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ACIM2012-06-17

はじめに言葉があった。そして言葉は神と共にあった。そして言葉が神であった。(ヨハネ 1:1)
[In the beginning was the Word and the word was with God and the Word was God.]

そして神である言葉が動き、その動きが創造と呼ばれています。
この動きをあなたがどのように見ていたとしても、あなたがガラスを通して創造を暗く見ていたとしても、創造だけが実存している唯一の動きなのです。

創造は上手く機能する(良く働く)ように作られており、失敗するように作られてはいないのです。
「実存する唯一の存在である神」によって作られているので、創造の中には間違いはなく、だからあなたが創造をどのように見ていたにしろ、創造は欠点のないパーフェクトな変えようのないもので、常に源/神を反映しているのです。

何故私は「創造は上手く機能するように作られている。」と言っているのでしょうか?
それは、あなた達が世界や宇宙を見ている時、世界や宇宙が本当はパーフェクトな創造であることを忘れてしまっていることが多いからです。
創造そのものに対するあなたの無知故に、天国に対する一時的記憶喪失故に、あなた達は「創造がどのようなものか」自分達で決定しており、その結果としてあなた達は創造をパーフェクトなものとしては見ていないのです。
だからあなた達は創造を「何か間違ったもの/何か怖ろしいもの/何か危険なもの」として見ているのです。

だからあなた達は「いいえ、それ(あなた達が知覚/体験している不具合)は創造の真理(世界の真理)ではありません」と言い聞かされる必要があるのです。
あなた達が毎日日常的に体験している世界こそが創造(神の動き)なのです。これが真理なのです。
神が世界の中に居る訳ではなく、あなた達が体験している世界が源の全ての側面を反映しているのです。今生きている神の動きを示しているのです。

あなた達が創造/世界の神聖そのものをそれそのままに体験していた時もあったのです。
前にも言った通り、あなたは(もう一人の神の子である)相棒/パートナーと繋がって「わたし達は全てに対する定義を自分達で決めたい。全てに対して別の意味(神の定義とは異なる定義)を与えたい」と一緒に言ったのです。
あなた達はそう言って父から離縁することを決めたのです。
これが起こった時点であなた達のマインドは全体/十全だったので、「神のマインドがあなた(達)として体現されている」ものがあなた達のマインドなので、あなた達が行なったこの選択は偉大な自信と共に行なわれたのです。
分離の決意を行なった時点では、あなた達はまだ全知と遍在の体験に満ちていたのです。
だからこの行為(あなた達が父を離縁すること)は怖れを伴わずに行なわれたのです。

あなた達二人だけで相互合意に基づいて全てに対する意味を作り上げ始めた途端、あなた達が予測していなかった事が起こりました。
あなた達の源(原動力)から外れることにより、あなた達は無限の視界/視点を失い、あなた達は「体と呼ばれているもの」と自己同一しているように見え始めたのです。 しかし本来「あなた達の体と呼ばれているもの」は無限な創造の一部で、あなた達の可視性と可触性(見える様子と触れる様子)を示しているものなのです。

すると体の形の卑小さ(体が創造の他の部分から分離しており、創造と体の繋がりが感じられなく成っていること)故に、二つのものが見え出したのです。それは怖れと罪悪です。
分離以降(あなた達が父を離縁することを決めてから)は、怖れと罪悪があなた達の全思考を色付けし出したのです。あなた達二人の全ての思考が怖れと罪悪で彩られ始めたのです。
だから(あなた達が体験出来る唯一のものである)天国全体が怖れと罪悪のレンズを通して体験されるようになったのです。
次のことを明瞭にしたいので、私は上記を今一度説明しているのです。

あなた達が無限の視界/視点を放棄した時、あなた達が「父よ、(あなたのやり方ではなく)私のやり方でやりたいです。」と言った時、あなた達は偉大な自信と共に(怖れなくして)これを行なったのです。
だからそれ(分離)は簡単に行なうことが出来たのです。
しかし一旦この行為(分離)を行なった後は、全ての体験が怖れと罪悪で色付けされるようになり、故郷に帰ろうとするあなた達の試みも怖れと罪悪で色付けされることになったのです。
だからあなた達は自分達の中に「故郷に帰る力、父と繋がり直す自信」を見つけることが出来ないでいるのです。
これは懲罰ではなく、分離した視点がもたらす特質なのです。
これは双眼鏡を逆さまに覗くようものです。
全てが小さく見ているのはあなたが何か間違ったことをしているからではなく、それはレンズを逆さまに覗き込んだ当然の結果なのです。
だから故郷に戻ることへ決意を与えてそれを体験をしようとした時、それが難しく見えても驚かないでください。

二つのステップ/聖なる瞬間の実践は(あなた達が見ている全てと行なっている全てを色付けしている)怖れと罪悪に逆らうことなのです。
自分の最善の判断の外に助けを求めることを決意して「父よ、聖霊よ、ここの真理は何ですか? 私が見ていることを超えている真実は何なのですか?」と言った時、それは「怖れと罪悪が統治しているマインドの枠組み/孤児的マインド」に対して異を唱える行為なのです。
これが理解出来たなら、二つのステップ/聖なる瞬間の為に必要な努力を行なうことをあなたは厭わなくなるでしょう。

これは(怖れと罪悪は)あなたが去ろうとしている場所/アリーナに内在しているものなので、あなたが行こうとしている方向に動いた時にもこれが(怖れと罪悪が)現れるのですが、あなたはこれを(怖れと罪悪を)無効化することが出来るのです。
「私が直面しているこの怖れと罪悪の体験は(私を動けなくさせているこの怖れと罪悪は)有効でなく、現実でもない。」とあなたは理解することが出来るのです。
「これ(怖れと罪悪の体験)は私が故郷に帰ろうとする時必然的に現れるもので、これ(怖れと罪悪)は「私は神から離れており、神から分離している。私は神聖ではない。私は自然から偶然に出来たもので、私は物理的な宇宙に属している。」という私の信念の一部なのだ。」と言うことがあなたには出来るのです。

次のことを考えてみてください。「何故あなたは常に聖なる瞬間を実践し続けていないのでしょうか?」
先週あなたは何回も聖なる瞬間を実践していたかもしれませんが、何故聖なる瞬間に留まり続けること{そして全ての振舞いと言動を聖なる瞬間の中から行なうこと}をあなたはしていないのでしょうか?
何故あなたは聖なる瞬間を常に行なっている状態まで行けないのでしょうか?
「聖なる瞬間があなたの正しいマインドへ帰る道なのだ。聖なる瞬間の結果が父の視点の流入になるのだ。聖なる瞬間を実践したなら、神の神聖なるマインドがあなたを満たし、それが全てに対するあなたの意識に成るのだ。」と言われているのに、何故あなたは聖なる瞬間を保ち続けることが出来ていないのでしょうか?
何故上記があなたにとって十分な理由に成っていないのでしょう。

それはあなたが自分を守らなければならないと考えているからです。
「物理的なリアルな危険」あるいは「マインド上の危険」に対してあなた自身を防御する必要があるとあなたは考えているのです。
そして「これが自分に安全を提供して来たとあなたが考えているもの」を気楽に放棄することは(例え、それが目覚めて父のマインドを受け取る為であっても)出来ないのです。

自己コントロールを放棄することに近づくと、あなたの怖れが大きくなるのです。
ここで私が自己コントロールと言っているのは、あなたのマインドの判断と行動によってあなたが全てをコントロールしている状態のことです。
あなたが自己コントロールを本当に放棄する寸前に(それはあなたが自分の甲冑を捨てることを意味しているので)怖れが現れるのです。何故ならその時あなたは「これが自分に安全を与えて来たとあなたが考えているもの(自己コントロール)」を放棄しようとしているのだから。

つまり「父からの離縁を決断したこと」が怖れの原因なのですが、この決断そのものは怖れなく行なうことが出来たのです。
そして故郷に戻った時(父の御許に戻った時)それが喜びをもたらすのですが、これを遂行している過程において喜びはまだもたらされておらず、コミットメント(決意)も簡単には得られないのです。

これは殆どメカニカルな(自動的な)ものなのです。
だからこれには(自己コントロールを放棄しょうとすることからくる怖れには)本当の感情は与えられていないのです。
これは自動的に(メカニカルに)発生している怖れなのです。
「故郷に帰ろうとする----> 怖れと罪悪が感じられる-----> 自分を守らなくては!!聖なる瞬間を実践している暇はない、事態に注意を与えて自分を守らなくてはならない。」{という連鎖反応が自動的に起こっているのです。}

「他の孤児達の前で自分が愚か者に見えないようにしなくては。孤独になる為に(怖れと罪悪が私の体験を統治している場所に留まる為に)相互合意の中で私が繋がっている者達と調和していなくてはいけない。」{と考えてしまうわけです。}
しかしこの知覚/認識は間違っており、「聖なる瞬間を実践することによりあなた自身を守ることを放棄することは出来ない」という示唆は間違っているのです。
あなたはこれを理解するべきなのです。あなたはこれを覚えておくべきなのです。

あなたがあなた自身に依存している時、あなたは不信心を実践しているのです。
「これが自分だとあなたが考えている自己」をあなたが放棄して、自己を超えて「あなたには未知に感じられるもの」に手を伸ばし、存在の源(あなたの父)に対して「ここの真理は何ですか?」と訊ねた時、あなたは信心を実践しているのです。
信心{が必要とされている}という言葉の中には自信の欠如が示唆されており、それが何か力強いものや何かを起こす力には成り得ないように感じられるかもしれません。
しかしこの知覚/認識は違っており、この結論は間違っており、この論理は間違っており、それらに逆らう必要があるのです。
さてア・コース・イン・ミラクルズ{のテキスト}そのものはあなたが実践出来るものではないかもしれません。
しかしア・コース・イン・ミラクルズはアイディアの表現で、それは特定の行為へあなたを導くものなのです。
その行為とは聖なる瞬間を実践することです。

ACIMの実践は(どのような振舞いを隣人がしていたとしても)隣人に対して愛を表明することだとあなた達は考えており、そうわたし達も言って来ました。
あなたの隣人が自分自身を(あるいはあなたのことを)どのように認識していたとしても、隣人の認識が正しくても間違っていても、隣人の振舞いや考えに動ずることなく、どのようにして隣人を愛したら良いか学ぶことがACIMの実践だとあなた達は考えています。

しかしあなたがそれ(愛)によって動かされていなかったなら、修正は起こりませんね。違いますか?
あなたが愛によって動かされていなかったなら、その場合あなたは無知の表明に協力しており、表明されている無知に対して異を唱えない(愚かな行為を否定しない)ことによって無知を認識/肯定してしまっているのです。

それでは駄目なのです。
呼び掛け(愛を呼び求める声)は愛を求めています。
しかしあなたが「愛として」振舞おうとしても駄目なのです。
つまり「愛に対する自分の概念を満たそうと振舞っていてはダメだ」と私は言いたいのです。
愛に対するあなたの最善の判断/アイディアを表明しようとしては駄目なのです。

もしあなたが愛を表明しようと求めているなら、あなたは(愛に対する自分の考えは手放して)聖なる瞬間を実践しなくてはいけないのです。
あなたは二つのステップを行うべきなのです。
「兄弟に対する愛に溢れた評価や思考を表明したり話したりする」のではなく、あなたはマインドを黙らせ、自分の中の静寂に入って行くべきなのです。
あなたは「愛を呼び求める声(愛には見えない行為)」を言い立てている兄弟とやり取りすることは止めて、「父よ、聖霊よ、私はここで何を知るべきですか。ここで私は何を言うべきなのですか? ここの真理は何ですか? この状況に対して私は自分の最善の判断には依存しません。私はあなたから真理を聞きたいです。それが聞えるまで私は聞き続けましょう。」と言うべきなのです。
あなたが真理を聞いた時、それが愛なのです。それが必要とされている愛の表明なのです。
真理を聞いたあなたの行為が、真理を聞いた結果として現れるあなたの行為が、あなたの兄弟の「愛を呼び求める声(愛に見えない行為)」を「愛を受け取ること」に変容させるのです。

もし「愛への呼び掛け/愛を呼び求める声」が兄弟からあなたへ向けて発せられている意地悪/脅し/身勝手だったらどうでしょう?
するとあなたは「おお、聖なる瞬間を行なっている暇は無い。私自身を守らなくては。」と言い出してしまうのです。

しかしそのような必要は本当は無いのです。
あなたがどのような状況に置かれていても、不信心を実践することは正しくありません。
何故なら、不信心を使うことは{良い}変化を全くもたらさないから。
不信心は何も明瞭にはしないのです。
不信心は、偉大な調和の動きをもたらさず、成就ももたらさないのです。

自分の身を守ることは、あなたを孤児院に留めてしまうだけなのです。
自分の身を守ることは、あなたを不信心のアリーナに留めてしまうだけなのです。
これはシンプルでかつ絶対なのです。
このことを考慮してみたなら、聖なる瞬間を続ける度量があなたの中で育つでしょう。

あなたは悪魔のように見える天使と格闘するべきなのです。
あなたは修正の必要を見据えるべきなのです。
愛には全く見えない「愛を呼び求める声」をあなたは真正面から見るべきなのです。
それを見続けながら「父よ、ここの真理は何ですか?」と言うべきなのです。
「愛を呼び求める声(醜さ)が表明されている『ここ』の神聖なる事実は何なのですか? 父よ!」と言うのです。

「兄弟を気遣うこと」とは「兄弟が無法に/脅威に/醜く見えている所で神の真実を見ようと努力すること」なのです。
何故なら上手く機能するように神は創造を作ったのだから。
そして創造は良く働いているのです。
創造は上手く働くように作られており、創造とはそのようなものなのだから。

(愛を呼び求める声を上げているように見えている)神の本当の子供は(彼を「上手く働くように作られている神の子供」ではなく見せている)その狂気の振舞いにも関わらず神の本当の子供で在り続けており、だから「愛を呼び求める声を上げている彼」は実際には神のデザイン通り上手く働いているのです。
兄弟を愛することとは、彼と共にそこに立って彼を見捨てず、(彼が神の子では無いという不正な言い立てから自由に成るために)真理を知りたいと願うあなたの気持ちを捨てずに真理を求め続けることなのです。
兄弟を愛しているあなたは「この兄弟は神の子ではなく、この兄弟の為に聖なる瞬間を続けるには値しない」という不正な言い立てを聞き入れないのです。「彼はあなたの正気には値しない。彼のリアリティに対する揺るがぬ知覚認識があなたに得られるまで努力するには値しない。」という言い立てを無視するのです。
するとあなたはリアリティに対する知覚認識を得て、それを自動的に瞬間的に兄弟に知らせるのです。

ACIMは「あなたを人間的状況内に留めて、そこであなたを慰める為の思考やアイディア」ではないのです。
この本の中に書いてある言葉を逐一記憶する必要などなく。 それらの言葉はあなたを聖なる瞬間の実践へ駆り立てる為のものなのです。 何故なら聖なる瞬間が故郷への道なのだから。 そしてあなたは自分の正気を取り戻すべきで、その為に必要な全てのことをすべきなのだから。
故郷に帰る為には「怖れと罪悪によって統治されている領域」を通り抜ける必要が絶対にあるので、故郷へ帰る為の行動は怖れと罪悪を引き起こさずにはおれないのです。

しかし怖れや罪悪は幻想でしかなく、あなたに投げ掛けられている懲罰や脅威の可能性は実際には実現しないのです。
物事を判断し評価しそれに基づいて自分を懲罰に縛り付けている「あなた自身」の外には裁判官など居ないのです。

父から離縁する為に一緒に繋がった「あなたとあなたのパートナー」だけが「自分達の注意を特定の幻想に与えてその幻想を信じ込む特定の方法」を得ているのです。
しかし(あなたが自分のプライベートなコントロールを放棄しようとした時に立ち昇って来る)怖れと罪悪は幻想で、あなたが聖なる瞬間を実践し続けたなら、怖れと罪悪の幻想があなたを押し留めたり罰したりすることは不可能なのです。
これらのことを怖れる必要があなたにあるでしょうか?
{怖れるのではなく}あなたは好奇心を発揮するべきなのです。
勇気を持って楽しんでみなさい。目覚める体験をする勇気を持ちなさい。

あなたは目覚めることを怖れる必要はないのです。
怖れと罪悪がその鎌首を持ち上げ始めたなら、「おととい来やがれ!」と言い渡しなさい。
怖れと罪悪を尊重することが止められるように、(怖れと罪悪をからかい、それらが無意味で馬鹿げており、それらがあなたの注意には値しないことを示す)何らかの言葉を(あなたの好きな言葉を何でも)発しなさい。
そしてあなたの注意を聖なる瞬間に戻すのです。
「(グズついている子供や怒り狂っている大人が『愛を呼び求める声』を怒鳴り立てている)ここの真理が何か?神がここでどのように存在しているか?知りたいと求める熱望」にあなたの注意を取り戻すのです。
『愛を呼び求める声』は全く愛には見えないでしょう。 それは喧嘩/論争の始まりか、永遠の反目の始まりのように見えることでしょう。


あなたの生活がどれだけ心地良かったとしても、あなたが目覚めていなかったなら、あなたは調和と平和と成就の本当の意味をまだ知らないのです。
調和/平和/成就とは、ただ単に脅威が現れていないだけではなく、安楽になっていることだけではないのです。
創造はスピリットのエネルギー(愛)で照らし出されており、創造は輝いており生命と真理と愛で沸き立っているのです。

とても正直に言いましょう。私はとてもラジっぽく次のように言わなくてはなりません。
全てがとても安楽に見えていたとしても{もしあなたが目覚めていないなら}あなたが自己満足的にハッピーに成る正当な理由は存在していません。
もしあなたが自己満足でハッピーに成っているなら、あなたは愚かな休息(stupid rest)の状態に陥っており、それは止めるべきなのです。
愚かな休息は、あなたを変化に導かないので、それは中断されるべきなのです。
愚かな休息はあなたに癒やし/啓示をもたらしません。
愚かな休息は麻酔薬のような働きしかしないのです。
愚かな休息の中であなたは自分が良い状態に在ると考えています。しかしあなたは喜びに溢れてはいません。
あなたは平和の中に居て怖れは体験していないかも知れませんが、意識すること(気付くこと)が出来ていません。
あなたはあなたの中の「マインド」を体験してはいません。 その「マインド」は私(イエス)の中にも在ったものなのです。その「マインド」は私の中にも在るものなのです。

あなたは神の子としてのあなたの生得権をまだ体験していません。
どのようなこともあなたをあなたの生得権(当然の権利)から隔てるべきではないのです。
コースはこれを言おうとしているのです。

コースが言おうとしているのは次のことです。
兄弟や姉妹と聖なる関係を築きなさい、するとその関係の性質(本質)から行動した結果としてあなたは聖なる瞬間を活性化させ「父があなたに示したもの(それはパートナーの真実であり、あなたの真実なのです)」をあなたはパートナーに与えるのです。
するとあなた達は全く新しい在り方(新しいレベル)で「一緒に居る」ようになります。
これは無知のレベルではなく、真理に関して考えることのレベルではなく、理解/叡智のレベル、真理を知るレベル、「全てに対するあなたの理解」としてあなたの中に埋め込まれている真理のレベルなのです。

次のことも理解してください。
故郷に戻る動きは、あなたが怖れと罪悪に悩まされることを必然的に含んでいます。
この怖れと罪悪は示唆されているだけのもの(あなたが有罪であなたには何かを怖れる理由があるという言い立ては実現し得ないもの)なので、これを笑ってやり過ごせるように成ってください。
「(人間的状況が起こっているようにしか見えない)そこで起こっている真理を知りたいと熱望すること」よりも「怖れと罪悪に自分の注意を与える必要がある」という言い立ては「言い立て/空言」でしかないのです。
好奇心を持って{聖なる瞬間の実践を}粘り強く継続してください。
怖れと罪悪には笑って取り合わず、怖れと罪悪に自分の注意を与えず、怖れと罪悪に自分を統治させてしまわず、怖れと罪悪を有効でないものにしなさい。

二つのステップを実践して自己防御(あなた自身の手で自分を守ろうとすること)を放棄しようとする度に、怖れと罪悪があなたの周りに現れるので、怖れと罪悪の歌を笑って軽んずることが出来なければ、怖れの瞬間が長引いてしまうように見えるでしょう。
そしてあなたが自分の誠実/統合性/実在性を保つ為に自己防御の行為を全て放棄しない決意をしていた場合、この罪悪と怖れが時間の中で(数日/数週間/数ヶ月と)長引くように見えるでしょう。
それは何故でしょう? なぜこれが起こるのでしょうか?
自分を守る必要があるとあなたが感じているのでこれ(罪悪と怖れの延長)が起こるのです。
自分を守ることが他の何よりも重要だとあなたが感じているのでこれが起こるのです。
あなたの最善の判断から行動し続けることが、あなたの独立した尊厳/統一性/実在性を確保し続けることが、目覚めることより重要にされているので、これが起こるのです。

あなたが自分の意志に固執することが、聖なる瞬間を時間の中で引き伸ばし、怖れと罪悪があなたを捕らえているように見えるのです。
しかしそれは本当はあなたが自身を守る権利の為に戦おうとしていることなのです。 何故なら、あなたは「父に出来ること」よりも「あなた自身に出来ること」により多くの信心を与えているのだから。
そして現在あなたは孤児院(怖れと罪悪と弱さの場所)の中から全てを眺めているので、「父に出来ること」を理解していないのです。

これは「魂の暗い夜”a dark night of the Soul”」と呼ばれているものです。
私がこのことを言っているのは、これが自己意志の表明/体験を極限まで推し進めた結果の一例だからです。
しかしこれは自己意志を放棄してあなたの注意を別のもの(二つのステップ/聖なる瞬間)に与えることで簡単に修正出来るのです。
自己意志の行為によって、物事がドラマ(あなたが体験出来るように見える闘争)に変換されてしまうのです。
確かに「魂の暗い夜」をあなたは通り抜けられるでしょう。
これはあなたが車でロサンジェルスから南に移動している時に左に曲がったならデスバレー(死の谷)を通ることになるようなものです。  そしてあたかもデスバレーが本当に死の谷という意味を持っているように考えて、デスバレーを通過しそれ(死の谷)を体験しようとするようなものなのです。
自己主張にこだわり続ける行為が「魂の暗い夜」という一般的な概念に作られており、「そのような体験をあなた達が通り抜けるだろう」という期待が殆ど世界中に(キリスト教圏内に)広がっているのです。 そしてこれがどれだけ長く続くか誰にも解らない?{と思われているのです。}
誰がこれ(魂の暗い夜)を起こしているのでしょうか? 勿論あなたがこれを起こしているとは考えられないですよね?
自己意志にこだわるシンプルな行為が、「聖なる瞬間を実践し、信心を実践し、奇跡を作る信心の現れに成ること」を拒否することが、これの原因であると考えるのは困難なのです。
これ程シンプルに解決出来る訳はない。{とあなたは考えていませんか?}
違いますか?

だから気をつけなさい。
「魂の暗い夜{がある程度の期間中起こらざる得ない}」というアイディアを目指したり示唆したり繰り返したりするのは止めなさい。
何故ならそのようなことをするのは見当外れ(無意味)で、{このようなアイディアをそのまま受け入れていた場合}「これは自分にはどうする事も出来ない複雑な状況なのだ、この困難が過ぎ去りこれが自分を変容させるまでこれを耐え忍ぶことしか出来ないのだ。」とあなたは考えてしまうから。
しかしここで本当に必要とされていることは「(状況に対する勝利を自分のものとして、それを自分の業績に数え上げられるよう)自身を守るための自己主張を続けること」以上の自己責任をあなたが認めることなのです。
だからこれはよりシンプルに対応出来ることなのです。


そして私は何よりも、毎日常に聖なる瞬間を実践し続けることを皆さんに薦めているのです。
(聖なる瞬間を実践する為に)これ程の努力はしなくても良い筈だと決めてしまう権利を主張することなく。
そう決めてしまうことは「本当に意識的になる(目覚める)努力をしない権利」を主張することなのです。
意識的に成らないこと(気付かないこと)を求めることは、怠惰に成り騙され中毒することであり、(常にあなたが直面している唯一のものである)創造の奇跡を理解出来なくなることなのです。
だから{聖なる瞬間を実践し続ける努力を怠ってしまっては}あなたは神の現れや「聖なる瞬間を永遠に続ける理由」を見逃し続けてしまうのです。
以上

{「魂の暗い夜 ”dark night of the Soul”」‐  神秘主義者であった十字架のヨハネがその著書「暗夜」などに書き示した、神が訪れる前の救いが得られない苦悩状態。 訳注}

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テーマ : スピリチュアル
ジャンル : 心と身体

ACIM12-06-03

わたし達は過去数週間、ACIMに対するシンプルな理解を可能にする為に、信心や不信心に対して少し狭い(より限定された)定義を使ってきました。

不信心とは、あなた達各人が自分達自身の理解に依存している状態です。
不信心とは、「人生を理解しようとしてあなたが使っている定義や意味」をあなたが超えてみようとしていない状態のことです。
不信心とは、「記憶以上のもの」は何も自分の理解の中に(自分の状況内に)持ち込もうとしていない状態です。
不信心とは、「アイディアを操作し論理を使って否定し得ない結論を導き、信心を全く使わなくても済む結果/状況を引き出す自分の能力」に対する自分の自信以上のものは何もあなたの理解の中に(自分の状況内に)持ち込もうとしていない状態です。
不信心は完全に自己中心的な行為なのです。

それに対してコースが説いていることが信心なのです。
(コースなどが引き出す)光明が現れるまでの人生が不信心なのです。
信心はあなたが自分の意志を静まらせた時の状態なのです。信心はあなたが自分の最上の思考を静まらせた時起こるのです。
あなたが自分自身への依存を止めて「自分自身を超えているもの」に手(意識)を伸ばした時、それが聖なる瞬間(二つのステップ)の実践なのです。

あなたが不信心を(つまり自己中心的視点を)放棄して、そこを飛び越えて進み、「父よ、神よ、存在の全ての源よ、聖霊よ、ここの真実は何ですか? 私は真理を見たいのです。私は神が成っているもの/ことをより多く見たいのです。私は(わたし達が物理的世界/宇宙と定義している)ここにおいてより多くのリアリティを見たいのです。」と言った時、あなたは聖なる瞬間を持っているのです。
「もしここが物理的世界/宇宙以上のものであるなら、もしここが本当に私によって誤知覚されている天国であるなら、私は決意を持って真摯に『自分が想像した全て』を放棄しましょう。 私は『自分の創造』への確信を取り下げましょう。そして私は父に(私の正しいマインドにしか過ぎない聖霊に)届くことへ決意を捧げ、不信心の結果から逃れられるようにしましょう。盲目であった私が見えるように成り目覚め、もう夢に捕らわれられなくなるように。」と言った時、あなたは聖なる瞬間を持っているのです。

だから信心と不信心はハッキリと明確に違うのです。
「神の子に成っていること」と「父よ、あなたから離縁を得て全てが何か私自身で決めたいですと言っていること」はハッキリと違うのです。
それらは混同しよう無く、見間違えよう無く、白黒ハッキリと違う状態(違う心情)なのです。

もしあなたが本当に目覚めようと思っているなら、今まであなたが行なって来たやり方(今までのあなたの働き)を放棄して「何か新しいこと」を働かせ始める必要があるのです。
あなたが働かせ始めるのは、あなた達が今まで全く聞いたことのない完全に新しいものではありません。あなた達はこれ(神の働き)を働かせるよりも別の働き(神から分離した人間の働き)を使うことをより好んでいるので、だからあなた達はこれ(神の働き)を働かせることを怠ってきたのです。
そして不信心(つまりあなた達が普段日常的に全ての物事を見ているやり方)は「あなたが自らの正気に返ること」に対して全く貢献していないので、あなたは不信心を使うことを拒否しなくてはいけないのです。 何故なら、あなたが不信心を使うことによってあなたの信心が(そしてあなたの信心の働きが)阻止されてしまうから。

下記が前回最後に読んだ文章です。

[Truth is the ABSENCE of illusion, illusion the ABSENCE of truth.]1
[真理とは幻想の不在で、幻想とは真理の不在なのです。]
だからそれらは明確に違うのです。

[Both cannot BE together, nor perceived in the same place. To dedicate yourself to both is to set up a goal forever impossible to attain, for part of it is sought through the body, thought of as a means for seeking out reality through attack, while the other part would heal, and therefore calls upon the mind and NOT the body.]
[それらは一緒には存在出来ませんし、それらを一緒の場所で知覚することも不可能です。真理と幻想の両方にあなた自身を捧げることは、永遠に取得不可能なゴールを設定することです。何故なら片方は(幻想は)体を通して求められており(攻撃を通してリアリティを求める方法として考えられており)、もう片方は(真理は)癒やすのだから。だからこれは(真理は)体にではなくマインドに呼び掛けるのです。]

[. . . part of it is sought through the body, . .]
[...片方は(幻想は)体を通して求められており、...]
と書かれています。

この文章の意味/意図は「幻想はあなた達が定義している体を通して考えられている。」です。
神のマインド内に抱かれた聖なるアイディアではなく、「父が特定のアイデンティティとして表現しているアイディア」の神聖を現し照らし出しているものとしてではなく、物資的生物として定義されている「体」を通して幻想のゴールが考えられているのです。
これは全ての体と全ての形に当て嵌まることです。

[The inevitable compromise . . .]
[...避け難い妥協なのです。]

日常の中であなたのファンタジーや個人的目的の都合に合わせて真理と幻想を少しづつ混ぜ合わせて一緒にしようとすることは、
[The inevitable compromise between the two is the belief that the BODY must be healed, and not the mind. ]
[マインドではなく体が癒やされる必要があるという信念は、(幻想と真理の両方に対してあなた自身を捧げようとすることから来る)避け難い妥協なのです。]

「父よ、私はあなたを離縁したいです。父よ、私は全ての意味を自分で決めたいです。」と言ってあなたが決めた所にあなたのマインドが居る時、それは妥協であり矛盾なのです。
父から離縁を求めそれに対して決意を与えた(それはマインドによって行なわれたのです)結果としてあなた達は眠りについたのです。
すると急に、全創造があなたの存在の全ての意味ではなくなり(つまり創造の全てからあなたが分離し始め)、あなたは「無限な創造の一部である特定のあなたを示すもの(分離した体)」だけを自分として認識するように成ったのです。
それからどうなったのでしょうか?
すると「おお、私は体だ! こんなことは期待していなかった。 でもこの体に定義を与えて私が出来るだけ最上な者に成れるようにしよう。私のマインドを使って私自身と私の世界を定義した結果として、私が最高な存在に成れるようにしよう。」とあなた達は考えた訳です。

これは不信心の最たるものでした。
この結果として、あなたの真実との自己同一ではなく、体/幻想との自己同一が起こり始めたのです。
しかしあなたが(神の共同創造者に成るのではなく)自分の為に考え自分だけで物事を決めようとしている限りこれは避けようがないのです。
全ての中に神を見て認識する者(全ての中で神を体験することにより神を認める者)に成り、そうすることにより創造を確認し、神の創造を認識し実体験することにより神の共同創造者に成ること{があなたの本来の働き/役目なのです}。

あなたが幻想と真理を一緒に持とうとしている時、
[. . . The inevitable compromise is the belief that the BODY must be healed, and NOT the mind.]
[マインドではなく体が癒やされる必要があるという信念は、(幻想と真理の両方に対してあなた自身を捧げようとすることから来る)避け難い妥協なのです。]

しかし実際にはマインドの中で問題が発生しており、マインド内で問題が解決される必要があるのです。

[For this divided goal has given both an equal reality, which could be possible only if the mind is limited to the body, . .]
[この細分化されたゴールが体とマインド{真理と幻想}の両方に同等のリアリティを与えており、マインドが体に限定されている限りこれが可能に見えるのです。]

つまり「自分のマインドは自分の体の一部である頭蓋骨内の頭脳の中に入っている」とあなたが考え始めた時、真理と幻想の両方がリアルに思えるのです。
しかし(体や頭脳や指の爪など)全ての中には全創造が入っていて、そこで聖なるアイディアに成っており、それら(あなたの体を含めた全てのもの)は「創造と呼ばれている神の動き」として認識され確認されるべきなのです。

[For this divided goal has given both an equal reality, which could be possible only if the mind is limited to the body, and divided into little parts of seeming wholeness, but without connection. This will not harm the body, but it WILL keep the delusional thought system in the MIND.]
[この細分化されたゴールが体とマインド{真理と幻想}の両方に同等のリアリティを与えており、マインドが体に限定されている限りこれが可能に見えるのです。 そしてマインドが(全体を構成しているように見える、しかし繋がりのない)小さな複数の部分に切り分けられているように見えるのです。これが(上記のように考えることが)体を傷付ける訳ではありません。しかしこれにより妄想的思考システムが「マインドの中」に保たれるのです。]

不信心を実践している間あなた達は自分達が神の子であることを忘れているので、今まで長い間あなた達は自分達が神の子であることを忘れていたので、あなた達は体が自分なのだ(体が自分を成り立たせている)と考えているのです。
あなた達が何度生まれ変わって来たにしろ、(あなた達の輪廻の中の)それぞれの人生の基礎は体との自己同一だったのです。罪/病/死を体験する体(あなたの神聖の真実を示していない体)があなたの拠り所だったのです。
あなた達の体(あなた達が定義しており体験している体)は永遠を示していないのです。
それはあなた達が自分達で空想した意味を(自分達の源との繋がりが無い状態から立ち昇って来ている意味を)体に与えているからです。
その結果として、あなた達の体は破壊され得るように見えており、破壊的に見えており、死ぬように見えているのです。

しかし、
[This will not harm the body, . .]
[これが(上記のように考えることが)体を傷付ける訳ではありません。 ]

あなたは好きなだけ何回でも人生を生きることが出来ます。あなたは体が自分だと信じて防御的に振舞い、体を使って世界を攻撃して世界を(そしてあなたを)よりハッキリと定義することが出来ますが、そうすることによって体が損なわれる訳ではありません。
そのように振舞ったとしても、体の真実(本当の体)は傷付けられないのです。
本当の体は神のマインド内に保たれているアイディアで、「動き(全能の行動)」によって動かされ生かされているのです。
これが傷付けられることは在り得ないのです。

あなたが生まれ変わりを信じていた場合{次のように言ってみましょう}。
「病気や事故などによって体が死んだように見えたとしても、あなたがその後も存在し続けていること」が真の体の不滅性の証拠です。{そしてあなたはそこでも(生まれ変わりの後でも)何らかの体を持っているのです。}
こうしてあなたは存在し続け、その後も存在し続けるのです。
だから体は{真の体は}破壊されないのです。しかしあなたが体に対して与えている定義を放棄するまで、体の中に(自分の中に)あなたが神を見ることはないのです。
そうしている間(神を無視している間)あなたは体の中に永遠を見ないのです。 しかし{それが無知な状態であるにしても}人生が何度も繰り返されることの中にも永遠は反映されているのです。

だから、
[This will not harm the body, . .]
[これが体を傷付ける訳ではありません。]

幻想を真理と同等にしようとしたり、幻想と真理の両方を使ってそれらを混ぜ合わせたりすることが、
[. . . This will not harm the body, but it WILL keep the delusional thought system in the MIND.]
[これが(上記のように考えることが)体を傷付ける訳ではありません。しかしこれにより妄想的思考システムが「マインドの中」に保たれるのです。]
何故なら妄想/幻想が起こり得るのはマインド内だけだから。
幻想が起こっているのはマインド内だけなのです。
そして「人間的状況の解決は、体との自己同一(体認識)からマインドとの自己同一(マインド認識)へシフトすることである」とコースは教えようとしているのです。

[Here, then, is healing needed. And it is here that healing IS.]
[だからここで(マインドの中で)癒しが必要なのです。そしてここに(マインドの中に)癒やしが存在しているのです。]

マインド内以外には癒しは在り得ないのです。
[For God gave healing not APART from sickness, nor established remedy where sickness cannot be.]
[何故なら神は、病から遠く離れた所に癒やしを与えてはおらず、病が在り得ない所に救済手段を設定した訳でもないのだから。]

だから神は物理的宇宙の中に薬(解決)を与えては居ないのです。
神は体の中に特効薬を与えてはいないのです。神は間違えが起こっている所に薬(癒やし)を与えているのです。 無知が表明されている所に(それはマインドです)神は薬を与えているのです。

[They are TOGETHER, and when they are SEEN together, all attempts to keep both truth and illusion in the mind, where both MUST be, are recognized as dedication to ILLUSION; . .]
[病と癒やしは一緒に存在しており、それらが一緒に「見られた」時、「真理と幻想をマインドの中で一緒に保つ全ての試み」が幻想への献身として認識されるのです。 真理も幻想もマインド内に「在る」のです。{真理も幻想もマインド内の状態なのです。}]

上記が明確に理解されたなら、幻想とは間違った知覚で、真理が正しい知覚であることが解るのです。幻想とはリアリティに対する誤った知覚で、真理とはリアリティに対する正しい知覚なのです。
それらは両方とも知覚なので、正気のマインド内にそれら両方が同時に存在することは不可能です。「聖なるマインド」内にそれらが共存することは不可能です。
あなたがこれを明確に理解した時、人間的状況を聖なる状況内に組み込もうとしたり、神聖によって人間的状況を変化させながらそれを人間的状況のままに保とうとしたりするのは無意味なことだと解るのです。
そしてあなたがするべき事が明確に成るのです。
あなたはこれをマインド内でする必要があると理解するのです。
聖なる瞬間を使ってあなたはこれをするのです。
二つのステップ(あなたが自分のマインドを黙らせ、平和/静寂な意識の中に留まること)を使ってあなたはこれをするのです。

その平和の中であなたは求め「父よ、ここの真理は何ですか?」と訊ねるのです。
「聖霊よ、神の真っ直ぐな真実はここでは何なのですか?」と訊ねるのです。
そしてあなたは静寂を守り続けるのです。慣れ親しんでいる思考に戻るのではなく静寂を保持し続けるのです。
あなたは真理を知ること(真実があなたに示し知らされること)に献身を与え続けるのです。

そして私は常にここに居て「あなたが求め訊ねた時父が必ず答えるのだ」ということをあなたのマインドに言い続けているのです。
あなたの神聖(あなたの正しいマインドに過ぎない精霊)にあなたが手を伸ばした(意識を届けた)時聖霊が答えるのです。 何故なら聖霊(あなたの神聖)の統一性と合一が存在の性質(あなたの性質)を決めているものなのだから。
だからあなたは真実と幻想の白黒ハッキリした違いを認識する必要があり、真実を粘り強く選び続けなくてはいけないのです。

これが複雑に見えているのは、あなたが生命に対して下した自分の最上の判断/定義/意味に多大な投資(信念)を与えているからです。
それら(あなたの判断/定義/意味)は全て「あなたが自分一人でより完結したよりパーフェクトでより価値ある存在に成ろうとしていること」と関連しているのです。
そして不信心を手放すことは、あなた独自の統一性(実在性)を放棄することのように思えるので、だからこれが難しいのです。 だから不信心を手放すことは、あなたの安全に反することに見えるのです。

[They are TOGETHER, and when they are SEEN together, all attempts to keep both truth and illusion in the mind, where both MUST be, are recognized as dedication to ILLUSION; . .]
[病と癒やしは一緒に存在しており、それらが一緒に「見られた」時、「真理と幻想をマインドの中で一緒に保とうとする全ての試み」が幻想への献身として認識されるのです。 ]
この認識が「学習」なのです。これがあなたを新しい場所に置き、あなたに新しい基盤を与えるのです。

[. . . when they are SEEN together, all attempts to keep both truth and illusion in the mind, where they [both] MUST be, are recognized as dedication to ILLUSION; . .]
[それらが一緒に「見られた」時、「真理と幻想をマインドの中で一緒に保つ全ての試み」が幻想への献身として認識されるのです。 真理も幻想もマインド内に「在る」のです。]

しかし真理と幻想を一緒に保とうとすることは馬鹿げているのです。

[. . . and given up when brought to truth, and seen as totally unreconcilable with truth, in any respect or in any way.]
[そして幻想への献身が真理の下に持って来られた時、それ{幻想}は放棄され、それを真理と融合させることは(どの様な意味でも、どの様な方法でも)全く不可能だと理解されるのです。]

人間的状況と神聖の体験は統合不可能です。
それらは両立不可能で、それらを一緒にすることは出来ません。
正しい知覚の為に誤知覚は放棄されるのです。
一旦あなたが決意を持って真理を選択しその選択を保持し続けたなら、 正しい知覚と誤知覚が(その中のどちらかを選択出来るものとして)同時に存在しているようにはもう見えなくなるのです。

[Truth and illusion have NO connection.]
[真理と幻想には繋がりがありません。]

信心と不信心には繋がりが全くありません。
{父を離縁している孤児達が住んでいる}孤児院と天国には繋がりがありません。
幻想が放棄された時、二つに見えているものが一つに成るのです。
これが要点なのです。この為にあなた達は聖なる瞬間を実践しているのです。

[Truth and illusion have NO connection. This will remain forever true, however much you seek to connect them.]
[真理と幻想には繋がりがありません。あなたが幾らそれら(真理と幻想)を繋げようとしても、これ(真理と幻想が繋がっていないこと)は永遠に真実なのです。]

「オオ! 私は神に聖別されたい(神に選ばれたい)。私は神からインスピレーションを受け取りたい。神聖の体験で満たされて、同胞が助けられるように、カオスと闘争に溢れているように見えるこの世界を変容出来るように。」
しかしあなたがこう言っていたとしても、それは幻想と真理を一緒にしようとすることなのです。それは信心と不信心を混ぜ合わせようとすることなのです。

何故ならあなたは「争いに溢れている世界とは異なった世界(何故ならそれは神聖な世界なのだから)」に手(意識)を伸ばしながら、「争いに溢れている世界」を保ってそれを直そうとすることは出来ないのだから。
あなたは真理を掴み取りながら自分の足を孤児院の中により強く据え付けることは出来ないのです。「自分を不信心の中に(全てに対してあなたが与えた定義の場所に)据え付けたままにすること」は聖なる瞬間ではなく、それは目覚めではないのです。
何故なら「ここにある神のより多くは何なのだろう? ここに私が見ているもの/ことに対するより多くの神の現れは何なのだろう」とあなたが訊ねて、(神の真実を選ぶ)この選択を行い、啓示が起こるまでこの選択をし続ける決心をしているなら、あなたはもうあなたの定義や意味のレンズを通して世界を見なくなるのだから。

だからあなたは「愛を求める声」を認識することが出来、その声をどのようにして届けるべきか(その声をどのように聞くべきか)知っており(何故なら「愛を求める声」に対してどのように対処するべきか父があなたに照らし示すのだから)、だから修正が起こるのです。

しかしそれは古いものを直すことではなく、それは誤知覚の修正になるのです。
何故なら修正を必要としているのは、世界や体ではなく、誤知覚しているマインドなのだから。

そして全てを(全てのものの神聖の中にある父の知覚を通して)パーフェクトに見ることがマインドの生得権なのです。


{上記の文章は『自分の理解を元に世界を修正しようとするべきではなく、まず第一に(二つのステップ/聖なる瞬間を通して)あなたの誤知覚が修正されることが先で、あなたの誤知覚が修正されたなら世界に対するあなたの振舞いも変化し、それによってあなたの目の前に現れている世界も修正されるのだ。』と言おうとしているのだと思います。 訳注}

[Truth and illusion have NO connection. This will remain forever true, however much you seek to connect them. But illusions are ALWAYS connected, as is truth.]
[真理と幻想には繋がりがありません。あなたが幾らそれら(真理と幻想)を繋げようとしても、これ(真理と幻想が繋がっていないこと)は永遠に真実なのです。]
全ての真実は(他の真実と)繋がっており、全ての幻想は繋がっているのです。

[Each is united, a complete thought system, but totally disconnected to each other.]
[しかし幻想は常に他の幻想と繋がっており、真理もまた他の真理と繋がっているのです。真理も幻想もそれぞれ一つにまとまった完全な思考システムなのですが、真理と幻想はお互いとは繋がっていないのです。]

不信心と信心は完全に切り離されているのです。
孤児院と神の子の共同体は完全に切り離されているのです。
しかしそれらは「完全に分離した個別のもの」を現しているのではないのです。
それらは二つの完全に異なった知覚から来ているのです。
{ここでは「真理を見ている知覚と幻想を見ている知覚は繋がっておらず、重なってもいない」と言っているようです。訳注}


[Where there is no overlap, there separation must be complete.]
[重なり合いが無い所で、それらの分離は完全であるに違いないのです。]

リアリティと非リアリティは完全にお互いから隔離されており、幻想と真理はお互いから完全に隔離されているのです。
「孤児に成っていること」と「神の子に成っていること」はお互いから完全に離れているのです。
それらには繋がりがなく、それらは重なり合って存在してはいないのです。
{幻想と全く重なっていない真理が見えている}そこでマインドが{真実を}知覚し始めるのです。 信心を通して急に正しい知覚が起こり始めるのです。

[Where there is no overlap, there separation must be complete. And to perceive this is to recognize where separation IS, and where it must be healed.]
[重なり合いが無い所で、それらの分離は完全であるに違いないのです。これを知覚することは、何処に分離があるか認識することで、と同時に、何処でそれ{分離}を癒やすべきか認識することなのです。]
分離が起こっているのはマインドの中で、分離が癒やされるべき場所もマインド内なのです。 
{つまり神から分離した神の子のマインドの中には真理と幻想の両方が見えているけれども、マインド内に現れている幻想の知覚と真理の知覚には繋がりも重なり合いもない。マインド内の分離/幻想を癒やし、マインド内に真理しかない状態になれば、マインド内の知覚も真理だけになりリアリティだけが見られるように成る。と言うことなのでしょうか? 訳注}

[The result of an idea is never separate from its source. The IDEA of separation produced the body, . .]
[アイディアの結果は、その源から決して分離していないのです。分離のアイディアが体を「作って」おり...]

分離のアイディアが「あなた達が体に対して作り上げている定義群によって作られている体」を作っているのです。そしてそれらの定義群の中には全く神が含まれて居ないのです。

[The IDEA of separation produced the body, and remains connected to it, making it sick because of its identification with it.]
[分離のアイディアが体{あなた達が体に与えている定義}を「作って」おり、体と繋がり続けており、体との自己同一によって(自分を体と認識することによって)体を病気にしているのです。]

「源と繋がっていないように見えているもの」は、その源の性質/特質やリアリティを持っていないように見えるのです。
神が居なければ(神と繋がっていない時)あなたが体験しているものは体{分離した体}なのです。
その場合、罪/死/病が避けられないのです。
しかしこれが体{真の体}を損なう訳ではありません。

あなたが同じ事を何度も繰り返し続けており、死と等しい一日の終わりを迎え続けており、そして次の日がやって来て、それが前の日の繰り返しであったなら、それ以外のことが起こっていなかったなら、それなら今までとは何か違うことを試してみる正当な理由があなたにはあるのです。

「体に対するあなたのアイディア」と「体に対するあなたのアイディアの結果」の繋がりを隠すことにより、
[You think you are protecting the body by hiding this connection, for this concealment seems to keep your identification safe from the "attack" of truth.]
[「この繋がり(アイディアとその結果の繋がり)を隠すことにより自分は体を守っている」とあなたは考えています。]

「あなたの体が存在している(全ての形が表れている)そこの真理が何か?」訊ね聞き続けようとすることにあなたがより多くの決意を捧げる度に、答えを迎え入れることにより近づく度に、あなたはより居心地悪く感じるのです。 あなたはより怖れを感じるのです。 何故なら、そうすること(真理を訊ね聞くこと)は「自分一人で自分の力で独立的な存在に成ろうとする試み」をあなたが放棄しなくてはならないことを意味しているから。
そしてこれは(独立性を放棄することは)あなたの完全性/実体性を致死的に侵害することなのです。
勿論これは『「あなた誰であるべきか」そして「あなたが誰に成るべきか」に対してあなたが与えた定義』の完全性を致命的に侵害するという意味なのです。
これはあなたの完全性/実在性を(あるいは完全性を作り出す可能性を)あなたが失うことを意味しているので、だからこれはあなたが無に成ることを意味しているのです。
真理がこれを暴き示してしまうことをあなたは怖れているのです。信心がこれを暴き示してしまうとあなたは考えているのです。
しかしあなたがまだ理解していないのは、{真理が暴き示されたなら}あなたに覆いかぶされているもの(あなたの誤知覚/あなたの定義)が消えて、あなた自身が正気であることが発見されるということなのです。 神の永遠の共同創造者としてのマインドがクリアに示されるということなのです。

[If you but understood how much this strange concealment has hurt your mind, and how confused your own identification has become because of it! You do not see how great the devastation wrought by your faithlessness.]
[この奇妙な隠蔽がどれだけあなたのマインドを痛めているか理解したなら、その結果としてどれだけあなた自身のアイデンティティが混乱しているかあなたに理解出来たなら、(この隠蔽を続けることは不可能です)。あなたの不信心によってどれだけ大きな惨事が引き起こされているか、あなたは見ていません。]

あなたの不信心によって...つまりあなたの自己利益への執着やあなた自身のアイディアや考えへの執着によってどれだけの惨事が引き起こされているか、あなたはまだ理解していません。

[For faithlessness is an attack which seems to be justified by its RESULTS. For by withholding faith, you see what IS unworthy of it, and cannot look beyond the barrier to what is joined with you.]
[何故なら、不信心は(その「結果」によって正当化出来るように見えている)攻撃なのだから。何故なら、信心を差し控えることにより、あなたはそれ(あなたの信心)に値しないものだけを見ており、「あなたと繋がっているもの」が作っているバリア(防御壁)を超えて見ることが出来なくなっているのだから。]

それ(神を抜きにしたあなただけの考え=不信心)があなたを縛り、あなたを拘束し、あなたを無知に留めているのです。
それがあなたを無意識にさせており、あなたに誤知覚をさせているのです。
その結果としてあなたは「あなたが本当はどこに居るか/あなたが本当な何か/全てのものの性質が何か」解らなくなっているのです。

[To have faith is to heal.]
[信心を持つことが癒やすことです。]

信心を持つことが答えなのです。
信心を持つことがあなたの存在(あなたの在り方)を満たすことなのです。
これによってあなたが十全にフルに成り、あなたが統合され、「愛の現れとしてのあなた、父の現れとしてのあなた、欠乏や苦しみや羨望や憎しみや病や死を決して体験しない存在であるあなた」への気付き/意識がもたらされるのです。

[To have faith is to heal. It is the sign that you have accepted the Atonement for yourself, . .]
[信心を持つことが癒やすことです。それはあなたがアトーンメント(贖罪/神との和解)を自分自身の為に受け入れた証拠であり、...]

あなたが思考を使わずに静寂の中に押し進んで行った証拠が「あなたが信心を持っているということ」なのです。
より注意深くより頻繁に聞き続けることにより静寂の中に押し進んで行くのです。そして「知られていないもの」を抱擁し、「知られていないこと」に対してあなたの注意を与えることにより、不信心を使うよりも有効な行動があると信じられるように成るのです。
これがあなたのマインド内でより一層リアルに成った時、それが幻想を破ることに貢献するのです。

[ and would therefore share it. By faith, you offer the gift of freedom from the past, which YOU received.]
[...それ故にあなたはそれを分け与えようとするのです。信心によって、あなたは(あなた自身がすでに受け取っている)過去からの解放のギフトを捧げ与えるのです。]

あなたがこれをした時、あなたが過去から解放されるのです。 つまりあなたの不信心から、あなたの全ての思考/判断/裁きから、あなたが解放されるのです。全ての意味を定義しようとしたあなたの決め付けからあなたは解放されるのです。

[You do not use anything your brother has done before to condemn him NOW. You freely choose to overlook his errors, looking past all barriers between your self and his, and seeing them as one.]
[(信心を持っている時)あなたは、過去にあなたの兄弟が行なったことを(それがどの様なことであろうとも)使って今彼を非難(断罪)しようとはしないのです。あなたは自在に彼の間違いを無視して、あなた自身と彼の間の全バリアーを見越して、彼等を(あなたと彼を)「ひとつのもの」として見るのです。]

あなたが静寂の中に入って行った時、これが起こるのです。
あなたがフニャフニャなバブルを貫き破った時、これが起こるのです。

[And in that one you see your faith is fully justified. There IS no justification for faithlessness, but faith is ALWAYS justified.]
[(あなたと兄弟が一つに成った)この「ひとつのもの」の中であなたの信心が完全に正当であることをあなたは見るのです。 そこには不信心を正当に見せている理由は全く存在しておらず、信心が常に正当なのです。]

不信心とは「今まで一回もうまく働いたことが無いもの」なのです。
「不信心と繋がっている全てのもの」は何一つ実っていないのです。
私が言おうとしているのは、夢見ているあなた達の誰一人として、あなたの源から分離した存在に成ったことはないと云うことです。自分独自の権限を持った独立存在に成れた人は一人も居ないのです。

だから勇気を持って決意(コミットメント)してください。あなたに出来ること(二つのステップ)をすることによって、勇気を持って(例え何らかの抵抗があったとしても)「知らないもの/不可知」の中に突き進んでください。
あなたは本当に何時でも「父よ、ここの真理は何ですか?」と言えるのです。
この言葉はとてもシンプルなので、あなたは意図と共にこの言葉を言うことが出来るのです。
この言葉を言っている時、あなたは人間の父に訊ねているのではなく、あなたは人間的状況を超えて尋ね求めているのです。

『父よ、ここの真理は何ですか? 父よ、ここの真実は何ですか?
私はもう狂気の中に留まることを選び続けようとは思いません。「自分は明晰な状態にある」と考えて無知な状態に留まろうとはもう思いません。
聖霊よ、私の正しいマインド(正気)に過ぎないものよ、ここの真理は何ですか?
私はあなた(聖霊)を自分の中に歓迎します。私はあなたを迎え入れましょう。あなたが私の自由意志を侵害出来ないことは知っていますが、あなたが私の壁を破って入って来れるようあなたに出来る全てのことをしてください。
自己意識/自己主張(willfulness)の中に居る私の中にあなたが届くよう、あなたに出来る全てのことをしてください。そして自己意識/自己主張を放棄する為に私は自分に出来る全てのことをしましょう。』
これらは全て、シンプルに聞えること(単純化し過ぎた言いかた)ではなく、シンプルなのです。

終わり。

テーマ : スピリチュアル
ジャンル : 心と身体

ACIM03-02-06

2003年2月6日


[Cause and Effect]
[原因と結果]


[You may still complain about fear, but you nevertheless persist in making yourself fearful. ]

[あなたは怖れを訴えているかも知れませんが、それでもあなたは「自身を怖れさせること」に固執し、まだ「自身を怖れさせること」を続けているのです。]


ラジ:
自分は怖れていないとあなたが考えていたとしても、あなたは怖れているのです。
あなたが聖壇(あなたの中の神が居る所)に背を向けているなら、「父よ、私はこれを私だけで眺めてこれが何か自分だけで決めたいです」とあなたが言っているなら、あなたは「失楽園/失踪」と呼ばれていることを行なっているのです。
その時あなたは、あなた自身を父から分離してあなた一人の視点/視界を持とうとしているのです。

この意図が発せられた途端、あなたが独立した視点を持った途端、「あなた全体からあなたを分離しようとすることから来る不調和{何かが間違っているという感覚}」をあなたは感じるのです。 その時あなたは分離しようとすることからのフィードバックを受け取るのです。 そのフィードバックは「あなたの正気」なのです。
あなたの正気が「あなたは危険な領域に居ます。あなたは危険な領域に居ます。」あるいは「あなたは物事を不自然なやり方で見ています。不自然な振る舞いは愚かなことです。不自然に振舞うのは愚かです。」と言うのです。

それは警告で、「あなたは自分にとって自然な状態から踏み出しています。だからこれはあなたの正気ではありません。」という気付きなのです。 この気付き/認識をあなたは不快と感じるのです。
あなたはこれを不快に感じて当然なのです。 これ(分離)が安楽に感じられたのなら、それはあなたが完全に狂気に陥っていることを意味しています。
あなたがあなたの存在の源(あなたの在り方の源)に逆らって行動し、そうすることに成功していて、そうしながら安楽であったなら、それはあなたが自分を自分の源から実際に切り離したということなるのですが、それは不可能なのです。

だからあなたが独立的地点から全てを眺め出した時、このように基本的な居心地悪さ(不快感)が現れるのです。 それは分離していなかった時には感じていなかった新しい体験、不自然な体験なのです。

しかしこの居心地悪い体験(不自然なエネルギー)を、自然な状態に帰ることを即しているものと認めるのではなく、それを克服するべきものとして見始めてしまうこともあるのです。
(ナチュラルではない)このフィーリングを上手く克服することが必要なのだと考え始めてしまうことも可能なのです。
するとあなたはこのフィーリングを攻撃し始めます。
そしてこのフィーリングが自分の家に戻る為のサインであることを認識せずに(あなたが自分の住家に現在居ないことを示す警戒音であり、住家に戻りことから気をそらされてしまわないよう気をつけることが重要だと認識せずに)、このフィーリングを克服しようと試みるのです。

つまり不快感/痛み/居心地悪さが「住家/故郷」に帰る必要を訴え掛けているものであることを忘れないようにするべきなのです。
{神からの}独立行動は怖れと傷付き易さ(脆さのフィーリング)をもたらすのです。
だからあなた達が目覚めるまで、あなた達が故郷/住家に戻るまで{あなたが聖壇に向き合うまで}、あなた達の全ての体験には怖れが含まれているのです。

先週わたし達は「あなたが外国に行ってそこであなたがマイノリティーであったなら、その国の人達があなたとは異なるものの見方をしていたなら、あなたは居心地悪く感じることでしょう。何故ならあなたはそれらの人達とは相互合意されている定義群を共有していないのだから。」と言いました。
このことからも解るように、あなたが安楽を感じている時、その安楽の幾分かは「あなたと周りの人達との間に合意されている定義群が存在していること」から来ているのです。
その結果(あなた達が定義群に合意している結果)としてあなたはリラックスすることが出来、防御する必要を感じないのです。

しかしそれは怖れが無いからではなく、あなた達が怖れの代用品である「相互合意されている定義群」を使っているからなのです。「相互合意されている定義群」にあなた達が従って、お互いを怖がらせないようにしているからです。 解りますか?

しかしそれは本当の平和ではないのです。それは怖れが無い体験でもないのです。
あなたはこれを理解するべきなのです。


だから、

[You may still complain about fear, but you nevertheless persist in making yourself fearful.]

[あなたは怖れを訴えているかも知れませんが、それでもあなたは「自身を怖れさせること」に固執し、まだ「自身を怖れさせること」を続けているのです。]


質問者:
これは以前にあなた(ラジ)が言った成就と自己満足の違いを示しているのでしょう?
相互合意されている定義群が{もたらすものが}自己満足で、聖壇に向き合い目覚めている者と繋がった時{もたらされるもの}が成就なのですね?

ラジ:その通りです。


[I have already indicated that you cannot ask me to release you from fear. I know it does not exist, but you do not. If I intervened between your thoughts and their results, I would be tampering with a basic law of cause and effect; the most fundamental law there is. I would hardly help you if I depreciated the power of your own thinking.]

[「あなたを怖れから解放することを私に頼むことは出来ない」と私は既に言っています。怖れが存在していないことを私{イエス}は知っていますが、あなたは知っていません。もし私があなたの思考とその結果の間に分け入ったなら、その時私は(一番基本的法則である)原因と結果の原則を侵害したことになります。あなたの自身の思考の力を私が軽減したとしても、あなたの助けには成りません。]


ラジ:
「あなたの思考があなたがリアリティを体験する方法を完全に統治していること(あなたの思考に従ってあなたがリアリティを体験していること)」を発見するチャンスを誰かがあなたから奪ったなら、あなたは無力にされてしまい、『「現在あなたがバイアス(偏見)と共にリアリティ/天国を体験に対していること」に対してあなたが持っている権威』を認識することが出来なくなってしまします。

すると(あなたのバイアス/偏見に対するあなたの権威を認めていない状況では、あなたの歪んだ知覚に対するあなたの影響力をあなたが自分で認められていない状況では)あなたは風に吹かれている葉っぱのようで、風の流れによってあちらに吹かれこちらに吹かれて{自分とは関係の無いものに影響されて}いるようで、{あなたは自分を無力に感じ}だからあなたは憂鬱に成ってしまうのです。

するとあなたはより一層の機能不全(不具合/不健康/無能力)を体験し、あなたはより臆病に成ってしまうのです。

だからあなたは、あなたの思考とあなたの体験が密接に関連していることを発見しなくてはいけないのです。あなたは自分が権威を持っていること(自分の思考を通して自分の体験に良い影響を与えることが出来ること)を体験する必要があるのです。

それは何故でしょう?
先ず第一に(例えそれがエゴの力であっても)あなたの力が感じられるように{あなたに決定権が与えられていることが理解出来るように}。
あなたはあなたの力を発見し、それにより「より建設的に自分のマインドを使ってより調和した体験(より健全な体験)が出来ること」を体現しそれを自分に証明する必要があるのです。

このことを通して(偶然や運命に左右されているのではなく)全てに対して自分で与えている意味/思考/アイディア/定義/だけに自分が影響{悪影響}されていることをあなたは学ぶのです。

あなたがこれを学んだ時、あなたの思考とあなたの体験の関係が絶対的であることを学んだ時、あなたは決して無罪な被害者(自己決定権を持っていない者)では在り得ないと気付いた時、その時あなたは神を見て下記のように言えるように成るのです。

[もし神が無限の知性であるならば、そして神のマインドが存在の原因(生きとし生ける全てを存在させている原因)であるならば、今私には「神の思考が創造の全てを統治している可能性」を認めることが出来ます。そして神は不可分(分離不可能)で切り分けられておらず、だから神の思考の中には矛盾/闘争があり得ません。だから創造の中には闘争/対立/矛盾はあり得ません。そして聖壇に向き直り神に譲ることが必要なのだと私は学んだので、そして神は気まぐれではないと私は知っているので、神の気まぐれ故に自分が不利に置かれてしまうと心配することなく、私は神に譲ることが出来ます。私は神の怒りを心配する必要はありません。{何故なら神は慈悲深いのだから。}私の思考と私の体験の絶対的繋がりを私は体験しているので、「不可分で分離していない場所から来ている神」は絶対的に安全な臨在(神の現れ)なのだと私は知っています。]

反対に、あなたが自分の思考と体験の絶対的繋がりを見ていないなら、あなたは生命/人生そのもの対して危険を感じてしまうのです。その場合あなたは神に対して完全に自分を譲ることは出来ないのです。何故なら、あなたにとって神とは「あなたが生命を見ているやり方(人生に対するあなたの見方)」を反映しているのだから。だから(あなたが自分の思考と体験の関係を明確に理解し体験していないなら)あなたは神を気まぐれと見てしまい、神が分離している、時には神があなたに対して怒っており時にはあなたを愛している、と見てしまうのです。その場合あなたには神に譲る勇気が持てないのです。

さて以前にも指摘した通り、あなた達が独立的に物事を見ることを選択したとしても、あなた達が全てに対する自分達の定義群を作ったとしても、あなた達が神の子に成り続けること(神の子として在り続けること)を止めることは出来ないのです。
あなたは「あなたが居るそこに神が成っているもの」にあなたが成ることを止めることは出来ないのです。

もちろん、あなたは知性を持っており、あなたは思考を持つことが出来ます。
そして基本的にあなたの思考には力と権威があるのです。

しかし神に譲ってあなたの権威と力を放棄して、あなたの源と繋がり直し、あなたの思考が神から来るようにするまで、そうして神から権威を得るまで(独立的でない権威を得るまで)、あなたが自分の力と権威を見つけることは出来ないのです。

あなたの考える能力(キャパシティー)は、アイディアを体験するあなたの能力は、聖なる能力なのです。

(あなた一人の見方を得ようとして)「父の視点とあなたの繋がりを消す為にあなたが選んだ視点」からあなたがこの聖なる能力(思考能力)を体験している時、あなたの聖なる権威は歪んでしまうのです。
そしてあなたが聖壇に背を向けている時(あなたが自分の源を無視している時)あなたは自動的に怖れの状態入ってしまうので、あなたの全てのアイディアや思考が怖れから発生するようになり、それは常に自己防御的行為に成るのです。

しかしこれはあなたに対する有罪宣言ではないのです。
これは(聖壇に背を向けることは)神の子全員が持っている能力なのです。
あなた達にはその能力(祭壇に背を向ける可能性)が与えられているのだから、{例え長い間祭壇に背を向け続けていたとしても}あなた達は罰に値する何か悪い事をしている訳ではないのです。

例えば、あなたは沸騰したお湯が出ている蛇口の下に手を置くことが出来ます。
そうすることはあまり理に適ったことではありませんが、それであなたが死ぬことは無いでしょう。それは痛いかもしれません、とても酷い妬けどをするかもしれません。{しかしそれは有罪宣言に値する行為ではないのです。}

父の視点から独立して天国を眺めようと試みているので、あなた達は怖れの状態にあるのです。しかしそれは罪悪ではないのです。だからこれは罰に値することでは無いのです。
そして今現在もあなた達は別に懲罰されてなどいないのです。

しかしあなた達は天国での不自然な在り方を選んでいるのです。だからその在り方は居心地が悪いのです。 
居心地が悪いからといって、自分が有罪にされていると感じるのは止めなさい。
気落ちすることも止めて、あなたがしていることを理解しなさい。それ(神から分離しようとすること)を止めるという知的な選択が出来るように。

質問者:私はこれをより実際的な状況に当て嵌めて考えたいのです。
神の動きが解るように学ぶことをわたし達は(少なくとも私は)していると思います。
動きがどこに行こうとしているか私に見える時に動きに譲ることを私は学んでいます。
動きに譲った方が(動きに逆らうよりも)遥かに易しいのだから。 何故なら私が抵抗していても抵抗していなくとも動きはそれが行く所に行くのだから。

ラジ:
しかし神の動きがどこに向かって動いているかあなたに解っていない場合でも、神の動きに譲ることは価値あることなのです。このことは指摘しておきましょう。

質問者:そう出来るようになることが最終的な目的なのでしょう。
わたし達は普段自分達がどこに行こうとしている知っていると思っています。しかし多くの場合譲ることは(わたし達が考えていたのとは)全く違う所にわたし達を導きます。
何故なら、もし神の動きがどこに行こうとしているかわたし達に見えたなら、わたし達はそれ(神の動き)に抵抗しようとさえしないでしょう。自分達がそれに抵抗出来るとも考えないことでしょう。
しかし時には譲ることが苦痛に満ちているのです。

ラジ:いいえ、{神の動きである創造の}流れに逆らうことが苦痛に満ちているのです。

質問者: しかし、例えばあなたの受難(イエスの磔刑)に関して言えば、最終的には神の動きは明確だったわけです。

そしてあなたの母であるメアリー(マリア)やあなたの弟子のメアリー(マリア)やジョン(ヨハネ)は、何も出来ることが無かったので(彼等が磔刑に対して介入することは出来なかったので)彼等は譲っていたわけです。そして十字架を見上げあなたを見て、あなたが彼等から引き千切られていくのを感じました。
その時点での神の動きを信頼することが彼等には出来たのかもしれません。
しかし彼等にも痛みや涙を止めることは出来なかったのではないでしょうか?

これは過激な例かもしれません。しかしわたし達は自分達の生活の中でこのようなこと{自分達の体が自分達の源だと考えること}に慣れ親しんでいるのです。だから変化の動きは時にはとても痛みに満ちているように見えます。

ラジ:ハイ、その通りです。

質問者:それに対する薬(答え/癒やし)が今ある筈なのです。

ラジ:その通りです。
痛みの理由は、慣れ親しんだものにしがみ付きたいという願いです。
(良きものが変化しているのに)その現存している形(今まで良きものが現れていた形)をそのまま保ち続けたいという願いが痛みの原因なのです。
だから私は「痛み/不具合は変化に逆らうことから来ているのです」と言っているのです。

そして答えは「状況の中に残っている良きことに対する定義」を手放すことなのです。
「あなた達が神から分離したままでも安楽を感じられるよう長い間保って来た定義」を手放すのです。それ以上の開示/変化は在り得ないとあなた達が考え始めてしまっている状態を手放すのです。

「聖壇に向き合うこと」こそそのような時(今までの安定/安楽を手放すよう求められている時)に必要とされている答え/癒やしなのです。

「父よ、ここでは何が起こっているのですか?」
「私のガイドよ、ここで起こっているリアリティは何なのですか?」
「予測されていなかった(私があまり歓迎していない)動きが起こっていることに対して私はどうしたら適切に振舞えるのでしょう?」
「どのようにしてこの動きと調和すればよいのでしょう?」

あなたはそう言って答えを期待するべきなのです。

それは何故でしょう?
それは「神が成っている啓示の動き」の真ん中に(真っ最中に)あなたが居るべきだからです。
それは何故でしょう?
それはあなたが(神の栄光を称える)という自分の役割を満たし、その働きを全開にしたいからです。

エゴが見る限りは人間的状況にしか見えない「そこ」に起こっている神の意志の現れ{を見たいとあなたが望んだから、神の栄光が見えるのです}。

しかしあなたには自分が慣れ親しんできたことにしがみ付こうとしてしまう傾向があります。 何故ならそれ(あなたが慣れ親しんできたこと)が失われることは獲得ではなく損失として認識されてしまうから。


「この山を登ろう。」
「でも、私はここの谷に残りたいの。」
「いいや、わたし達は山頂に行くんだ。」
「でもここは空気がしっとりして緑が豊かで、それからここには川だってあって。楽しいじゃない。それに山の頂に昇るのは難しいわ。」
「でもそうする価値がある。」
「うーん、解らないわ。お願いだから今日ではなく明日にしましょう。」

しかしあなたが(聖霊に)譲ってハイと言い、山の頂に行ったなら(聖霊の導きに従ったなら)、そこからの視点はより広大であることが解るのです。
そしてあなたは自分が今まで考えていたよりも多く持っていることを知るのです。
何故なら山頂に上ったその時でも谷(あなたが持っていたもの)はまだあなたに与えられ続けており、それでいてより多くがそこに(あなたのマインドの認識の中に)付け加えられたのだから。

あなた達は失うことを怖れています。しかし現在持っているもの以上を得る為には、今持っている僅かなものをあなたが手放す必要があるのです。 
現在あなたは「自分が所有していると考えているもの/世界に対する自分の認識」を物凄く強く握り締めているので、あなたはそれ以外のもの(現在のあなたの知覚/認識以外のもの)は何も抱擁出来ないでいるのです。

そこにより多くが与えられる(受け取れる)ように、あなたはそれ(世界に対する知覚/認識)を手放す必要があるのです。

質問者: アーメン


別の質問者:
少し前にあなたが言いましたね。 私も解り始めたと思います。
私が一人で考えている状態、それをACIMのこのセクションでは原因と結果と呼んでいるのです。

そして数週間前にあなたは「{エゴの思考の}結果は例えば高血圧であって、思考の結果として拳銃やナイフが出現する訳ではない。 ものを出現させることは創造なのだから。」と言いました。
数年前にあなたは「原因とイベント」というフレーズを使っています。
「原因とイベント」が父の思考なのですね。

ラジ: 神の動きが原因とイベント(出来事)なのです。
質問者: そして私の孤立した思考が、私を恐れに満ちて弱々しく頑なにしているのです。
ラジ: ハイ。
質問者: そこでは創造が見えていないのです。

ラジ:するとそこに現れているのは原因の猿マネ(模そう)とイベントの猿マネ(模そう)で、イベントの猿マネが「結果」と呼ばれているのです。

質問者: おお、10年と掛からずにこれが明確に解りました。ありがとう。
ラジ: どういたしまして。これはあなたにとって向上でしょう。
質問者: 勿論。


別の質問者:
相互合意されている定義群(mutually agreed upon definitions)に関して今晩少し話しましたね。 この意味は重大なので私はこれに関して色々考察しています。

わたし達が他者と話して何らかの主題に関して合意している時、わたし達は本当に自分達が何に対して合意しているのか気付いているでしょうか? そして私の疑問は...

ラジ: 時には、口を全く開かず聞いている(見ている)だけの時にもあなた達が何に合意しているのか{あなた達は良く理解していません}。

質問者:そうです。
わたし達は父と繋がって(わたし達の目の前にある全ての物や事や人に関して)父の視点/視界を訊ねるべきだと私は知っています。

ラジ:何故あなたはそれをするのでしょうか?
あなたの行動(振舞い)が、怖れからではなく愛から行なわれるように、あなたはそれ(父に訊ね聞くこと)をするのです。

質問者:  ええ、そうです。
私の質問は、全てを硬く重くしてしまっている定義群に関してなのです。
これらの定義とは何なのですか? わたし達が作った合意とは何なのですか?
私がこれに関して考えようとすると圧倒されてしまいます。
これが意味することは、全てはわたし達が学んできた噓に基づいているということに成りますね?

ラジ:そうです。 しかしそれらは(全く根も葉もない噓ではなく、根拠の全く無い空想ではなく)真理に対する噓なのです。

あなたが噓に自分の意識を集中させて、噓を研究して、噓がどれだけ大きなものか見たなら、それはあなたを圧倒してしまうでしょう。

しかし必要なのは噓を研究/検査することではないのです。
丁度、自分達の人生がどれだけ怖れに支配されているか(そして今までどうしてそれに気付いて来なかったか)調べることが必要ではないように。
そのようなことは大した違いをもたらしません。

要点は「あなたの注意が父のもとに戻され、目の前のあらゆることの意味を知ろうとして父に訊ねるまで、あなたは怖れの中に居る」ということなのです。

そしてあなたには解決策が与えられているのです。
「父に向き返り、真理が何か父に訊ね、本当の平和を体験することが出来る」とあなたは知っているのです。
するとあなたは神が成っている流れの中でどの様にして適切に振舞い喋るべきか知るのです。 こうしてあなたは夢の中に変革(目覚め)をもたらす仲介者に成ることが出来るのです。

質問者。 なるほど、あなたの言いたいことが解りました。だからわたし達はアジェンダ(自分の計画)を持たずに毎日朝を迎えなくてはいけないのですね。

ラジ: その通りです。
これは何もしなく良いという意味ではありません。
「食べたり、出勤したり、その他のことをしない」という意味ではなく、「あなたは怖れの性癖から行動しようとしなくなる」という意味なのです。

あらゆる行動がどのようにリアリティと関係しているか常に気付いていられるように、『「あなたが食べ働き全ての行動をしているそこ」に在る天国の中で本当は行なわれていること』とあなたの行動がどのように関わっているか気付いていられるように、あなたは「目覚めた者」とつながり続けようと求めるようになるのです。

質問者: 私が質問しているのは「自分はこうするだろうと考えた計画」に私はもうこだわらなく成って来ているからです。
つまり“軽い”計画は今でのあるのですが、「鍛錬」という言葉{に表されている自分の計画へのこだわり}はもう適用されないようです。


ラジ:ハイ

父のリード(導き)に任せた時あなたは、あなたが居るべき所に行き、あなたがするべきことをするのです。

そしてこれは予測不可能で、こう起こるべきだとあなたのエゴが考えた通りには物事が起こらないことが「命/人生が楽しく成っている場所にあなたが居ること」を意味しているのです。

あなたのエゴはこれに反論しようとするでしょう。
「それでは自分は無責任に成っている。自分は失敗してしまう。これを続けたなら惨敗すると。」とあなたのエゴは言うでしょう。

質問者: そうです。すると私は波紋を広げてしまい。皆が私のことを嫌うのです。

ラジ: こうも言えるでしょう。 あなたはもはや「その場に形成されている相互合意されている定義群」に従って行動してはいないので、あなたは「システム」に従わなくなっているのです。

質問者: ルール(社会規範)にとらわれなくなるのです。
ラジ:ハイ。
質問者:オーケー。 私は...に関して理解したい...

ラジ: そして、それが起こっているのではないのです{規定されたルールが物事を発生させているのではないのです}。

質問者: 相互合意されている定義群に関してより詳しく知りたいのです。相互合意されている定義群と言われても何のことか良く解りません。これは何を意味しているのですか?  今の瞬間の中でだけそれを見ることが出来るのかもしれませんが。

ラジ: それは...、それは...わたし達がコースを読み始めてから何度も相互合意されている定義群に関して話して来ました。 わたし達が続けて行くに従って「相互合意されている定義群」が何なのより明確にして行きましょう。

今晩あなた達はお互いに対して比較的居心地良く安全に感じています。
これもまた相互合意されている定義群の結果なのです。
あなた達は一定の行動規範(行動ルール)を持っています。この場においてあなた達は(自分達の職場の行動規範とは異なった)一定の行動規範を持っているのです。あなた達は一定の振舞い方や言葉の使い方に合意しているのです。

あなた達はこの集まりの中で話せること(しかし他の集まりの中では話せないこと)を共有しています。だからあなた達は行動規範と呼べるものを持っているのです。
そして初めて会った人に対する行動規範と知り合いに会っている時の行動規範には違いがあるのです。あなたは自分が対面している人に合わせて振舞いを変えるのです。
だからあなた達は行動規範がどの様なものか理解しています。
相互合意されている定義群をこのように説明することも可能です。

質問者: 解りました。ありがとう。


ラジ:だからあなた達は、自分達が属している各グループに付属している「相互合意されている定義群」を各種持っているのです。


あなたが、どれでもいいから何か一つ「相互合意されている定義群」を真っ直ぐ見てみたなら、それは何一つ「本物/真摯」ではないのです。 
相互合意されている定義群が本物(真摯)でないのは、それらが状況に左右されて変ってしまうからです。

相互合意されている定義群は状況毎に取り替えられるのです。

しかしあなたがどのグループの中に居ようとも(あなたがどの人達と対面していたとしても)本物はそれそのものであり続けるのです。

だから毎日あなた達は状況に合わせて適切な絵(相互合意に合致した絵)を提示して生きています。

そしてそれは、既に存在している相互合意されている定義群故に、上手く働くのです。
あなた達は「これらの相互合意されている定義群がどのようなものか」討議して決めた訳ではないかもしれません。 それらは試行錯誤によって自然と決まったのです。

何が受け入れられ何が受け入れられないかが、失敗と成功を通して学ばれ、それが共有されて来たのです。
だからあなた達はこうして暗黙の内に「相互合意されている定義群(ここでは常識/社会規範/グループ内のルール)」を互いに教え合って来たのです。

そしてコースの要点は、わたしが今まで話して来たことの要点は、どうしたら本物の場所(真摯な場所)にあなた達が到達出来るか示すことなのです。
あなた達の源と繋がり直すことから来る「本物の場所/状態」に行き、あなた達の源に抵抗せずに振舞えるように成ることが要点なのです。
「あなたが居るそこで神が成っている全て」によって構成されている「あなたの存在のエッセンス」に逆らわずに行動出来るように成ることが要点なのです。


[I would hardly help you if I depreciated the power of your own thinking. This would be in direct opposition to the purpose of this course. It is much more helpful to remind you that you do not guard your thoughts carefully enough. You may feel that at this point it would take a miracle to enable you to do this, which is perfectly true. You are not used to miracle-minded thinking, but you can be trained to think that way. All miracle workers need that kind of training.]

[あなた自身の思考の力を私が軽減したとしても、それはあなたを全く助けません。そのようなことはこのコースの目的に反するものです。「あなたは自分の思考を注意深く守っていない」と指摘する方がより有益なのです。「この時点でそう出来るように成る為には奇跡が必要だ」とあなたは感じるかもしれませんが、それは全く真実なのです。あなたは「奇跡的マインド思考(奇跡志向の思考)」にはまだ馴れていません。しかしそのように考えるようあなたをトレーニングすることが出来るのです。全てのミラクルワーカー(奇跡の為に奉仕する人)はそのようなトレーニングを必要としています。]


[All miracle workers need that kind of training.]
[全てのミラクルワーカーはそのようなトレーニングを必要としています。]

ラジ: そのようなトレーニングをしたからと云って、あなたが自分個人の主権の上に奇跡(癒やし)を行なえるようになる訳ではありません。

あなたがもうこれ以上怖れに脅かされなく成るように、あなたはこのようなトレーニングを必要としているのです。 あなたが存在の動き内に潜在的に在る喜びの中でリラックスしそれを浴びることが出来るように、あなたはこのようなトレーニングを必要としているのです。 

あなた自身の中に怖れを発生させることをあなたが止めた時、あなたは「父よ、ここでは本当は何が起こっているのですか? 何が真実か私に見えるように助けて下さい。私が適切に動き振舞うことが出来るように。」と言うのです。

あなたがこれをしている時、あなたはあなたの独立を放棄しており、動きの流れの中に戻っているのです。
こうしてあなたはミラクルワーカーに成るのです。
つまりあなたは変化の仲介者(エージェント)に成るのです。

そうするとあなたの存在はもはや夢の継続を他の人達に対してサポートしなくなるのです。
夢(幻想)へのサポートが軽減されるのです。

そしてあなたの存在が、他者を祝福し癒やすダイナミックなエネルギーの焦点に成るのです。
これは言ってみれば副作用なのです。 このことを私は指摘したいのです。

ミラクル・ワーカーに成ることが要点なのではないのです。
どの様にしたらあなたの存在の源と対立せずに居られるか学び、「あなたが何か/あなたが誰か」よりクリアに示す体験の中にあなたが帰って行き、あなたが怖れをもとに行動しなく成り、あなたが怖れを発生させなく成ることが要点なのです。

するとあなたはもう夢の継続をサポートしなくなるので、あなたは自然と瞬間的に抵抗無く夢を解除する者に成るのです。

それはあなたが夢を解除しようと決めたからではなく、夢への自分の参加を引き抜き、父と繋がって父の意志があなたを通して表現され、それ(父の意志があなたを通して表現されること)が変容を引き起こすからなのです。

だからあなたが目覚めの中を進んで行ったなら、あなたはミラクル・ワーカーに成るのです。
しかしあなたは自分でそのような者(ミラクル・ワーカー)に成ろうとするのでは無いのです。


質問者: では「奇跡的マインドの思考」とは問題に面した時聖壇に向き合って「父よ、あなたはこれをどう見ていますか?」と訊ね聞くことなのですか?
私は奇跡を愛(思考ではなく愛のフィーリング)と考えていました。

ラジ:
奇跡は瞬間的な知覚のシフトです。

「奇跡的マインドの思考」とは、聖壇に向き合う理由をあなたに与えた全ての思考(その思考がどのようなものであれ)なのです。 
あなたが聖壇に向き合い聖壇の言うことを聞いたなら(あなたが聖壇の手足に成ったなら)、あなたは愛されている体験をして、あなたはその愛を自分の中だけに閉じ込めておくことは出来なく成ります。だからあなたの中から愛が溢れ出し、それが全ての人達を祝福するのです。

そしてそのプロセスにおいて、あなたは怖れの声を自分の教師にすることを手放しているので、あなたは「怖れから切り離す事が出来ない知覚」も手放しているのです。
そして新しい知覚があなたに与えられるのです。
だからそこには瞬間的知覚のシフトが在るのです。
これがあなたの癒しであり、この癒やしが(この愛が)あなたから溢れ出って全ての人達を祝福するのです。

質問者:
あなたは数週間前に「あなた達の動機がだらしのないものでも構わない」と言いました。
「理屈に合わない理由からあなた達がこれ(聖霊/神に訊ね聞くこと)をしてもOKだ。」とあなたは言いました。
「自分勝手に見える理由からこれをしても良い」とあなたは言ったように私は受け取りました。

ラジ:
聖壇に向き合うことをあなたにさせた理由が何であろうとも、どのような不明瞭な思考を理由にあなたが聖壇に向き合おうとしたにしろ、(その思考があなたを真摯に聖壇に向き合わせたのなら)それが奇跡的マインド思考なのです。あなたが何らかの理由や思考故に聖壇に向き合ったから、あなたが奇跡を受け取り易くなる(奇跡が体験し易くなる)のです。


質問者: つまりどのような性癖から(どのような不明確な思考から)訊ね聞くことへ決意を与えてたとしても結果(答え)が得られるのですね。

ラジ:その通りです。

質問者:目覚まし時計を(目覚まし時計が周期的に鳴るようにしておいて、それが鳴ったことを)理由にしても良く、どのような理由からこれを行なっても良い訳です。


ラジ:その通りです。
新年の誓いを訊ね聞く理由にしたって良いのです。
それは聖霊に訊ね聞く理由としては少し馬鹿げて見えますが、そう考えることで上手く行くなら、それで良いのです。

ここで一つ明確にして置きましょう。
何が馬鹿げていない理由(訊ね聞く正当な理由)なのでしょうか?

あなた自身と十分繋がり、現状では自分はまだそれ程ハッピーではないと知り、あるいは自分が何かを怖れている(痛みを感じている)と知り、そのような体験をし続けたくはなくと思い至り、別の方法(より良きやり方)があると気付くこと、が正当な理由です。

苦しみを求めず、それ故にあなた達の最上の定義や思考を超えて{神/聖霊に}意識を届けて「ヘルプ」と言うのです。

あるいは自分の兄弟が苦しんでいる(悲しんでいる/痛みを感じている)ことを認識し、兄弟を気遣って、父に意識を届け兄弟の為に「助けて下さい。」と言うのです。

これらはその瞬間のあなた自身との真摯な(本物の)繋がりから(そして苦しみ以外のことを体験していることが自分の生得権だという永遠の気付きから)来ているものなので、そしてこれらはあなた達の最上の思考の外にある源に対して助けを求めることなので、これらが良き理由なのです。
この違いが解りますか?

質問者: 良き理由は瞬間的/自発的なのです。

ラジ: しかし新年の誓いを理由にこれ(訊ね聞くこと)をしたとしても、それでも結果は得られるのです。

[I cannot let you leave your mind unguarded, or you will not be able to help me. Miracle working entails a full realization of the power of thought in order to avoid miscreation. Otherwise a miracle will be necessary to set the mind itself straight, a circular process that would not foster the time collapse for which the miracle was intended.]

[私は、あなたがあなたのマインドを守らないまま(思考を律しない状態)にさせておくことは出来ません。 そのような状態では私はあなたを助けることが出来ないから。奇跡の為に働くには、誤創造を避ける為に思考の力を十分に理解する必要があるのです。でなければマインドそのものを正しくする為に奇跡が必要に成ります{しかしマインドが正しくなければ奇跡は体験出来ません}。この悪循環状態では奇跡の目的である時間の短縮(時間の崩壊)が起こらないのです。]

ラジ:
そして奇跡の目的は、あなたのマインドを真っ直ぐに正すことではなく、知覚のシフトを起こさせることなのです。

比喩的に言うなら、奇跡の目的はあなたの車を正しい方向に向けることで、車のエンジンを修理しようとすることが奇跡の目的ではないのです。

奇跡の目的は、あなたのマインドを真っ直ぐにすることではなく、あなたのマインド内に間違った知覚が入って来ないようにすることなのです。
私が言おうとしていることが解りますか?

自分のマインドを真っ直ぐにすることが奇跡の目的だと考えていたのでは{自分のマインドを正すことだけに集中していたのでは}、奇跡的マインドまで(奇跡の出現まで)辿り着けないのです。

[The miracle worker must have genuine respect for true cause and effect as a necessary condition for the miracle to occur. Both miracles and fear come from thoughts. If you are not free to choose one, you would also not be free to choose the other. By choosing the miracle you have rejected fear, if only temporarily. You have been fearful of everyone and everything. You are afraid of God, of me and of yourself. You have misperceived or miscreated us, and believe in what you have made. You would not have done this if you were not afraid of your own thoughts. The fearful must miscreate, because they misperceive creation.]

[奇跡が起こる必要条件として、ミラクル・ワーカーは本当の原因と結果に対して敬意を払う必要があります。奇跡も怖れも思考から来るものです。 それらのいずれかを選ぶ自由をあなたが持っていなかったなら、あなたはどちらも選ぶことは出来ません。 奇跡を選ぶことにより、あなたは(例え一時的にしろ)怖れを退けたのです。あなた達は全ての人と全ての物事を怖れて来ました。あなたは神を怖れ、私を恐れ、あなた自身を怖れています。あなたはわたし達を誤知覚し誤創造して来ており、あなた自身が作ったもの{あなたが作った誤創造}を信じているのです。あなたが自分の思考を怖れていなかったなら、あなたはこれ(誤創造)をしなかったでしょう。 「怖れている者」は創造を誤知覚している故に、誤創造せずには居られないのです。]


ラジ:興味深いですね。

[The fearful must miscreate, because they misperceive creation.]
[「怖れている者」は創造を誤知覚している故に、誤創造せずには居られないのです。]

ラジ:創造を誤知覚している時、あなたの振る舞いは無知から起こっています。だからその時あなたの行動はあなたの無知を反映しているのです。

ここで私が強調したいのは、誤創造とは(新たな創造ではなく)創造そのものを変化させること{変えて見せること}なのです。
例えば高血圧とか胃潰瘍などが正常な状態からの変化であるように、誤創造とはリアルなものを変えることなのです。

[The fearful must miscreate, because they misperceive creation. When you miscreate you are in pain. The cause and effect principle now becomes a real expediter, though only temporarily. Actually, “Cause” is a term properly belonging to God, and His “Effect” is His Son. This entails a set of Cause and Effect relationships totally different from those you introduce into miscreation. The fundamental conflict in this world, then, is between creation and miscreation.]

[「怖れている者」は創造を誤知覚している故に誤創造せずには居られないのです。あなたが誤創造している時、あなたは痛みの中に居るのです。そのような時には原因と結果の原則が解決を促進させるものとして働くのですが、それは一時的なものに留まります。 本当は「原因」とは神に相応しい言葉で、神の「効果」が神の子なのです。ここにあなたが誤創造の中に導入しているものとは全く違う「原因と結果の関係」があるのです。だからこの世界の根源的対立/闘争/摩擦は創造と誤創造の間に在るのです。]


ラジ: 『創造と「創造に対する変更(干渉)=誤創造」の間にこの世界の根源的摩擦がある』と言っても良いでしょう。


[All fear is implicit in the second, and all love in the first. The conflict is therefore one between love and fear.]
[全ての恐れは第二(誤創造)の中に明確に現れており、全ての愛は第一(創造)の中に現れています。だからこの闘争/対立/摩擦は愛と怖れの間で起こっているのです。]

ラジ:その通り。だから目覚めのプロセスはあなた達がもう一度愛することを学び直すことなのです。
そしてあなた達は怖れの中に居り常に自己防御を行なっているので、どのようにして愛するべきか知らないのです。

だからどのようにすれば愛することが出来るか学ぶ為に、あなた達は今まで自分達が全てに意味を与える為に使ってきたものから(つまり相互合意されている定義群から)顔を背ける{注意/意識を引き抜く}必要があるのです。

そして今まであなたの注意は相互合意されている定義群に与えられて来たので、聖壇に向き合っている時あなたは全く馴染みのない方向に注意を与えているように感じてしまうのです。

しかし聖壇に向き合っている時あなたは住家(故郷)に意識を向けており、あなたのマインドの中で閃きの光を燈す基礎を築いているのです。 あなたのマインドが全体/完全/十全であって、あなたのマインドが十全以外のものに成ったことは決して無いのですが、あなたの独立行動(独立的立ち振る舞い)があなたの注意を「あなたのマインド中のとても狭い帯域」に閉じ込めてしまっているのです。

だからこれは全て愛に関することなのです。そして愛を説明することは出来ません。
愛の体験が待っている方向にあなたを向けさせることが出来るだけなのです。
そして私は常にあなた達全員をその方向に向けさせようとしているのです。
そして前回、愛の体験にはお互いとの関わりが必要だと私は明確に述べたのです。

これには関わり合いが必要なのです。何かに対して「それは修正を必要としている/していない」と調べない{聖霊に訊ねない}ことによって『安全』な所に留まることが出来ると考えるのではなく、関わり合いが必要なのです。
ニュートラルな非参加者/観望者に成るのではなく{聖霊/神に訊ね聞いた上で}何らかの態度を表明することが必要なのですが、これは必ずしも楽しい楽なことではありません。

「(自分達が安全であることを感じ安心出来るように)同じ相互合意を共有しているグループ」を捜しそれに参加することによりあなた達が得ている安楽が「愛が何であるか」あなたに照らし示すことは決してありません。

相互合意された定義群に基づくグループに所属することからあなたが得ている安楽が「愛が何であるか」をあなたに照らし示したことは一度もないので、{そのような安楽にあなたが甘んじている限り}自分の票を投げ入れることによって(聖霊から得た啓示を言い表すことによって)愛の現われに成れる境地にあなたはまだ到達していないのです。

しかしあなた達は曖昧な態度を捨てて意思表示をする居心地悪い状況に直面し続けているのです。

私が何を言おうとしているか解りますか?
あなたの安楽ゾーンは(あなたのエゴ/分離感覚が安楽に感じる場所は)洞察とインスピレーションが起こる場所ではないのです。
そのような場所は神の表現が行なわれていない「安全地帯」なのです。

するとあなた達は「愛が何か」に対する無知の中に留まってしまい、あなたが愛されているその愛のフィーリング(何故なら「あなた」の中心と周縁の全てが神の全体なのだから)を無視してしまいます。 それでは定義としてではなく行為として「愛に成る体験」や「あなたの役目を満たして、その働きが何か発見することにより新しくなる体験」が得られないのです。

質問者:前回その概念が私を困惑させました。
何故なら私は票を投げ入れること(意見を表明すること)をとても頻繫にしており、それは裁きから来ているからです。しかし私が事態を見ている時、それに対してどうしたら良いか(どうしたらよい結果が得られるのか)私には本当は解らないのです。

ラジ:前回私があなたの票を投げ入れなさいと言った時それは...という意味ではなかったのです。 うーん、何と言ったら良いか。

質問者: 「あなた個人の意見/会見を述べなさいと言っていた訳ではない」ということですか?

ラジ: あなたの言う通りです。

質問者:だから聖壇に向き返らなくてはいけない、そして質問をする訳ですね。

ラジ: その通りです。

質問者: そして答えを得て、その答えを得たまま口を閉ざしていてはいけないと言うことなのですね。
ラジ:そうです。

質問者: つまり参加するわけです。

ラジ: そうです。あなたは行動するのです。 あなたは自分の振る舞いの中で答えを体現するのです。

質問者:つまりただ座って「おお、これは素晴らしい考えだ!」と言うだけではないのですね?

ラジ: その通りです。
あなたの首を掛けなくてはいけないのです。少なくともエゴはそう考えます。

その時あなたは自分の魂(ソール)によって真摯に成ろうとしているので、エゴはそれを自分の首を掛けること(自分にとって危険なこと)と見るのです。

しかし{あなたが聖霊と繋がって行動したなら}あなたと相手が繋がり、自分が考えていることをあなたが伝えている時、あなたの感じていることはもう隠されていなくなるのです。

その時あなたの行動と思考が一つに成り、それがあなたの中で分離不能な体験(絶対的に一つに繋がっている体験)に成るのです。

不可分性(分離不可能な状態)は力のように感じられるのです。そしてそれがノーマル(当たり前)に感じられるのです。

あなたは統合されていることを感じ、だからあなたは自分の統合性(誠実)を感じるのです。
あなたが感じる力は、何かに対する力ではなく、それは純粋性なのです。ピュアな状態が力のように感じられるのです。

もしあなたがコップの中に水を満たし、そこから全ての不純物を抜き取ったなら、その時その水の中には小さな隙間が無くなっているのです。その時水は(不純物に邪魔されずに)水自身を完璧に触ることが出来ているのです。

不純物が取り除かれた時、水の中の全ての分子が水の他の部分と完全に繋がっているのです。
これが合一(Unity、一体性)です。これが誠実(Integrity、統合性)です。
そしてこの中で(この状況で)怖れを体験することは不可能なのです。

これが強さのように感じられるのです。だからこれが力に感じられるのです。
これが「愛が何であるかという体験」の一部なのです。

聖壇に向き合った結果としてあなたに知らされたことが行動に移された時、その時あなたの叡智とあなたの意志が統合/全体/不可分性を表現する為に繋がったのです。

その時あなたの意志は「父があなたに示したことを行なう召使」に成っているのです。

だからその時あなたの意志は(分離した視点を持っているエゴではなく)父の召使に成ったのです。

そしてそこには自己主張/自己固執の体験(自分の意志を通そうとすること)が存在していないのです。

それは神の現れ(光臨)に成っている体験で、あなたの全ての真実がその行動の中に体現されている全く真なる存在の現れなのです。

私があなたにこのフィーリングを与えることは出来ません。
私があなたに与えられるのはこのフィーリングに対するヒントだけです。
あなたがこの体験を自分に与えられるように、私はあなたにインスピレーションを与えることしか出来ないのです。

そしてあなたがこの体験を自分に与えられるように成るには、あなたは関わり合い関係を持つ必要があるのです。 
あなた自身や兄弟姉妹の痛みや苦しみを継続させるのではなく、それを否定する(癒やす)必要があるのです。


質問者:
「水の全てが水そのものを触っている状態」とは「無限のグラウンディング」の意味なのですね。

ラジ: その通りです。

質問者: それは自動的に瞬間的に起こるのです。
しかしそれが浸透するまでには(それが認識されるまでには)時間が掛かるのです。
瞬間的に起こったことが浸透するまでには十年の時間が掛かったりするのです。

ラジ: ええ。 しかし何故それは3ヶ月掛かると言えないのでしょうか?
何故10年と決めてしまうのですか?
認識が浸透するまで3秒しか掛からないことも可能でしょう。

それが瞬間的に起こらなかったとしてもあなたが罪悪感を感じる必要は無いでしょう。
しかしあなたがそれを認識出来るように成るまでにとても長い時間が掛かるに違いないと決め付けてしまうのは止しなさい。
何故ならあなたは思考の力を使って「真理が理解され体験されるまでに十年掛かるようにしてしまうこと」も可能なのだから。 あなたは思考の力を使ってそのようは約束/宣言をしてしまうことも可能なのだから。


質問者: 私が言いたかったのは「重要なのは時間の長さではなく真摯さである」ということです。

ラジ:ええ。

質問者:そして時間は、好奇心を発揮した時から成就(神の意図が満たされること)が起こるまでの期間は、より短く成って来ているのです。

ラジ:ハイ。 しかし理解して欲しいのは...一旦テキストに戻りましょう。


[Otherwise a miracle will be necessary to set the mind itself straight, a circular process that would not foster the time collapse for which the miracle was intended. ]
[でなければマインドそのものを正しくする為に奇跡が必要に成ります{しかしマインドが正しくなければ奇跡は体験出来ません}。この悪循環状態では、奇跡の目的である時間の短縮(時間の崩壊)が起こらないのです。]


ラジ:
今わたし達は目覚めのプロセスについて話しているのです。
次のイメージを使って話してみましょう。

あなたは天国の中の芝生の上に寝転がっていて、人間的存在の夢を夢見ているのです。
だからあなたは既にここ(天国/故郷/住家)に居るのです。
あなたは既にキリストと呼ばれている「神の現れが十全に体現されているもの」なのです。
しかしあなたの夢は「存在が時間の中でゆっくりと起こっている」と言うのです。

瞬間的な癒しが起こり得る唯一の理由は、一つの瞬間に現れていた物理的確証が一瞬後に新しい物理的確証で置き換えられる理由は、時間の短縮(時の崩壊)が起こるからです。

そして物理的確証(物理的状況/身体的状況)が変化する唯一の理由は、怪我が幻想だったからです。 怪我は「本来は全く一瞬も歪むことが不可能なもの」に対する歪んだ体験をあなたにもたらした特定の権威思考の結果だったのです。間違った権威思考をあなたは自分に対して事実として示したのです。

あなたはあなたの体験内でリアリティを変えることにより歪めているのです。
そしてあなたは「この歪みの体験を超えるのに10年は掛かる。」などと言うのです。
あなたはそう言って、あなたがそう言うことにより、時間の短縮(時間の崩壊)をより難しくしてしまうのです。


質問者:
そしてポールの手が痛んでいてあなた(ラジ)に助けを求めていた時にこの反対(時間の延長)が起こっていたのですね。
一週間後にポールは焦れ出してしまい短気を起こしたのですが、あなたは癒やしを求め続けるようポールに即したのです。
そして三ヵ月後にポールの手の痛みが無くなったのです。
そしてポールは短気(焦れ出してしまうこと)は癒やしではないと理解したのです。

ラジ:その通りです。
質問者: これも同じレッスンの一つだったのですね。
ラジ:その通りです。

質問者:そして私が学んでいたことは...それは...

ラジ: あなたの学習(浸透/癒やし)を遅らせていたのも、あなたの自己主張(willfulness、自分の意志を通そうとすること)だったのです。

質問者: その通り。そして私は「瞬間的な目覚めは私がそれを許可した速度でやって来ること」を今学んでいます。

そして目覚めが来るまでに一週間掛かったとしても数ヶ月掛かったとしても、それが来てくれたことに私は感謝するのです。

ラジ:正しいです。

コース(ACIM)は理解が難しいものとして意図されてはいないのです。
コースの各ページはあなたが発見を体験し、誤認識が崩壊し消えて行き、(今まで誤知覚/誤解が表れていた)そこに神が存在している光景を真っ直ぐ見られるように成ることをサポートしているのです。
それは未来に保たれていることではなく、今起こるのです。

今目覚めることに対するあなた達の興味と好奇心をサポート出来るように、これらのことが分かち合われることが可能な世の中に成って来ているのです。


以上


Chapter 2 -- Cause and Effect (Part 1)  Section VII: First Edition page 27 Second Edition page 31 



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この文章はサンローズが書き取ってくれた英文を元にしています。彼女へギフトされる場合下記がアドレスです。
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この英文はJanisさんが編集/校正してくれました。 残念ながら私はJanisさんの連絡先は存じ上げません。

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Author:翻訳 岡上
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