レベル・コンフュージョン(レベルの混同) ACIM2001-12-12 抜粋
レベル・コンフュージョン ACIM 2002年12月12日 抜粋
Chapter 2-3
[Healing as Release from Fear]
[怖れからの解放としての癒やし。]
恐れは祭壇(あなたの大いなる「自身」、神の現れ)からあなた自身を意識的に切り離したことにより起こるのです。
そして「怖れているもの/怖ろしいもの」からあなた自身を防御/救助しようとして、(祭壇の)「輝き/放射熱」をより効果的に操ろうとしては駄目なのです。
あなたは(怖れや祭壇の輝きから)自分の中の祭壇に向き返らなくてはいけないのです。
次のセクションの読みながらこのことを憶えておいてください。
[Our emphasis is now on healing. The miracle is the means, the Atonement is the principle, and healing is the result. ]
[わたし達の今の主眼は癒やしなのです。 奇跡は方法で、アトーンメント(贖罪/和解)が原理で、癒しは結果なのです。]
癒やしが結果なのです。 これを忘れないようにしましょう。
形而上学的な仔細によって混乱してしまい「私は目覚めつつあるけれど、私は癒やしの確証を得ていない。 しかし癒やしを得ることが要点ではないのだから。」などと言ってしまわないでください。
癒やしは要点ではありません。 しかしあなたが癒やしの確証を得ていないなら、あなたはアトーンメントの確証を得ていないのです。 癒やしが(奇跡の)結果なのです。 癒やしを期待しなさい。癒やしを熱望し要求しなさい。
もしあなたが癒やしを体験してないなら、祭壇に向き返って、祭壇にあなたの注意を与えて、あなたが「愛」(あなたという愛)で溢れ返るようにして、「愛から離れてそれ(あなたという愛)を遠くから観察するだけでは無意味である」と自分に思い出させなさい。
愛に帰って行く体験が(健全な体に帰って行く体験が)あなたに出来るように。
[To speak of "a miracle of healing" is to combine two orders of reality inappropriately. Healing is not a miracle. The Atonement, or the final miracle, is a remedy and any type of healing is a result. The kind of error to which Atonement is applied is irrelevant. All healing is essentially the release from fear. To undertake this you cannot be fearful yourself. You do not understand healing because of your own fear. ]
[「癒やしの奇跡」に関して話すことは、二つのレベルのリアリティを不適切に混同してしまうことになります。癒しは奇跡ではありません。アトーンメント(和解/贖罪)つまり最終的奇跡が薬で、あらゆるタイプの癒やしは結果なのです。アトーンメントは、どのタイプのエラーにでも適用出来るのです{どのタイプのエラーでも癒やすことが出来るのです}。 基本的に癒しとは怖れからの解放なのです。
あなた自身が恐れていてはこれ(癒やし)は行なえません。あなた自身の怖れのせいであなたは癒やしを理解出来ていないのです。]
祭壇に背を向けている限り、あなたには癒しが理解出来ません。
しかしあなたが祭壇に向き合って、恐れが引き起こす「防御の設立/設置」に自分の注意を与えなくなった途端、あなたは自分が祭壇の光によって愛されていることを発見するのです。
これ(祭壇の光)があなたの根源的存在で、これが「神があなたの中であなたとして現れていること」なのです。
そして愛があなたを満たしあなたの中に愛が満ち溢れて行くに従い、怖れが去って行きます。 そして怖れの確証(怖れを表現しているもの)が去って行きます。 そして自分がパーフェクション(完璧な状態)を体験していることをあなたは発見するのです。 そして何が起こったかあなたは理解するのです。
しかしこれは理解が癒やしをもたらしたからではありません。あなたはこのことも理解するのです。
祭壇であなたを抱擁した愛こそが、「あなたという愛、愛としてのあなた」なのだとあなたは気付くのです。
そしてそれ(祭壇/あなたという愛)から分離している感覚が全くない所で、あなたは「あなたという存在の全体」を感じるのです。(その感覚は常にあなたに与えられ続けているのです。)
そしてあなたは愛が答えであることを理解するのです。
(怖れに対して)自分を防御しようとするのではなく、「あなたという愛、あなたである愛、あなたの真ん中にある祭壇」にあなたの注意を与えることが、「あなたが怖れていたもの/こと」が幻想であることをデモンストレートするのです。
これを私は、理解ではなく「Knowing(叡智/知っていること)」と呼んでいます。
これはあなたが真理を意識的に体験することなのです。
これは何かに対する体験/認識ではなく、「リアルである唯一のこと」を「それ自身として(あなたがリアリティそのものに成って)」体験することなのです。
そしてあなたが何かに対して防御的に成っている時でさえも、「リアリティであるもの」が唯一あなたの真理なのです。{しかし怖れて防御的に成っている限り、あなたはそのリアリティを体験出来ないのです。}
[ A major step in the Atonement plan is to undo error at all levels. Sickness or "not-right-mindedness" is the result of level confusion,…]
[アトーンメント・プラン(救済計画)の主要なステップは全てのレベルでエラーを解除することなのです。病(或いは正しいマインド状態でないこと)は、...レベル・コンフュージョン(レベルの混乱)の結果です。]
病が「正しいマインド状態でないこと」としてここに定義されて(言い表されて)います。
病は「正しくない身体性」や「正しくない関係」や「政府の正しくない主導者」とは定義されていません。
[Sickness or "not-right-mindedness" is the result of level confusion, because it always entails the belief that what is amiss on one level can adversely affect another. ]
[病(正しいマインド状態でないこと)は「一つのレベルで間違っていることが他のレベルに良くない影響を与えることが出来る」という信念を常に内包しているので、それ(病)はレベル・コンフュージョンの結果なのです。]
ここでシンプルに言い表されていますね。
あなたが自分の背中を祭壇に向けて、源とあなた自身の間の繋がりを意図的に断ち切っている時、あなたは輝き(祭壇の光からの放射熱)に夢中に成っているのです。 その時あなたは(祭壇/光そのものではなく)祭壇の現れの確証(祭壇から放射されている輝き)に注意を奪われているのです。
すると途端に怖れが現れるのです。
あなたは自分が何故怖れているか理解していないので、自分が何を怖れているか認識出来てはいないのです。
(だから)あなたは「自分が祭壇(聖霊)に背中を向けてこと」が「自分の怖ろしい体験/感情を作っている原因であること」を理解していないのです。
あなたが祭壇に背を向けている限り、あなたは{祭壇の中の光そのものではなく}祭壇の現れの効果(輝き)を見ているのです。
そしてあなたは輝きを使って自分自身を守ろうとしてしまうのです。
あなたは美しく防御することも出来れば、(輝きを)甲冑のように使って守ることも出来るのです。
あなたは何を使って自分を美しく守ろうとするのでしょうか? あなたは何を使って自分を(鎧のように)強化しようとするのでしょうか?
あなたは何を使って「根源的なあなた」を破壊{しようとする試み}を美化したり、{分離という}砦を強化しようとするのでしょうか?
あなたが常に直面しているものは、そしてあなたが使える唯一のものは、リアリティ/天国/神の無限の顕示化(神があなたの前の現実として立ち現れること)だけなのです。
だからあなたはこの神の無限の現れを使って自分を強化/防御しとしてしまうのです(それ以外のものは存在していないのだから)。
あるいは、あなたは神の無限の現れ(顕示化)の一部を使ってより美しいおとり(眼くらまし)を作るのです。
つまり、あなたは(祭壇の)効果/(神の)顕示化を使って、あなたの防御(あなたが防御しようとしていることの確証)を強化しようとするのです。
ここには二つの選択肢があるので、これは混乱なのです{どちらを選べば良いかあなたは混乱/混同してしまうのです}。
これがレベル・コンフュージョン(レベルの混同)と呼ばれているものなのです。
これが混同と呼ばれているのは、あなたには二つの選択肢(チョイス)があるからです。
(現在あなた達が夢中に成っている祭壇の輝きから)振り返って祭壇と向き合い、その中に在る愛の現われ(神があなたの全てに成っている状態)の中に入って行くというリアルなことを選ぶか、
あるいは祭壇に背を向けたままでいて、神の実体化(Manifestation、ハッキリ現れている神の一部)をより多く使って神の実体化の他の部分(ハッキリ現れている神の他の部分)から自分を守ろうとすることを選ぶことが可能なのです。{後者がレベル・コンフュージョンなのです。}
[We have referred to miracles as the means of correcting level confusion, for all mistakes must be corrected at the level on which they occur. Only the mind is capable of error.]
[わたし達は奇跡のことを「レベル・コンフュージョンを修正する方法」と言って来ました。 何故なら全ての間違えは、その間違えが発生したレベルで修正される必要があるから。 エラー(間違い)を起こせるのはマインドだけです。]
そしてマインドがエラーを体験しているのは、マインドが自らの注意/意識を間違った場所に与えているからです。
[The body can act wrongly only when it is responding to misthought.]
[体が間違ったことを行えるのは、それ(体)が間違った思考に反応している時だけです。]
(祭壇の中の光そのものではなく)祭壇の周りの輝き/熱は、神の子が(自分が神の子で在ることを忘れて、そして神の一部から自分を防御する為に神の他の一部を使おうとすることは全く愚かなことだと忘れて)行なう操作(コントロール/操り)だけに反応するのです。
[The body cannot create,…]
[体には創造することは出来ません...]
「神の無限の現れ/顕示化」(神の創造物)には創造は出来ないのです。
これは物理的身体だけではなく、存在の確証全て(神の創造物全て)に当て嵌まります。
[…and the belief that it can, a fundamental error, produces all physical symptoms. Physical illness represents a belief in magic. The whole distortion that made magic rests on the belief that there is a creative ability in matter which the mind cannot control.]
[それが出来る(体に創造が出来る)という信念は根源的なエラーで、この信念があらゆる身体的症状を作っているのです。身体の病は魔法に対する信念を表しています。 「物質(matter)の中に創造的力があり、マインドはそれをコントロール出来ない」という信念(歪み)の上に魔法が成り立っているのです。]
あなたが祭壇に背を向けながら(つまり父の視点から切り離された状態で)創造を見た場合、創造は生きているので、創造は生命を顕示化(現実化)しているので、創造が攻撃的に成っているように(創造が攻撃的に成ることが可能であるかのように)あなたには見えるのです。 創造(の一部)が手強い敵に成っており、あなたはその創造(の一部)から自分を守らなくてはいけないように感じるのです。
創造は神自身の確証(神の存在を現しているもの)なので、ただ動かず静的に居るだけでは無いのです。
だから(祭壇に自分の背を向けている人達は)この敵(創造の一部の動き)が攻撃的で知的で自分に対してネガティブな注意を与えていると考えてしまうのです。だからあなた達は、この能動的で攻撃的な敵から自分達を防御する必要があると考えているのです。
しかしこの敵が持っているように見えている生命は、創造が(神が指示している通りパーフェクトに)それ自身を表現していることでしかないのです。
[This error can take two forms; it can be believed that the mind can miscreate in the body, or that the body can miscreate in the mind. When it is understood that the mind, the only level of creation, cannot create beyond itself, neither type of confusion need occur.]
[このエラーは二つの形で現れることが可能です。 マインドが体の中で誤創造出来ると信じる(エラー)か、マインドの中で体が誤創造することが出来ると信じる(エラーが可能なのです)。 しかしマインド(これが創造の唯一のレベルです)はそれ自身を越えては創造出来ないと理解されたなら、どちらの混乱(エラー)も起こらなく成ります。]
その通りなのです。
マインド以外のものは何も無いのです。だから私は、あなた達が見ているものは全て「神のマインドの中のアイディア」なのです、と言っているのです。
そして全ての(それぞれの)アイディアは、それらのアイディアを作ったマインドにとって完全に具体的に体験出来るもの(見て触れるもの)なのです。
マインドにとってこれら(創造/アイディア)が具体的だからといっても、これらが物質として存在している訳ではないのです。 これらは純粋な霊(スピリット)なのです。
質問者: 原初のエラーで(神の意志から分離するという原罪によって)マインドは体を誤創造したのですよね?
ラジ:ハイ。
質問者: 病を作ることが出来るということが私には理解出来ません。 例えば、私が心配して、不安や防御的考えが...、つまり、誰でも不安で自分を病気にしてしまった経験があると思うのです。
これはマインドが体の中に不調和を発生させてしまっているということなのでしょう?
ラジ: その通りです。。
質問者:
「マインドが誤創造する」と書いてある時それは何を意味しているのですか?
一番初めに起こった(一番初めに起きている)エラーは、マインドが体を誤創造したことなのでしょう? これは体の中で誤創造が起こっていると言うことなのですか?
例えば、とても怒ってしまって胃潰瘍などを作ってしまったりすることは、体の中に誤創造をしたということに成るのですか?
ラジ: 勿論です。
質問者: 私はこれがエラーだと考えたのですが。 ここには『エラーは二つのフォーム(形)を取ることが出来ます。 「マインドが体を誤創造出来る」と信じることが可能です。』と書いてあります。
ラジ: ハイ、そうです。
質問者: あなた(ラジ)は、Manifestation(顕在化、実体化?)がエラーだと言っているのですか?
ラジ: その通りです。 Manifestationは真理ではなく、誤創造なのです。
{という事はより前の部分でラジはかなり危うい(ManifestationとRealityを混同してしまうような)言葉遣いをしていた訳です。 一例「Well, the only thing for you to do anything with, the only thing you are ever confronted with is Reality, the Kingdom of Heaven, the Infinite Manifestation of God.」「あなたが常に直面しているものは、そしてあなたが使える唯一のものは、リアリティ/天国/神の無限の顕示化(神があなたの前の現実として立ち現れること/ Manifestation)だけなのです。」 訳注}
ラジ: (神から分離している積りでいる神の子の)マインドは、それ(Manifestation)(分離的実体化)が実際に起こっていると信じているのです。 しかしリアリティ内ではそれは実際に起こっては居ないのです。
そうでなければ瞬間的癒やしは不可能です。
質問者: なるほどあなたの言いたいことが解って来ました。それ(Manifestation)が実際には起こっていないと理解/認識することが必要なのですね。
ラジ: 奇跡とは知覚の急激なシフトなのです。
人は、自身の顕在化体験(現実体験)の中で瞬間的シフト(物理的法則に縛られていない出来事)を体感しない限り、知覚の瞬間的シフトはもてないのです。
質問者: つまり人は自分が信じていることを見るわけですね。
ラジ: その通りです。
質問者: であれば、何がリアリティなのでしょうか?
もし自分が信じているものしか見えない(体験出来ない)のであれば(何がリアリティなのでしょうか)?
ラジ: それがあなたに出来る最上の質問です。
その質問を発して自分で答えを解明しよう、自分で答えを探そうとしなければ、その時あなたは祭壇を向いているのです。
答えを自分で持っていないことは、居心地悪さ(不安)を感じた時に好奇心を発揮すること(聖霊に訊ね聞くこと)をあなたに奨励するでしょう。
そして不安や問題が無い場合でも好奇心を発揮して答えを訊ね聞くべきなのです。
あなたが今この時点であなたの体として体験していることは、本当の真理ではなく、間違いなのです。
体に対するあなたの知覚/認識や体験は歪んでいるのです。何故なら、あなたは神と共に体に注意を与えていないのだから。 しかしあなたが神と共に自分の注意を体に与えたらな、神は自身がどのようにしてそこに(あなたの体として)居るかあなたに示すのです。
どのような誤創造もリアルに成ったことは無いのです。
しかしあなた達は、自分が信じていることを見ており、自分が見ていることを信じてしまうのです。
これがあなた達を縛り付けてしまうのです。 好奇心を持って「何がリアリティか?」見よう(聖霊に訊ねてみよう)と思えるようになるまで。
あなた自身の信念への確信からあなたの注意を逸らせることが必要なのです。
そしてそれは(あなたの注意をあなた自身から逸らせるものは)好奇心なのです。
質問者: 例えば長く会っていなかった友達が居たとして。 その友達は自分が病に掛かっていると誤知覚していたとします。 私はそれに関しては何も聞いていなくて、突然彼に会った時私は「オオ! 彼は物凄く酷い状況にあるように見える。」と言ったなら、それは...。
ラジ: 私はラザロにそのようなことはしませんでした。 彼はとても酷く見えていましたが。
{と言うことはラジ/イエスにもラザロの酷い状況は見えていたのでしょうか? その酷い状況をイエスが信じてはいなかったにしろ。 「イエスはラザロを死から蘇らせたと聖書には記載されています。」 訳注}
質問者。 つまりそれ(病の認識/確定)は相互合意されている定義に沿って、その場その場で起こっていることなのですね。
ラジ: 勿論です。
質問者: 私はその人が病気だとは(その人に会うまでは)知らなかった訳です。
では何故私はその人を病気と見たのでしょうか?
これは会話などとは全く別のレベルのコミュニケーション(伝達)が起こっていたということなのですか?それともその人と会った途端に、その人を見た途端に、私はそれ(病という誤認識)を知覚して。
それは(その人が私に病んで見えたのは)全てのマインドが繋がっているから?
ラジ: そしてすでにあなた達は、見かけ(様相)に対する「相互合意されている様々な定義群」を持っているからです。
質問者: その人自身が不快に感じていたので、その感じに則したイメージをその人は表明しており、私は自動的にそれ(その人と周りの人達が信じている病のイメージ)を信じたのですか?
ラジ: ハイ、あなた達はそれを自動的に行なってしまっているのです。
しかし、他の選択肢があるのです。
だからあなたはその時その場で、自分には他の選択肢(オプション)があると気付くべきなのです。
{人の様相を見てそれを信じてしまうのではなく、あなたは聖霊か神に真実を訊ね聞くべきなのです。}
そしてあなたは「人々が自分達に関して信じていること(自分達は物理的な体でしかないと信じていること)」を認めたり、その前提の中で人々と繋がることは止めるべきなのです。
そのような前提(相互合意されている定義群)の中で人々と繋がり、それ(定義群)を認証している限り、あなたは変革のエージェント(変革を可能にする人)にも奇跡を受け取る人にも成れないのです。
そしてあなたが「人々に関して信じていること(人々に当て嵌めている信念)」を、あなたは自分自身に対しても当て嵌め信じてしまうのです。
質問者: 私は「One Belief Away」(一つの信念さえ変えられれば良い)という題名の歌を思い出しました。
だから奇跡はいつでも瞬間的なのですね。 これが相互合意されていることでしかない、とわたし達が理解出来たなら、その信念を手放せたなら、このシンプルな思いによって...。
わたし達は常に奇跡から信念一つ離れているだけなのです。
どの瞬間も常に非常に大きな(目覚める)可能性を秘めているのです。
ラジ: その通りです。
質問者:話を少し戻させてください。
わたし達は、体がマインドを誤認識していたり、マインドが体を誤認識しているゴタゴタの中に、相互合意の中に居る訳です。
しかしその間もリアリティの全ては祭壇の中に在るのです。そして私がするべきことは、祭壇を向いてそれを見ることだけなのです。
ラジ: ハイ。 リアリティはこれらの空想には乱されず、あなたがリアリティそのものを発見することを待っているのです。
質問者: そして私が祭壇を見ることによって、アトーンメントの行動が明確に成るわけです。
私が祭壇を見ていることにより、世界を変える方法が明確に成るわけです。
ラジ:そうです。
何故なら、あなたが祭壇を見ている時、祭壇からの光があなたを照らし、あなたの信念を易々と無効にするのだから。
そして一旦それらの信念が無効に見られたなら。それらは無用と受け止められるのです。
そしてあなた達は誰も無用なものを持ち続けようとはしないのです。
一旦それ(信念)が無用と認識されたなら、あなたはその無用な信念を捨てようと努力する必要さえないのです。無用と認識された信念は自然と放棄されるものです。
「あなたが信じていることをあなたは見ること」に気付きなさい。
そして(自分が信じていることを見た結果として)あなたは自分が攻撃され得る(誰かが攻撃したなら自分は傷付けられてしまうだろう)と信じてしまっているのです。
そしてあなたは緊張し慢性のストレス/不安を体験するのです。
あなたは自分の体が硬くなっていると言うでしょう。 しかしあなたが体を硬くしているのです
そこにレベル・コンフュージョン(レベルの混同)が入ってくるのです。
「私の体が何かしている。体が硬く緊張してしまっている。」とあなたは言うのですが、実際にはそうではないのです。
不安を体験しているあなたは、自分の体を緊張させ体をより濃密にして、ストレス(固さ)故に自分の体がより鈍感に成った(それ程敏感ではなくなった)と自分に信じ込ませているのです。
そして(マインドではなく)自分の体がこれをしているとあなたが信じた故に、あなたは自分が見ているもの(自分が見ている状態)を信じて、あなたは自分の体を(自分のコントロール下に取り戻さなければならない)敵として見るのです。
するとあなたは「私の体に実際に病が起こった。胃潰瘍や癌が体に発生した。」と言うのです
このようにしてあなたはあなたが信じていることを見てしまうのです。
そしてあなたは(癌の体験など)自分の信念の中に自分を閉じ込めてしまうのです。
しかしあなたは癌に対してより創造的な信念を持つことも出来るのです。
あなたの信念によっては(あなたがより創造的な信念を持っていたなら)、失われた手足を再生することも可能なのです。
異なる信念は異なる効果をもたらすのです。
{もしもし、この部分はチョッと祭壇を見続けることから話が逸れている感じなんですけど?
まるで信念さえ変えれば自分一人で自在に体験が作れるように聞えてしまいますが?? 訳注}
だから自分が見ているもの(自分が見ている状態)を信じて「私のマインドが実際の病を作ってしまった。」と考えしまうのは愚なことです。
それは幻想でしかなく、(あなたにそのような方法で体を使わせるに至った)混乱した思考と同様に取り留め無いものなのです。
だからあなたは何であれ病を見て、それは(あなたがまずはじめに自分のマインド内で信じたことを自分の体の中に見て、あたかもそれ(体/症状)があなたのマインドから分離し異なったものであるかのように、その結果(あなたの信念の結果)を信じたことによって引き起こされている)幻想であると認識出来なければいけないのです。
何故なら「マインドだけが創造的に成る能力を持っていること」をあなたが認識するまで、あなたは自分が信じていることを見続けることから自由には成れないのだから。 あなたが祭壇に向き合って「神よ、これは本当は何ですか? 私は体を呼んでいるものは本当は何ですか? 私が世界と宇宙と呼んでいるものは本当は何なのですか?」と訊ねるまで、あなたは自分のマインドを変えることが出来ないのだから。
それが(神が創造の動きに成り続けている)顕在化/輝き(Effulgence)であったなら、あなたは「それが本当は何か、あなたが訊ねていることの真理は何か」暴き示される素晴らしい体験を得るのです。
If you realize that the cancer, or whatever it might be, whatever dis-ease it might be, is nothing more than a mental distortion that was caused by the adopting of certain ideas, and a commitment to those ideas, you will then have the means of being miracle-ready, because you won't fight the cancer, or the dis-ease.
癌やその他の病が(特定のアイディアを受け入れそのアイディアに決意を与えたことから来る)マインドの歪みでしかないことを認識出来たなら、その時あなたは奇跡の準備が出来ている状態(ミラクル・レディー)に成る方法を持っているのです。
何故なら、(その場合)あなたは癌とは戦わず、神と向き合って「この本当の意味は何ですか?」と訊ねるのだから。
あなたが上記を訊ねている時、あなたの信念(体に関する信念、病気に対する信念)が「それ(癌/病として認識されてしまっている状態)の本当の(そのリアリティの)意識的な直接体験」で置き換えられるよう求める真摯な願いと共に訊ねるべきなのです。
質問者: 確かに体は長い間とても大切にされて来たアイディアです。そして病と病の原因もそうですね。
しかし聖書にはあなたが多くの人達を癒やしたと書かれています。
ラジ: 瞬間的に、一瞬にして癒やしたのです。
質問者: なるほど。
(自分が信じていることが見える訳ですから)あなたがそれらの人達を見ていた時、あなたは彼等を病気とは見なかったのです。
しかしこの信念(癒やし)があなたのマインドから輝き出て人々のマインドに受け取られ、あなたの差し出した信念{信念というよりは、リアリティそのもの 訳注}が人々に受け入れられ、瞬間的癒やしがおこったのですね。
ラジ: 一つ重要なことがあります。 人々がWillingである(譲ること、癒やしを受け入れる事に対して意欲的である)必要があるのです。 ミリアムはWillingではなかったので、彼女は足弱のままだったのです。
質問者: つまり癒やしは、あなたから癒やしを求めた者達だけに受け取られたのですね?
ラジ: その通りです。
質問者: 癒やしの課程で、人々はあなたのヴィジョンを自分達のものとして受け入れることが容易に出来たわけですね?
ラジ: 彼等も自分達の目(意識)を祭壇に向ける必要がありました。そうでなければ、私もただ単により多くの幻想を作っただけで終ってしまったことでしょう。
質問者: つまり(それらの)癒やしは振り付けられたものだったのですね。
ラジ: そう言うことも可能です。 癒やしを求めていた人々の熱望と意欲によって振付けられていたと言うことも出来ます。
質問者: それはあなたもそして、(あなたによって癒やされた)盲人も同じな訳です。
ラジ: その通りです。
以前にも言った通り、良きことをあなたに無理矢理押し付けることは出来ないのです。これを理解することが、あなた達全員にとってエンパワーメント(empowerment)をもたらすのです。
(私がこう言えば)あなた達は「エー!{譲ることが大切だと思っていたのに}それ(癒やし/奇跡)は私次第ということですか? 私の責任ということですか?」と驚いてしまうかもしれません。
次のように言ってみましょう。
もしそれ(癒やし)が誰か他人次第(他者の責任)であったなら、あなたはその人に依存していることに成ります。 もしその人が今日あなたの為にそれをしてくれなかったならどうなってしまうでしょう?「今日は忙しいから、明日にして下さい。」 {その場合、あなたは癒やしを諦めてしまうのですか。}
質問者: しかしあなた(ラジ)が「これはあなた次第です。」と言っている時、この「あなた」は「これが自分達だ」と我々が考えている体以上のものなのでしょう。 そして体に関する概念が問題の一部で、これが間違ったマインド状態なのでしょう。
ラジ: そうです。
質問者: 何故なら、あなたは...私は、あるいは「I Am」(私で在るもの)は、ここにいるわたし達全員を含んでいるものなのだから。
ラジ: 正しいです。
質問者: だからバージニアの癒やしは私の癒やしでもあるのです。
ラジ: 全くその通り。
質問者: そして彼女の癒やしを目撃/証言したことにより、その効果は私や他の人達にも与えられるのです。
ラジ: そしてそれを見ていなかった人達や、それが起こったとは知っていない人達も、それは同様です。
質問者: 何故なら、人々の意識が整ったなら、それ(癒やし)が彼等を待っているのだから。
ラジ: あなた達がそれを喜んでいてもいなくても、各人のそれぞれの洞察に伴って夢の強度は弱く成って来ています。
物理的/物質的な原因に帰され得ない瞬間的癒やしは、癒やしを得ている人のマインドと体験のシフトは、全ての人達にも影響を与えるのです。
そして同等のことが他の全ての人達にも起こり易く成るのです。
しかしそれによって、特定の誰かに真理を無理矢理受け取らせることは出来ません。
質問者: つまり自分自身で癒やしを起こそうとしたなら、それはレッスンに成ってしまうということですね。
間違えをそれ(間違え)が現れているレベルで受け取り、それを神に戻すのですね?
その為に(普段私が背を向けている)祭壇へ向き返るのです。
ラジ: ハイ。
次のように言ってみましょう。
あなたが祭壇に背を向けている時、あなたは戦士の仮面を被っています。
そしてあなたは甲冑を着て、戦士として振舞うのです。 世界から来る攻撃に反撃する者としてあなたは振舞うのです。
そしてあなたが少し光明を得たなら、それ(光明/気付き)をあなたの体験の中に取り入れようとして、「オオ、もしかしたら答えは好戦的/対抗的に成ることではなく、愛を表現することなのかもしれない。私は自分の砦から防御を外してみよう、それをより愛らしくしてみよう。それ程好戦的に見えないように、より善良にそれを変えてみよう。人々に好かれるように、人々が私を怖がらないようにしてみよう。そしてより愛を表現出来る振舞いをしてみよう。何故なら慈愛の方が憎しみや攻撃よりもパワフルだと私の中の何かが言っているから。」と言ったとしましょう。
こう考えて見掛けをより愛らしくしたとしても祭壇に背を向けたままなら、それはまだ『「正しいマインド」と一つに成ること』に対して防御し続けている状態なのです。
それはまだ、神から分離した世界が存在しているというアイディアに基づいており、そのような世界に対して今までとは違う対処をしようとしているだけなのです。
そして新しい相互合意の下に繋がって、新しい(しかし依然として相互合意を基にした)振舞いをするわけです。
例えば合衆国があって、西洋文明があって、人々が正義や人権(という概念)のもとに集まり繋がり、彼等の誠実や優れた価値が世界の中でより高尚な力となり、それら(正義/人権)の価値を理解していない人々にもそれらを理解させることが出来ると考えたとしましょう。
しかし(そのような概念的なものに頼らず)もし人々が祭壇に向き合ったなら、彼等は愛の体験で満たされ、それが彼等とその行動を照らすのです。
そして愛を認識するよう人々を強制する必要は起こらないのです。
(隠れた動機を持たない)愛の現われに成ることにより、「(テロリズムや反撃などの原因となる)怖れ」を溶かすようになるのです。
(その場合)勿論振舞いも変るのですが、なによりも癒やしをもたらすのはその(祭壇の)中心にある善良な愛なのです。 善良な愛が輝き出て(隠れた動機無く、強制無く、隠れた切り札無しで)全てを抱擁するのです。
だから、より高い原則に従って世界を変えようとすることよりも大切なことがあるのです。
質問者:つまり、あなたは「自分達の全てのオプションを使い圧倒的な力を持とうとすること」と「(自分の力を使って)少しだけきれいに整理しようとすること」には違いが無いと言っているのですね?
ラジ: 無知は無知です。 それが美しく表現されていようとも、醜く表現されていても(無知には変りありません)。
これを理解したなら、あなたは本当に癒やすことに、実際の変容をもたらすことに、注意を払えるのです。
そしてあなたは「より高い原則の上に」世界をアレンジ(配置換え)しようとしている人達を自動的にサポートしようとはしなくなります。
そしてサポートがなくなったなら、彼等(祭壇を振り返らず神と繋がらない状態で、より高い原則の上に世界をアレンジしょうとしている人達)が「実力」を持ち続けることは不可能です。
[Only the mind can create because spirit has already been created, and the body is a learning device of the mind. Learning devices are not lessons in themselves.]
[霊(スピリット)はすでに創造されており、体はマインドの学習機材なので、マインドだけが創造可能なのです。学習機材はレッスンそのものでは在りません。]
神の現れ(Presence of God)を見て、あなたがそれを「神の現れ以外のもの」と言った(見た/考えた)場合常に、その神の現れがあなたの学習機材に成るのです。
あなたが神の現れ(である世界/人々)を見て、「これは神の現われではない(これは良きことではない)」と言った/考えた場合でも、それは神の現われ(パーフェクション/完璧)で在り続けるのです。 (あなたがその様に言って神の出現を否定してる場合でも)あなたの体験/意識の中に「リアリティそのもの」が進入し続けるのです。 何故なら、リアリティがそれ(リアリティ)そのもので在ることを止める訳にはいかないのだから。
そしてリアリティに対するあなたの否定が摩擦を生んでしまいます。するとあなたは居心地悪さを感じるのです。 何故なら、あなたはマインドから出って(マインドを歪めて)安楽で居ることは出来ないから。
だからあなたがリアリティの一部を見て、「これはリアルではない。」と言った場合、そのリアリティの一部が学習ツールに成るのです。 それは学習機材に成ることがリアリティのその部分の役割(その本来の働き)だからではなく、あなたが「リアリティそのもの」から逃れることは出来ないからです。
だから「リアリティであるもの」が常にあなたを突き、あなたの注意を引き、あなたを居心地悪く感じさせるのです。 それはリアリティが居心地悪いものだからではなく、リアリティは常に「それ(リアリティ)そのものとしてあなたに認識されるよう」主張するものだから。
だから「私の信じていることではなく、あなたは本当は一体何なのですか?」とあなたが言ってそれ(リアリティ)を祝福するまで、リアリティはあなたの注意を刺激しあなたの注意を求め続けるのです。
そして一旦「そのリアリティ」があなたに届いたなら、「リアリティそのものの姿」がその通りあなたによって受け取られたなら、それはもはや学習ツールでは無くなるのです。 何故なら(リアリティそのものがあなたに届いたことによって)それ(そのリアリティ)に関してあなたが学ぶべきことが無くなったのだから。
もう少し別の言い方をしてみましょう。
神の現れの何らかの側面(部分)を見て「これは神とは違う」とあなたが言ったなら、あなたは自分の中でそれ(リアリティ)に対する無知を作ったのです。 そうしてあなたは(その神の現れのリアリティを)学ぶ機会を作ったのです。こうしてそれ(「これは神ではない」とあなたが考えたリアリティ)が学習機材に成ったのです。
あなた達には自分達の体を学習機材と呼ぶ間違いは犯して欲しくないのです。 もう何も学ぶことが無くなったなら、あなたの体は消えてしまうものだと誤解して欲しくはないのです。
体が学習機材であるのは、体は「体とはこうゆうものだ」とあなたが決めたようなものではないからです。
体のリアリティは、あなたに発見されることを待っているだけでなく、あなたによって正しく認識されるよう主張し続けるのです。何故ならあなたの体とは、神が自身を神自身として宣言していることなのだから。
そしてそれ(あなたの体と呼ばれているもののリアリティ)を認識することは、根源的にはあなたに選別出来る(選り好み出来る)ことではないのです。 あなたは(プライベートな個人的な意思を発揮して)それを認識しないようにある程度の期間抵抗することは出来るでしょう。しかしそれを避け続けることは不可能です。
質問者:聖霊全体が学習ツールなのですね。 つまりわたし達が否定している自然(Nature)の全ては(預けられていて)、それ全体が学習ツールなのですね?
ラジ: 全くその通りです。
[Their purpose is merely to facilitate learning. The worst a faulty use of a learning device can do is to fail to facilitate learning. It has no power in itself to introduce actual learning errors. The body, if properly understood, shares the invulnerability of the Atonement to two-edged application.]
[それら(体)の目的は学習を可能にすることです。学習機材(体)の最悪の使用方法は、学ばないことです。それ(体)そのものは、学習エラーを引き起こす力は持っていません。 体が正しく理解されたなら、それ(体)は「諸刃の応用」に対して「アトーンメント(贖罪/和解)の不可侵性(誤用不可能な性質)」を分け合うものなのです。]
つまり体は本来、ポジティブに使ったりネガティブに使ったり出来るものではないのです。
[This is not because the body is a miracle, but because it is not inherently open to misinterpretation.]
[これは体が奇跡だからではなく、体は本来誤解(間違って解釈)され得るものではないからです。]
体はとてもシンプルなもので。体は解釈/翻訳を必要とするようなものではないのです。
それ(体)をありのままに体験しようとする意欲があなたに在りさえすればそれで十分なのです。
言い換えれば、「神がそこに自身を表現している意味/意図」と共に(あなたの体という)そこにある神の現われを体験すれば良いのです。
[The body is merely part of your experience in the physical world. Its abilities can be and frequently are overevaluated.]
[体とはただ単に、物理的世界の中のあなたの体験なのです。体の能力は往々にして過大評価されています。]
体は単なる輝き(放射熱)なのです。体は祭壇の周りの反射/反映なのです。
もしあなたが祭壇から目(意識)を逸らせてしまって、輝きしか見えていないなら、あなたはそれ(輝き/体)に体が本来持っている以上の意味を与えようとしてしまいます。
しかし体は(源ではなく)輝きにしか過ぎないのです。
輝きは、光の源の存在を示唆しているものです。
そして光(光源)こそが重要なのです。
[However, it is almost impossible to deny its existence in this world. Those who do so are engaging in a particularly unworthy form of denial. The term "unworthy" here implies only that it is not necessary to protect the mind by denying the unmindful. If one denies this unfortunate aspect of the mind's power, one is also denying the power itself. All material means that you accept as remedies for bodily ills are restatements of magic principles. ]
[しかし、世界の中の体の存在を否定することは殆ど不可能です。そうしようと試みている者達は非常に無駄な否定行為を行なっているのです。ここで「非常に無駄」という表現を使っているのは、「マインドでないもの、マインドで満ちていないもの」を否定することによってマインドを守ろうとすることは必要ではないからです。マインドの力のこの残念な側面を否定しようとした場合、その人は力そのものを否定することに成ってしまうのです。体の病を治す手法としてあなた達が受け入れている、全ての物資的方法は魔法の原則を再利用(再確立)しているだけなのです。]
別の言い方をしてみましょう。
祭壇に背を向けてあなたは砦を作ったのです。岩やモルタルを使って砦を作ったのです。
しかしこの砦は時の経過に伴う破損には耐えられず、そして勿論この砦が時に対して攻撃を行うことは不可能です。
だからなたはこの砦に鉄筋の補強をつけようと考えたのです。つまり、より強い物理的なサポートを使うことによって構造の弱点を正そう(治そう)としたのです。
これが魔法の使用なのです。
こうしてあなたは、問題そのものを解決するのではなく、強度(強さ)に対するより強い信念を使って問題を修正しようとしたのです。 そして問題そのものとは、あなたが祭壇に背を向けていること(あなたの中の神の居る場所に注意/意識を与えていないこと)なのです。
[This is the first step in believing that the body makes its own illness. It is a second misstep to heal it through non-creative agents. It does not follow, however, that the use of such agents for corrective purposes is evil.]
[これが、体自身が病を作れるという信念への第一ステップです。非創造的エージェント(代理人/自動機能システム)を通して癒やそうとすることが(間違った方向への)第二のステップです。しかし、このようなエージョントを修正の目的で使おうとすることが邪悪であるとは限りません。]
さて次の文章は非常に重要な部分です。
[Sometimes the illness has a sufficiently strong hold over the mind to render a person temporarily inaccessible to the Atonement. In this case it may be wise to utilize a compromise approach to mind and body, in which something from the outside is temporarily given healing belief. This is because the last thing that can help the non-right-minded, or the sick, is an increase in fear. They are already in a fear-weakened state. If they are prematurely exposed to a miracle, they may be precipitated into panic. This is likely to occur when upside-down perception has induced the belief that miracles are frightening.]
[時には、マインドに対して病が強くしがみ付いているあまり、その人に対してアトーンメントが一時的にアクセス不可能に成っている場合もあります。その様な時には、(外側の何かに一時的に癒やしの効用(癒やしの信念)を与えて)マインドと体の両方に働きかけるアプローチを使うべきです。それは正しいマインドを持っていない人をより怖がらせてしまうことは最悪だからです。彼等はすでに恐れによって弱くなっている状態なのだから。その様な人達へ性急に奇跡を与えた場合、彼等はパニックを起こしてしまうかもしれません。[「奇跡は怖ろしいものだ」という信念を「アベコベの知覚」が引き入れてしまった場合、このようなことが起こり得ます。]
これはコースの中でも最も実践的/実用的な文章の一つです。
誰も酷い状態にまで追い込まれる必要はなく、より危険な目に遇う必要もなく、危機感を抱かなくとも癒やしは体験出来るのです。 明晰を、安堵を体験出来るのです。
聖なる愛は常に、現在のあなたの意識に理解出来る言語で現れるのです。
(あなたがエゴと戯れている間預けられている、あなたの神性である)聖霊は、怖れを軽減し癒やしを促進することをあなたに知らせる方法を持っているのです。 その時点で聖霊があなたに知らせたことは絶対的真理ではないかもしれませんが、それがあなたの怖れを減らし、癒やしをもたらすのです。
それから下記を理解することも重要です。
過去において私は同じ主題に関して話す相手によって違うことを言い、首尾一貫したことを話さなかった、と非難されています。
しかし、それぞれの人達に対して彼等が理解出来る言語で(私が)真理を示したことにより、人々の怖れが刺激されずに軽減され、最大の内的動きが可能に成った、ということが事実なのです。
[The value of the Atonement does not lie in the manner in which it is expressed. In fact, if it is used truly, it will inevitably be expressed in whatever way is most helpful to the receiver. This means that a miracle, to attain its full efficacy, must be expressed in a language that the recipient can understand without fear.]
[アトーンメントの価値は、それが表現されたマナー(表現方法)には依存していません。アトーンメントが正しく使われた場合、それは受け手に対して一番適切な方法で表現されるに違いないのです。つまり奇跡がその効果を最大に示す為には、受け手が怖れずに理解出来る言語で{奇跡が}表現される必要があるのです。]
どうしたらこれが出来るのでしょうか?
あなたの目の前の人に対して詳しい精神分析をすることもなく、どの様にしたら、あなたは彼を怖れさせることなく、これを表現することが出来るのでしょうか?
あなたは「自分には答えが解っていない」と考えてみる必要があるのです。
あなたは「自分は答えを知っていない」と認める必要があるのです。
あなたは「あなた個人が知っている必要はない」と考えてみる必要があるのです。
あなた個人で知ろうとする試みの全てを放棄して、あなた自身の中を十分に静めて「私は何を言う必要がありますか? ここでの適切な対応は何ですか? 父よ、(あるいは聖霊よ、ガイドよ、イエスよ)あなたなら何と言いますか?」と訊ねるのです。
そして(あなた個人では適切な行動が解らないので)あなたは自分が(父/聖霊/ガイドから)受け取った反応(答え)を人々に知らせるのです。
例えばある時にあなたが受け取る答えは「座りなさい、口を閉じて、暫く静かにしていなさい。」かもしれません。 もしかしたらその行動は、優しくも愛に溢れても見えないかもしれません。
しかし(そこで)あなたが対面していた個人にとっては、これが(あなたが答えを聖霊に訊ねてその通りに振舞うことが)最善の対応だったのです。
何故ならその人は、とても不安定にバラバラに感じており、その時点でよりクリアでシンプルな方向(指示)を必要としており、全ての混乱から抜け出る必要があるのだから。 {だからあなたはそれを(静かに成って聖霊に訊ね聞くことを)自分で実演して見せる必要があったのです。}
もしかしたら他の人はそんなあなたを見て「あなたはとってもコントロールしています(操作的です)。」と言うかも知れません。 「そのようなことがどうして癒やしをもたらすのですか?」と人は言うかもしれません。しかしこれはコントロールすることではないのです。
これは「その時点ではシンプルな指示に従う力と規律を自分の中にまだ持てていない人」の必要を満たすために(あなたが)行なうことなのです。
だから(祭壇に向き合った結果として、聖霊に尋ね聞いた結果として)あなたが言うことは、それ程親切には聞えないかもしれません。
時によっては、(上記と殆ど同じ条件であっても)あなたの目の前の人はとても攻撃的な振る舞いをしており、あなたは「アイラブユー」と言って彼を抱きしめるだけかもしれません。
あなたのこの行動がその人を落ち着かせ静まらせリラックスさせ、その人も「そこに座って、口を閉じること」を出来るように成るかしれません。
そのような行動が出来るように成るには信頼が必要でしょう。
いずれにしろあなたが尋ね聞かなかったなら、あなたが聖壇に向き合って繋がらなかったなら、あなたの行動は(例えあなたが落ち着いていたにしろ、興奮していたにしろ)無知に基づいた操り(コントロール)でしかなく、「このようにすれば上手く行くだろうという(あなた個人の)推定」に基づいたものにしか過ぎないのです。
いずれにしろ愛の繋がり(愛の統合)がそこに無かったなら、そこでは変容が起こらず、あなたは変革の代理人(変容をサポートする人)には成れないのです。
[This does not necessarily mean that this is the highest level of communication of which he is capable. It does mean, however, that it is the highest level of communication of which he is capable now.The whole aim of the miracle is to raise the level of communication, not to lower it by increasing fear.]
[これが彼に出来る最高レベルのコミュニケーションであるとは限りません。しかしこれが彼に今出来る最高レベルのコミュニケーションなのです。奇跡の目的はコミュニケーションのレベルを上げることで、怖れを増やしてコミュニケーションのレベルを下げることではありません。]
そしてエゴには注意してください。
エゴがやって来て「聖壇に背を向けたままであなたの状況を向上する方法はありますよ」と言うのです。(エゴは)ここに示されている少しの情報を使って考え始めてしまうのです。
「奇跡の目的はコミュニケーションのレベルを上げることなのです。」
『アー、なるほど解った!! 我々はコミュニケーションのレベルを上げれば良いんだな!』
こうしてあなたは兄弟を(コミュニケーションのレベルを上げる自分の最上のアイディアに基づいて)「祝福」しようとし始めてしまったりするのです。 しかし実際にコミュニケーションのレベルを上げるのは(あなたが発する言葉ではなく)愛であって、この愛からあなたの言葉が湧き出て来てくるのです。
そして愛が言葉として湧き上がってくる唯一の方法は、あなたが自分の独立を放棄して(自分の中の)祭壇に向き合い「助けて下さい。 ここで適切なことは何ですか? どうしたら聖なる目的が満たされるのでしょうか? ここでよりクリアに神が明確に現れる為にはどうしたら良いですか。」と言うことなのです。
『自分自身で「良きこと」をするパーソナルな能力は誰も持っていない』と理解しない限り、あなた達には教えることは出来ません。 これを理解しない限り、あなた達は変革のエージェントには成れません。
神からの独立権をあなた達が主張し続けている限り、「神があなた達を独立存在として創造した」と強く信じている限り、あなた達に出来るのは世界をリアレンジすることだけです(世界の見栄えを変えることだけです)。
そしてあなた達は現在あなた達が被っている無知(全ての苦しみをもたらしている無知)を一層押し広げようとし続けてしまうのです。
良き教師に成るには、全く教師に成ろうとはしないことです。 (教師に成ろうとするのではなく)謙虚な召使に成るのです。 エゴの視点からは屈辱的な使用人に見える者に成るのです。
謙虚とは、ストレスが存在していない状況です。 謙虚とは、力によって行なう能力(自分の意志を通す能力)が存在していない状態です。
謙虚とは、「自分の意志を通そうとする力」ではなく「譲る意欲」があり「あなた(神)の意志がなされますように」と言っている状態です。
これはあなたが(他者に)コントロールされる為ではなく、あなたが(物事を自分で)コントロールしようとしていない状態に成って初めて「物事が神聖に働く方法」があなたに届き、あなたがそれと調和出来るように成るのだから。
こうして「神以外の何も賞賛(リアルなものとして認識)しようとはしていない状態」に成った時、あなたは常に神を賞賛し続ける存在(現われ)に成ったのだから。
そして「神以外は何も賞賛(リアルなものとして認識)しようとはしていない状態」に成った時、そこに現れ得るのは神だけなのだから。
質問者: 一番最初に体に関して話し始めた部分では美しい寺院(としての体)に関して話していましたね。その後あなたは甲冑を鋼鉄で補強することに関して話しました。
結局それらは両方とも同じことなのでしょう? 体を美しい寺院にすることでも、それを頑強に強化することでも、結局同じ行動なのですね?
ラジ:あなたが聖壇に背を向けてそうしている限り、それは(幻想でしか)在り得ません。
質問者: ええ。 だから(体を美しい寺院にしても頑強な砦にしても)それらは聖壇から目(意識)を逸らす方法の違いにしか過ぎない訳です。
ラジ: そしていずれのケースにしろ、それらは防御の一形態なのです。
そしてあなたがより神聖によりスピリチュアルに成り美しい寺院を作ったなら、それは「そのような行動があなたを何かから守るだろうという信念」のもとにあなたが他の人達と繋がっているからなのです。
「それ(美しい寺院/頑強な砦)があなたを暴力から守る。それがあなたをあなたのエゴから守る。」(と信じた訳です。)
「愛に溢れた思考を考え、愛の考えを表現したなら、それらが「人間にとって自然に沸き起こる野卑な意欲/意識」からあなたを守るだろう。
もしかしたらそれ(愛に溢れた思考)は『人類を新しい方向に向ける進化のシフト』さえ起こすかも知れない。 物理的な宇宙の一部で物理的/身体的に体験可能な変化が起こるだろう。」
しかし、これらのこと(これらの考え)は依然として無知な領域で起こっているのです。
これらのこととは依然として、「あなたと神の間には関係が成り立っている。そしてあなたが体験するべき繋がりがある。」というアイディアが考えられてはおらず、引き出されてもいないのです。
次のように言ってみましょうか。
この惑星の全ての人達が、お互いと調和的に協力するための「相互合意に基づいた方法」を見つけたなら、人々は非常に感謝し喜ぶでしょう。
そしてこの調和を一万年体験することが出来たとしても最終的にはこれが空虚な体験であったことが解るでしょう。 何故なら、そこでは(全ての人達が一緒に美しく働いていたとしても)祭壇との繋がりがまだ起こってないのだから。 その場合、まだ目覚めが(アトーンメントの確証が)人々を待っている状態でしかないのです。
だから(今晩私の話を聞いている)あなたは少なくとも「どのようなものがアトーンメントではないか」今までより明確に解ったことでしょう。これは素晴らしいことです。
Chapter 2-3
[Healing as Release from Fear]
[怖れからの解放としての癒やし。]
恐れは祭壇(あなたの大いなる「自身」、神の現れ)からあなた自身を意識的に切り離したことにより起こるのです。
そして「怖れているもの/怖ろしいもの」からあなた自身を防御/救助しようとして、(祭壇の)「輝き/放射熱」をより効果的に操ろうとしては駄目なのです。
あなたは(怖れや祭壇の輝きから)自分の中の祭壇に向き返らなくてはいけないのです。
次のセクションの読みながらこのことを憶えておいてください。
[Our emphasis is now on healing. The miracle is the means, the Atonement is the principle, and healing is the result. ]
[わたし達の今の主眼は癒やしなのです。 奇跡は方法で、アトーンメント(贖罪/和解)が原理で、癒しは結果なのです。]
癒やしが結果なのです。 これを忘れないようにしましょう。
形而上学的な仔細によって混乱してしまい「私は目覚めつつあるけれど、私は癒やしの確証を得ていない。 しかし癒やしを得ることが要点ではないのだから。」などと言ってしまわないでください。
癒やしは要点ではありません。 しかしあなたが癒やしの確証を得ていないなら、あなたはアトーンメントの確証を得ていないのです。 癒やしが(奇跡の)結果なのです。 癒やしを期待しなさい。癒やしを熱望し要求しなさい。
もしあなたが癒やしを体験してないなら、祭壇に向き返って、祭壇にあなたの注意を与えて、あなたが「愛」(あなたという愛)で溢れ返るようにして、「愛から離れてそれ(あなたという愛)を遠くから観察するだけでは無意味である」と自分に思い出させなさい。
愛に帰って行く体験が(健全な体に帰って行く体験が)あなたに出来るように。
[To speak of "a miracle of healing" is to combine two orders of reality inappropriately. Healing is not a miracle. The Atonement, or the final miracle, is a remedy and any type of healing is a result. The kind of error to which Atonement is applied is irrelevant. All healing is essentially the release from fear. To undertake this you cannot be fearful yourself. You do not understand healing because of your own fear. ]
[「癒やしの奇跡」に関して話すことは、二つのレベルのリアリティを不適切に混同してしまうことになります。癒しは奇跡ではありません。アトーンメント(和解/贖罪)つまり最終的奇跡が薬で、あらゆるタイプの癒やしは結果なのです。アトーンメントは、どのタイプのエラーにでも適用出来るのです{どのタイプのエラーでも癒やすことが出来るのです}。 基本的に癒しとは怖れからの解放なのです。
あなた自身が恐れていてはこれ(癒やし)は行なえません。あなた自身の怖れのせいであなたは癒やしを理解出来ていないのです。]
祭壇に背を向けている限り、あなたには癒しが理解出来ません。
しかしあなたが祭壇に向き合って、恐れが引き起こす「防御の設立/設置」に自分の注意を与えなくなった途端、あなたは自分が祭壇の光によって愛されていることを発見するのです。
これ(祭壇の光)があなたの根源的存在で、これが「神があなたの中であなたとして現れていること」なのです。
そして愛があなたを満たしあなたの中に愛が満ち溢れて行くに従い、怖れが去って行きます。 そして怖れの確証(怖れを表現しているもの)が去って行きます。 そして自分がパーフェクション(完璧な状態)を体験していることをあなたは発見するのです。 そして何が起こったかあなたは理解するのです。
しかしこれは理解が癒やしをもたらしたからではありません。あなたはこのことも理解するのです。
祭壇であなたを抱擁した愛こそが、「あなたという愛、愛としてのあなた」なのだとあなたは気付くのです。
そしてそれ(祭壇/あなたという愛)から分離している感覚が全くない所で、あなたは「あなたという存在の全体」を感じるのです。(その感覚は常にあなたに与えられ続けているのです。)
そしてあなたは愛が答えであることを理解するのです。
(怖れに対して)自分を防御しようとするのではなく、「あなたという愛、あなたである愛、あなたの真ん中にある祭壇」にあなたの注意を与えることが、「あなたが怖れていたもの/こと」が幻想であることをデモンストレートするのです。
これを私は、理解ではなく「Knowing(叡智/知っていること)」と呼んでいます。
これはあなたが真理を意識的に体験することなのです。
これは何かに対する体験/認識ではなく、「リアルである唯一のこと」を「それ自身として(あなたがリアリティそのものに成って)」体験することなのです。
そしてあなたが何かに対して防御的に成っている時でさえも、「リアリティであるもの」が唯一あなたの真理なのです。{しかし怖れて防御的に成っている限り、あなたはそのリアリティを体験出来ないのです。}
[ A major step in the Atonement plan is to undo error at all levels. Sickness or "not-right-mindedness" is the result of level confusion,…]
[アトーンメント・プラン(救済計画)の主要なステップは全てのレベルでエラーを解除することなのです。病(或いは正しいマインド状態でないこと)は、...レベル・コンフュージョン(レベルの混乱)の結果です。]
病が「正しいマインド状態でないこと」としてここに定義されて(言い表されて)います。
病は「正しくない身体性」や「正しくない関係」や「政府の正しくない主導者」とは定義されていません。
[Sickness or "not-right-mindedness" is the result of level confusion, because it always entails the belief that what is amiss on one level can adversely affect another. ]
[病(正しいマインド状態でないこと)は「一つのレベルで間違っていることが他のレベルに良くない影響を与えることが出来る」という信念を常に内包しているので、それ(病)はレベル・コンフュージョンの結果なのです。]
ここでシンプルに言い表されていますね。
あなたが自分の背中を祭壇に向けて、源とあなた自身の間の繋がりを意図的に断ち切っている時、あなたは輝き(祭壇の光からの放射熱)に夢中に成っているのです。 その時あなたは(祭壇/光そのものではなく)祭壇の現れの確証(祭壇から放射されている輝き)に注意を奪われているのです。
すると途端に怖れが現れるのです。
あなたは自分が何故怖れているか理解していないので、自分が何を怖れているか認識出来てはいないのです。
(だから)あなたは「自分が祭壇(聖霊)に背中を向けてこと」が「自分の怖ろしい体験/感情を作っている原因であること」を理解していないのです。
あなたが祭壇に背を向けている限り、あなたは{祭壇の中の光そのものではなく}祭壇の現れの効果(輝き)を見ているのです。
そしてあなたは輝きを使って自分自身を守ろうとしてしまうのです。
あなたは美しく防御することも出来れば、(輝きを)甲冑のように使って守ることも出来るのです。
あなたは何を使って自分を美しく守ろうとするのでしょうか? あなたは何を使って自分を(鎧のように)強化しようとするのでしょうか?
あなたは何を使って「根源的なあなた」を破壊{しようとする試み}を美化したり、{分離という}砦を強化しようとするのでしょうか?
あなたが常に直面しているものは、そしてあなたが使える唯一のものは、リアリティ/天国/神の無限の顕示化(神があなたの前の現実として立ち現れること)だけなのです。
だからあなたはこの神の無限の現れを使って自分を強化/防御しとしてしまうのです(それ以外のものは存在していないのだから)。
あるいは、あなたは神の無限の現れ(顕示化)の一部を使ってより美しいおとり(眼くらまし)を作るのです。
つまり、あなたは(祭壇の)効果/(神の)顕示化を使って、あなたの防御(あなたが防御しようとしていることの確証)を強化しようとするのです。
ここには二つの選択肢があるので、これは混乱なのです{どちらを選べば良いかあなたは混乱/混同してしまうのです}。
これがレベル・コンフュージョン(レベルの混同)と呼ばれているものなのです。
これが混同と呼ばれているのは、あなたには二つの選択肢(チョイス)があるからです。
(現在あなた達が夢中に成っている祭壇の輝きから)振り返って祭壇と向き合い、その中に在る愛の現われ(神があなたの全てに成っている状態)の中に入って行くというリアルなことを選ぶか、
あるいは祭壇に背を向けたままでいて、神の実体化(Manifestation、ハッキリ現れている神の一部)をより多く使って神の実体化の他の部分(ハッキリ現れている神の他の部分)から自分を守ろうとすることを選ぶことが可能なのです。{後者がレベル・コンフュージョンなのです。}
[We have referred to miracles as the means of correcting level confusion, for all mistakes must be corrected at the level on which they occur. Only the mind is capable of error.]
[わたし達は奇跡のことを「レベル・コンフュージョンを修正する方法」と言って来ました。 何故なら全ての間違えは、その間違えが発生したレベルで修正される必要があるから。 エラー(間違い)を起こせるのはマインドだけです。]
そしてマインドがエラーを体験しているのは、マインドが自らの注意/意識を間違った場所に与えているからです。
[The body can act wrongly only when it is responding to misthought.]
[体が間違ったことを行えるのは、それ(体)が間違った思考に反応している時だけです。]
(祭壇の中の光そのものではなく)祭壇の周りの輝き/熱は、神の子が(自分が神の子で在ることを忘れて、そして神の一部から自分を防御する為に神の他の一部を使おうとすることは全く愚かなことだと忘れて)行なう操作(コントロール/操り)だけに反応するのです。
[The body cannot create,…]
[体には創造することは出来ません...]
「神の無限の現れ/顕示化」(神の創造物)には創造は出来ないのです。
これは物理的身体だけではなく、存在の確証全て(神の創造物全て)に当て嵌まります。
[…and the belief that it can, a fundamental error, produces all physical symptoms. Physical illness represents a belief in magic. The whole distortion that made magic rests on the belief that there is a creative ability in matter which the mind cannot control.]
[それが出来る(体に創造が出来る)という信念は根源的なエラーで、この信念があらゆる身体的症状を作っているのです。身体の病は魔法に対する信念を表しています。 「物質(matter)の中に創造的力があり、マインドはそれをコントロール出来ない」という信念(歪み)の上に魔法が成り立っているのです。]
あなたが祭壇に背を向けながら(つまり父の視点から切り離された状態で)創造を見た場合、創造は生きているので、創造は生命を顕示化(現実化)しているので、創造が攻撃的に成っているように(創造が攻撃的に成ることが可能であるかのように)あなたには見えるのです。 創造(の一部)が手強い敵に成っており、あなたはその創造(の一部)から自分を守らなくてはいけないように感じるのです。
創造は神自身の確証(神の存在を現しているもの)なので、ただ動かず静的に居るだけでは無いのです。
だから(祭壇に自分の背を向けている人達は)この敵(創造の一部の動き)が攻撃的で知的で自分に対してネガティブな注意を与えていると考えてしまうのです。だからあなた達は、この能動的で攻撃的な敵から自分達を防御する必要があると考えているのです。
しかしこの敵が持っているように見えている生命は、創造が(神が指示している通りパーフェクトに)それ自身を表現していることでしかないのです。
[This error can take two forms; it can be believed that the mind can miscreate in the body, or that the body can miscreate in the mind. When it is understood that the mind, the only level of creation, cannot create beyond itself, neither type of confusion need occur.]
[このエラーは二つの形で現れることが可能です。 マインドが体の中で誤創造出来ると信じる(エラー)か、マインドの中で体が誤創造することが出来ると信じる(エラーが可能なのです)。 しかしマインド(これが創造の唯一のレベルです)はそれ自身を越えては創造出来ないと理解されたなら、どちらの混乱(エラー)も起こらなく成ります。]
その通りなのです。
マインド以外のものは何も無いのです。だから私は、あなた達が見ているものは全て「神のマインドの中のアイディア」なのです、と言っているのです。
そして全ての(それぞれの)アイディアは、それらのアイディアを作ったマインドにとって完全に具体的に体験出来るもの(見て触れるもの)なのです。
マインドにとってこれら(創造/アイディア)が具体的だからといっても、これらが物質として存在している訳ではないのです。 これらは純粋な霊(スピリット)なのです。
質問者: 原初のエラーで(神の意志から分離するという原罪によって)マインドは体を誤創造したのですよね?
ラジ:ハイ。
質問者: 病を作ることが出来るということが私には理解出来ません。 例えば、私が心配して、不安や防御的考えが...、つまり、誰でも不安で自分を病気にしてしまった経験があると思うのです。
これはマインドが体の中に不調和を発生させてしまっているということなのでしょう?
ラジ: その通りです。。
質問者:
「マインドが誤創造する」と書いてある時それは何を意味しているのですか?
一番初めに起こった(一番初めに起きている)エラーは、マインドが体を誤創造したことなのでしょう? これは体の中で誤創造が起こっていると言うことなのですか?
例えば、とても怒ってしまって胃潰瘍などを作ってしまったりすることは、体の中に誤創造をしたということに成るのですか?
ラジ: 勿論です。
質問者: 私はこれがエラーだと考えたのですが。 ここには『エラーは二つのフォーム(形)を取ることが出来ます。 「マインドが体を誤創造出来る」と信じることが可能です。』と書いてあります。
ラジ: ハイ、そうです。
質問者: あなた(ラジ)は、Manifestation(顕在化、実体化?)がエラーだと言っているのですか?
ラジ: その通りです。 Manifestationは真理ではなく、誤創造なのです。
{という事はより前の部分でラジはかなり危うい(ManifestationとRealityを混同してしまうような)言葉遣いをしていた訳です。 一例「Well, the only thing for you to do anything with, the only thing you are ever confronted with is Reality, the Kingdom of Heaven, the Infinite Manifestation of God.」「あなたが常に直面しているものは、そしてあなたが使える唯一のものは、リアリティ/天国/神の無限の顕示化(神があなたの前の現実として立ち現れること/ Manifestation)だけなのです。」 訳注}
ラジ: (神から分離している積りでいる神の子の)マインドは、それ(Manifestation)(分離的実体化)が実際に起こっていると信じているのです。 しかしリアリティ内ではそれは実際に起こっては居ないのです。
そうでなければ瞬間的癒やしは不可能です。
質問者: なるほどあなたの言いたいことが解って来ました。それ(Manifestation)が実際には起こっていないと理解/認識することが必要なのですね。
ラジ: 奇跡とは知覚の急激なシフトなのです。
人は、自身の顕在化体験(現実体験)の中で瞬間的シフト(物理的法則に縛られていない出来事)を体感しない限り、知覚の瞬間的シフトはもてないのです。
質問者: つまり人は自分が信じていることを見るわけですね。
ラジ: その通りです。
質問者: であれば、何がリアリティなのでしょうか?
もし自分が信じているものしか見えない(体験出来ない)のであれば(何がリアリティなのでしょうか)?
ラジ: それがあなたに出来る最上の質問です。
その質問を発して自分で答えを解明しよう、自分で答えを探そうとしなければ、その時あなたは祭壇を向いているのです。
答えを自分で持っていないことは、居心地悪さ(不安)を感じた時に好奇心を発揮すること(聖霊に訊ね聞くこと)をあなたに奨励するでしょう。
そして不安や問題が無い場合でも好奇心を発揮して答えを訊ね聞くべきなのです。
あなたが今この時点であなたの体として体験していることは、本当の真理ではなく、間違いなのです。
体に対するあなたの知覚/認識や体験は歪んでいるのです。何故なら、あなたは神と共に体に注意を与えていないのだから。 しかしあなたが神と共に自分の注意を体に与えたらな、神は自身がどのようにしてそこに(あなたの体として)居るかあなたに示すのです。
どのような誤創造もリアルに成ったことは無いのです。
しかしあなた達は、自分が信じていることを見ており、自分が見ていることを信じてしまうのです。
これがあなた達を縛り付けてしまうのです。 好奇心を持って「何がリアリティか?」見よう(聖霊に訊ねてみよう)と思えるようになるまで。
あなた自身の信念への確信からあなたの注意を逸らせることが必要なのです。
そしてそれは(あなたの注意をあなた自身から逸らせるものは)好奇心なのです。
質問者: 例えば長く会っていなかった友達が居たとして。 その友達は自分が病に掛かっていると誤知覚していたとします。 私はそれに関しては何も聞いていなくて、突然彼に会った時私は「オオ! 彼は物凄く酷い状況にあるように見える。」と言ったなら、それは...。
ラジ: 私はラザロにそのようなことはしませんでした。 彼はとても酷く見えていましたが。
{と言うことはラジ/イエスにもラザロの酷い状況は見えていたのでしょうか? その酷い状況をイエスが信じてはいなかったにしろ。 「イエスはラザロを死から蘇らせたと聖書には記載されています。」 訳注}
質問者。 つまりそれ(病の認識/確定)は相互合意されている定義に沿って、その場その場で起こっていることなのですね。
ラジ: 勿論です。
質問者: 私はその人が病気だとは(その人に会うまでは)知らなかった訳です。
では何故私はその人を病気と見たのでしょうか?
これは会話などとは全く別のレベルのコミュニケーション(伝達)が起こっていたということなのですか?それともその人と会った途端に、その人を見た途端に、私はそれ(病という誤認識)を知覚して。
それは(その人が私に病んで見えたのは)全てのマインドが繋がっているから?
ラジ: そしてすでにあなた達は、見かけ(様相)に対する「相互合意されている様々な定義群」を持っているからです。
質問者: その人自身が不快に感じていたので、その感じに則したイメージをその人は表明しており、私は自動的にそれ(その人と周りの人達が信じている病のイメージ)を信じたのですか?
ラジ: ハイ、あなた達はそれを自動的に行なってしまっているのです。
しかし、他の選択肢があるのです。
だからあなたはその時その場で、自分には他の選択肢(オプション)があると気付くべきなのです。
{人の様相を見てそれを信じてしまうのではなく、あなたは聖霊か神に真実を訊ね聞くべきなのです。}
そしてあなたは「人々が自分達に関して信じていること(自分達は物理的な体でしかないと信じていること)」を認めたり、その前提の中で人々と繋がることは止めるべきなのです。
そのような前提(相互合意されている定義群)の中で人々と繋がり、それ(定義群)を認証している限り、あなたは変革のエージェント(変革を可能にする人)にも奇跡を受け取る人にも成れないのです。
そしてあなたが「人々に関して信じていること(人々に当て嵌めている信念)」を、あなたは自分自身に対しても当て嵌め信じてしまうのです。
質問者: 私は「One Belief Away」(一つの信念さえ変えられれば良い)という題名の歌を思い出しました。
だから奇跡はいつでも瞬間的なのですね。 これが相互合意されていることでしかない、とわたし達が理解出来たなら、その信念を手放せたなら、このシンプルな思いによって...。
わたし達は常に奇跡から信念一つ離れているだけなのです。
どの瞬間も常に非常に大きな(目覚める)可能性を秘めているのです。
ラジ: その通りです。
質問者:話を少し戻させてください。
わたし達は、体がマインドを誤認識していたり、マインドが体を誤認識しているゴタゴタの中に、相互合意の中に居る訳です。
しかしその間もリアリティの全ては祭壇の中に在るのです。そして私がするべきことは、祭壇を向いてそれを見ることだけなのです。
ラジ: ハイ。 リアリティはこれらの空想には乱されず、あなたがリアリティそのものを発見することを待っているのです。
質問者: そして私が祭壇を見ることによって、アトーンメントの行動が明確に成るわけです。
私が祭壇を見ていることにより、世界を変える方法が明確に成るわけです。
ラジ:そうです。
何故なら、あなたが祭壇を見ている時、祭壇からの光があなたを照らし、あなたの信念を易々と無効にするのだから。
そして一旦それらの信念が無効に見られたなら。それらは無用と受け止められるのです。
そしてあなた達は誰も無用なものを持ち続けようとはしないのです。
一旦それ(信念)が無用と認識されたなら、あなたはその無用な信念を捨てようと努力する必要さえないのです。無用と認識された信念は自然と放棄されるものです。
「あなたが信じていることをあなたは見ること」に気付きなさい。
そして(自分が信じていることを見た結果として)あなたは自分が攻撃され得る(誰かが攻撃したなら自分は傷付けられてしまうだろう)と信じてしまっているのです。
そしてあなたは緊張し慢性のストレス/不安を体験するのです。
あなたは自分の体が硬くなっていると言うでしょう。 しかしあなたが体を硬くしているのです
そこにレベル・コンフュージョン(レベルの混同)が入ってくるのです。
「私の体が何かしている。体が硬く緊張してしまっている。」とあなたは言うのですが、実際にはそうではないのです。
不安を体験しているあなたは、自分の体を緊張させ体をより濃密にして、ストレス(固さ)故に自分の体がより鈍感に成った(それ程敏感ではなくなった)と自分に信じ込ませているのです。
そして(マインドではなく)自分の体がこれをしているとあなたが信じた故に、あなたは自分が見ているもの(自分が見ている状態)を信じて、あなたは自分の体を(自分のコントロール下に取り戻さなければならない)敵として見るのです。
するとあなたは「私の体に実際に病が起こった。胃潰瘍や癌が体に発生した。」と言うのです
このようにしてあなたはあなたが信じていることを見てしまうのです。
そしてあなたは(癌の体験など)自分の信念の中に自分を閉じ込めてしまうのです。
しかしあなたは癌に対してより創造的な信念を持つことも出来るのです。
あなたの信念によっては(あなたがより創造的な信念を持っていたなら)、失われた手足を再生することも可能なのです。
異なる信念は異なる効果をもたらすのです。
{もしもし、この部分はチョッと祭壇を見続けることから話が逸れている感じなんですけど?
まるで信念さえ変えれば自分一人で自在に体験が作れるように聞えてしまいますが?? 訳注}
だから自分が見ているもの(自分が見ている状態)を信じて「私のマインドが実際の病を作ってしまった。」と考えしまうのは愚なことです。
それは幻想でしかなく、(あなたにそのような方法で体を使わせるに至った)混乱した思考と同様に取り留め無いものなのです。
だからあなたは何であれ病を見て、それは(あなたがまずはじめに自分のマインド内で信じたことを自分の体の中に見て、あたかもそれ(体/症状)があなたのマインドから分離し異なったものであるかのように、その結果(あなたの信念の結果)を信じたことによって引き起こされている)幻想であると認識出来なければいけないのです。
何故なら「マインドだけが創造的に成る能力を持っていること」をあなたが認識するまで、あなたは自分が信じていることを見続けることから自由には成れないのだから。 あなたが祭壇に向き合って「神よ、これは本当は何ですか? 私は体を呼んでいるものは本当は何ですか? 私が世界と宇宙と呼んでいるものは本当は何なのですか?」と訊ねるまで、あなたは自分のマインドを変えることが出来ないのだから。
それが(神が創造の動きに成り続けている)顕在化/輝き(Effulgence)であったなら、あなたは「それが本当は何か、あなたが訊ねていることの真理は何か」暴き示される素晴らしい体験を得るのです。
If you realize that the cancer, or whatever it might be, whatever dis-ease it might be, is nothing more than a mental distortion that was caused by the adopting of certain ideas, and a commitment to those ideas, you will then have the means of being miracle-ready, because you won't fight the cancer, or the dis-ease.
癌やその他の病が(特定のアイディアを受け入れそのアイディアに決意を与えたことから来る)マインドの歪みでしかないことを認識出来たなら、その時あなたは奇跡の準備が出来ている状態(ミラクル・レディー)に成る方法を持っているのです。
何故なら、(その場合)あなたは癌とは戦わず、神と向き合って「この本当の意味は何ですか?」と訊ねるのだから。
あなたが上記を訊ねている時、あなたの信念(体に関する信念、病気に対する信念)が「それ(癌/病として認識されてしまっている状態)の本当の(そのリアリティの)意識的な直接体験」で置き換えられるよう求める真摯な願いと共に訊ねるべきなのです。
質問者: 確かに体は長い間とても大切にされて来たアイディアです。そして病と病の原因もそうですね。
しかし聖書にはあなたが多くの人達を癒やしたと書かれています。
ラジ: 瞬間的に、一瞬にして癒やしたのです。
質問者: なるほど。
(自分が信じていることが見える訳ですから)あなたがそれらの人達を見ていた時、あなたは彼等を病気とは見なかったのです。
しかしこの信念(癒やし)があなたのマインドから輝き出て人々のマインドに受け取られ、あなたの差し出した信念{信念というよりは、リアリティそのもの 訳注}が人々に受け入れられ、瞬間的癒やしがおこったのですね。
ラジ: 一つ重要なことがあります。 人々がWillingである(譲ること、癒やしを受け入れる事に対して意欲的である)必要があるのです。 ミリアムはWillingではなかったので、彼女は足弱のままだったのです。
質問者: つまり癒やしは、あなたから癒やしを求めた者達だけに受け取られたのですね?
ラジ: その通りです。
質問者: 癒やしの課程で、人々はあなたのヴィジョンを自分達のものとして受け入れることが容易に出来たわけですね?
ラジ: 彼等も自分達の目(意識)を祭壇に向ける必要がありました。そうでなければ、私もただ単により多くの幻想を作っただけで終ってしまったことでしょう。
質問者: つまり(それらの)癒やしは振り付けられたものだったのですね。
ラジ: そう言うことも可能です。 癒やしを求めていた人々の熱望と意欲によって振付けられていたと言うことも出来ます。
質問者: それはあなたもそして、(あなたによって癒やされた)盲人も同じな訳です。
ラジ: その通りです。
以前にも言った通り、良きことをあなたに無理矢理押し付けることは出来ないのです。これを理解することが、あなた達全員にとってエンパワーメント(empowerment)をもたらすのです。
(私がこう言えば)あなた達は「エー!{譲ることが大切だと思っていたのに}それ(癒やし/奇跡)は私次第ということですか? 私の責任ということですか?」と驚いてしまうかもしれません。
次のように言ってみましょう。
もしそれ(癒やし)が誰か他人次第(他者の責任)であったなら、あなたはその人に依存していることに成ります。 もしその人が今日あなたの為にそれをしてくれなかったならどうなってしまうでしょう?「今日は忙しいから、明日にして下さい。」 {その場合、あなたは癒やしを諦めてしまうのですか。}
質問者: しかしあなた(ラジ)が「これはあなた次第です。」と言っている時、この「あなた」は「これが自分達だ」と我々が考えている体以上のものなのでしょう。 そして体に関する概念が問題の一部で、これが間違ったマインド状態なのでしょう。
ラジ: そうです。
質問者: 何故なら、あなたは...私は、あるいは「I Am」(私で在るもの)は、ここにいるわたし達全員を含んでいるものなのだから。
ラジ: 正しいです。
質問者: だからバージニアの癒やしは私の癒やしでもあるのです。
ラジ: 全くその通り。
質問者: そして彼女の癒やしを目撃/証言したことにより、その効果は私や他の人達にも与えられるのです。
ラジ: そしてそれを見ていなかった人達や、それが起こったとは知っていない人達も、それは同様です。
質問者: 何故なら、人々の意識が整ったなら、それ(癒やし)が彼等を待っているのだから。
ラジ: あなた達がそれを喜んでいてもいなくても、各人のそれぞれの洞察に伴って夢の強度は弱く成って来ています。
物理的/物質的な原因に帰され得ない瞬間的癒やしは、癒やしを得ている人のマインドと体験のシフトは、全ての人達にも影響を与えるのです。
そして同等のことが他の全ての人達にも起こり易く成るのです。
しかしそれによって、特定の誰かに真理を無理矢理受け取らせることは出来ません。
質問者: つまり自分自身で癒やしを起こそうとしたなら、それはレッスンに成ってしまうということですね。
間違えをそれ(間違え)が現れているレベルで受け取り、それを神に戻すのですね?
その為に(普段私が背を向けている)祭壇へ向き返るのです。
ラジ: ハイ。
次のように言ってみましょう。
あなたが祭壇に背を向けている時、あなたは戦士の仮面を被っています。
そしてあなたは甲冑を着て、戦士として振舞うのです。 世界から来る攻撃に反撃する者としてあなたは振舞うのです。
そしてあなたが少し光明を得たなら、それ(光明/気付き)をあなたの体験の中に取り入れようとして、「オオ、もしかしたら答えは好戦的/対抗的に成ることではなく、愛を表現することなのかもしれない。私は自分の砦から防御を外してみよう、それをより愛らしくしてみよう。それ程好戦的に見えないように、より善良にそれを変えてみよう。人々に好かれるように、人々が私を怖がらないようにしてみよう。そしてより愛を表現出来る振舞いをしてみよう。何故なら慈愛の方が憎しみや攻撃よりもパワフルだと私の中の何かが言っているから。」と言ったとしましょう。
こう考えて見掛けをより愛らしくしたとしても祭壇に背を向けたままなら、それはまだ『「正しいマインド」と一つに成ること』に対して防御し続けている状態なのです。
それはまだ、神から分離した世界が存在しているというアイディアに基づいており、そのような世界に対して今までとは違う対処をしようとしているだけなのです。
そして新しい相互合意の下に繋がって、新しい(しかし依然として相互合意を基にした)振舞いをするわけです。
例えば合衆国があって、西洋文明があって、人々が正義や人権(という概念)のもとに集まり繋がり、彼等の誠実や優れた価値が世界の中でより高尚な力となり、それら(正義/人権)の価値を理解していない人々にもそれらを理解させることが出来ると考えたとしましょう。
しかし(そのような概念的なものに頼らず)もし人々が祭壇に向き合ったなら、彼等は愛の体験で満たされ、それが彼等とその行動を照らすのです。
そして愛を認識するよう人々を強制する必要は起こらないのです。
(隠れた動機を持たない)愛の現われに成ることにより、「(テロリズムや反撃などの原因となる)怖れ」を溶かすようになるのです。
(その場合)勿論振舞いも変るのですが、なによりも癒やしをもたらすのはその(祭壇の)中心にある善良な愛なのです。 善良な愛が輝き出て(隠れた動機無く、強制無く、隠れた切り札無しで)全てを抱擁するのです。
だから、より高い原則に従って世界を変えようとすることよりも大切なことがあるのです。
質問者:つまり、あなたは「自分達の全てのオプションを使い圧倒的な力を持とうとすること」と「(自分の力を使って)少しだけきれいに整理しようとすること」には違いが無いと言っているのですね?
ラジ: 無知は無知です。 それが美しく表現されていようとも、醜く表現されていても(無知には変りありません)。
これを理解したなら、あなたは本当に癒やすことに、実際の変容をもたらすことに、注意を払えるのです。
そしてあなたは「より高い原則の上に」世界をアレンジ(配置換え)しようとしている人達を自動的にサポートしようとはしなくなります。
そしてサポートがなくなったなら、彼等(祭壇を振り返らず神と繋がらない状態で、より高い原則の上に世界をアレンジしょうとしている人達)が「実力」を持ち続けることは不可能です。
[Only the mind can create because spirit has already been created, and the body is a learning device of the mind. Learning devices are not lessons in themselves.]
[霊(スピリット)はすでに創造されており、体はマインドの学習機材なので、マインドだけが創造可能なのです。学習機材はレッスンそのものでは在りません。]
神の現れ(Presence of God)を見て、あなたがそれを「神の現れ以外のもの」と言った(見た/考えた)場合常に、その神の現れがあなたの学習機材に成るのです。
あなたが神の現れ(である世界/人々)を見て、「これは神の現われではない(これは良きことではない)」と言った/考えた場合でも、それは神の現われ(パーフェクション/完璧)で在り続けるのです。 (あなたがその様に言って神の出現を否定してる場合でも)あなたの体験/意識の中に「リアリティそのもの」が進入し続けるのです。 何故なら、リアリティがそれ(リアリティ)そのもので在ることを止める訳にはいかないのだから。
そしてリアリティに対するあなたの否定が摩擦を生んでしまいます。するとあなたは居心地悪さを感じるのです。 何故なら、あなたはマインドから出って(マインドを歪めて)安楽で居ることは出来ないから。
だからあなたがリアリティの一部を見て、「これはリアルではない。」と言った場合、そのリアリティの一部が学習ツールに成るのです。 それは学習機材に成ることがリアリティのその部分の役割(その本来の働き)だからではなく、あなたが「リアリティそのもの」から逃れることは出来ないからです。
だから「リアリティであるもの」が常にあなたを突き、あなたの注意を引き、あなたを居心地悪く感じさせるのです。 それはリアリティが居心地悪いものだからではなく、リアリティは常に「それ(リアリティ)そのものとしてあなたに認識されるよう」主張するものだから。
だから「私の信じていることではなく、あなたは本当は一体何なのですか?」とあなたが言ってそれ(リアリティ)を祝福するまで、リアリティはあなたの注意を刺激しあなたの注意を求め続けるのです。
そして一旦「そのリアリティ」があなたに届いたなら、「リアリティそのものの姿」がその通りあなたによって受け取られたなら、それはもはや学習ツールでは無くなるのです。 何故なら(リアリティそのものがあなたに届いたことによって)それ(そのリアリティ)に関してあなたが学ぶべきことが無くなったのだから。
もう少し別の言い方をしてみましょう。
神の現れの何らかの側面(部分)を見て「これは神とは違う」とあなたが言ったなら、あなたは自分の中でそれ(リアリティ)に対する無知を作ったのです。 そうしてあなたは(その神の現れのリアリティを)学ぶ機会を作ったのです。こうしてそれ(「これは神ではない」とあなたが考えたリアリティ)が学習機材に成ったのです。
あなた達には自分達の体を学習機材と呼ぶ間違いは犯して欲しくないのです。 もう何も学ぶことが無くなったなら、あなたの体は消えてしまうものだと誤解して欲しくはないのです。
体が学習機材であるのは、体は「体とはこうゆうものだ」とあなたが決めたようなものではないからです。
体のリアリティは、あなたに発見されることを待っているだけでなく、あなたによって正しく認識されるよう主張し続けるのです。何故ならあなたの体とは、神が自身を神自身として宣言していることなのだから。
そしてそれ(あなたの体と呼ばれているもののリアリティ)を認識することは、根源的にはあなたに選別出来る(選り好み出来る)ことではないのです。 あなたは(プライベートな個人的な意思を発揮して)それを認識しないようにある程度の期間抵抗することは出来るでしょう。しかしそれを避け続けることは不可能です。
質問者:聖霊全体が学習ツールなのですね。 つまりわたし達が否定している自然(Nature)の全ては(預けられていて)、それ全体が学習ツールなのですね?
ラジ: 全くその通りです。
[Their purpose is merely to facilitate learning. The worst a faulty use of a learning device can do is to fail to facilitate learning. It has no power in itself to introduce actual learning errors. The body, if properly understood, shares the invulnerability of the Atonement to two-edged application.]
[それら(体)の目的は学習を可能にすることです。学習機材(体)の最悪の使用方法は、学ばないことです。それ(体)そのものは、学習エラーを引き起こす力は持っていません。 体が正しく理解されたなら、それ(体)は「諸刃の応用」に対して「アトーンメント(贖罪/和解)の不可侵性(誤用不可能な性質)」を分け合うものなのです。]
つまり体は本来、ポジティブに使ったりネガティブに使ったり出来るものではないのです。
[This is not because the body is a miracle, but because it is not inherently open to misinterpretation.]
[これは体が奇跡だからではなく、体は本来誤解(間違って解釈)され得るものではないからです。]
体はとてもシンプルなもので。体は解釈/翻訳を必要とするようなものではないのです。
それ(体)をありのままに体験しようとする意欲があなたに在りさえすればそれで十分なのです。
言い換えれば、「神がそこに自身を表現している意味/意図」と共に(あなたの体という)そこにある神の現われを体験すれば良いのです。
[The body is merely part of your experience in the physical world. Its abilities can be and frequently are overevaluated.]
[体とはただ単に、物理的世界の中のあなたの体験なのです。体の能力は往々にして過大評価されています。]
体は単なる輝き(放射熱)なのです。体は祭壇の周りの反射/反映なのです。
もしあなたが祭壇から目(意識)を逸らせてしまって、輝きしか見えていないなら、あなたはそれ(輝き/体)に体が本来持っている以上の意味を与えようとしてしまいます。
しかし体は(源ではなく)輝きにしか過ぎないのです。
輝きは、光の源の存在を示唆しているものです。
そして光(光源)こそが重要なのです。
[However, it is almost impossible to deny its existence in this world. Those who do so are engaging in a particularly unworthy form of denial. The term "unworthy" here implies only that it is not necessary to protect the mind by denying the unmindful. If one denies this unfortunate aspect of the mind's power, one is also denying the power itself. All material means that you accept as remedies for bodily ills are restatements of magic principles. ]
[しかし、世界の中の体の存在を否定することは殆ど不可能です。そうしようと試みている者達は非常に無駄な否定行為を行なっているのです。ここで「非常に無駄」という表現を使っているのは、「マインドでないもの、マインドで満ちていないもの」を否定することによってマインドを守ろうとすることは必要ではないからです。マインドの力のこの残念な側面を否定しようとした場合、その人は力そのものを否定することに成ってしまうのです。体の病を治す手法としてあなた達が受け入れている、全ての物資的方法は魔法の原則を再利用(再確立)しているだけなのです。]
別の言い方をしてみましょう。
祭壇に背を向けてあなたは砦を作ったのです。岩やモルタルを使って砦を作ったのです。
しかしこの砦は時の経過に伴う破損には耐えられず、そして勿論この砦が時に対して攻撃を行うことは不可能です。
だからなたはこの砦に鉄筋の補強をつけようと考えたのです。つまり、より強い物理的なサポートを使うことによって構造の弱点を正そう(治そう)としたのです。
これが魔法の使用なのです。
こうしてあなたは、問題そのものを解決するのではなく、強度(強さ)に対するより強い信念を使って問題を修正しようとしたのです。 そして問題そのものとは、あなたが祭壇に背を向けていること(あなたの中の神の居る場所に注意/意識を与えていないこと)なのです。
[This is the first step in believing that the body makes its own illness. It is a second misstep to heal it through non-creative agents. It does not follow, however, that the use of such agents for corrective purposes is evil.]
[これが、体自身が病を作れるという信念への第一ステップです。非創造的エージェント(代理人/自動機能システム)を通して癒やそうとすることが(間違った方向への)第二のステップです。しかし、このようなエージョントを修正の目的で使おうとすることが邪悪であるとは限りません。]
さて次の文章は非常に重要な部分です。
[Sometimes the illness has a sufficiently strong hold over the mind to render a person temporarily inaccessible to the Atonement. In this case it may be wise to utilize a compromise approach to mind and body, in which something from the outside is temporarily given healing belief. This is because the last thing that can help the non-right-minded, or the sick, is an increase in fear. They are already in a fear-weakened state. If they are prematurely exposed to a miracle, they may be precipitated into panic. This is likely to occur when upside-down perception has induced the belief that miracles are frightening.]
[時には、マインドに対して病が強くしがみ付いているあまり、その人に対してアトーンメントが一時的にアクセス不可能に成っている場合もあります。その様な時には、(外側の何かに一時的に癒やしの効用(癒やしの信念)を与えて)マインドと体の両方に働きかけるアプローチを使うべきです。それは正しいマインドを持っていない人をより怖がらせてしまうことは最悪だからです。彼等はすでに恐れによって弱くなっている状態なのだから。その様な人達へ性急に奇跡を与えた場合、彼等はパニックを起こしてしまうかもしれません。[「奇跡は怖ろしいものだ」という信念を「アベコベの知覚」が引き入れてしまった場合、このようなことが起こり得ます。]
これはコースの中でも最も実践的/実用的な文章の一つです。
誰も酷い状態にまで追い込まれる必要はなく、より危険な目に遇う必要もなく、危機感を抱かなくとも癒やしは体験出来るのです。 明晰を、安堵を体験出来るのです。
聖なる愛は常に、現在のあなたの意識に理解出来る言語で現れるのです。
(あなたがエゴと戯れている間預けられている、あなたの神性である)聖霊は、怖れを軽減し癒やしを促進することをあなたに知らせる方法を持っているのです。 その時点で聖霊があなたに知らせたことは絶対的真理ではないかもしれませんが、それがあなたの怖れを減らし、癒やしをもたらすのです。
それから下記を理解することも重要です。
過去において私は同じ主題に関して話す相手によって違うことを言い、首尾一貫したことを話さなかった、と非難されています。
しかし、それぞれの人達に対して彼等が理解出来る言語で(私が)真理を示したことにより、人々の怖れが刺激されずに軽減され、最大の内的動きが可能に成った、ということが事実なのです。
[The value of the Atonement does not lie in the manner in which it is expressed. In fact, if it is used truly, it will inevitably be expressed in whatever way is most helpful to the receiver. This means that a miracle, to attain its full efficacy, must be expressed in a language that the recipient can understand without fear.]
[アトーンメントの価値は、それが表現されたマナー(表現方法)には依存していません。アトーンメントが正しく使われた場合、それは受け手に対して一番適切な方法で表現されるに違いないのです。つまり奇跡がその効果を最大に示す為には、受け手が怖れずに理解出来る言語で{奇跡が}表現される必要があるのです。]
どうしたらこれが出来るのでしょうか?
あなたの目の前の人に対して詳しい精神分析をすることもなく、どの様にしたら、あなたは彼を怖れさせることなく、これを表現することが出来るのでしょうか?
あなたは「自分には答えが解っていない」と考えてみる必要があるのです。
あなたは「自分は答えを知っていない」と認める必要があるのです。
あなたは「あなた個人が知っている必要はない」と考えてみる必要があるのです。
あなた個人で知ろうとする試みの全てを放棄して、あなた自身の中を十分に静めて「私は何を言う必要がありますか? ここでの適切な対応は何ですか? 父よ、(あるいは聖霊よ、ガイドよ、イエスよ)あなたなら何と言いますか?」と訊ねるのです。
そして(あなた個人では適切な行動が解らないので)あなたは自分が(父/聖霊/ガイドから)受け取った反応(答え)を人々に知らせるのです。
例えばある時にあなたが受け取る答えは「座りなさい、口を閉じて、暫く静かにしていなさい。」かもしれません。 もしかしたらその行動は、優しくも愛に溢れても見えないかもしれません。
しかし(そこで)あなたが対面していた個人にとっては、これが(あなたが答えを聖霊に訊ねてその通りに振舞うことが)最善の対応だったのです。
何故ならその人は、とても不安定にバラバラに感じており、その時点でよりクリアでシンプルな方向(指示)を必要としており、全ての混乱から抜け出る必要があるのだから。 {だからあなたはそれを(静かに成って聖霊に訊ね聞くことを)自分で実演して見せる必要があったのです。}
もしかしたら他の人はそんなあなたを見て「あなたはとってもコントロールしています(操作的です)。」と言うかも知れません。 「そのようなことがどうして癒やしをもたらすのですか?」と人は言うかもしれません。しかしこれはコントロールすることではないのです。
これは「その時点ではシンプルな指示に従う力と規律を自分の中にまだ持てていない人」の必要を満たすために(あなたが)行なうことなのです。
だから(祭壇に向き合った結果として、聖霊に尋ね聞いた結果として)あなたが言うことは、それ程親切には聞えないかもしれません。
時によっては、(上記と殆ど同じ条件であっても)あなたの目の前の人はとても攻撃的な振る舞いをしており、あなたは「アイラブユー」と言って彼を抱きしめるだけかもしれません。
あなたのこの行動がその人を落ち着かせ静まらせリラックスさせ、その人も「そこに座って、口を閉じること」を出来るように成るかしれません。
そのような行動が出来るように成るには信頼が必要でしょう。
いずれにしろあなたが尋ね聞かなかったなら、あなたが聖壇に向き合って繋がらなかったなら、あなたの行動は(例えあなたが落ち着いていたにしろ、興奮していたにしろ)無知に基づいた操り(コントロール)でしかなく、「このようにすれば上手く行くだろうという(あなた個人の)推定」に基づいたものにしか過ぎないのです。
いずれにしろ愛の繋がり(愛の統合)がそこに無かったなら、そこでは変容が起こらず、あなたは変革の代理人(変容をサポートする人)には成れないのです。
[This does not necessarily mean that this is the highest level of communication of which he is capable. It does mean, however, that it is the highest level of communication of which he is capable now.The whole aim of the miracle is to raise the level of communication, not to lower it by increasing fear.]
[これが彼に出来る最高レベルのコミュニケーションであるとは限りません。しかしこれが彼に今出来る最高レベルのコミュニケーションなのです。奇跡の目的はコミュニケーションのレベルを上げることで、怖れを増やしてコミュニケーションのレベルを下げることではありません。]
そしてエゴには注意してください。
エゴがやって来て「聖壇に背を向けたままであなたの状況を向上する方法はありますよ」と言うのです。(エゴは)ここに示されている少しの情報を使って考え始めてしまうのです。
「奇跡の目的はコミュニケーションのレベルを上げることなのです。」
『アー、なるほど解った!! 我々はコミュニケーションのレベルを上げれば良いんだな!』
こうしてあなたは兄弟を(コミュニケーションのレベルを上げる自分の最上のアイディアに基づいて)「祝福」しようとし始めてしまったりするのです。 しかし実際にコミュニケーションのレベルを上げるのは(あなたが発する言葉ではなく)愛であって、この愛からあなたの言葉が湧き出て来てくるのです。
そして愛が言葉として湧き上がってくる唯一の方法は、あなたが自分の独立を放棄して(自分の中の)祭壇に向き合い「助けて下さい。 ここで適切なことは何ですか? どうしたら聖なる目的が満たされるのでしょうか? ここでよりクリアに神が明確に現れる為にはどうしたら良いですか。」と言うことなのです。
『自分自身で「良きこと」をするパーソナルな能力は誰も持っていない』と理解しない限り、あなた達には教えることは出来ません。 これを理解しない限り、あなた達は変革のエージェントには成れません。
神からの独立権をあなた達が主張し続けている限り、「神があなた達を独立存在として創造した」と強く信じている限り、あなた達に出来るのは世界をリアレンジすることだけです(世界の見栄えを変えることだけです)。
そしてあなた達は現在あなた達が被っている無知(全ての苦しみをもたらしている無知)を一層押し広げようとし続けてしまうのです。
良き教師に成るには、全く教師に成ろうとはしないことです。 (教師に成ろうとするのではなく)謙虚な召使に成るのです。 エゴの視点からは屈辱的な使用人に見える者に成るのです。
謙虚とは、ストレスが存在していない状況です。 謙虚とは、力によって行なう能力(自分の意志を通す能力)が存在していない状態です。
謙虚とは、「自分の意志を通そうとする力」ではなく「譲る意欲」があり「あなた(神)の意志がなされますように」と言っている状態です。
これはあなたが(他者に)コントロールされる為ではなく、あなたが(物事を自分で)コントロールしようとしていない状態に成って初めて「物事が神聖に働く方法」があなたに届き、あなたがそれと調和出来るように成るのだから。
こうして「神以外の何も賞賛(リアルなものとして認識)しようとはしていない状態」に成った時、あなたは常に神を賞賛し続ける存在(現われ)に成ったのだから。
そして「神以外は何も賞賛(リアルなものとして認識)しようとはしていない状態」に成った時、そこに現れ得るのは神だけなのだから。
質問者: 一番最初に体に関して話し始めた部分では美しい寺院(としての体)に関して話していましたね。その後あなたは甲冑を鋼鉄で補強することに関して話しました。
結局それらは両方とも同じことなのでしょう? 体を美しい寺院にすることでも、それを頑強に強化することでも、結局同じ行動なのですね?
ラジ:あなたが聖壇に背を向けてそうしている限り、それは(幻想でしか)在り得ません。
質問者: ええ。 だから(体を美しい寺院にしても頑強な砦にしても)それらは聖壇から目(意識)を逸らす方法の違いにしか過ぎない訳です。
ラジ: そしていずれのケースにしろ、それらは防御の一形態なのです。
そしてあなたがより神聖によりスピリチュアルに成り美しい寺院を作ったなら、それは「そのような行動があなたを何かから守るだろうという信念」のもとにあなたが他の人達と繋がっているからなのです。
「それ(美しい寺院/頑強な砦)があなたを暴力から守る。それがあなたをあなたのエゴから守る。」(と信じた訳です。)
「愛に溢れた思考を考え、愛の考えを表現したなら、それらが「人間にとって自然に沸き起こる野卑な意欲/意識」からあなたを守るだろう。
もしかしたらそれ(愛に溢れた思考)は『人類を新しい方向に向ける進化のシフト』さえ起こすかも知れない。 物理的な宇宙の一部で物理的/身体的に体験可能な変化が起こるだろう。」
しかし、これらのこと(これらの考え)は依然として無知な領域で起こっているのです。
これらのこととは依然として、「あなたと神の間には関係が成り立っている。そしてあなたが体験するべき繋がりがある。」というアイディアが考えられてはおらず、引き出されてもいないのです。
次のように言ってみましょうか。
この惑星の全ての人達が、お互いと調和的に協力するための「相互合意に基づいた方法」を見つけたなら、人々は非常に感謝し喜ぶでしょう。
そしてこの調和を一万年体験することが出来たとしても最終的にはこれが空虚な体験であったことが解るでしょう。 何故なら、そこでは(全ての人達が一緒に美しく働いていたとしても)祭壇との繋がりがまだ起こってないのだから。 その場合、まだ目覚めが(アトーンメントの確証が)人々を待っている状態でしかないのです。
だから(今晩私の話を聞いている)あなたは少なくとも「どのようなものがアトーンメントではないか」今までより明確に解ったことでしょう。これは素晴らしいことです。
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