めても築いても育てても埒が明かない』と云うでしょう。 そして私は決意し、そして熱意と共に橋を渡って行きます。」

“There IS no conflict in the choice between truth and illusion.”
[「真理か幻想」の選択には闘争や葛藤はありません。]


これはとても重要なポイントです。
だから、これが酷く難しいプロセスに成ると考えるのは止めなさい。

“There IS no conflict in the choice between truth and illusion. Seen in THESE terms, no one would hesitate. But conflict enters the instant the choice seems to be one between ILLUSIONS, for this choice does not matter.”

[「真理か幻想」の選択には闘争/葛藤はありません。 この様に見れば誰も躊躇する人は居なくなります。 しかし異なる幻想の間を選択している限り、闘争/葛藤が進入します。 何故なら、これはどうでもよい選択だから。]

何故これは「どうでもよい選択」なのでしょうか? 何故なら、この選択は、どちらを選んでも「違いはもたらさないもの」だから。
一つの幻想を差し置いてもう一つの幻想を選んでも、そこにあるのは幻想だけです。
そこでは何も起こっておらず、何も癒しは起こっていません。
そこでは正気の回復が起こっていません。

“Where one choice is as dangerous as the other, the decision MUST be one of despair.

[ある選択がもう一つの選択と同等に危険な時、その決定/結果は失望に違いありません。]

もう一度読みましょう。

“Where one choice is as dangerous as the other, the decision MUST be one of despair.

[ある選択がもう一つの選択と同等に危険である所では、貴方がどの様な決定をしたにしろ、それは貴方を失望へ導くに違いありません。]

この様な失望に関しては既にご存知でしょう。 何故なら貴方は既に、同等に危険な(幻想である)もの達の中から選択をしているのだから。
そして「神」の「息子」よ「娘」よ、貴方は(それらよりも)「より素晴らしいもの」への準備が出来ています。

今週は、自分がどの様に行動しているか気を付けて過ごして下さい。
貴方が自分の兄弟をあれこれの為のダシに使っていないか。
もしかしたら貴方は「あの人の事をとても愛しており、あの人にとって大切な人に成りたいと思っており、あの人を使って、よりハッピーに感じたり、気分良くなったりしたい」だけなのかも知れません。
貴方が他者をどの様に引っ掛けるか気付いていなさい。  誰かに罪悪感を擦り付けたり、誰かを褒めそやして、その代わりに自分が何かを得ようとしている場合、それに気付ける様に成りなさい。

そしてメシア(救世主)を探し求めて、彼/彼女に自分の忠誠心を与え、その後について行こうとするのも止めなさい。
誰かを(偽者の)救世主に仕立て上げ、彼/彼女を惑わせて、彼/彼女自身の神聖から彼等を遠ざけ、それによって何かを得ようとするのは止めなさい。 例えば、その人と仲間に成って自分を重要に見せたり、その人に何かしてもらおうとしたり、貴方の問題を取り除いてもらったり。
貴方自身で橋を渡る事無く、それらの事をして事態を改善させようとするのは無駄な事ですから止めなさい。

貴方の兄弟を貶める方法は無数に在るでしょう。
憎しみを表現する方法も無数にあるでしょう。 「愛」の表現さえもその一つで在り得るでしょう。 しかしそれは本当の愛では無く、特別な愛です。
橋を渡って行くことが要点なのです。 これを覚えておいて下さい。

I love you all.




「Northwest Foundation for A Course In Miracles」の行動は全て無料で(読者にどの様な義務も負わせる事も無く)提供されています。 これは無条件に差し伸べられた愛によって実施されています。 ギフトとはその様なものだからです。 貴方と同等の方が既にこのギフトを貴方に差し出したので、これらの資料が貴方に提示されています。  Rajの指示により、これらの資料が売買される事はありません。 



A Course in Miracles Study Group with Raj, March 27th 2010
The Northwest Foundation for “A Course in Miracles”
Northwest Foundation for “A Course in Miracles”
Phone: 360-638-0530 Fax: 360-881-0071
Website: http://www.nwffacim.org
E-Mail: paul@nwffacim.org

テーマ : スピリチュアル
ジャンル : 心と身体

プロフィール

翻訳 岡上

Author:翻訳 岡上
ACIM - A Course In Miracles

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