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レベル・コンフュージョン(レベルの混同) ACIM2001-12-12 抜粋

レベル・コンフュージョン ACIM 2002年12月12日 抜粋



Chapter 2-3

[Healing as Release from Fear]
[怖れからの解放としての癒やし。]


恐れは祭壇(あなたの大いなる「自身」、神の現れ)からあなた自身を意識的に切り離したことにより起こるのです。

そして「怖れているもの/怖ろしいもの」からあなた自身を防御/救助しようとして、(祭壇の)「輝き/放射熱」をより効果的に操ろうとしては駄目なのです。
あなたは(怖れや祭壇の輝きから)自分の中の祭壇に向き返らなくてはいけないのです。


次のセクションの読みながらこのことを憶えておいてください。

[Our emphasis is now on healing. The miracle is the means, the Atonement is the principle, and healing is the result. ]

[わたし達の今の主眼は癒やしなのです。 奇跡は方法で、アトーンメント(贖罪/和解)が原理で、癒しは結果なのです。]


癒やしが結果なのです。 これを忘れないようにしましょう。
形而上学的な仔細によって混乱してしまい「私は目覚めつつあるけれど、私は癒やしの確証を得ていない。 しかし癒やしを得ることが要点ではないのだから。」などと言ってしまわないでください。
癒やしは要点ではありません。 しかしあなたが癒やしの確証を得ていないなら、あなたはアトーンメントの確証を得ていないのです。 癒やしが(奇跡の)結果なのです。 癒やしを期待しなさい。癒やしを熱望し要求しなさい。

もしあなたが癒やしを体験してないなら、祭壇に向き返って、祭壇にあなたの注意を与えて、あなたが「愛」(あなたという愛)で溢れ返るようにして、「愛から離れてそれ(あなたという愛)を遠くから観察するだけでは無意味である」と自分に思い出させなさい。

愛に帰って行く体験が(健全な体に帰って行く体験が)あなたに出来るように。


[To speak of "a miracle of healing" is to combine two orders of reality inappropriately. Healing is not a miracle. The Atonement, or the final miracle, is a remedy and any type of healing is a result. The kind of error to which Atonement is applied is irrelevant. All healing is essentially the release from fear. To undertake this you cannot be fearful yourself. You do not understand healing because of your own fear. ]


[「癒やしの奇跡」に関して話すことは、二つのレベルのリアリティを不適切に混同してしまうことになります。癒しは奇跡ではありません。アトーンメント(和解/贖罪)つまり最終的奇跡が薬で、あらゆるタイプの癒やしは結果なのです。アトーンメントは、どのタイプのエラーにでも適用出来るのです{どのタイプのエラーでも癒やすことが出来るのです}。 基本的に癒しとは怖れからの解放なのです。
あなた自身が恐れていてはこれ(癒やし)は行なえません。あなた自身の怖れのせいであなたは癒やしを理解出来ていないのです。]


祭壇に背を向けている限り、あなたには癒しが理解出来ません。

しかしあなたが祭壇に向き合って、恐れが引き起こす「防御の設立/設置」に自分の注意を与えなくなった途端、あなたは自分が祭壇の光によって愛されていることを発見するのです。
これ(祭壇の光)があなたの根源的存在で、これが「神があなたの中であなたとして現れていること」なのです。


そして愛があなたを満たしあなたの中に愛が満ち溢れて行くに従い、怖れが去って行きます。 そして怖れの確証(怖れを表現しているもの)が去って行きます。 そして自分がパーフェクション(完璧な状態)を体験していることをあなたは発見するのです。 そして何が起こったかあなたは理解するのです。
しかしこれは理解が癒やしをもたらしたからではありません。あなたはこのことも理解するのです。
祭壇であなたを抱擁した愛こそが、「あなたという愛、愛としてのあなた」なのだとあなたは気付くのです。

そしてそれ(祭壇/あなたという愛)から分離している感覚が全くない所で、あなたは「あなたという存在の全体」を感じるのです。(その感覚は常にあなたに与えられ続けているのです。)

そしてあなたは愛が答えであることを理解するのです。

(怖れに対して)自分を防御しようとするのではなく、「あなたという愛、あなたである愛、あなたの真ん中にある祭壇」にあなたの注意を与えることが、「あなたが怖れていたもの/こと」が幻想であることをデモンストレートするのです。

これを私は、理解ではなく「Knowing(叡智/知っていること)」と呼んでいます。

これはあなたが真理を意識的に体験することなのです。
これは何かに対する体験/認識ではなく、「リアルである唯一のこと」を「それ自身として(あなたがリアリティそのものに成って)」体験することなのです。

そしてあなたが何かに対して防御的に成っている時でさえも、「リアリティであるもの」が唯一あなたの真理なのです。{しかし怖れて防御的に成っている限り、あなたはそのリアリティを体験出来ないのです。}


[ A major step in the Atonement plan is to undo error at all levels. Sickness or "not-right-mindedness" is the result of level confusion,…]

[アトーンメント・プラン(救済計画)の主要なステップは全てのレベルでエラーを解除することなのです。病(或いは正しいマインド状態でないこと)は、...レベル・コンフュージョン(レベルの混乱)の結果です。]


病が「正しいマインド状態でないこと」としてここに定義されて(言い表されて)います。
病は「正しくない身体性」や「正しくない関係」や「政府の正しくない主導者」とは定義されていません。


[Sickness or "not-right-mindedness" is the result of level confusion, because it always entails the belief that what is amiss on one level can adversely affect another. ]
[病(正しいマインド状態でないこと)は「一つのレベルで間違っていることが他のレベルに良くない影響を与えることが出来る」という信念を常に内包しているので、それ(病)はレベル・コンフュージョンの結果なのです。]


ここでシンプルに言い表されていますね。
あなたが自分の背中を祭壇に向けて、源とあなた自身の間の繋がりを意図的に断ち切っている時、あなたは輝き(祭壇の光からの放射熱)に夢中に成っているのです。  その時あなたは(祭壇/光そのものではなく)祭壇の現れの確証(祭壇から放射されている輝き)に注意を奪われているのです。
すると途端に怖れが現れるのです。
あなたは自分が何故怖れているか理解していないので、自分が何を怖れているか認識出来てはいないのです。
(だから)あなたは「自分が祭壇(聖霊)に背中を向けてこと」が「自分の怖ろしい体験/感情を作っている原因であること」を理解していないのです。



あなたが祭壇に背を向けている限り、あなたは{祭壇の中の光そのものではなく}祭壇の現れの効果(輝き)を見ているのです。
そしてあなたは輝きを使って自分自身を守ろうとしてしまうのです。
あなたは美しく防御することも出来れば、(輝きを)甲冑のように使って守ることも出来るのです。

あなたは何を使って自分を美しく守ろうとするのでしょうか? あなたは何を使って自分を(鎧のように)強化しようとするのでしょうか?

あなたは何を使って「根源的なあなた」を破壊{しようとする試み}を美化したり、{分離という}砦を強化しようとするのでしょうか?


あなたが常に直面しているものは、そしてあなたが使える唯一のものは、リアリティ/天国/神の無限の顕示化(神があなたの前の現実として立ち現れること)だけなのです。

だからあなたはこの神の無限の現れを使って自分を強化/防御しとしてしまうのです(それ以外のものは存在していないのだから)。

あるいは、あなたは神の無限の現れ(顕示化)の一部を使ってより美しいおとり(眼くらまし)を作るのです。
つまり、あなたは(祭壇の)効果/(神の)顕示化を使って、あなたの防御(あなたが防御しようとしていることの確証)を強化しようとするのです。

ここには二つの選択肢があるので、これは混乱なのです{どちらを選べば良いかあなたは混乱/混同してしまうのです}。


これがレベル・コンフュージョン(レベルの混同)と呼ばれているものなのです。
これが混同と呼ばれているのは、あなたには二つの選択肢(チョイス)があるからです。
(現在あなた達が夢中に成っている祭壇の輝きから)振り返って祭壇と向き合い、その中に在る愛の現われ(神があなたの全てに成っている状態)の中に入って行くというリアルなことを選ぶか、

あるいは祭壇に背を向けたままでいて、神の実体化(Manifestation、ハッキリ現れている神の一部)をより多く使って神の実体化の他の部分(ハッキリ現れている神の他の部分)から自分を守ろうとすることを選ぶことが可能なのです。{後者がレベル・コンフュージョンなのです。}


[We have referred to miracles as the means of correcting level confusion, for all mistakes must be corrected at the level on which they occur. Only the mind is capable of error.]
[わたし達は奇跡のことを「レベル・コンフュージョンを修正する方法」と言って来ました。 何故なら全ての間違えは、その間違えが発生したレベルで修正される必要があるから。 エラー(間違い)を起こせるのはマインドだけです。]


そしてマインドがエラーを体験しているのは、マインドが自らの注意/意識を間違った場所に与えているからです。


[The body can act wrongly only when it is responding to misthought.]
[体が間違ったことを行えるのは、それ(体)が間違った思考に反応している時だけです。]



(祭壇の中の光そのものではなく)祭壇の周りの輝き/熱は、神の子が(自分が神の子で在ることを忘れて、そして神の一部から自分を防御する為に神の他の一部を使おうとすることは全く愚かなことだと忘れて)行なう操作(コントロール/操り)だけに反応するのです。



[The body cannot create,…]
[体には創造することは出来ません...]


「神の無限の現れ/顕示化」(神の創造物)には創造は出来ないのです。
これは物理的身体だけではなく、存在の確証全て(神の創造物全て)に当て嵌まります。


[…and the belief that it can, a fundamental error, produces all physical symptoms. Physical illness represents a belief in magic. The whole distortion that made magic rests on the belief that there is a creative ability in matter which the mind cannot control.]

[それが出来る(体に創造が出来る)という信念は根源的なエラーで、この信念があらゆる身体的症状を作っているのです。身体の病は魔法に対する信念を表しています。 「物質(matter)の中に創造的力があり、マインドはそれをコントロール出来ない」という信念(歪み)の上に魔法が成り立っているのです。]

あなたが祭壇に背を向けながら(つまり父の視点から切り離された状態で)創造を見た場合、創造は生きているので、創造は生命を顕示化(現実化)しているので、創造が攻撃的に成っているように(創造が攻撃的に成ることが可能であるかのように)あなたには見えるのです。 創造(の一部)が手強い敵に成っており、あなたはその創造(の一部)から自分を守らなくてはいけないように感じるのです。

創造は神自身の確証(神の存在を現しているもの)なので、ただ動かず静的に居るだけでは無いのです。

だから(祭壇に自分の背を向けている人達は)この敵(創造の一部の動き)が攻撃的で知的で自分に対してネガティブな注意を与えていると考えてしまうのです。だからあなた達は、この能動的で攻撃的な敵から自分達を防御する必要があると考えているのです。

しかしこの敵が持っているように見えている生命は、創造が(神が指示している通りパーフェクトに)それ自身を表現していることでしかないのです。


[This error can take two forms; it can be believed that the mind can miscreate in the body, or that the body can miscreate in the mind. When it is understood that the mind, the only level of creation, cannot create beyond itself, neither type of confusion need occur.]

[このエラーは二つの形で現れることが可能です。 マインドが体の中で誤創造出来ると信じる(エラー)か、マインドの中で体が誤創造することが出来ると信じる(エラーが可能なのです)。 しかしマインド(これが創造の唯一のレベルです)はそれ自身を越えては創造出来ないと理解されたなら、どちらの混乱(エラー)も起こらなく成ります。]


その通りなのです。

マインド以外のものは何も無いのです。だから私は、あなた達が見ているものは全て「神のマインドの中のアイディア」なのです、と言っているのです。
そして全ての(それぞれの)アイディアは、それらのアイディアを作ったマインドにとって完全に具体的に体験出来るもの(見て触れるもの)なのです。

マインドにとってこれら(創造/アイディア)が具体的だからといっても、これらが物質として存在している訳ではないのです。 これらは純粋な霊(スピリット)なのです。



質問者:  原初のエラーで(神の意志から分離するという原罪によって)マインドは体を誤創造したのですよね?

ラジ:ハイ。


質問者: 病を作ることが出来るということが私には理解出来ません。 例えば、私が心配して、不安や防御的考えが...、つまり、誰でも不安で自分を病気にしてしまった経験があると思うのです。
これはマインドが体の中に不調和を発生させてしまっているということなのでしょう?

ラジ: その通りです。。


質問者:
「マインドが誤創造する」と書いてある時それは何を意味しているのですか?
一番初めに起こった(一番初めに起きている)エラーは、マインドが体を誤創造したことなのでしょう? これは体の中で誤創造が起こっていると言うことなのですか?
例えば、とても怒ってしまって胃潰瘍などを作ってしまったりすることは、体の中に誤創造をしたということに成るのですか?

ラジ: 勿論です。


質問者: 私はこれがエラーだと考えたのですが。 ここには『エラーは二つのフォーム(形)を取ることが出来ます。 「マインドが体を誤創造出来る」と信じることが可能です。』と書いてあります。

ラジ: ハイ、そうです。


質問者: あなた(ラジ)は、Manifestation(顕在化、実体化?)がエラーだと言っているのですか?



ラジ: その通りです。 Manifestationは真理ではなく、誤創造なのです。


{という事はより前の部分でラジはかなり危うい(ManifestationとRealityを混同してしまうような)言葉遣いをしていた訳です。 一例「Well, the only thing for you to do anything with, the only thing you are ever confronted with is Reality, the Kingdom of Heaven, the Infinite Manifestation of God.」「あなたが常に直面しているものは、そしてあなたが使える唯一のものは、リアリティ/天国/神の無限の顕示化(神があなたの前の現実として立ち現れること/ Manifestation)だけなのです。」 訳注}


ラジ: (神から分離している積りでいる神の子の)マインドは、それ(Manifestation)(分離的実体化)が実際に起こっていると信じているのです。 しかしリアリティ内ではそれは実際に起こっては居ないのです。
そうでなければ瞬間的癒やしは不可能です。

質問者: なるほどあなたの言いたいことが解って来ました。それ(Manifestation)が実際には起こっていないと理解/認識することが必要なのですね。

ラジ: 奇跡とは知覚の急激なシフトなのです。
人は、自身の顕在化体験(現実体験)の中で瞬間的シフト(物理的法則に縛られていない出来事)を体感しない限り、知覚の瞬間的シフトはもてないのです。

質問者: つまり人は自分が信じていることを見るわけですね。

ラジ: その通りです。

質問者: であれば、何がリアリティなのでしょうか?
もし自分が信じているものしか見えない(体験出来ない)のであれば(何がリアリティなのでしょうか)?

ラジ: それがあなたに出来る最上の質問です。
その質問を発して自分で答えを解明しよう、自分で答えを探そうとしなければ、その時あなたは祭壇を向いているのです。

答えを自分で持っていないことは、居心地悪さ(不安)を感じた時に好奇心を発揮すること(聖霊に訊ね聞くこと)をあなたに奨励するでしょう。

そして不安や問題が無い場合でも好奇心を発揮して答えを訊ね聞くべきなのです。
あなたが今この時点であなたの体として体験していることは、本当の真理ではなく、間違いなのです。

体に対するあなたの知覚/認識や体験は歪んでいるのです。何故なら、あなたは神と共に体に注意を与えていないのだから。 しかしあなたが神と共に自分の注意を体に与えたらな、神は自身がどのようにしてそこに(あなたの体として)居るかあなたに示すのです。

どのような誤創造もリアルに成ったことは無いのです。

しかしあなた達は、自分が信じていることを見ており、自分が見ていることを信じてしまうのです。
これがあなた達を縛り付けてしまうのです。 好奇心を持って「何がリアリティか?」見よう(聖霊に訊ねてみよう)と思えるようになるまで。
あなた自身の信念への確信からあなたの注意を逸らせることが必要なのです。
そしてそれは(あなたの注意をあなた自身から逸らせるものは)好奇心なのです。


質問者: 例えば長く会っていなかった友達が居たとして。 その友達は自分が病に掛かっていると誤知覚していたとします。 私はそれに関しては何も聞いていなくて、突然彼に会った時私は「オオ! 彼は物凄く酷い状況にあるように見える。」と言ったなら、それは...。


ラジ: 私はラザロにそのようなことはしませんでした。 彼はとても酷く見えていましたが。
{と言うことはラジ/イエスにもラザロの酷い状況は見えていたのでしょうか? その酷い状況をイエスが信じてはいなかったにしろ。 「イエスはラザロを死から蘇らせたと聖書には記載されています。」 訳注}


質問者。 つまりそれ(病の認識/確定)は相互合意されている定義に沿って、その場その場で起こっていることなのですね。

ラジ: 勿論です。

質問者: 私はその人が病気だとは(その人に会うまでは)知らなかった訳です。
では何故私はその人を病気と見たのでしょうか?
これは会話などとは全く別のレベルのコミュニケーション(伝達)が起こっていたということなのですか?それともその人と会った途端に、その人を見た途端に、私はそれ(病という誤認識)を知覚して。
それは(その人が私に病んで見えたのは)全てのマインドが繋がっているから?

ラジ: そしてすでにあなた達は、見かけ(様相)に対する「相互合意されている様々な定義群」を持っているからです。


質問者: その人自身が不快に感じていたので、その感じに則したイメージをその人は表明しており、私は自動的にそれ(その人と周りの人達が信じている病のイメージ)を信じたのですか?

ラジ: ハイ、あなた達はそれを自動的に行なってしまっているのです。
しかし、他の選択肢があるのです。

だからあなたはその時その場で、自分には他の選択肢(オプション)があると気付くべきなのです。
{人の様相を見てそれを信じてしまうのではなく、あなたは聖霊か神に真実を訊ね聞くべきなのです。}

そしてあなたは「人々が自分達に関して信じていること(自分達は物理的な体でしかないと信じていること)」を認めたり、その前提の中で人々と繋がることは止めるべきなのです。

そのような前提(相互合意されている定義群)の中で人々と繋がり、それ(定義群)を認証している限り、あなたは変革のエージェント(変革を可能にする人)にも奇跡を受け取る人にも成れないのです。

そしてあなたが「人々に関して信じていること(人々に当て嵌めている信念)」を、あなたは自分自身に対しても当て嵌め信じてしまうのです。



質問者: 私は「One Belief Away」(一つの信念さえ変えられれば良い)という題名の歌を思い出しました。

だから奇跡はいつでも瞬間的なのですね。 これが相互合意されていることでしかない、とわたし達が理解出来たなら、その信念を手放せたなら、このシンプルな思いによって...。

わたし達は常に奇跡から信念一つ離れているだけなのです。
どの瞬間も常に非常に大きな(目覚める)可能性を秘めているのです。

ラジ: その通りです。

質問者:話を少し戻させてください。
わたし達は、体がマインドを誤認識していたり、マインドが体を誤認識しているゴタゴタの中に、相互合意の中に居る訳です。
しかしその間もリアリティの全ては祭壇の中に在るのです。そして私がするべきことは、祭壇を向いてそれを見ることだけなのです。


ラジ: ハイ。 リアリティはこれらの空想には乱されず、あなたがリアリティそのものを発見することを待っているのです。


質問者: そして私が祭壇を見ることによって、アトーンメントの行動が明確に成るわけです。
私が祭壇を見ていることにより、世界を変える方法が明確に成るわけです。


ラジ:そうです。

何故なら、あなたが祭壇を見ている時、祭壇からの光があなたを照らし、あなたの信念を易々と無効にするのだから。

そして一旦それらの信念が無効に見られたなら。それらは無用と受け止められるのです。
そしてあなた達は誰も無用なものを持ち続けようとはしないのです。

一旦それ(信念)が無用と認識されたなら、あなたはその無用な信念を捨てようと努力する必要さえないのです。無用と認識された信念は自然と放棄されるものです。
「あなたが信じていることをあなたは見ること」に気付きなさい。
そして(自分が信じていることを見た結果として)あなたは自分が攻撃され得る(誰かが攻撃したなら自分は傷付けられてしまうだろう)と信じてしまっているのです。

そしてあなたは緊張し慢性のストレス/不安を体験するのです。
あなたは自分の体が硬くなっていると言うでしょう。 しかしあなたが体を硬くしているのです

そこにレベル・コンフュージョン(レベルの混同)が入ってくるのです。
「私の体が何かしている。体が硬く緊張してしまっている。」とあなたは言うのですが、実際にはそうではないのです。

不安を体験しているあなたは、自分の体を緊張させ体をより濃密にして、ストレス(固さ)故に自分の体がより鈍感に成った(それ程敏感ではなくなった)と自分に信じ込ませているのです。

そして(マインドではなく)自分の体がこれをしているとあなたが信じた故に、あなたは自分が見ているもの(自分が見ている状態)を信じて、あなたは自分の体を(自分のコントロール下に取り戻さなければならない)敵として見るのです。

するとあなたは「私の体に実際に病が起こった。胃潰瘍や癌が体に発生した。」と言うのです

このようにしてあなたはあなたが信じていることを見てしまうのです。

そしてあなたは(癌の体験など)自分の信念の中に自分を閉じ込めてしまうのです。

しかしあなたは癌に対してより創造的な信念を持つことも出来るのです。

あなたの信念によっては(あなたがより創造的な信念を持っていたなら)、失われた手足を再生することも可能なのです。
異なる信念は異なる効果をもたらすのです。

{もしもし、この部分はチョッと祭壇を見続けることから話が逸れている感じなんですけど? 
まるで信念さえ変えれば自分一人で自在に体験が作れるように聞えてしまいますが?? 訳注}

だから自分が見ているもの(自分が見ている状態)を信じて「私のマインドが実際の病を作ってしまった。」と考えしまうのは愚なことです。
それは幻想でしかなく、(あなたにそのような方法で体を使わせるに至った)混乱した思考と同様に取り留め無いものなのです。

だからあなたは何であれ病を見て、それは(あなたがまずはじめに自分のマインド内で信じたことを自分の体の中に見て、あたかもそれ(体/症状)があなたのマインドから分離し異なったものであるかのように、その結果(あなたの信念の結果)を信じたことによって引き起こされている)幻想であると認識出来なければいけないのです。


何故なら「マインドだけが創造的に成る能力を持っていること」をあなたが認識するまで、あなたは自分が信じていることを見続けることから自由には成れないのだから。 あなたが祭壇に向き合って「神よ、これは本当は何ですか? 私は体を呼んでいるものは本当は何ですか? 私が世界と宇宙と呼んでいるものは本当は何なのですか?」と訊ねるまで、あなたは自分のマインドを変えることが出来ないのだから。

それが(神が創造の動きに成り続けている)顕在化/輝き(Effulgence)であったなら、あなたは「それが本当は何か、あなたが訊ねていることの真理は何か」暴き示される素晴らしい体験を得るのです。

If you realize that the cancer, or whatever it might be, whatever dis-ease it might be, is nothing more than a mental distortion that was caused by the adopting of certain ideas, and a commitment to those ideas, you will then have the means of being miracle-ready, because you won't fight the cancer, or the dis-ease.

癌やその他の病が(特定のアイディアを受け入れそのアイディアに決意を与えたことから来る)マインドの歪みでしかないことを認識出来たなら、その時あなたは奇跡の準備が出来ている状態(ミラクル・レディー)に成る方法を持っているのです。
何故なら、(その場合)あなたは癌とは戦わず、神と向き合って「この本当の意味は何ですか?」と訊ねるのだから。


あなたが上記を訊ねている時、あなたの信念(体に関する信念、病気に対する信念)が「それ(癌/病として認識されてしまっている状態)の本当の(そのリアリティの)意識的な直接体験」で置き換えられるよう求める真摯な願いと共に訊ねるべきなのです。


質問者: 確かに体は長い間とても大切にされて来たアイディアです。そして病と病の原因もそうですね。
しかし聖書にはあなたが多くの人達を癒やしたと書かれています。


ラジ: 瞬間的に、一瞬にして癒やしたのです。


質問者: なるほど。
(自分が信じていることが見える訳ですから)あなたがそれらの人達を見ていた時、あなたは彼等を病気とは見なかったのです。
しかしこの信念(癒やし)があなたのマインドから輝き出て人々のマインドに受け取られ、あなたの差し出した信念{信念というよりは、リアリティそのもの 訳注}が人々に受け入れられ、瞬間的癒やしがおこったのですね。


ラジ: 一つ重要なことがあります。 人々がWillingである(譲ること、癒やしを受け入れる事に対して意欲的である)必要があるのです。 ミリアムはWillingではなかったので、彼女は足弱のままだったのです。

質問者: つまり癒やしは、あなたから癒やしを求めた者達だけに受け取られたのですね?

ラジ: その通りです。

質問者: 癒やしの課程で、人々はあなたのヴィジョンを自分達のものとして受け入れることが容易に出来たわけですね?


ラジ: 彼等も自分達の目(意識)を祭壇に向ける必要がありました。そうでなければ、私もただ単により多くの幻想を作っただけで終ってしまったことでしょう。

質問者: つまり(それらの)癒やしは振り付けられたものだったのですね。

ラジ: そう言うことも可能です。 癒やしを求めていた人々の熱望と意欲によって振付けられていたと言うことも出来ます。


質問者: それはあなたもそして、(あなたによって癒やされた)盲人も同じな訳です。


ラジ: その通りです。
以前にも言った通り、良きことをあなたに無理矢理押し付けることは出来ないのです。これを理解することが、あなた達全員にとってエンパワーメント(empowerment)をもたらすのです。
(私がこう言えば)あなた達は「エー!{譲ることが大切だと思っていたのに}それ(癒やし/奇跡)は私次第ということですか? 私の責任ということですか?」と驚いてしまうかもしれません。

次のように言ってみましょう。
もしそれ(癒やし)が誰か他人次第(他者の責任)であったなら、あなたはその人に依存していることに成ります。 もしその人が今日あなたの為にそれをしてくれなかったならどうなってしまうでしょう?「今日は忙しいから、明日にして下さい。」 {その場合、あなたは癒やしを諦めてしまうのですか。}

質問者: しかしあなた(ラジ)が「これはあなた次第です。」と言っている時、この「あなた」は「これが自分達だ」と我々が考えている体以上のものなのでしょう。 そして体に関する概念が問題の一部で、これが間違ったマインド状態なのでしょう。

ラジ: そうです。

質問者: 何故なら、あなたは...私は、あるいは「I Am」(私で在るもの)は、ここにいるわたし達全員を含んでいるものなのだから。

ラジ: 正しいです。

質問者: だからバージニアの癒やしは私の癒やしでもあるのです。

ラジ: 全くその通り。

質問者: そして彼女の癒やしを目撃/証言したことにより、その効果は私や他の人達にも与えられるのです。

ラジ: そしてそれを見ていなかった人達や、それが起こったとは知っていない人達も、それは同様です。

質問者: 何故なら、人々の意識が整ったなら、それ(癒やし)が彼等を待っているのだから。


ラジ: あなた達がそれを喜んでいてもいなくても、各人のそれぞれの洞察に伴って夢の強度は弱く成って来ています。

物理的/物質的な原因に帰され得ない瞬間的癒やしは、癒やしを得ている人のマインドと体験のシフトは、全ての人達にも影響を与えるのです。

そして同等のことが他の全ての人達にも起こり易く成るのです。
しかしそれによって、特定の誰かに真理を無理矢理受け取らせることは出来ません。

質問者: つまり自分自身で癒やしを起こそうとしたなら、それはレッスンに成ってしまうということですね。
間違えをそれ(間違え)が現れているレベルで受け取り、それを神に戻すのですね?
その為に(普段私が背を向けている)祭壇へ向き返るのです。

ラジ: ハイ。

次のように言ってみましょう。
あなたが祭壇に背を向けている時、あなたは戦士の仮面を被っています。
そしてあなたは甲冑を着て、戦士として振舞うのです。 世界から来る攻撃に反撃する者としてあなたは振舞うのです。

そしてあなたが少し光明を得たなら、それ(光明/気付き)をあなたの体験の中に取り入れようとして、「オオ、もしかしたら答えは好戦的/対抗的に成ることではなく、愛を表現することなのかもしれない。私は自分の砦から防御を外してみよう、それをより愛らしくしてみよう。それ程好戦的に見えないように、より善良にそれを変えてみよう。人々に好かれるように、人々が私を怖がらないようにしてみよう。そしてより愛を表現出来る振舞いをしてみよう。何故なら慈愛の方が憎しみや攻撃よりもパワフルだと私の中の何かが言っているから。」と言ったとしましょう。

こう考えて見掛けをより愛らしくしたとしても祭壇に背を向けたままなら、それはまだ『「正しいマインド」と一つに成ること』に対して防御し続けている状態なのです。

それはまだ、神から分離した世界が存在しているというアイディアに基づいており、そのような世界に対して今までとは違う対処をしようとしているだけなのです。

そして新しい相互合意の下に繋がって、新しい(しかし依然として相互合意を基にした)振舞いをするわけです。


例えば合衆国があって、西洋文明があって、人々が正義や人権(という概念)のもとに集まり繋がり、彼等の誠実や優れた価値が世界の中でより高尚な力となり、それら(正義/人権)の価値を理解していない人々にもそれらを理解させることが出来ると考えたとしましょう。

しかし(そのような概念的なものに頼らず)もし人々が祭壇に向き合ったなら、彼等は愛の体験で満たされ、それが彼等とその行動を照らすのです。
そして愛を認識するよう人々を強制する必要は起こらないのです。


(隠れた動機を持たない)愛の現われに成ることにより、「(テロリズムや反撃などの原因となる)怖れ」を溶かすようになるのです。

(その場合)勿論振舞いも変るのですが、なによりも癒やしをもたらすのはその(祭壇の)中心にある善良な愛なのです。  善良な愛が輝き出て(隠れた動機無く、強制無く、隠れた切り札無しで)全てを抱擁するのです。
だから、より高い原則に従って世界を変えようとすることよりも大切なことがあるのです。


質問者:つまり、あなたは「自分達の全てのオプションを使い圧倒的な力を持とうとすること」と「(自分の力を使って)少しだけきれいに整理しようとすること」には違いが無いと言っているのですね?


ラジ: 無知は無知です。 それが美しく表現されていようとも、醜く表現されていても(無知には変りありません)。

これを理解したなら、あなたは本当に癒やすことに、実際の変容をもたらすことに、注意を払えるのです。

そしてあなたは「より高い原則の上に」世界をアレンジ(配置換え)しようとしている人達を自動的にサポートしようとはしなくなります。

そしてサポートがなくなったなら、彼等(祭壇を振り返らず神と繋がらない状態で、より高い原則の上に世界をアレンジしょうとしている人達)が「実力」を持ち続けることは不可能です。


[Only the mind can create because spirit has already been created, and the body is a learning device of the mind. Learning devices are not lessons in themselves.]

[霊(スピリット)はすでに創造されており、体はマインドの学習機材なので、マインドだけが創造可能なのです。学習機材はレッスンそのものでは在りません。]



神の現れ(Presence of God)を見て、あなたがそれを「神の現れ以外のもの」と言った(見た/考えた)場合常に、その神の現れがあなたの学習機材に成るのです。

あなたが神の現れ(である世界/人々)を見て、「これは神の現われではない(これは良きことではない)」と言った/考えた場合でも、それは神の現われ(パーフェクション/完璧)で在り続けるのです。 (あなたがその様に言って神の出現を否定してる場合でも)あなたの体験/意識の中に「リアリティそのもの」が進入し続けるのです。 何故なら、リアリティがそれ(リアリティ)そのもので在ることを止める訳にはいかないのだから。

そしてリアリティに対するあなたの否定が摩擦を生んでしまいます。するとあなたは居心地悪さを感じるのです。 何故なら、あなたはマインドから出って(マインドを歪めて)安楽で居ることは出来ないから。

だからあなたがリアリティの一部を見て、「これはリアルではない。」と言った場合、そのリアリティの一部が学習ツールに成るのです。 それは学習機材に成ることがリアリティのその部分の役割(その本来の働き)だからではなく、あなたが「リアリティそのもの」から逃れることは出来ないからです。

だから「リアリティであるもの」が常にあなたを突き、あなたの注意を引き、あなたを居心地悪く感じさせるのです。 それはリアリティが居心地悪いものだからではなく、リアリティは常に「それ(リアリティ)そのものとしてあなたに認識されるよう」主張するものだから。

だから「私の信じていることではなく、あなたは本当は一体何なのですか?」とあなたが言ってそれ(リアリティ)を祝福するまで、リアリティはあなたの注意を刺激しあなたの注意を求め続けるのです。

そして一旦「そのリアリティ」があなたに届いたなら、「リアリティそのものの姿」がその通りあなたによって受け取られたなら、それはもはや学習ツールでは無くなるのです。 何故なら(リアリティそのものがあなたに届いたことによって)それ(そのリアリティ)に関してあなたが学ぶべきことが無くなったのだから。


もう少し別の言い方をしてみましょう。
神の現れの何らかの側面(部分)を見て「これは神とは違う」とあなたが言ったなら、あなたは自分の中でそれ(リアリティ)に対する無知を作ったのです。 そうしてあなたは(その神の現れのリアリティを)学ぶ機会を作ったのです。こうしてそれ(「これは神ではない」とあなたが考えたリアリティ)が学習機材に成ったのです。

あなた達には自分達の体を学習機材と呼ぶ間違いは犯して欲しくないのです。 もう何も学ぶことが無くなったなら、あなたの体は消えてしまうものだと誤解して欲しくはないのです。

体が学習機材であるのは、体は「体とはこうゆうものだ」とあなたが決めたようなものではないからです。
体のリアリティは、あなたに発見されることを待っているだけでなく、あなたによって正しく認識されるよう主張し続けるのです。何故ならあなたの体とは、神が自身を神自身として宣言していることなのだから。

そしてそれ(あなたの体と呼ばれているもののリアリティ)を認識することは、根源的にはあなたに選別出来る(選り好み出来る)ことではないのです。 あなたは(プライベートな個人的な意思を発揮して)それを認識しないようにある程度の期間抵抗することは出来るでしょう。しかしそれを避け続けることは不可能です。


質問者:聖霊全体が学習ツールなのですね。 つまりわたし達が否定している自然(Nature)の全ては(預けられていて)、それ全体が学習ツールなのですね?

ラジ: 全くその通りです。


[Their purpose is merely to facilitate learning. The worst a faulty use of a learning device can do is to fail to facilitate learning. It has no power in itself to introduce actual learning errors. The body, if properly understood, shares the invulnerability of the Atonement to two-edged application.]

[それら(体)の目的は学習を可能にすることです。学習機材(体)の最悪の使用方法は、学ばないことです。それ(体)そのものは、学習エラーを引き起こす力は持っていません。 体が正しく理解されたなら、それ(体)は「諸刃の応用」に対して「アトーンメント(贖罪/和解)の不可侵性(誤用不可能な性質)」を分け合うものなのです。]


つまり体は本来、ポジティブに使ったりネガティブに使ったり出来るものではないのです。


[This is not because the body is a miracle, but because it is not inherently open to misinterpretation.]

[これは体が奇跡だからではなく、体は本来誤解(間違って解釈)され得るものではないからです。]

体はとてもシンプルなもので。体は解釈/翻訳を必要とするようなものではないのです。
それ(体)をありのままに体験しようとする意欲があなたに在りさえすればそれで十分なのです。
言い換えれば、「神がそこに自身を表現している意味/意図」と共に(あなたの体という)そこにある神の現われを体験すれば良いのです。


[The body is merely part of your experience in the physical world. Its abilities can be and frequently are overevaluated.]

[体とはただ単に、物理的世界の中のあなたの体験なのです。体の能力は往々にして過大評価されています。]


体は単なる輝き(放射熱)なのです。体は祭壇の周りの反射/反映なのです。
もしあなたが祭壇から目(意識)を逸らせてしまって、輝きしか見えていないなら、あなたはそれ(輝き/体)に体が本来持っている以上の意味を与えようとしてしまいます。
しかし体は(源ではなく)輝きにしか過ぎないのです。
輝きは、光の源の存在を示唆しているものです。
そして光(光源)こそが重要なのです。


[However, it is almost impossible to deny its existence in this world. Those who do so are engaging in a particularly unworthy form of denial. The term "unworthy" here implies only that it is not necessary to protect the mind by denying the unmindful. If one denies this unfortunate aspect of the mind's power, one is also denying the power itself. All material means that you accept as remedies for bodily ills are restatements of magic principles. ]

[しかし、世界の中の体の存在を否定することは殆ど不可能です。そうしようと試みている者達は非常に無駄な否定行為を行なっているのです。ここで「非常に無駄」という表現を使っているのは、「マインドでないもの、マインドで満ちていないもの」を否定することによってマインドを守ろうとすることは必要ではないからです。マインドの力のこの残念な側面を否定しようとした場合、その人は力そのものを否定することに成ってしまうのです。体の病を治す手法としてあなた達が受け入れている、全ての物資的方法は魔法の原則を再利用(再確立)しているだけなのです。]


別の言い方をしてみましょう。
祭壇に背を向けてあなたは砦を作ったのです。岩やモルタルを使って砦を作ったのです。
しかしこの砦は時の経過に伴う破損には耐えられず、そして勿論この砦が時に対して攻撃を行うことは不可能です。
だからなたはこの砦に鉄筋の補強をつけようと考えたのです。つまり、より強い物理的なサポートを使うことによって構造の弱点を正そう(治そう)としたのです。
これが魔法の使用なのです。

こうしてあなたは、問題そのものを解決するのではなく、強度(強さ)に対するより強い信念を使って問題を修正しようとしたのです。 そして問題そのものとは、あなたが祭壇に背を向けていること(あなたの中の神の居る場所に注意/意識を与えていないこと)なのです。


[This is the first step in believing that the body makes its own illness. It is a second misstep to heal it through non-creative agents. It does not follow, however, that the use of such agents for corrective purposes is evil.]

[これが、体自身が病を作れるという信念への第一ステップです。非創造的エージェント(代理人/自動機能システム)を通して癒やそうとすることが(間違った方向への)第二のステップです。しかし、このようなエージョントを修正の目的で使おうとすることが邪悪であるとは限りません。]



さて次の文章は非常に重要な部分です。


[Sometimes the illness has a sufficiently strong hold over the mind to render a person temporarily inaccessible to the Atonement. In this case it may be wise to utilize a compromise approach to mind and body, in which something from the outside is temporarily given healing belief. This is because the last thing that can help the non-right-minded, or the sick, is an increase in fear. They are already in a fear-weakened state. If they are prematurely exposed to a miracle, they may be precipitated into panic. This is likely to occur when upside-down perception has induced the belief that miracles are frightening.]

[時には、マインドに対して病が強くしがみ付いているあまり、その人に対してアトーンメントが一時的にアクセス不可能に成っている場合もあります。その様な時には、(外側の何かに一時的に癒やしの効用(癒やしの信念)を与えて)マインドと体の両方に働きかけるアプローチを使うべきです。それは正しいマインドを持っていない人をより怖がらせてしまうことは最悪だからです。彼等はすでに恐れによって弱くなっている状態なのだから。その様な人達へ性急に奇跡を与えた場合、彼等はパニックを起こしてしまうかもしれません。[「奇跡は怖ろしいものだ」という信念を「アベコベの知覚」が引き入れてしまった場合、このようなことが起こり得ます。]


これはコースの中でも最も実践的/実用的な文章の一つです。

誰も酷い状態にまで追い込まれる必要はなく、より危険な目に遇う必要もなく、危機感を抱かなくとも癒やしは体験出来るのです。 明晰を、安堵を体験出来るのです。

聖なる愛は常に、現在のあなたの意識に理解出来る言語で現れるのです。

(あなたがエゴと戯れている間預けられている、あなたの神性である)聖霊は、怖れを軽減し癒やしを促進することをあなたに知らせる方法を持っているのです。 その時点で聖霊があなたに知らせたことは絶対的真理ではないかもしれませんが、それがあなたの怖れを減らし、癒やしをもたらすのです。


それから下記を理解することも重要です。

過去において私は同じ主題に関して話す相手によって違うことを言い、首尾一貫したことを話さなかった、と非難されています。

しかし、それぞれの人達に対して彼等が理解出来る言語で(私が)真理を示したことにより、人々の怖れが刺激されずに軽減され、最大の内的動きが可能に成った、ということが事実なのです。


[The value of the Atonement does not lie in the manner in which it is expressed. In fact, if it is used truly, it will inevitably be expressed in whatever way is most helpful to the receiver. This means that a miracle, to attain its full efficacy, must be expressed in a language that the recipient can understand without fear.]

[アトーンメントの価値は、それが表現されたマナー(表現方法)には依存していません。アトーンメントが正しく使われた場合、それは受け手に対して一番適切な方法で表現されるに違いないのです。つまり奇跡がその効果を最大に示す為には、受け手が怖れずに理解出来る言語で{奇跡が}表現される必要があるのです。]

どうしたらこれが出来るのでしょうか?  
あなたの目の前の人に対して詳しい精神分析をすることもなく、どの様にしたら、あなたは彼を怖れさせることなく、これを表現することが出来るのでしょうか?

あなたは「自分には答えが解っていない」と考えてみる必要があるのです。
あなたは「自分は答えを知っていない」と認める必要があるのです。
あなたは「あなた個人が知っている必要はない」と考えてみる必要があるのです。
あなた個人で知ろうとする試みの全てを放棄して、あなた自身の中を十分に静めて「私は何を言う必要がありますか? ここでの適切な対応は何ですか? 父よ、(あるいは聖霊よ、ガイドよ、イエスよ)あなたなら何と言いますか?」と訊ねるのです。

そして(あなた個人では適切な行動が解らないので)あなたは自分が(父/聖霊/ガイドから)受け取った反応(答え)を人々に知らせるのです。

例えばある時にあなたが受け取る答えは「座りなさい、口を閉じて、暫く静かにしていなさい。」かもしれません。 もしかしたらその行動は、優しくも愛に溢れても見えないかもしれません。

しかし(そこで)あなたが対面していた個人にとっては、これが(あなたが答えを聖霊に訊ねてその通りに振舞うことが)最善の対応だったのです。

何故ならその人は、とても不安定にバラバラに感じており、その時点でよりクリアでシンプルな方向(指示)を必要としており、全ての混乱から抜け出る必要があるのだから。 {だからあなたはそれを(静かに成って聖霊に訊ね聞くことを)自分で実演して見せる必要があったのです。}

もしかしたら他の人はそんなあなたを見て「あなたはとってもコントロールしています(操作的です)。」と言うかも知れません。 「そのようなことがどうして癒やしをもたらすのですか?」と人は言うかもしれません。しかしこれはコントロールすることではないのです。

これは「その時点ではシンプルな指示に従う力と規律を自分の中にまだ持てていない人」の必要を満たすために(あなたが)行なうことなのです。

だから(祭壇に向き合った結果として、聖霊に尋ね聞いた結果として)あなたが言うことは、それ程親切には聞えないかもしれません。

時によっては、(上記と殆ど同じ条件であっても)あなたの目の前の人はとても攻撃的な振る舞いをしており、あなたは「アイラブユー」と言って彼を抱きしめるだけかもしれません。

あなたのこの行動がその人を落ち着かせ静まらせリラックスさせ、その人も「そこに座って、口を閉じること」を出来るように成るかしれません。

そのような行動が出来るように成るには信頼が必要でしょう。

いずれにしろあなたが尋ね聞かなかったなら、あなたが聖壇に向き合って繋がらなかったなら、あなたの行動は(例えあなたが落ち着いていたにしろ、興奮していたにしろ)無知に基づいた操り(コントロール)でしかなく、「このようにすれば上手く行くだろうという(あなた個人の)推定」に基づいたものにしか過ぎないのです。

いずれにしろ愛の繋がり(愛の統合)がそこに無かったなら、そこでは変容が起こらず、あなたは変革の代理人(変容をサポートする人)には成れないのです。


[This does not necessarily mean that this is the highest level of communication of which he is capable. It does mean, however, that it is the highest level of communication of which he is capable now.The whole aim of the miracle is to raise the level of communication, not to lower it by increasing fear.]

[これが彼に出来る最高レベルのコミュニケーションであるとは限りません。しかしこれが彼に今出来る最高レベルのコミュニケーションなのです。奇跡の目的はコミュニケーションのレベルを上げることで、怖れを増やしてコミュニケーションのレベルを下げることではありません。]

そしてエゴには注意してください。 
エゴがやって来て「聖壇に背を向けたままであなたの状況を向上する方法はありますよ」と言うのです。(エゴは)ここに示されている少しの情報を使って考え始めてしまうのです。

「奇跡の目的はコミュニケーションのレベルを上げることなのです。」
『アー、なるほど解った!! 我々はコミュニケーションのレベルを上げれば良いんだな!』

こうしてあなたは兄弟を(コミュニケーションのレベルを上げる自分の最上のアイディアに基づいて)「祝福」しようとし始めてしまったりするのです。 しかし実際にコミュニケーションのレベルを上げるのは(あなたが発する言葉ではなく)愛であって、この愛からあなたの言葉が湧き出て来てくるのです。

そして愛が言葉として湧き上がってくる唯一の方法は、あなたが自分の独立を放棄して(自分の中の)祭壇に向き合い「助けて下さい。 ここで適切なことは何ですか? どうしたら聖なる目的が満たされるのでしょうか? ここでよりクリアに神が明確に現れる為にはどうしたら良いですか。」と言うことなのです。

『自分自身で「良きこと」をするパーソナルな能力は誰も持っていない』と理解しない限り、あなた達には教えることは出来ません。 これを理解しない限り、あなた達は変革のエージェントには成れません。

神からの独立権をあなた達が主張し続けている限り、「神があなた達を独立存在として創造した」と強く信じている限り、あなた達に出来るのは世界をリアレンジすることだけです(世界の見栄えを変えることだけです)。

そしてあなた達は現在あなた達が被っている無知(全ての苦しみをもたらしている無知)を一層押し広げようとし続けてしまうのです。

良き教師に成るには、全く教師に成ろうとはしないことです。 (教師に成ろうとするのではなく)謙虚な召使に成るのです。 エゴの視点からは屈辱的な使用人に見える者に成るのです。

謙虚とは、ストレスが存在していない状況です。 謙虚とは、力によって行なう能力(自分の意志を通す能力)が存在していない状態です。

謙虚とは、「自分の意志を通そうとする力」ではなく「譲る意欲」があり「あなた(神)の意志がなされますように」と言っている状態です。



これはあなたが(他者に)コントロールされる為ではなく、あなたが(物事を自分で)コントロールしようとしていない状態に成って初めて「物事が神聖に働く方法」があなたに届き、あなたがそれと調和出来るように成るのだから。

こうして「神以外の何も賞賛(リアルなものとして認識)しようとはしていない状態」に成った時、あなたは常に神を賞賛し続ける存在(現われ)に成ったのだから。

そして「神以外は何も賞賛(リアルなものとして認識)しようとはしていない状態」に成った時、そこに現れ得るのは神だけなのだから。


質問者: 一番最初に体に関して話し始めた部分では美しい寺院(としての体)に関して話していましたね。その後あなたは甲冑を鋼鉄で補強することに関して話しました。
結局それらは両方とも同じことなのでしょう? 体を美しい寺院にすることでも、それを頑強に強化することでも、結局同じ行動なのですね?


ラジ:あなたが聖壇に背を向けてそうしている限り、それは(幻想でしか)在り得ません。

質問者: ええ。 だから(体を美しい寺院にしても頑強な砦にしても)それらは聖壇から目(意識)を逸らす方法の違いにしか過ぎない訳です。


ラジ: そしていずれのケースにしろ、それらは防御の一形態なのです。

そしてあなたがより神聖によりスピリチュアルに成り美しい寺院を作ったなら、それは「そのような行動があなたを何かから守るだろうという信念」のもとにあなたが他の人達と繋がっているからなのです。

「それ(美しい寺院/頑強な砦)があなたを暴力から守る。それがあなたをあなたのエゴから守る。」(と信じた訳です。)

「愛に溢れた思考を考え、愛の考えを表現したなら、それらが「人間にとって自然に沸き起こる野卑な意欲/意識」からあなたを守るだろう。

もしかしたらそれ(愛に溢れた思考)は『人類を新しい方向に向ける進化のシフト』さえ起こすかも知れない。 物理的な宇宙の一部で物理的/身体的に体験可能な変化が起こるだろう。」

しかし、これらのこと(これらの考え)は依然として無知な領域で起こっているのです。

これらのこととは依然として、「あなたと神の間には関係が成り立っている。そしてあなたが体験するべき繋がりがある。」というアイディアが考えられてはおらず、引き出されてもいないのです。


次のように言ってみましょうか。

この惑星の全ての人達が、お互いと調和的に協力するための「相互合意に基づいた方法」を見つけたなら、人々は非常に感謝し喜ぶでしょう。

そしてこの調和を一万年体験することが出来たとしても最終的にはこれが空虚な体験であったことが解るでしょう。 何故なら、そこでは(全ての人達が一緒に美しく働いていたとしても)祭壇との繋がりがまだ起こってないのだから。 その場合、まだ目覚めが(アトーンメントの確証が)人々を待っている状態でしかないのです。


だから(今晩私の話を聞いている)あなたは少なくとも「どのようなものがアトーンメントではないか」今までより明確に解ったことでしょう。これは素晴らしいことです。

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テーマ : スピリチュアル
ジャンル : 心と身体

ACIM11-11-13

わたし達は二つのステップ(聖なる瞬間)に関して話して来ました。
目的を持って意識的にこれを行なうことについて話して来ました。
しかし時には(自分で意図せずに)聖なる瞬間が不如意に現れることもあります。時には(意識/意図されることなく)二つのステップが行なわれることもあります。

そのような状況はある意味では、聖なる瞬間に対する一番優れた学びを提供するものです。
それは(受動的な聖なる瞬間は)何らかの状況に面した時あなたが圧倒され、その状況に対する怖れに直面し続けて疲れ切ってしまった時に起こるのです。
そしてあなたはしかたなく(無念ながらも)「崩れ落ち」、あなた自身に対する信心を失い、それ(あなた自身に対する信心)を手放したのです。 あなたはそれを保ち続けることは出来なくなってしまったのです。

これが(自身に対する信心の放棄が)真摯なものであったなら、あなたはその時直ぐに自分が(陰鬱や嘆きの状態ではなく)平和な場所に居ることを見つけるでしょう。

しかしもしこれが真摯なもので無かったなら(崩れ落ちることがフリだけだったなら)、もしこれがコントロールを保ち続けようとするあなたの計画の一部だったなら、そこに平和はなく、そこにあるのは怒りでしょう。 
その場合、あなたの崩壊はあなたの怒りの表現なのです。それは聖なる瞬間ではなく、二つのステップを実践することでもありません。
だからその状態では、聖なる瞬間があなたを祝福していることが存在しておらず、それ(聖なる瞬間の祝福)はあなたをすり抜けてしまうのです(あなたはそれを取り逃がしてしまうのです)。


あなた達は誰も平和の力と価値を理解していません。
勿論聖なる瞬間(二つのステップ)を実践している時、あなたは黙っていることでしょう。これ(黙ること)が二つのステップの第一ステップです。

それからあなたはその静けさの中で、あなた自身(あなたが信心/確信を与えているもの)を越えて伸び出す(求め伸び上がる)のです。「あなたが現在まだ僅かな確信しか与えていないもの」に向かって手を伸ばすのです。  
しかしあなたがストレスを感じている時には特に、これをすることが難しく思われるのです。
あなたが黙り(思考を閉じて)第一のステップを行い、父/聖霊にリーチして(伸び出して)「(あなた自身が)新しくされること」を願うのです。 自ら真理で満たされることを願うのです。 癒やす真理で、変容/再生/贖い(救済)を起こす真理で自分が満たされることをあなたは願うべきなのです。

私がこのことを繰り返し言っているのは、人間的状況(怖れの状態)の解決は「怖れが正当化されているように見えている時(怖れが当然のこととして見えている時)でも平和を選択する」というシンプルなことに掛かっているからなのです。
このシンプルなことが(これがどれだけシンプルかということが)あなたに理解される必要があるのです。 何故ならこれによって(このシンプルなことが理解されることによって)、脅威が起こっているように見えている時でも、あなたは勇気を持って自分の平和を目指そう(自分の平和に手を伸ばそう)と出来るように成るのだから。

さて今日あなた達はどこに居ようとも、あなたがどの国の人であろうとも、あなたがどのようなアイデンティティを持っていようとも、大いなる脅威が正当化されているように見えています(怖れることが当然であるかのように見えています)。
大きな困難/不和/憤慨が沢山あるように見えています。
そしてこれらの脅威はあなたの近所だけではなく、地球の反対側からも来ているように見えています。 他国の状況があなたの居る場所にも悪影響を与えているのです(与えているように見えています)。

だからあなたが全て正しいことだけを行なっていたとしても、地球の他の場所で起こった紛争/問題があなたの居る場所まで届いて何かを破壊してしまえる(と見えています)。
だからあなた達は常に平和への呼びかけ(平和を求める声)に対面しているのです。
あなたのマインドを静かにする必要、怖れを鎮める必要、騒ぎ立てより大きなストレスを作り続けているレトリック(プロパガンダ)を静まらせる必要にあなた達は面しているのです。

私は次のことを言いましょう。これら全てには理由があるのです。
世界中で起こっているこれらの「化学反応」には理由があるのです。
(現在表明されている)秩序の欠落、モラルの欠如、平和の損失、知性の欠如。
これらには理由があるのです。

以前にも使用したことのある比喩でこれを説明しましょう。
あなたが完全に真っ暗な家に住んでいて、あたかも自分が盲目であるかのように振舞い過ごし食べ入浴することをあなたが学んでいたとしましょう。しかしある日光明(光が灯ること)が起こり始めます。
そしてあなたは形や影を認識し出します。するとあなたは屑やゴミやガラクタを見始めます。 あなたは片付けが必要なことを見始めます。

この素晴らしい光(光明)が入って来るに従い、それはあなたにとって(喜びではなく)ストレスの元に見えてしまうのです。あなたに見えているものを見続ける位なら、いっそ見ない方がマシに思えるのです。
あなたは仕事/掃除をしなくては成らなくなるのです。
(今まであなたは無秩序を見ることが出来ていなかったので)今まで気付かなかった秩序やレベル構造を{光明を得た}あなた達は見ることになったので。

さてあなたの地球で起こっている(今まで隠されてきた)問題/紛争/無秩序/インモラル/経済的アンバランスや、あなた達がお互いを非人間的に扱ってきた今までのやり方が明確に示され始めているのです。

そしてこのプロセスは、より偉大な人類愛が表明(表現)され始めるよう呼び掛けているのです。これが要点なのです。
しかしあなた達は「世界はダメに成りつつある」と言ってしまうことも出来るのです。
「世界は堕落し続けており、全てが崩壊するだろうと。」言ってしまうことも可能でしょう。
「あなた達が長いこと楽しんで来た平和と調和が修復しようなく破壊されてしまう」(と考えることも可能でしょう。)

しかしそれは「目覚め」の在り方ではありません。
それは「より意識的に成り、あなたの正しいマインドに帰って行き、全てを修正するシンプルな一つのことを発見する」呼び掛けではありません。
だから私は「根源的平和から立ち昇ってくるシンプルなこと」を言い続けているのです。

そしてこの根源的平和は「あなた自身として有能で在り続けること」に完全に失敗して、それ(あなた自身として有能で在り続けること)を放棄せざる得なく成ることにより否応無く厳しく体験されるものです。 「あなたに関することの全て」と「あなたが大切だと考えていたもの全て」が崩壊し、{エゴとしての、分離した存在としての}あなたの無価値(無能力)が輝き出し、あなたの存在価値が消え去るのです(その様に感じられるのです)。
しかしそうはならないのです。{あなたの全てが失われてしまうと感じるけれども、実際には違うのです。}

「自分で責任を取り続ける(自分で物事を起こし続ける)ことを放棄する」という祝福を体験したことがある人達は、私が何を言おうとしているか理解出来るでしょう。

{何らかの形でこれを体験したことがある}あなた達は、この時期に現れ出て来ている呼び声(必要)を満たす効果的な方法を兄弟姉妹とシェアする(兄弟姉妹に教える/分け与える)ことが出来るのです。
それが、奇跡のコースを勉強している人達に(それがどれだけ複雑に見えても)「シンプルなステップとは何か」理解してもらう方法でもあるのです。
これが大切なのです。

今は変容/変化の時です。今が再生の時です。
あなたが自分の平和の中に入って、「何が起こっているか」そこ(自分の平和の中)から眺めて、「答えが何か」そこ(自分の平和の中)から聞いたなら、それが再生の時になるのです。
しかしあなたがこれを行なわなかったとしても再生はやはり起こるのですが、その場合それは(再生は)あなたが意図しなかったものとなり、「これは大変辛い体験だ」とあなたは感じてしまうのです。

だから私は現在起こっていることを誤解しないよう、あなた達に言っているのです。
あなたのエゴに「他の人々がしている愚かなこと、どれだけキチガイ染みたことが行なわれているか、愛がどれだけ欠乏しているか」指摘させ独善的に騒ぎ立てさせるのは止めなさい。

あなたがそのように振舞っている時、あなたはどの様な脚本に従っているのでしょうか?
どうしたら「あなた達が安定感と有能感覚を保つ為に使ってきた(そしてあなた達がリアリティと正気を明確にし始める為に手放さなくてはならない)脚本」とは異なったものをあなた達の世界が反映し始めことが期待出来るのでしょうか?
どうしたらあなた達は、物事を(今までとは)違う風に見て、違う振舞いを行い、より完全に真理を反映することが出来るのでしょうか?

「私には出来ない。」とか「何故あなた(ラジ)はこのようなことを私に言わなければならないのですか? 私はある程度来年に期待していたのです。私はある程度次のアメリカの選挙に期待していたのです。私はある程度はポジティブに成れていたのに。」とか言ってしまってはいけません。
それがあなたの脚本なのです。 あなたはこれに引っ掛かってしまっているのです。
それがコントロールを保とうとしてしまう方法なのです。
それは「あなたの定義」というコントロールです。 これを使ってあなたは自分で定義した成功を得ようとしているのです。
そして(あなたの定義している)この成功とは、ギブアップしないこと、「あなた自身で何かをすることが不能なこと」を認めて父に譲りあなたの存在の平和(それがあなたの中に居る神の全知全能なのです)の中に入って行かないことなのです。

「あなたがしなければならない事」に関して憤慨したり不平を言うのは止めなさい。
人々がしなければならない事、きっと人々はしないだろう事、に関して憤慨し不平を言うのは止めなさい。
何故ならそのような事は、静かに成る決断をすることよりも、あなたの人間的意志を静まらせることよりも、より多くのエネルギーを必要とするから。
あなた自身に話しかけることを止めて「あなた自身以外の者(聖霊/神)」に質問を訊ねること。 これが目覚めのシンプルな方法なのです。

くだらないことを繰り返すのではなく、あなたは何故これをしないのでしょうか?
何故あなたは、世界とその状態を観察している時に怖れてしまったり独善的態度を取ってしまうのではなく、反応/反発することに耽溺し続けるのではなく、これ(静かに成って神の答えを訊ねること)をしようとしないのでしょうか?
これをすれば全てが解決すると私はあなた達に知らせているのです。

そしてこれ以上のことをしようとするのは止めなさいと言っているのです。
これ以上のことをしようとした場合には(あなた達がすでにその被害を被っている)幻想体験を作ってしまうので、それは止めなさいと私は言っているのです。
この幻想体験から目覚めることがあなた達の生得権なのです。
暫くの間これを考慮してみなさい。

このシンプルなことと一緒に居て、どうして自分がこれをしようとしていないか考慮してみなさい。
何故「これだけで十分であること」をあなた達は長いこと忘れて来たか、そして何故あらゆる複雑な方法を使ってコントロールを使いあなた達自身にある程度の安心感を与え続けて来たのか考慮してみなさい。


本を読みましょう。

[Nothing can come between what God has joined and what the Holy Spirit sees as one.1]
[神が繋げたものを(そして一つのものとして聖霊が見ているものを)分離することが出来る者は存在していません。]

[But everything SEEMS to come between the fragmented relationships the ego sponsors to destroy.]
[(破壊する為にエゴが成立させている)細分化された関係の間には多くの亀裂があるように見えています。]
ここでのキーワードは「(多くの亀裂があるように)見えています 。」です。


つまり実際には亀裂は存在していないのです。
上記のような文章をあなたが読んでいる時これからは、次のように理解して欲しいのです。

[. . . everything SEEMS to come between the fragmented relationships the ego sponsors to destroy  (But it hasn’t succeeded.)]
[(破壊する為にエゴが成立させている)細分化された関係の間には多くの亀裂があるように見えています。{がそれは成功しませんでした。}]

これで要点がよりクリアに成りました。

[The one emotion in which substitution is impossible is love. Fear involves substitution by definition, for it is love’s replacement. Fear is both a fragmented and a fragmenting emotion. It seems to take many forms, and each seems to require a different form of acting out for satisfaction. While this appears to introduce quite variable behavior, a far more serious effect lies in the fragmented perception from which the behavior stems. No-one is SEEN COMPLETE. The body is emphasized, with special emphasis on certain parts, and used as the standard for comparison for either acceptance or rejection of suitability for acting out a special form of fear.]
[愛という感情の中では代用は不可能です。しかし怖れの中には原則的に代用が含まれています。何故なら怖れとは愛の代用品なのだから。
怖れは細分化された感情であり、と同時に細分化(分離)を行なう感情なのです。怖れは多くの異なった形で現れ、その中で満足を得るには異なった行動が求められているように見えています。
怖れが多くの異なった行動を引き出しているように見えますが、怖れが与えているより深刻な影響は細分化された知覚認識であり、それが多くの分離した行動を生んでいるのです。{怖れによって細分化されている視点の中では}誰も完全/十全なものとしては見られていないのです。
体が(そして体の特定の部分が特に)重要視されており、(「特別な形の怖れを行動で示すに適切なもの」として受け入れるか拒否するか決める為の)比較の基準として体が使われています。]

体現された怖れ。 あなたによって体現されており、それを使ってコントロール出来るとあなたが信じている、怖れ。

「オー、彼は釣り上がった目をしている。オー、彼女はとても荒い黒髪だ。」
あなた達は、自分達を他者達から遠ざけ隔てる様々な方法(理由)を持っています。

何故あなた達はそうしているのでしょうか?
それはあなた達が怖れているからです。
あなた達は、あなた達自身の平和の中に居ないので、これ(他者を自分から遠ざけること)を行なっているのです。
だからあなた達は、他者の特定の特性(特徴/見かけ/印象)を使って自分達の振舞いをコントロールして自分達を安全に保とうとしており、他者を「(彼等に)相応しい(とエゴが決めた)場所」に留め置こうとしているのです。


次のセクションのタイトルは、

[SUBSTITUTION AS A DEFENSE ]
[防御として使われている代用]

[You who believe that God is fear made but one substitution. It has taken many forms, because it was the substitution of illusion for truth; of fragmentation for wholeness. It has become so splintered and subdivided and divided again, over and over, that it is now almost impossible to perceive it once was one, and still is what it was.]
[神が怖れだと信じているあなた達は一つの代用(置き換え)を行なっただけなのです。 これは真理を幻想で代用する(置き換える)こと(全体を小さく切り分けること)で、従ってこれは多様な形で現れています。 {上記の文章はJCIMとUrtextでは異なっています。 ここではJCIMテキストを翻訳し。 Urtextの翻訳は私のもう一つのWEBに記載してあります。訳注}
{「全体をそのより小さい部分に切り分けることが出来る」そう考えたことが一番最初の間違いであり代用だったのです。}
これは細分化され、より細かく分かれ、その上また繰り返し細分化されており、故に「これが以前は一つであった、そして今でも実は一つであると知覚認識すること」は今では殆ど不可能です。]


この部分にも注目してください。
[It has become so splintered and subdivided and divided again, over and over, that it is now almost impossible to perceive it once was one, and still is what it was.]
[これは細分化されより細かく分かれ、その上また繰り返し細分化されており、故に「これが以前は一つであった、そして今でも実は一つであると知覚認識すること」は今では殆ど不可能です。]


ここで注目して頂きたいのは、この文章でも「今でも実は一つ」{今でも真実は(分離されてはおらず)一つである}と言っていることです。

解りますか? つまり代用(置き換え)は成功しなかったのです。{つまり細分化はリアリティの中では行われていないのです。}
代用を使う理由はいまだ有効には成っておらず、あなたは今でも神を否定することに成功することからは無垢で、従って神に逆らうことからも無罪なのです。

次も重要な点です: あなたが真理を幻想で取り替えた(取り替えようとした)この一つの(唯一の)エラーだけが、

[That one error which brought truth to illusion, infinity to time, and life to death, was all you ever made. Your whole world rests upon it. Everything you see reflects it, and every special relationship which you have ever made is part of it.]
[この一つの間違いだけがあなた達の犯した過ちなのです。そしてこの間違いが、真理を幻想の下に置き、無限を時間の下に置き、生を死の下に置くことを導いているのです。あなた達の世界全体がこの間違いの上に築かれているのです。あなたの見ている全てはこれを反映しているのです。]


今日世界の中で行なわれている全ての複雑な事柄は、怖ろしく見ている事柄は、不安を抱かせる事柄は、あなたの平和を脅かしているように見えている事柄は、真理を現してはおらず「神が造らなかったもの」を造ろうという人類の試みが成功していることを現してもいないのです。
あなた(達)が幻想を作り、それらの幻想に付随したストレスを作ったのです。
しかしあなた(達)は全く「リアリティ」を変化させてはいないのです。
だから色々複雑なことを修正しなくてはならないようにあなた達には見えていますが、それら全ての問題を修正することは「たった一つのこと」に掛かっているのです。

(このたった一つのこととは)あなたの平和を選ぶこと、二つのステップを行うこと、思考を閉じて静けさの中に入りそこ(平和の静けさ)から伸び出して(それを体験することがあなたの生得権である)真理を知ろうと求めることなのです。

あなたは「自分の想像力」と「自分の信念に対する確信」を使って「真理に対する意識的気付き」からあなた自身を逸らすことに成功しているように見えますが、あなたは真理を「知ること」を止めてはおらず、あなたは神の可視性/可触性(見える様子/触れる様子)に成り続けることを止めてもいないのです。
そしてあなたのマインドが「聖霊の十全な現れ」として存在し続けることを止めたこともないのです。
それ(分離)は起こってはいないのです。
それ(分離)は起こっていないので、夢を放棄する為に必要なのは「あなたが自分の注意をシフトさせること」だけなのです。

私はこれをシンプルに言い過ぎていますか?
「もしこれがそんなにシンプルならば、全ての人達がすでに目覚めている筈だ?」
いいえ。

全ての人達が目覚めていない唯一の理由は、独立を試みることから来る(そして独立が可能だと信じてその成功を望むことから来る)ハイ(高揚感)やヒット(ワクワク感)へ人々が過度に中毒しているからなのです。
そしてあなた達は常に自分達の信念に信頼を与え続けるものなのです。

[You have expressed surprise at hearing how very different is reality from what you see. You do not realize the magnitude of that one error . . .]
[リアリティが「あなたに見えていること」とどれだけ異なっているか聞いてあなたは驚いています。 あなたはこの(上記の)一つの間違いの威力を理解していません。]


一つの間違いとは、幻想で真理を代用すること(真理を幻想で置き換えること)です。


[It was so vast and so completely incredible that from it a world of total unreality HAD to emerge. What else COULD come of it?]
[この間違いは広域に渡りそして全く信じ難い驚くべきもので、この間違いからは「全くリアルではない世界」が出現せざる得なかったのです。それ以外の何がこの間違いから出現し得たでしょうか?]

これに関しては最近色々な角度から話してきました。
あなたが父(源)から離縁することを選び(生得権としてあなたのものである)父の視点/視界を放棄することを選んで「父よ、私は(あなたの選択に従うのではなく)私自身で選択/決意をしたいです。私は(あなたの定義に従うのではなく)全てが何か自分で定義したいです。」と言った時、あなたは全てを神の定義とは違うように定義しなければならなかったのです。

「神とは違うもの」は「神とは似ていないもの」です。
それ(神とは違うもの)は分極性(二極化、Polarity=プラスマイナスに別れること)なのです。
だからあなたがこれ(父からの離縁)をしている限り、あなたは全知全能(絶対的に一つで無限のハーモニー)の中に不調和を導入し続けているのです。

しかしあなたはこれ(父からの離縁、不調和の導入)には成功していないのです。
あなたが体験している不調和は幻想なのです。
しかしあなたはこの幻想に対してとても多くの信心を与えており、「あなたは空想に浸っている」とシツコクあなたに言い続けてくれる人が{あなたの聖霊以外には}誰もいないのです。

そしてあなたが空想に関わっている限り、本当の結果は何ももたらされないのです。
しかしこのようにして空想を使って結果{父からの独立}を達成しようとしている限りあなたは狂気の状態で、あなたは自分の正しいマインドにはいないのです。 これを試みている限りあなたは自分の平和を体験出来ないのです。

[Its fragmented aspects are fearful enough, as you begin to look at them. But nothing you have seen begins to show you the enormity of the original error, which seemed to cast you out of Heaven, to shatter knowledge into meaningless bits of disunited perceptions, and to force you to further substitutions.]
[細分化された各側面をあなたが眺め始めた時、それらは怖ろしく見えました。しかし一番最初の間違いの巨大さをあなたに示せるものは存在していません。{一番最初の間違いが一番重大なのです。}
この原初の(一番最初の)間違いがあなた達を天から追放されているように見せており、叡智を壊れてバラバラの知覚に貶めており、より一層の代用をあなた達にさせようとしているのです]

さてあなたは今、代用の崩壊がより一層進みつつある世界を見ているのです。

あなたが見て(感じて)いる所で「何が上手く働くことか、何が必要とされていることか」が明確に結晶化されている(示されている)のです。 全てをコントロールしようとし続ける効果的な方法を探そうとして、あなたがもう少しの間(変容に)抵抗し続けたいと考えていない限り(代用の崩壊の進行があなたにも解るのです)。 (コントロールに固執せず変容に抵抗しなかったなら、変容は怖ろしく見えなくなり、それほど脅威的にも見えなくなります。)

これら全てのこと(地球の状況)を見て「今まであなた達の全ての答えがもたらされて来た場所」から(上手く働く)答えが得られると考えることはあなた達全員にはもうとても難しいことでしょう。

それは素晴らしいことです。あなた達は苦しむことに厭いているのです。
あなた達は怖れることに疲れて飽きているのです。
そして今あなた達の怖れの原因が全くあなた達のコントロールの届かない状態に成っており、希望が無いように見えています。
しかしこれは真実ではありません。 何故なら今でも聖なる瞬間の実践が答えなのだから。

あなたの平和を捜し求めなさい。
自分の反応/反発を放棄出来るに十分なだけ正気を尊びなさい。
勇気を持ってあなたの怖れを手放しなさい(そう出来るように正気に価値を与えなさい)。
状況が物凄く悪化してしまってあなたが無理矢理自己放棄せざる得ない事態に追いやられるまで待つのではなく、その前に(怖れを)放棄出来るように成りなさい。

誤解しないでください。 私は「(あなた達はまだ気付いていないけれど)状況が物凄く悪く成るのです。」と言っている訳ではありません。
いいえ。あなた達は再生(再統合)の自然な動き(その結果はより高い秩序なのです)を観察しているだけなのです。

そしてこれは、あなた達が行なう(べき)「利己的興味/欲を手放す選択」に掛かっているのです。
自分勝手(利己主義)を放棄して、今までの(通常の)あなた達の意識状態を越えて行くことが必要なのです。 そして「上手く働かないあなたの体験」が存在していない所(意識状態)で、「上手く働くこと」が(物事の)自然な進展/発展としてあなたにシンプルに明白に成るのです。 あるいは、全てを混乱させてきたものが自然に解除され、明晰さ(光明)が当然のこととして現れ出るのです。

真理を幻想で置き換えること(真理の代わりに幻想を見ようとすること)が、
[That was the first projection of error outward. The world arose to hide it, and became the screen on which it was projected and drawn between you and the truth.]
[これが間違いを外側に投射しようとした一番最初の試みだったのです。これを覆い隠す為に世界が立ち昇って来ており、世界がこの間違いを投射するスクリーンに成り、あなたと真理を隔てているものに成ったのです。]

[The world arose to hide it,]
[これを覆い隠す為に世界が立ち昇って来ており、]

このようにして立ち昇って来ているのはどの世界でしょう?
リアリティ(天国)を隠す為に「あなたの定義の世界」が立ち昇って来たのです。
{私はこの部分の itを文脈に従って「この間違い」と訳していました。しかしラジは、このitは「リアリティ/天国」のことを意図していると言っています。 Available Note(もう一つのWEB)に掲示した翻訳文はそのままにして置きます。}

[. . . and became the screen on which it was projected and drawn between you and the truth. ]
[(これが)この間違いを投射するスクリーンに成り、あなたと真理を隔てているものに成ったのです。]

あなた達の定義群が、エラー{原初の間違い}を投射するスクリーンに成ったのです。
そしてこれは成功しなかったのです。
あなたと真理の間にエラーを投射して、あなたと真理を隔てることは出来ていないのです。

[For truth extends INWARD, where the idea of loss is meaningless, . .]
[何故なら真理は内側に差し伸べられる(拡張される)もので、そこでは喪失のアイディアは無意味で、]

あなたが(あなたの「存在」の中心に在る)聖なる場所(聖なる状態/祭壇)の中に入って「ここの真理は何ですか?」と父/聖霊に訊ねた時、あなたは混乱/不調和/怖れの解除を実践しているのです。

[. . . truth extends INWARD, where the idea of loss is meaningless, and only increase is conceivable. Do you really think it strange that a world in which everything is backwards and upside-down arose from this? ]
[真理は内側に差し伸べられる(拡張される)もので、そこでは喪失のアイディアは無意味で、増加だけが考えられることなのだから。全てがあべこべで上下反対の世界がこの試み(代用)から導き出されていたものであると考えることはそれ程難しいでしょうか? これは(分離を投射した時このような世界が現れることは)必然的だったのです。]

これは驚くことではありません。 (あなた達によって)使われている(信じられている)脚本は真理を否定しており、だから(この脚本に従っている限り)カオス/混乱/無秩序だけしか体験出来ないのです。

[For truth brought to THIS could only remain within in quiet, and take no part in all the mad projection by which this world was made. ]
[何故なら、この世界に対して真理が引き出された時、真理は(この世界を作っている狂った投射に関与することなく)それ自身の中で静かにしていることしか出来なかったのだから。]

[ For truth brought to THIS could only remain within in quiet, . .]
[何故なら、この世界に対して真理が引き出された時{真理がこの世界の下に持ってこられたなら}、真理は…それ自身の中で静かにしていることしか出来なかったのだから。]

だから平和がとても重要なのです。
だから平和を選択することがとても重要なのです。
だから黙って(思考を閉じて)自分の内部に向かって「ここの真理は何ですか?」と訊ね聞くことだけが、幻想からの唯一の抜け道なのです。
何故なら、静寂の中で真理が静かにあなたを待っているのだから。

[Call it not sin but madness, for such it was, and so it still remains. Invest it not with guilt, . .]
[これを罪とは呼ばず、狂気と呼びなさい。 何故ならこれは狂気だったのだから。そして今でもこれは狂気であり続けているのです。これに(この投射/代用に)罪悪を与えることは止めなさい。 ]

罪と呼ぶべきでなく狂気と呼ぶべき「これ」とは何でしょうか?
それは真理を幻想で代用しようとすること(真理を幻想で置き換えようとすること)です。
{ラジはここでは言っていませんが、前回の話では「一番初めの代用は神の意志を自分の意志で取り替えようとしたことです。」とも言っています。 つまり「真理を幻想で置き換えること」は「神の意志を自分の意志で取り替えようとすること」と同じだと思われます。}

そしてこれに(投射/代用に)怖れを投資するのは止めなさい。
これにどのような定義群(あなた達が作り上げている意味)を与えることも止めなさい。


[. . . for guilt implies it was accomplished in reality.]
[何故ならこれに罪悪を与えることは(これを罪悪と呼ぶことは)、これがリアルに達成されたと暗示することだから(投射がリアルだという勘違いを引き起こしてしまうから)。]

しかし、それ(罪悪)は達成されなかったのです。
ACIMの全ての文節内には「幻想を真理にしようとすることは成功しなかった。だからあなたは危険に面してはいない。だからあなたは有罪ではない(罪を犯してはいない)。 あなたは不可能なことを成功させてはおらず、だからあなたは不可逆的に地獄に落とされては(修復しようのない断罪を神から受けては)いない。」ということが書かれているのです。

[And above all, be not AFRAID of it. When you seem to see some twisted form of the original error . . .]
[そしてこれを{間違いの投射を}怖れるのは絶対に止しなさい。あなたが原初の間違いの歪んだ形を何かの中に見ており、...]

「原初の間違い」とは、真理を幻想で代用する(置き換える)ことです。

[. . . rise to frighten you, say only, "God is not fear, but love," and it will disappear.]
[それがあなたを脅そうとしている時「神は怖れではなく愛なのだ」とだけ言いなさい。 そうすればそれは消えて行きます。]

(あなた達には)呼び声が聞えているのです。
この呼び声は常にそこに在ってあなた達に呼び掛けていたのですが、現在この呼び声がより強烈に成っているのです。 この呼び声は「世界を見てそれを正しくジャッジ(判断)するように」今までより一層強烈にあなた達に呼び掛けているのです。

つまりあなたの定義作成マシン(思考や概念)を静まらせて「父よ、ここの真理は何ですか?」と訊ねた後にジャッジ(判断)するのです。
何故なら、あなたが知りたいと求めているのは神の真摯な真理だけなのだから{神のピュアな真理だけを知りたいと訊ね聞きなさい。}
何故なら、変容が再生が贖い(救済)が今ここで起こっており、変容/再生/贖いをそれそのものとして(それそのままに)抱擁することが必要なのだから。 「変容/再生/贖い」を「変容/再生/贖い以外のもの」として見て、それに抵抗しようとするのではなく。

そして反応/反発を通してではなく平和を通して、怖れではなく愛を通して、この体験を探す事があなたの役目なのです。
だから平和が答えなのです。
そしてあなたの平和を見つけることは、望みさえすればあなた達全員が出来ることなのです。
高貴になって、これ(自分の平和を見つけること)をしようと選択しなさい。
例え他者の目には理不尽と見えたとしても、これをしようと選択しなさい。
何故ならば、これが答えなのだから。

[The truth will SAVE you. It has not left you, to go out into the mad world and so depart from you. Inward is sanity; insanity is OUTSIDE you. You but BELIEVE it is the other way; that truth is outside, and error and guilt within.]
[真理があなたを救うのです。真理は狂った世界の中には入って行っておらず、だからそれはあなたのもとを去ってはいません。(あなたの)内側に正気があるのです。 そして狂気はあなたの外にあるのです。しかしあなたはその反対を信じているのです。真理が外にあり間違いと罪悪が内側にあるとあなたはまだ信じているのです。]

もしそうでなかったのなら(もしあなたが真実の反対を信じていなかったなら)あなたは外側を見てそこで行なわれていることが狂気(幻想)であることを認識し、「それ(あなたの外にある狂気の様子)に従って自分の結論を下そう」とはしなかったことでしょう。 もしあなたが正気であったなら、あなたは(あなたの外に見えている)狂った世界に従って論理や「物事をコントロールする方法」を作りはしなかったことでしょう。

あなたは「(自分の)外側で起こっているように見えていること」を自分の神にするのは止めるべきなのです。
酷い/脅す/アグレシブな振る舞いをしている人々にしろ、人々があなたに対して怒っているにしろ、あなたを好いているにしろ、 それらのこと(あなたの外側に見えていること)に信心を与えて、それらのことをあなたの判断の源(あなたの神)にするのは止めるべきなのです。

外側のことを神にして(外側に現れている様子を物事の原因/源と見て)、あなた達自身を「あなた達が作った定義群」に従って統治するのはやめなさい。

「もし私がこれをしたら人々はもう私を尊敬してくれないに違いない。だから私はこれはしないことにしよう。」 ウン、素晴らしい脚本ですね! 

その場合「私は自分の統合性/誠実を放棄しましょう。 だって、もし私がこれをしたなら、誰かが私に対して怒ってしまい、私はそれに耐えられるかどうか自信がありません。 何故なら、人々の私に対する評価が私に取って一番大切なことなのだから。 人々が私を尊敬してくれるか、人々が私に敬意を表していくれるかどうかが重要なのです。人々が私を尊敬(評価)してくれるかどうかによって、私がリアルであるかないか決まるのです。」とあなたは言っている訳です。
「私がリアルであるかないかは、彼等が(人々が)決めるのです。」
これは真実ではありません。

これが(真理を知っていることの代用として)怖れが起こす馬鹿げた様々な形の一例で、これによって怖れがあなたを統治しあなたを暗い部屋に閉じ込めてしまうのです。 その部屋の中にはまだ光が照らされておらず、そこは埃で一杯で片付けが必要なのです。
しかしあなたはまだそれを気にしていないのです。 何故なら、あなたにはそれ(埃)は見えず、それを(幻想を幻想として)見てそれを片付けることが自分の生得権であることにあなたはまだ気付いていないのだから。
しかし一旦これに気付いたなら、今までとは違う驚きと美と秩序と知性と(その他諸々の)体験があなたを待っているのです。

[You but BELIEVE it is the other way; that truth is outside, . .]
[しかしあなたはその反対を信じているのです。真理が外にあり...]

あなたの神(あなたが信じているもの)は外にあり、狂気の人々がしていること(そして彼等があなたを見たときに見ているもの/彼等の判断)を基準にして自分の最上の判断を決めるべきだと(あなたは信じているのです)。

[. . . and error and guilt within. Your little, senseless substitutions, touched with insanity and swirling lightly off on a mad course like feathers dancing insanely in the wind, have NO substance.]
[間違いと罪悪が内側にあるとあなたはまだ信じているのです。あなたの卑小で無意味な「代用」は狂気に犯されており、狂気の風に踊らされている羽のように踊り狂っており、そこには実体が無いのです。]

ニュースを見てストレスを受け夜眠れなく成ってしまっている時、あなたはこのように感じてはいませんか?

[They fuse and merge and separate, in shifting and totally meaningless patterns which need not be judged at all.]
[それらの代用品はくっつき融合しシフトして分離して無意味なパターンを作りますが、それらを判断する(裁く)必要は全くありません。]

「それら/They」とは風の中で踊っている羽のことです。
{羽じゃ、何のことか解らないよ。「代用品/幻想」でしょ。訳注}

それら(あなたが自分の外に見ている状況)にあなたが反応する必要はないのです。
しかしあなたが自分の内側に入って二つのステップ(聖なる瞬間)を実践したなら、「何かが」あなたから何かを求めるのです。
あなたがそこ(あなたの中の静寂)から行なう「何か」が変容をもたらすのです。

世界の中で影響力を持っていると考えられている人々が「あなた達が彼等(影響力を持った人々)を神と考えていること、そしてあなた達が彼等の影響に従って自分達の行動を律するつもりであること」を「知っている」限り、彼等はあなた達をコントロールし続け、と同時にあなた達も彼等をコントロールし続けるのです。

だから、
[They fuse and merge and separate, in shifting and totally meaningless patterns which need not be judged at all.]
[それらの代用品はくっつき融合しシフトして分離して無意味なパターンを作りますが、それらを判断する(裁く)必要は全くありません。]

だからどれだけ物事(パターン)が複雑に見えても、あなたがそれに反応する必要はないのです。
あなたは「私はこれには反応しません。」と言えば良いだけなのです。
求められているのは「私はこれには反応を持っていません。」とあなたが言うことだけなのです。

[ To judge them individually . . .]
[それらを個別に判断する(裁く)ことは]
光の中で踊っている一つ一つの羽/埃に反応する必要はないのです。

[To judge them individually is pointless. Their tiny differences in form are no real differences at all. NONE of them matters. THAT they have in common, and nothing else. Yet what else is NECESSARY to make them all the same?]
[それらを個別に判断する(裁く)ことは無意味なことです。それらが現している形の僅かな違いは全くリアルな違いではないのです。それらの違いはどうでも良いのです。それら代用品は、どうでも良い(無意味)という共通点だけを持っています。それら代用品を全く同じにする為に、これ以外に{それらが全く無意味だと気付くこと以外に}何が必要だというのでしょうか?]

それらは全て同じことであるとあなたは知る必要があります。
ウオール・ストリートで何が起ころうとも怖れる必要はないのです、商品取引所や銀行で何が起こっても問題ではないのです。 政府が何をどうしようとも、それが問題ではないのです。
それらのことによって、あなたのマインドの使い方を統治してしまってはダメなのです。
あなたは、あなたの外側に見えている神々(原因)に自分の行動や反応を影響させずに、正気をここ(世界の中)に引き出す者に成る必要があるのです。

変容/再生/贖いに、今避けよう無く実際に起こっている「動き」に、意識的に参加する必要があるのです。 それをコントロールしようとして参加するのではなく、訊ね聞くことによって「この動きが何か」学ぶことを通して、真理があなたを訪れられるだけ謙虚になることを通して、(反発や怖れを引き出すことなく)変容/再生/贖いを促進する振る舞いをあなたが行なえるようになる必要があるのです。
あなたがコントロールすることをしていないなら、反発(反感)と恐れは発生しないのです。

あなた達全員がコントロールされることを嫌って、それに抵抗します。
あなたはそれを我慢出来ません。 しかし兄弟姉妹達と共に平安な状況を作るためには、これをせざる得ない(コントロールするしかない)とあなた達は「知っている/確信している」のです。
だから、あなた達は「自分に対しては使われたくないこと(コントロール)」を使わざる得なく成って葛藤してしまうのです。
このようにして次の五手を先読みして自分の安全をはかろうとすることは、チェスのように複雑なゲームに成ってしまうのです。

[Let them all go, dancing in the wind, dipping and turning till they disappear from sight, far, far outside you. And turn you to the stately calm within, where in holy stillness dwells the living God you never left, and Who never left you.]
[それらは風の中で踊るままにして置きなさい。 それらがあなたの遠くに行って視界から消えてしまうまで放って置きなさい。あなたは自分の中の静寂(聖なる静けさ)に向き合いなさい。 そこに生きた神が居り、あなたはそこから去っては居なかったのです。 神はあなたのもとを去っては居なかったのです。]
神の現れと行動を阻止することに成功したものは何も無いのです。

[The Holy Spirit takes you gently by the hand, . .]
[聖霊はあなたの手を優しくとって、]

あなたが自分の手を聖霊に差し出して「ここの真理は何ですか? 私を助けてください。私は(私がデザインし作り使用して来た)自分の個人的なスキルにはもう依存したくありません。」といったなら、
あなたが(聖霊を自分の中に招待して)伸び出したなら、
[The Holy Spirit takes you gently by the hand, and retraces with you your mad journey outside yourself, leading you gently back to the truth and safety within. He . . .]
[聖霊はあなたの手を優しくとって、あなた自身の外側を旅していたキチガイ染みた行程をあなたと共に辿り(逆戻りして)、あなたの内側の真理と安全へとあなたを導き戻します。聖霊は…]

もし聖霊を招き入れ、聖霊に聞き入る意志があなたに持てるなら...

[. . . brings all your insane projections and your wild substitutions which you have placed outside you to the truth. Thus He reverses the course of insanity, and restores you to reason.]
[あなたの投射と代用の狂気全て(あなたはそれらを自分の外に置いたのです)を真理へと戻します。こうして聖霊は狂気のコースを逆転させ、あなたの理性を修復するのです。]

これが(あなたが二つのステップを実践した時に起こる)聖なる瞬間の動きの解説です。
これがあなた達の世界の中で必要とされている修正の基礎になるものなのです。
何故なら、全てのゴミが見えるように成り、あなた達はゴミをそこに見て、「そこにゴミは存在していない(などと言って)」自分達をもう騙さなくなるべきなのだから。 そしてゴミを掃除するべきなのだから。
それは光の中ではとても簡単で、光の中で喜んですることが可能なのです。
何故ならあなた達が滓(カス)を片付けて行くに従い、ゴミを掃除して行くに従い、それらの下に隠れていたパーフェクション(完璧性)を光が照らし出すのだから。

あなたのマインドを良く使って、そしてあなた達の偉大な仲間が居ることを思い出しながら、今起こりつつある変容に参加しなさい。
「世界中で一番偉大なあなたの仲間」とは、「平和を意識的に選ぶこと」なのです。何故なら、その時あなたは平和以上に大切なものを何も持っていない(平和以上に大切なものを何も見つけようとしていない)のだから。
これが出来たなら、あなたは贖いの脚本に成るのです。
これがあなたの役割/役目なのです。

Chapter 18 – THE DREAM AND THE REALITY
1 Sparkly Book – p.423, 2nd Par.6th Line / JCIM – p.177, 2nd Par.4th Line / CIMS – p.356, 2nd Par.5th Line
Chapter 18 – THE PASSING OF THE DREAM
First Edition – p. 347, 2nd Par., 6th Line / Second Edition – p.372, 2nd Par., 7th Line

「Northwest Foundation for A Course In Miracles」の行動は全て無料で提供されています。 これは無条件に差し伸べられた愛によって実施されています。 ギフトとはその様なものだから。 あなたと同等の方が既にこのギフトをあなたに差し出したので、これらの資料があなたに提示されています。 Raj の指示により、これらの資料が売買される事はありません。 この機関「Northwest Foundation for A Course In Miracles」へ募金される場合、下記のWEBサイトを通して行なうか、あるいは下記の住所に郵送して下さい。

A Course in Miracles Study Group with Raj, November 11th 2011
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ACIM11-11-05

2011年11月5日

変容、再生、贖い。
今晩はこの三つの言葉を考慮することから始めましょう。

コース(A Course in Miracles)を勉強している多くの人達は「目覚め」(「あなた自身のどの部分も最早真理から遠ざけていない」意識体験を持ち始めること)が再生/変容/贖いの動きだと考えていることでしょう。

しかしとても奇妙で変態的なエゴの理由/理屈によって、「人が自分自身と呼んでいるもの=マインド」に対してこれらの言葉(再生/変容/贖い)を適応することは許されていても、人の体や人の世界に対してこれらの言葉を適応することは許されていません。
すると(このように考えて振舞っていた結果として)あなたは、あなたのマインドの中では変容され再生し贖われる、ということなのでしょうか(ということをあなたは信じているのですか)?
しかし「このような(再生/変容/贖いは限られた個人的マインド内でしか起こらないという)概念は捨て去られなくてはならない」と私は長いこと言って来ました。

あなたの世界が再生され、変容され、贖われる必要があるのです。
今日これが世界の中で求められていることがあなた達にも見えています。
そして「ええ、行なわれなければならない事があります。不当なことは止められなくてはいけません。現在物事が行なわれている方法は変えられる必要があるのです。」とあなた達は言っていますね。

しかし、良いですか。
これらの(実際的な)ことはコースとは関係無いと思われしまっています。 何故なら「世界は幻想である」とコースには書いてあるのだから。 違いますか?
だから「ここ(世界の中)で何らかの状態を正すことは、目覚めること(あなたの正しいマインドに帰って行くこと)とは関係が無い」と考えられているようです。
もし世界を癒やすことが重要ではなく、目覚めることだけが最重要で、あなたのマインドがクリアに成り、真理と幻想に対してあなたがクリアに成り、そのプロセス上で世界が消滅するのであれば、これらのこと(世界の中で起こっている事柄)を修正しようとすることは無意味だと人は言ってしまうかもしれません。
「ギリシャやアフリカの問題とは関わり合う必要がない。 それらは崩壊するままに任せればよい! 何故なら、幻想は幻想として現れ、それらは倒れ去るがままにすれば良いのだから。」

しかしコース(ACIM)を言い訳にして、このような態度を取るべきではないのです。
コースには修正の呼びかけ(修正の必要、call for correction)に関して書いてあります。
コースは「全ては愛か、でなければ愛の呼び掛け(愛を求める声)である」と言っています。
世界の中で何かが起こっている時、あなたはそれが愛を求めている声ではないと言うのでしょうか?
そしてあなたはそれを(その愛を求めている声を)無視してしまうのでしょうか?
あなたの身体の全てがうまく機能していないように見えている時「これは愛を求めている声ではない、これは変容を必要とはしていない」とあなたは言うのでしょうか?
それは崩壊するままにしておけば良い、見かけ上崩壊するままにあなた自身を放っておけば良い、とあなたは言うのでしょうか?
もしそうする積りであれば、コースがそのようなことを正当化しているとは言わないで下さい。
自分がコースの生徒だから、そのようなことをしているのだとは言わないで下さい。

私はこれを冷静に優しい声で言っています。
しかし私がこれを叫んでいると思って聞いてください。
これをあなたに聞くことの出来る一番大切なこととして聞いてください。
私が言っていることを「今ここに対して変容をもたらす真理を告げていること」として聞いてください。

何が世界と宇宙を物質的なもの(material)にしているのでしょうか? {何が、物質的な宇宙/世界の体験を成立させているのでしょうか。}

世界を見て「父よ、私が見ている全ての真理は、あなたが創造した全ての真理は、何ですか?」と訊ねることをあなたが拒否していることが物理的世界を作っているのです。
『「私が見ている全ての真理は何ですか? あなた(神)はそれをどの様に体験していますか?」とあなたが父に訊ねていないこと』が物理的世界を成立させているのです。
「創造(私はそれを真に見ているか、そうでなければ曇りガラス(歪み)を通して見ています。)はあなた(神)の視点からはどの様に見えていますか? あなたが創造の中で体現している意味/意図からは世界(創造)はどの様に見えていますか?」{とあなたが父に訊ねていないことが物質的世界を構成しているのです。}

解りますか。 あなた達はこれを父/源に訊ねていないのです。
その結果として、あなたは父の視点/視界があなたに届くことを可能にするよう注意を(父に)与えることを怠っているのです。
「父はこれに関しては視点/視界(意図)など持っていない。これらは全て幻想なのです!」
{あなたはそう言ってしまっていませんか?}

あなたがそのような愛の無い概念を信じてしまい、そのような概念(父は世界に対する視点/意図は持っていないというような概念)に統治されてしまうことは、父の意志ではなく、私の意志ではなく、聖霊の意思でもありません。
あなたが苦しみに負けてしまって、「(苦しみが引き起こしている)全てに対する真実でない視点」を意識的に受け入れてしまうことは父の意志ではありません。

「あなたの注意を真理に当てられるようにすることが聖霊の目的である」とわたし達は言って来ました。

そして聖霊とはあなたの正しいマインドでしかなく、このあなたの正気(聖なるマインド、リアルなマインド)はあなたに真理を照らし示すことによりあなたを変え、あなたの視点を変え、あなたの意識/振舞いを変えようとするのです。

では何が真理なのでしょうか? 真理とは反論しようの無い明確な事実でしょうか。真理とは永遠に変化し得ない宣言/声明のようなものなのでしょうか? 真理とは情報なのでしょうか?
私は皆さんにこれを訊ねたいのです。

沢山の人達は上記のように(真理とは叡智という情報だと)考えています。
だから「父よ、ここの真理は何ですか? 聖霊よ、ここの真理は何ですか?」と訊ねなさいと私が言っている時、往々にしてあなた達は情報を求めなければいけないのだと考えてしまっています。 何か知的な(そして変化しない不滅な)シンボルや言葉や文字を求めてそれを得られなくてはならないと考えてしまっている人達がいます。
しかし真理はそのようなものよりも偉大なのです。 
考えてみてください。
神と同義語である(真理)が情報の欠片で在り得るでしょうか?

例えば「愛」という言葉を取り上げてみましょう。
愛は生気のないもの(動かないもの)ではありません。
愛は生きているものなのです。愛は動いているものです。愛は体現されるもの、表現されるもの、愛情として現れるものです。
愛は気遣いとして現われ、愛情の行動がそれに続きます。
だから愛とは生きているものなのです。

命はどうでしょう? 命も神のもう一つの同義語ですね。
生命が情報の欠片だと考えている人はいないでしょう。
生命とは生きて動いているダイナミックなものです。

真理はどうでしょう?  (わたし達が先週話したことよれば)真理とは情報の集まり以上のものです。 真理は生きているのです。
だからあなたが「父よ、ここの真理は何ですか?」と訊ねている時、あなたは自分の最上の判断を越えて聞くことを選択しており、「真理が何か」示される(暴露される)ことを求めているのです。
わたし達が先週話したように(ア・コース・イン・ミラクルズに書いてあるように)真理は(理屈や論理や知的プロセスを通してではなく、父の意志を暴き示すことにより)あなたを変えるアクティブな現れ(存在)に成るのです。
それぞれの瞬間に父が体現している全てのものの意味/意図をあなたに暴き示すことにより、真理はあなたを変容させるのです。
そして物事のリアリティを体験することは、神の創造の意図を体験することは、(あなたが抱擁したり拒否したり出来る)効果を持っているのです。
{あなたは神の意図の現われを受け入れることも出来るし、それを拒否することも出来るのです。}
もしあなたが神の意図/意志を抱擁したなら、それがあなたを変容するのです。
神の意図の働きとは、認識を通してマインドを変えさせる事なのです。
解りますか?

だから「父よ、ここの真理は何ですか?」とあなたが訊ねている時、真理を説明する言葉の羅列を待っていたなら、あなたは要点を取り逃がしてしまいます。あなたはそこで起こっていることの深さと幅(リアリティ)を見違えてしまいます。何故なら、「あらゆる物/事」に対する「神の意図」の豊潤さに対してあなたが無防備になった時、「あらゆる物/事」に対する「神の意図」の豊潤さこそがあなたに示される真理なのだから。
そしてこれがあなたを変えるのです。 あなたはそうして目覚めるのです。
そうしてあなたの正しいマインドが「あなた」としてあなたに届き始めるのです。

わたし達はすでに「マインドを使って何かを達成する為にあなた達のマインドが存在している訳ではないこと」を仔細に説明して来ました。
人間的状況(夢の世界)は、あなた達が自分達のマインドを使って物事を起こそうとした結果として発生しているのです。
「父よ、私は自分のやり方で見てみたいです。 父よ、私は自分でして見たいです。父よ、『全ての物事が何か』私は自分で決めてみたいです。 だから私はあなたから離縁して、自分だけで機能して、私のマインドを使って物事を発生させてみたいです。」 {と神の子が言った結果として、天国が物理的世界として働いてしまっているのです。}

そして次が興味深いことです。
あなたが自分で(神がそこに居ることから異なった)何かを起こそうとしている時、あなたは誤創造の行為をしているのです。
その時あなたは(すでに存在しており変えることは全く不可能な)創造を変えようと試みているのです。
その時あなたは「物事はこう起こるべきだ/物事はこのような意味を持つべきだ」とあなたが考えていることに従って物事を起こそうと試みることで精一杯なのです。

だからあなた自身のマインドを使って物事を起こそうとすることは、常に父の意志(神の視点/創造それ自身)に対抗し続ける行為なのです。

その結果が罪/病/死の生活なのです。その結果が苦しみの生活であり、苦しみを克服しようとしてエゴを満足させる行為なのです。その結果が自分自身で何かを達成する満足の高揚感を得よう、不可能なことを達成しよう、と試みることなのです。

「変容、再生、贖い。これらの言葉を覚えていなくてはいけません。これらの言葉を考慮してください。」と私が言っている時、「あなたのマインドを使って癒やしを発生させなさい。あなたのマインドを使って何かを起こしなさい。」と私が言っていると考えてしまうかもしれませんが、そのようなことをしても何も起こりません。
「何かを起こす」本当の方法は、あなたが物事の邪魔をするのを止めて「父よ、私に真理を示してください。 聖霊よ、ここの真理を私に示してください。」と言って、聖霊が真理をあなたに示すことを許可することなのです。

私が「変容/再生/贖い」という言葉を強調しているのは、「私の体は物理的なものだ。全ての人々の体は(最終的には)死ぬのだ...私の体は死ぬだろう。私は癒やしを期待することは出来ない。 私は年を取り続けている。また怪我をしてしまった。」などとあなた達が確信している事柄以外のことであなたのマインドを満たす必要があるからです。 
あなたが演じて(信じて)いる脚本以外のことをあなたのマインドの中に入れなくては成らないので、私は「変容/再生/贖い」という言葉を強調しているのです。
罪/病/死に対するあなたの確信(それらがあなたをコントロールしてしまっていること)から(あなたの生得権である変容/再生/贖いへと)あなたの注意をシフトさせる脚本をまだあなたは持っていないのです。
あなたを殺してしまう確信(とここでは言ってみましょう)以外の選択肢をあなたが持っていなければ、あなたは自由に成ることが出来ません。
だから変容/再生/贖いのことを忘れてしまってはいけないと私はあなたに言っているのです。
それらのことを(変容/再生/贖いが可能だと)思い出していれば、あなたに起こり得る最低のこと(そして物質的世界や物質的体が働く方法)に対するあなたの確信(それがなんであろうと)にチャレンジ(挑戦)することが可能になります。

これらの言葉を覚えておくことにより、何処にあなたの注意を払えば良いのでしょうか?
あなたのより優れた思考でしょうか?より優れたよりパワフルなアイディアでしょうか?
それとも「ここの真理は何ですか?」と父に訊ねることが可能なあなたの中の静寂でしょうか?
「この世界の中のここで私の生得権(持って生まれた当然の権利)を暴き示してください。」とあなたが聖霊に訊ねられる場所にあなたの注意を与えるべきなのです。

「私という個人(性)の見れる様子触れる様子(私の体、私の隣人、私の友達)の中に父が置いた意図を私に示してください。 私が彼等の真理を見られるように成り、それが『変容/再生/贖いが私に(友達に、恋人に、隣人に、私の世界に、私の隣国に)届く』グラウンドワーク(基礎工事)と成るように。」

あなた達は物質的世界(幻想)の中に居るので、あなた達は病気に成り罪を犯し死んでしまっているのです。
そしてだらしなく怠惰にマインドを使っているので、あなた達は真理ではない事柄を(それにチャレンジすることなく)受け入れてしまっているのです。

だから私は、「もう少し腹を括って、それらのこと(死/病/罪)にチャレンジしなさい(異を唱えなさい)。」と言っているのです。

それらを否定しなさい。リアルなものを否定するようにこれを行うのではなく、あなたのマインドを振り向かせ「父よ、聖霊よ、ここの真理は何ですか?」と言って自分の独立を放棄出来るように成りなさい。
「私は自分の間違ったネガティブな思考を使いません。私は(誰の得にも成らない)エゴの意地悪な性質は使いません。私はマインドのお喋りを閉じて、真理が私に示されるまで静かにしています。私のマインドを変える(そして体や世界に対する私の体験を変える)意図とパワーを持っている生きた真実が示されるまで私は静かにしています。{と言えるように成るべきなのです。}」
これが重要なことなのです。

[THE DREAM AND THE REALITY 1]
[夢とリアリティ]
[To substitute is to ACCEPT INSTEAD. If you would but consider exactly what this entails, you would perceive at once how much at variance this is with the goal the Holy Spirit has given you and would accomplish FOR you.]
[代用(substitute=取り替える)とは何かの代わりに他のものを受け入れることです。代用の全容を考慮してみたなら、これは聖霊のゴールから程遠いことが解るでしょう。 聖霊はあなた達にゴールを与え、そして聖霊があなた達の為にこのゴールを達成するのです。そして取り替えること(代用)は聖霊のゴールからは程遠いのです。]

これが重要なキーです。
これはあなたが達成することではないのです。
聖霊があなたの為にこれを達成することをあなたが許可するのです。
それは何故でしょう?
何故ならこれは、あなたが今まで行なってきた独立行動から離れるやり方だからです。
あなたは今まで何から独立しようとして来たのでしょうか?
父からの独立、あなたの神聖からの独立を、あなたは試みていたのです。
「父よ、私は自分自身でしたいです。私は(あなたの意志を見るのではなく)全ての意味を私自身で決めたいです。」と言った時あなたは何の代わりに何を受け入れたのでしょうか?
その時あなたは父の意志/意図の代わりに{神から分離し続けようとする}あなたの権威を受け入れたのです。

これはとても馬鹿げたことです。このようなことは不可能なのです。
これは実際には達成不可能なのですが、(これを試み続けている)あなた達は不調和と苦しみと奮闘の体験を作り出しており、それを乗り越えることが可能だという約束を信じているのです。 これ(父の意図から独立する試み)があなた達を突き動かしているのですが、これを実際に達成することは不可能なのです。
だから目覚めとは、あなたが父の意志の代わりに自分の意志と自分自身を代用し続けること(それが原罪であり唯一の間違いなのです)を放棄することなのです。 

[To substitute is to CHOOSE BETWEEN, renouncing one in favor of the other. For this special purpose, one is judged more valuable and the other is replaced by him. The relationship in which the substitution occurred is thus fragmented, and its purpose split accordingly.]
[取り替える(代用する)とは、どちらかを選ぶことです。 それは二つ(あるいは複数)を見比べ、片方がより好ましいとしてもう片方を否定することです。この特別な目的の為に、片方がより価値があると判断され、もう片方がそれ(より価値があると見なされた選択肢)で置き換えられるのです。このようにして「代用が行なわれている関係」はより細分されてしまい、その目的もこれにより分割されてしまうのです。]

この文章があなたと兄弟/同胞の関係に関して述べていると考えた場合、あなたは要点を取り違えてしまうので、注意してください。

[The relationship in which the substitution occurred is thus fragmented, . .]
[このようにして「代用が行なわれている関係」はより細分されてしまい、]

あなたと父の関係の間にこの代用が用いられているのです。
このようにして代用が行なわれている(父の意志があなたの意志で代用されている)関係をあなたは分離したものとして体験しているのです。
あなた達のお互いとの関係が安定し平和に成り神聖に成るには、この関係(父とあなたの関係)が修復される必要があるのです。

[The relationship in which the substitution occurred is thus fragmented, and its purpose split accordingly. To fragment is to exclude, and substitution is the strongest defense the ego has for separation.]
[このようにして「代用が行なわれている関係」はより細分されてしまい、その目的もこれにより分割されてしまうのです。細分化することは疎外することなのです。そしてエゴが分離を守るために使っている一番強い防御が代用(取り替えること)なのです。]

(あなたが父から離れたときに起こった)代用が唯一リアルな代用であることを忘れた場合、あなたは自分の全ての関係を見て、そこに不可能なことを見ている様に感じるのです。
つまり、神の真理に関してあなたの全ての兄弟姉妹と合意することは不可能に見えるのです。
しかしあなたが{第一に}するべきは、そのようなこと(真理に関する合意を兄弟姉妹と取り結ぼうとすること)では無いのです。

兄弟姉妹と繋がる前に、兄弟姉妹と(能動的に)関係を持つ前に、あなたは止まって聖なる瞬間を実行し、静かに成って自分の思考/理屈を止め、物事を自分で行なうあなたのパーソナルな能力を尊ぶことを止め、あなたの中の静寂に対して「父よ、ここの真理は何ですか?」と訊ねるべきなのです。
このようにして、あなたは自分が行なった唯一の間違ったステップ(「父よ、私は自分でやりたいです。」とあなたが言ったこと、これが全てを複雑に見せているのです)を解除するのです。

だから答えはとてもシンプルなのです。
答えは、自分自身で思考することを止めて、自分を静かにして、静けさに対して『聖霊よ、ここの真理は何ですか?』と訊ねることなのです。
「聖霊よ、私の正しマインドにしか過ぎないものよ、私に関する真理は何ですか? 私に関する真理を暴き示してください。そうすることがあなた(聖霊)の役目なのだから。そして生きている真理が私に届く(響く)ようにして下さい。
それが私を変えて、独立的存在に成ろうとしていた私の試みを解除し、その結果として私が体験していた全ての苦しみが消されて、そうなれば「兄弟の目を見て神を思い出すことが出来る」ポジジョンに私は置かれるでしょう。
こうして、兄弟に向かって私が差し伸べる(拡張する)祝福が私のために確保され、わたし達は一緒に癒やされるのです。」 これが唯一上手く働くことです。

癒やし、変容、再生、贖い。
この最後の言葉(贖い)が一番素晴らしい言葉です。
その意味は「何かをその原初の状態に復元する、初めの状態を取り戻す」ということです。

これ(原初の状態=無垢)が本当にあなたの生得権だとあなたは信じていますか?
「誰か他の人なら奇跡を得られることでしょう。 他の人なら素晴らしい癒やしが得られるかもしれません。 しかし私は罪を犯し過ぎた。私は十分な誠意は持てなかった。だから私はそれ(癒し)には値しない。」
このような脚本(台本)をあなたは書いてしまっているのです。

このような言葉が出始めたなら、直ちにこの口を(思考を)閉じて、お喋りが起こっていないあなたの静けさの中で「父よ、ここの真理は何ですか? 私が自信を持って信じていることを越えている真理は何なのですか?」と訊ねるのです。
「何が変容をもたらす真理なのでしょう? 何が贖いをもたらす真理なのでしょう?
真理をわたしのもとに来させて、私のマインドを変えてください。それが私の脚本を変えるでしょう。
古い脚本よりも優れた新しい脚本(独立的存在として私が使い続ける脚本)が与えられるのではなく、真理であるものを意識的に体験して、その体験の驚きによって{私には決して起こりえないと自信を持って奇跡を無視していた状態}から私が抜き出されるでしょう。」

[The Holy Spirit never uses substitutes.]
[聖霊は決して代用品をもちいません。]

もし聖霊が代用品{あなたの意志}を使ったなら、聖霊は神の代わりに「神に似ていない何か」を代用することに成ってしまいます。 神の代わりに「何か神から異なったもの」を使うことに成ってしまいます。
聖霊にはそのようなことは出来ません。 聖霊はあなたの正しいマインドなのです。
聖霊はあなたの正気で、あなたの父によってあなたの中に設立されているのです。
そしてあなたはエゴと共に(エゴを使って)これを日々無視しているのです。

しかし、
[The Holy Spirit never uses substitutes. Where the ego perceives one person as a replacement for another, . .]
[聖霊は決して代用品をもちいません。エゴは一人の人を他の人の代わりとして知覚認識していますが、]

あるいは、エゴは「一人の聖なる神の子」を父(源)の代わりとして知覚していますが...。

[Where the ego perceives one person as a replacement for another, the Holy Spirit sees them joined and indivisible. He does not judge between them, knowing they are one.]
[エゴは一人の人を他の人の代わりとして知覚認識していますが、聖霊は彼等を繋がって切り分けられないものとして認識しているのです。聖霊は人々がひとつだと知っており、人々の間に異なった判断を挟まないのです。]

しかし人々はこのようには考えたくないのです。
あなたにも自分達の仲間の一人として迎え入れたくは無い人が居ることでしょう。
それがあなたの脚本なのです。

しかし、
その人と一つに成りたくない兄弟(あなたが嫌っている兄弟)を誹謗することなく(その人に対して自分を防御的することを忘れて)、あえてその兄弟を見て「私の兄弟に関する真理は何ですか?どのようにすれば私は兄弟を見て(彼が行なった数々の酷いことではなく、彼が私と他の人々を傷つけたことではなく、彼が私を利用したことではなく)神を思い出すことが出来るのでしょうか?」と父か聖霊に訊ねることを思い出せなくてはいけないのです。

でも、あなたはそれらの不平を持ち彼を嫌っているのです。
自分の不平(反感/嫌悪感)を放棄出来るように成るまで、あなたは兄弟の眼の中に神を見ることが出来ないのです。 何故なら、あなたの不平の実践(誰かを嫌う行為/意識)があなたを正気に保っているとあなたは考えているから。 
この(不平/嫌悪感)の実践が「大いなる喜びをもたらす真理が見られない状態」にあなたを保ってしまうのです。
何故でしょう? それは(あなたが不平/嫌悪感を手放したなら)あなたは真理を見るだけでなく、あなた自身の正気があなたに戻される体験をするからです。{だからエゴはそれをしたがりません。}
(しかし、あなたがあえてそうしたなら)あなた達二人は一緒に喜ぶのです。
これが起こるべきことなのです。


もう一度読みましょう。
[The Holy Spirit never uses substitutes. Where the ego perceives one person as a replacement for another, the Holy Spirit sees them joined and indivisible. He does not judge between them, knowing they are one. Being united, they are one because they are the SAME.]
[聖霊は決して代用を行ないません。エゴは一人の人を他の人の代わりとして知覚認識していますが、聖霊は彼等を繋がって切り分けられないものとして認識しているのです。聖霊は人々がひとつだと知っており、人々の間に異なった判断を挟まないのです。人々は同じであり、人々はひとつに繋がっているのです。]

(人々は)全て同じで、彼等は神が表現されている状態なのです。

[Substitution is clearly a process in which they are perceived as different. One would unite; the other separate.]
[代用は人々の中に違いを認識しようとするプロセスなのです。聖霊のプロセスは合一(ひとつになること)をもたらし、代用のプロセスは分離をもたらします。]

上記の文章は何を言っているのでしょうか?
それはあなたが聞いている教師に依存しています。
もしあなたが聖霊を聞いていたなら、働き(機能)と目的と結果は「一つにすること、一緒にすること」なのです。

もしあなたがあなた自身(独立したあなたの自己=エゴ、それ自身の他には何も配慮せずに行動している存在)に訊ねていたなら、その時あなたは分離する(バラバラに切り離す)行為をしているのです。

だからここでも答えはシンプルで、白黒ハッキリしたものです。
あなたは自分自身だけで自分の為に思考しているか、そうでなければ、
あなたは父があなたに真理を示すことを許可しており、あなたが「そこで知っている」真理があなたの注意/意識/意図/判断を満たしているのです。
しかしこれはあなたの判断/判定ではないのです。
これは「父が自身の創造を計って(認識して)おり、それ(創造)を父自身の視点から理解していること」をあなたが見ていることなのです。

[Nothing can come between what God has joined and what the Holy Spirit sees as one.]
[神が繋げたものを(そして一つのものとして聖霊が見ているものを)分離することが出来る者は存在していません。]

そして聖霊とは、何かあなたの外にあるものではなく、あなたの外にある何かが、何か(他のもの)を一つのものとして見ている訳ではないのです。
聖霊はあなたの正気にしか過ぎず、それが全てを「ひとつ」として見ているのです。

「エゴとしてのあなた」をあなた自身に信頼させている(自分を自分自身として成り立たせているとあなたが考えている)個人的スキルやその他の全てを放棄して、真理/真実が何か?「他の何者」かに訊ね聞かなくてはならないと云うことは、とても屈辱的/侮辱的に思われるのです。

しかし(その時、聖なる瞬間の中で)あなたが聞き入っている者は、あなたの正気である聖霊に他ならないのです。
だから聖霊に聞き入ることは、あなたの自身を放棄することではなく、あなたの卑小な自己をより大きな「自己」のために放棄することなのです。
これにより全体が統合されることに成り、それ(統合された全体)をあなたのマインドの中に取り入れることを許せば、それは二度と(あなたのマインドを)去らないのです。
そして神の統合性(統一性/完全な状態)が、宇宙の統合性が、あなたの統合性(誠実/全体)と分離し得ないものとして体験されるのです。

これがコースの要点なのです。 今までわたし達が話して来たことが上記のことをもたらすのです。
(これは)あなたが十分無防備に成って真理をあなた自身に届かせ(響かせ)て、真理の生気(生きたエネルギー)の中であなたが真理の動きによって変えられることなのです。

これはあなたが大切にしているセルフコントロール(自己制御)やその他全てをコントロールする術を放棄して、(はじめの内はあなた自身とは見えない、しかし本当はあなたの正気でしかない)「何か他のもの」にあなた自身をコントロールさせることなのです。
だから「それ(聖霊/何か他のもの)」に譲ることがあなたの正気に譲ることなのです。
何故ならこれこそが、独立的に行動しようとしている意図の全てをあなたが放棄することなのだから。 そして(神から離れて)独立的に行動しようとしているあなたの意図が幻想体験を作っているのです。


これがコースの教えようとしていることの要点なのです。
コースは長大で様々なトピックをカバーしていますが、それら全ては、このことに収斂されるのです。

さて、ニュースを見ている時あなたは、「変えられるべきもの(変革されることを求めている呼び声)」を見ているのです。
殆どの場合、あなたは変化の呼び声(変化の必要)を感じているか、でなければ変化の呼び声(変化の必要を訴え掛けているメッセージ)を抑圧しているのです。
何故なら(あなたが変化の必要を感じているにしろ、感じていないにしろ)変化の必要は絶対にあるのだから。

何故わたしはこう言っているのでしょうか?
何故なら、今日コース(ACIM)のテキストを学び切ろうというゴールを持つことは、良いゴールではないからです。 何時の日であったにしろそれは良いゴールではありません。
コースが教えていることを実践することがゴールであるべきです。
そしてコースは、上手く働かないことを続けるのは止めて、上手く働くことを始めるよう教えているのです。
そしてこれはとてもシンプルなことなのだから、これを(達成不可能な程)複雑なプロセスにしてしまうのは止しなさい。

あなた自身の為に話す代わりに、「父よ、ここの真理は何ですか?」と訊ねて聞き続けなさい。何故なら、これが一番大切なことなのだから。
夢がリアリティに置き換えられることは、このようにして起こるのです。
そしてこれは難しいプロセスではないので、あなたはこれを今日することが出来るのです。

聖なる瞬間(二つのステップ)の実践は簡単です。
あなたが口/マインド/思考を閉じて、静けさの中で「父よ、ここの真理は何ですか?」と訊ねて、そして聞くのです。
そして(答えが)聞えるまで動かず待ち続ける意図を持っていなさい。聖なる瞬間を行なっているあなたの行動にシリアスネス(深刻さ/決意)が加わるように。

「アー、父よ、ここの真理は何ですか?」 ウ、ウーン... これ以上はもう待てない、自分で考えて行動しよう。 {というようでは駄目なのです}

もしかしたらあなたはその時、直ぐに行動しなくてはならない状況に在るのかもしれません。
しかし(そのような場合でも)全ての行動を父/聖霊(あなたの正気)との繋がりから発生させるあなたの意志が必要なのです。 何故なら、あなたはそのようにして目覚めるのだから。

そしてあなたが居る世界の中で、あなたは目覚めるのです。
あなたが住んでいる世界が、そしてあなたが体験している体が、変容/再生/贖いが起こる場所なのです。

そして良き知らせは、「これは複雑ではない」ということです。
世界の中で毎日これを実践する機会にあなた達が豊富に恵まれているということが、良き知らせです。

学者や「政府を良く理解している人々」でなくては(世界の中に)必要な変化が起こせないとあなたは考えているかも知れません。しかしそれは間違いです。
あなたが、あなたが、あなたが、あなたが、あなたが、あなたが、あなたが、あなたが変容を再生を贖いを可能にするアイディアを授かる人で在り得るのです。

神は、パズルのようにあなたに謎解きさせる為に創造を行った訳ではありません。
これは(目覚めることは)難しいことではないのです。
しかしあなたが自分一人で(聖霊の意志を借りずに、霊の流入を受け入れずに)この全てを理解しようとしたなら、それは今まであなたが体験して来た通りの体験で在り続けることでしょう。
でも(あなたの体験が)そのようである必要は無いのです。

変容/再生/贖いを考慮する(変容/再生/贖いを体験したいと求める)このプロセス内で、それを可能にしなさい。
つまり変容/再生/贖いのプロセス内であなたが受け持つ重要な役割を否定してしまわないようにしなさい。
変容される必要があるのは「悪い人達」ではなく、...
変容される必要があるのは「悪い人達」だけではなく、「良い人達(良いと思われている人達/自分は良い人だと思っている人)」も変容される必要があるのです。 あなた達が変容される必要があるのです。

だから世界がどれだけ酷い状況にあるか、どの様にまずい対処が行なわれているか、世界の統治がどれだけ強欲な者達によって行なわれているか、文句を言うのは止めなさい。
全てをトイレに流してしまおう(無に帰してしまおう)とするのは止めなさい。

(世界が変えよう無く酷い状態にあると)そのように考えることは、どの様な脚本なのでしょうか? この脚本を信じて、それに従って生きた場合、どのような確証が得られるのでしょうか?
この脚本の確証(結果)は、変容/再生/贖いとは見えないものに成るでしょう。
それは(この脚本に従って生きることは)混乱を更に酷くし、答えの啓示体験(答えが示される体験)からあなたのマインドをブロックして(締め出して)しまいます。

そして答えは複雑ではなく、難しくも無いのです。
答え(解決をもたらすもの)は「愛」です。
答えは常に、誰かが心遣いを与えて、隣人の目を見て神を思い出し、愛(人らしさ/親切/慈しみ)を表現することなのです(それが解決をもたらすのです)。

そうするのではなく(神を思い出すのではなく)、隣人が行なった悪い行いの全てを思い出し、あなたの生活や世界に対して行われた全ての悪しきこと(あなたや世界を縛っているもの)を思い出してしまっていては、それは殆ど抜け出すことが不可能な状況に成ってしまうのです。
これは何と酷い脚本でしょう!
あなたがどのような脚本を演じて(信じて)いるか、それに注意しなさい。

(あなたが信じている脚本を見直す必要があるのは)その脚本が物事を本当に起こしているからではなく、そのような脚本があなたに真理を思い出せなくしているからなのです。

あなたが天国と言い争うことを止めた途端、力(権威)を持って独立的に振舞う試みを全て放棄することによりあなたの神聖に逆らうことを止めた途端、神の真理があなたに届くのです。
何故なら、その時最早あなたは神の真理をブロック(無視)していないのだから。
これだけシンプルなことなのです。

だから世界中の人達は、「真理を見たい」と訊ねられる素晴らしく肥沃な土の上に立っているのです。
聖霊/父に訊ね聞くことにより、あなたが今居るそこで真理が暴き示されることを許可し、それ(真理)によりあなたは変化して、あなたは真理の明晰さ(ハッキリと示された真理)のもとに瞬間的に(突き動かされて)行動するのです。 そして(あなたがそのように訊ね聞きインスピレーションをもとに行動していることを見た)他の人達もインスピレーションを受けて「自分も同じようにしよう」と思えるように成るのです。

この章の主題である「夢とリアリティ」は、本の中のただ興味深い題材ではなく、これはあなたに関することなのです。 これは目覚めることを言っており、これは困難無く行なうことが可能なのです。

今週はこのことを忘れず実践してください。

テーマ : スピリチュアル
ジャンル : 心と身体

プロフィール

翻訳 岡上

Author:翻訳 岡上
ACIM - A Course In Miracles

hiro.okaue@gmail.com

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