ACIM2012-06-17
はじめに言葉があった。そして言葉は神と共にあった。そして言葉が神であった。(ヨハネ 1:1)
[In the beginning was the Word and the word was with God and the Word was God.]
そして神である言葉が動き、その動きが創造と呼ばれています。
この動きをあなたがどのように見ていたとしても、あなたがガラスを通して創造を暗く見ていたとしても、創造だけが実存している唯一の動きなのです。
創造は上手く機能する(良く働く)ように作られており、失敗するように作られてはいないのです。
「実存する唯一の存在である神」によって作られているので、創造の中には間違いはなく、だからあなたが創造をどのように見ていたにしろ、創造は欠点のないパーフェクトな変えようのないもので、常に源/神を反映しているのです。
何故私は「創造は上手く機能するように作られている。」と言っているのでしょうか?
それは、あなた達が世界や宇宙を見ている時、世界や宇宙が本当はパーフェクトな創造であることを忘れてしまっていることが多いからです。
創造そのものに対するあなたの無知故に、天国に対する一時的記憶喪失故に、あなた達は「創造がどのようなものか」自分達で決定しており、その結果としてあなた達は創造をパーフェクトなものとしては見ていないのです。
だからあなた達は創造を「何か間違ったもの/何か怖ろしいもの/何か危険なもの」として見ているのです。
だからあなた達は「いいえ、それ(あなた達が知覚/体験している不具合)は創造の真理(世界の真理)ではありません」と言い聞かされる必要があるのです。
あなた達が毎日日常的に体験している世界こそが創造(神の動き)なのです。これが真理なのです。
神が世界の中に居る訳ではなく、あなた達が体験している世界が源の全ての側面を反映しているのです。今生きている神の動きを示しているのです。
あなた達が創造/世界の神聖そのものをそれそのままに体験していた時もあったのです。
前にも言った通り、あなたは(もう一人の神の子である)相棒/パートナーと繋がって「わたし達は全てに対する定義を自分達で決めたい。全てに対して別の意味(神の定義とは異なる定義)を与えたい」と一緒に言ったのです。
あなた達はそう言って父から離縁することを決めたのです。
これが起こった時点であなた達のマインドは全体/十全だったので、「神のマインドがあなた(達)として体現されている」ものがあなた達のマインドなので、あなた達が行なったこの選択は偉大な自信と共に行なわれたのです。
分離の決意を行なった時点では、あなた達はまだ全知と遍在の体験に満ちていたのです。
だからこの行為(あなた達が父を離縁すること)は怖れを伴わずに行なわれたのです。
あなた達二人だけで相互合意に基づいて全てに対する意味を作り上げ始めた途端、あなた達が予測していなかった事が起こりました。
あなた達の源(原動力)から外れることにより、あなた達は無限の視界/視点を失い、あなた達は「体と呼ばれているもの」と自己同一しているように見え始めたのです。 しかし本来「あなた達の体と呼ばれているもの」は無限な創造の一部で、あなた達の可視性と可触性(見える様子と触れる様子)を示しているものなのです。
すると体の形の卑小さ(体が創造の他の部分から分離しており、創造と体の繋がりが感じられなく成っていること)故に、二つのものが見え出したのです。それは怖れと罪悪です。
分離以降(あなた達が父を離縁することを決めてから)は、怖れと罪悪があなた達の全思考を色付けし出したのです。あなた達二人の全ての思考が怖れと罪悪で彩られ始めたのです。
だから(あなた達が体験出来る唯一のものである)天国全体が怖れと罪悪のレンズを通して体験されるようになったのです。
次のことを明瞭にしたいので、私は上記を今一度説明しているのです。
あなた達が無限の視界/視点を放棄した時、あなた達が「父よ、(あなたのやり方ではなく)私のやり方でやりたいです。」と言った時、あなた達は偉大な自信と共に(怖れなくして)これを行なったのです。
だからそれ(分離)は簡単に行なうことが出来たのです。
しかし一旦この行為(分離)を行なった後は、全ての体験が怖れと罪悪で色付けされるようになり、故郷に帰ろうとするあなた達の試みも怖れと罪悪で色付けされることになったのです。
だからあなた達は自分達の中に「故郷に帰る力、父と繋がり直す自信」を見つけることが出来ないでいるのです。
これは懲罰ではなく、分離した視点がもたらす特質なのです。
これは双眼鏡を逆さまに覗くようものです。
全てが小さく見ているのはあなたが何か間違ったことをしているからではなく、それはレンズを逆さまに覗き込んだ当然の結果なのです。
だから故郷に戻ることへ決意を与えてそれを体験をしようとした時、それが難しく見えても驚かないでください。
二つのステップ/聖なる瞬間の実践は(あなた達が見ている全てと行なっている全てを色付けしている)怖れと罪悪に逆らうことなのです。
自分の最善の判断の外に助けを求めることを決意して「父よ、聖霊よ、ここの真理は何ですか? 私が見ていることを超えている真実は何なのですか?」と言った時、それは「怖れと罪悪が統治しているマインドの枠組み/孤児的マインド」に対して異を唱える行為なのです。
これが理解出来たなら、二つのステップ/聖なる瞬間の為に必要な努力を行なうことをあなたは厭わなくなるでしょう。
これは(怖れと罪悪は)あなたが去ろうとしている場所/アリーナに内在しているものなので、あなたが行こうとしている方向に動いた時にもこれが(怖れと罪悪が)現れるのですが、あなたはこれを(怖れと罪悪を)無効化することが出来るのです。
「私が直面しているこの怖れと罪悪の体験は(私を動けなくさせているこの怖れと罪悪は)有効でなく、現実でもない。」とあなたは理解することが出来るのです。
「これ(怖れと罪悪の体験)は私が故郷に帰ろうとする時必然的に現れるもので、これ(怖れと罪悪)は「私は神から離れており、神から分離している。私は神聖ではない。私は自然から偶然に出来たもので、私は物理的な宇宙に属している。」という私の信念の一部なのだ。」と言うことがあなたには出来るのです。
次のことを考えてみてください。「何故あなたは常に聖なる瞬間を実践し続けていないのでしょうか?」
先週あなたは何回も聖なる瞬間を実践していたかもしれませんが、何故聖なる瞬間に留まり続けること{そして全ての振舞いと言動を聖なる瞬間の中から行なうこと}をあなたはしていないのでしょうか?
何故あなたは聖なる瞬間を常に行なっている状態まで行けないのでしょうか?
「聖なる瞬間があなたの正しいマインドへ帰る道なのだ。聖なる瞬間の結果が父の視点の流入になるのだ。聖なる瞬間を実践したなら、神の神聖なるマインドがあなたを満たし、それが全てに対するあなたの意識に成るのだ。」と言われているのに、何故あなたは聖なる瞬間を保ち続けることが出来ていないのでしょうか?
何故上記があなたにとって十分な理由に成っていないのでしょう。
それはあなたが自分を守らなければならないと考えているからです。
「物理的なリアルな危険」あるいは「マインド上の危険」に対してあなた自身を防御する必要があるとあなたは考えているのです。
そして「これが自分に安全を提供して来たとあなたが考えているもの」を気楽に放棄することは(例え、それが目覚めて父のマインドを受け取る為であっても)出来ないのです。
自己コントロールを放棄することに近づくと、あなたの怖れが大きくなるのです。
ここで私が自己コントロールと言っているのは、あなたのマインドの判断と行動によってあなたが全てをコントロールしている状態のことです。
あなたが自己コントロールを本当に放棄する寸前に(それはあなたが自分の甲冑を捨てることを意味しているので)怖れが現れるのです。何故ならその時あなたは「これが自分に安全を与えて来たとあなたが考えているもの(自己コントロール)」を放棄しようとしているのだから。
つまり「父からの離縁を決断したこと」が怖れの原因なのですが、この決断そのものは怖れなく行なうことが出来たのです。
そして故郷に戻った時(父の御許に戻った時)それが喜びをもたらすのですが、これを遂行している過程において喜びはまだもたらされておらず、コミットメント(決意)も簡単には得られないのです。
これは殆どメカニカルな(自動的な)ものなのです。
だからこれには(自己コントロールを放棄しょうとすることからくる怖れには)本当の感情は与えられていないのです。
これは自動的に(メカニカルに)発生している怖れなのです。
「故郷に帰ろうとする----> 怖れと罪悪が感じられる-----> 自分を守らなくては!!聖なる瞬間を実践している暇はない、事態に注意を与えて自分を守らなくてはならない。」{という連鎖反応が自動的に起こっているのです。}
「他の孤児達の前で自分が愚か者に見えないようにしなくては。孤独になる為に(怖れと罪悪が私の体験を統治している場所に留まる為に)相互合意の中で私が繋がっている者達と調和していなくてはいけない。」{と考えてしまうわけです。}
しかしこの知覚/認識は間違っており、「聖なる瞬間を実践することによりあなた自身を守ることを放棄することは出来ない」という示唆は間違っているのです。
あなたはこれを理解するべきなのです。あなたはこれを覚えておくべきなのです。
あなたがあなた自身に依存している時、あなたは不信心を実践しているのです。
「これが自分だとあなたが考えている自己」をあなたが放棄して、自己を超えて「あなたには未知に感じられるもの」に手を伸ばし、存在の源(あなたの父)に対して「ここの真理は何ですか?」と訊ねた時、あなたは信心を実践しているのです。
信心{が必要とされている}という言葉の中には自信の欠如が示唆されており、それが何か力強いものや何かを起こす力には成り得ないように感じられるかもしれません。
しかしこの知覚/認識は違っており、この結論は間違っており、この論理は間違っており、それらに逆らう必要があるのです。
さてア・コース・イン・ミラクルズ{のテキスト}そのものはあなたが実践出来るものではないかもしれません。
しかしア・コース・イン・ミラクルズはアイディアの表現で、それは特定の行為へあなたを導くものなのです。
その行為とは聖なる瞬間を実践することです。
ACIMの実践は(どのような振舞いを隣人がしていたとしても)隣人に対して愛を表明することだとあなた達は考えており、そうわたし達も言って来ました。
あなたの隣人が自分自身を(あるいはあなたのことを)どのように認識していたとしても、隣人の認識が正しくても間違っていても、隣人の振舞いや考えに動ずることなく、どのようにして隣人を愛したら良いか学ぶことがACIMの実践だとあなた達は考えています。
しかしあなたがそれ(愛)によって動かされていなかったなら、修正は起こりませんね。違いますか?
あなたが愛によって動かされていなかったなら、その場合あなたは無知の表明に協力しており、表明されている無知に対して異を唱えない(愚かな行為を否定しない)ことによって無知を認識/肯定してしまっているのです。
それでは駄目なのです。
呼び掛け(愛を呼び求める声)は愛を求めています。
しかしあなたが「愛として」振舞おうとしても駄目なのです。
つまり「愛に対する自分の概念を満たそうと振舞っていてはダメだ」と私は言いたいのです。
愛に対するあなたの最善の判断/アイディアを表明しようとしては駄目なのです。
もしあなたが愛を表明しようと求めているなら、あなたは(愛に対する自分の考えは手放して)聖なる瞬間を実践しなくてはいけないのです。
あなたは二つのステップを行うべきなのです。
「兄弟に対する愛に溢れた評価や思考を表明したり話したりする」のではなく、あなたはマインドを黙らせ、自分の中の静寂に入って行くべきなのです。
あなたは「愛を呼び求める声(愛には見えない行為)」を言い立てている兄弟とやり取りすることは止めて、「父よ、聖霊よ、私はここで何を知るべきですか。ここで私は何を言うべきなのですか? ここの真理は何ですか? この状況に対して私は自分の最善の判断には依存しません。私はあなたから真理を聞きたいです。それが聞えるまで私は聞き続けましょう。」と言うべきなのです。
あなたが真理を聞いた時、それが愛なのです。それが必要とされている愛の表明なのです。
真理を聞いたあなたの行為が、真理を聞いた結果として現れるあなたの行為が、あなたの兄弟の「愛を呼び求める声(愛に見えない行為)」を「愛を受け取ること」に変容させるのです。
もし「愛への呼び掛け/愛を呼び求める声」が兄弟からあなたへ向けて発せられている意地悪/脅し/身勝手だったらどうでしょう?
するとあなたは「おお、聖なる瞬間を行なっている暇は無い。私自身を守らなくては。」と言い出してしまうのです。
しかしそのような必要は本当は無いのです。
あなたがどのような状況に置かれていても、不信心を実践することは正しくありません。
何故なら、不信心を使うことは{良い}変化を全くもたらさないから。
不信心は何も明瞭にはしないのです。
不信心は、偉大な調和の動きをもたらさず、成就ももたらさないのです。
自分の身を守ることは、あなたを孤児院に留めてしまうだけなのです。
自分の身を守ることは、あなたを不信心のアリーナに留めてしまうだけなのです。
これはシンプルでかつ絶対なのです。
このことを考慮してみたなら、聖なる瞬間を続ける度量があなたの中で育つでしょう。
あなたは悪魔のように見える天使と格闘するべきなのです。
あなたは修正の必要を見据えるべきなのです。
愛には全く見えない「愛を呼び求める声」をあなたは真正面から見るべきなのです。
それを見続けながら「父よ、ここの真理は何ですか?」と言うべきなのです。
「愛を呼び求める声(醜さ)が表明されている『ここ』の神聖なる事実は何なのですか? 父よ!」と言うのです。
「兄弟を気遣うこと」とは「兄弟が無法に/脅威に/醜く見えている所で神の真実を見ようと努力すること」なのです。
何故なら上手く機能するように神は創造を作ったのだから。
そして創造は良く働いているのです。
創造は上手く働くように作られており、創造とはそのようなものなのだから。
(愛を呼び求める声を上げているように見えている)神の本当の子供は(彼を「上手く働くように作られている神の子供」ではなく見せている)その狂気の振舞いにも関わらず神の本当の子供で在り続けており、だから「愛を呼び求める声を上げている彼」は実際には神のデザイン通り上手く働いているのです。
兄弟を愛することとは、彼と共にそこに立って彼を見捨てず、(彼が神の子では無いという不正な言い立てから自由に成るために)真理を知りたいと願うあなたの気持ちを捨てずに真理を求め続けることなのです。
兄弟を愛しているあなたは「この兄弟は神の子ではなく、この兄弟の為に聖なる瞬間を続けるには値しない」という不正な言い立てを聞き入れないのです。「彼はあなたの正気には値しない。彼のリアリティに対する揺るがぬ知覚認識があなたに得られるまで努力するには値しない。」という言い立てを無視するのです。
するとあなたはリアリティに対する知覚認識を得て、それを自動的に瞬間的に兄弟に知らせるのです。
ACIMは「あなたを人間的状況内に留めて、そこであなたを慰める為の思考やアイディア」ではないのです。
この本の中に書いてある言葉を逐一記憶する必要などなく。 それらの言葉はあなたを聖なる瞬間の実践へ駆り立てる為のものなのです。 何故なら聖なる瞬間が故郷への道なのだから。 そしてあなたは自分の正気を取り戻すべきで、その為に必要な全てのことをすべきなのだから。
故郷に帰る為には「怖れと罪悪によって統治されている領域」を通り抜ける必要が絶対にあるので、故郷へ帰る為の行動は怖れと罪悪を引き起こさずにはおれないのです。
しかし怖れや罪悪は幻想でしかなく、あなたに投げ掛けられている懲罰や脅威の可能性は実際には実現しないのです。
物事を判断し評価しそれに基づいて自分を懲罰に縛り付けている「あなた自身」の外には裁判官など居ないのです。
父から離縁する為に一緒に繋がった「あなたとあなたのパートナー」だけが「自分達の注意を特定の幻想に与えてその幻想を信じ込む特定の方法」を得ているのです。
しかし(あなたが自分のプライベートなコントロールを放棄しようとした時に立ち昇って来る)怖れと罪悪は幻想で、あなたが聖なる瞬間を実践し続けたなら、怖れと罪悪の幻想があなたを押し留めたり罰したりすることは不可能なのです。
これらのことを怖れる必要があなたにあるでしょうか?
{怖れるのではなく}あなたは好奇心を発揮するべきなのです。
勇気を持って楽しんでみなさい。目覚める体験をする勇気を持ちなさい。
あなたは目覚めることを怖れる必要はないのです。
怖れと罪悪がその鎌首を持ち上げ始めたなら、「おととい来やがれ!」と言い渡しなさい。
怖れと罪悪を尊重することが止められるように、(怖れと罪悪をからかい、それらが無意味で馬鹿げており、それらがあなたの注意には値しないことを示す)何らかの言葉を(あなたの好きな言葉を何でも)発しなさい。
そしてあなたの注意を聖なる瞬間に戻すのです。
「(グズついている子供や怒り狂っている大人が『愛を呼び求める声』を怒鳴り立てている)ここの真理が何か?神がここでどのように存在しているか?知りたいと求める熱望」にあなたの注意を取り戻すのです。
『愛を呼び求める声』は全く愛には見えないでしょう。 それは喧嘩/論争の始まりか、永遠の反目の始まりのように見えることでしょう。
あなたの生活がどれだけ心地良かったとしても、あなたが目覚めていなかったなら、あなたは調和と平和と成就の本当の意味をまだ知らないのです。
調和/平和/成就とは、ただ単に脅威が現れていないだけではなく、安楽になっていることだけではないのです。
創造はスピリットのエネルギー(愛)で照らし出されており、創造は輝いており生命と真理と愛で沸き立っているのです。
とても正直に言いましょう。私はとてもラジっぽく次のように言わなくてはなりません。
全てがとても安楽に見えていたとしても{もしあなたが目覚めていないなら}あなたが自己満足的にハッピーに成る正当な理由は存在していません。
もしあなたが自己満足でハッピーに成っているなら、あなたは愚かな休息(stupid rest)の状態に陥っており、それは止めるべきなのです。
愚かな休息は、あなたを変化に導かないので、それは中断されるべきなのです。
愚かな休息はあなたに癒やし/啓示をもたらしません。
愚かな休息は麻酔薬のような働きしかしないのです。
愚かな休息の中であなたは自分が良い状態に在ると考えています。しかしあなたは喜びに溢れてはいません。
あなたは平和の中に居て怖れは体験していないかも知れませんが、意識すること(気付くこと)が出来ていません。
あなたはあなたの中の「マインド」を体験してはいません。 その「マインド」は私(イエス)の中にも在ったものなのです。その「マインド」は私の中にも在るものなのです。
あなたは神の子としてのあなたの生得権をまだ体験していません。
どのようなこともあなたをあなたの生得権(当然の権利)から隔てるべきではないのです。
コースはこれを言おうとしているのです。
コースが言おうとしているのは次のことです。
兄弟や姉妹と聖なる関係を築きなさい、するとその関係の性質(本質)から行動した結果としてあなたは聖なる瞬間を活性化させ「父があなたに示したもの(それはパートナーの真実であり、あなたの真実なのです)」をあなたはパートナーに与えるのです。
するとあなた達は全く新しい在り方(新しいレベル)で「一緒に居る」ようになります。
これは無知のレベルではなく、真理に関して考えることのレベルではなく、理解/叡智のレベル、真理を知るレベル、「全てに対するあなたの理解」としてあなたの中に埋め込まれている真理のレベルなのです。
次のことも理解してください。
故郷に戻る動きは、あなたが怖れと罪悪に悩まされることを必然的に含んでいます。
この怖れと罪悪は示唆されているだけのもの(あなたが有罪であなたには何かを怖れる理由があるという言い立ては実現し得ないもの)なので、これを笑ってやり過ごせるように成ってください。
「(人間的状況が起こっているようにしか見えない)そこで起こっている真理を知りたいと熱望すること」よりも「怖れと罪悪に自分の注意を与える必要がある」という言い立ては「言い立て/空言」でしかないのです。
好奇心を持って{聖なる瞬間の実践を}粘り強く継続してください。
怖れと罪悪には笑って取り合わず、怖れと罪悪に自分の注意を与えず、怖れと罪悪に自分を統治させてしまわず、怖れと罪悪を有効でないものにしなさい。
二つのステップを実践して自己防御(あなた自身の手で自分を守ろうとすること)を放棄しようとする度に、怖れと罪悪があなたの周りに現れるので、怖れと罪悪の歌を笑って軽んずることが出来なければ、怖れの瞬間が長引いてしまうように見えるでしょう。
そしてあなたが自分の誠実/統合性/実在性を保つ為に自己防御の行為を全て放棄しない決意をしていた場合、この罪悪と怖れが時間の中で(数日/数週間/数ヶ月と)長引くように見えるでしょう。
それは何故でしょう? なぜこれが起こるのでしょうか?
自分を守る必要があるとあなたが感じているのでこれ(罪悪と怖れの延長)が起こるのです。
自分を守ることが他の何よりも重要だとあなたが感じているのでこれが起こるのです。
あなたの最善の判断から行動し続けることが、あなたの独立した尊厳/統一性/実在性を確保し続けることが、目覚めることより重要にされているので、これが起こるのです。
あなたが自分の意志に固執することが、聖なる瞬間を時間の中で引き伸ばし、怖れと罪悪があなたを捕らえているように見えるのです。
しかしそれは本当はあなたが自身を守る権利の為に戦おうとしていることなのです。 何故なら、あなたは「父に出来ること」よりも「あなた自身に出来ること」により多くの信心を与えているのだから。
そして現在あなたは孤児院(怖れと罪悪と弱さの場所)の中から全てを眺めているので、「父に出来ること」を理解していないのです。
これは「魂の暗い夜”a dark night of the Soul”」と呼ばれているものです。
私がこのことを言っているのは、これが自己意志の表明/体験を極限まで推し進めた結果の一例だからです。
しかしこれは自己意志を放棄してあなたの注意を別のもの(二つのステップ/聖なる瞬間)に与えることで簡単に修正出来るのです。
自己意志の行為によって、物事がドラマ(あなたが体験出来るように見える闘争)に変換されてしまうのです。
確かに「魂の暗い夜」をあなたは通り抜けられるでしょう。
これはあなたが車でロサンジェルスから南に移動している時に左に曲がったならデスバレー(死の谷)を通ることになるようなものです。 そしてあたかもデスバレーが本当に死の谷という意味を持っているように考えて、デスバレーを通過しそれ(死の谷)を体験しようとするようなものなのです。
自己主張にこだわり続ける行為が「魂の暗い夜」という一般的な概念に作られており、「そのような体験をあなた達が通り抜けるだろう」という期待が殆ど世界中に(キリスト教圏内に)広がっているのです。 そしてこれがどれだけ長く続くか誰にも解らない?{と思われているのです。}
誰がこれ(魂の暗い夜)を起こしているのでしょうか? 勿論あなたがこれを起こしているとは考えられないですよね?
自己意志にこだわるシンプルな行為が、「聖なる瞬間を実践し、信心を実践し、奇跡を作る信心の現れに成ること」を拒否することが、これの原因であると考えるのは困難なのです。
これ程シンプルに解決出来る訳はない。{とあなたは考えていませんか?}
違いますか?
だから気をつけなさい。
「魂の暗い夜{がある程度の期間中起こらざる得ない}」というアイディアを目指したり示唆したり繰り返したりするのは止めなさい。
何故ならそのようなことをするのは見当外れ(無意味)で、{このようなアイディアをそのまま受け入れていた場合}「これは自分にはどうする事も出来ない複雑な状況なのだ、この困難が過ぎ去りこれが自分を変容させるまでこれを耐え忍ぶことしか出来ないのだ。」とあなたは考えてしまうから。
しかしここで本当に必要とされていることは「(状況に対する勝利を自分のものとして、それを自分の業績に数え上げられるよう)自身を守るための自己主張を続けること」以上の自己責任をあなたが認めることなのです。
だからこれはよりシンプルに対応出来ることなのです。
そして私は何よりも、毎日常に聖なる瞬間を実践し続けることを皆さんに薦めているのです。
(聖なる瞬間を実践する為に)これ程の努力はしなくても良い筈だと決めてしまう権利を主張することなく。
そう決めてしまうことは「本当に意識的になる(目覚める)努力をしない権利」を主張することなのです。
意識的に成らないこと(気付かないこと)を求めることは、怠惰に成り騙され中毒することであり、(常にあなたが直面している唯一のものである)創造の奇跡を理解出来なくなることなのです。
だから{聖なる瞬間を実践し続ける努力を怠ってしまっては}あなたは神の現れや「聖なる瞬間を永遠に続ける理由」を見逃し続けてしまうのです。
以上
{「魂の暗い夜 ”dark night of the Soul”」‐ 神秘主義者であった十字架のヨハネがその著書「暗夜」などに書き示した、神が訪れる前の救いが得られない苦悩状態。 訳注}
[In the beginning was the Word and the word was with God and the Word was God.]
そして神である言葉が動き、その動きが創造と呼ばれています。
この動きをあなたがどのように見ていたとしても、あなたがガラスを通して創造を暗く見ていたとしても、創造だけが実存している唯一の動きなのです。
創造は上手く機能する(良く働く)ように作られており、失敗するように作られてはいないのです。
「実存する唯一の存在である神」によって作られているので、創造の中には間違いはなく、だからあなたが創造をどのように見ていたにしろ、創造は欠点のないパーフェクトな変えようのないもので、常に源/神を反映しているのです。
何故私は「創造は上手く機能するように作られている。」と言っているのでしょうか?
それは、あなた達が世界や宇宙を見ている時、世界や宇宙が本当はパーフェクトな創造であることを忘れてしまっていることが多いからです。
創造そのものに対するあなたの無知故に、天国に対する一時的記憶喪失故に、あなた達は「創造がどのようなものか」自分達で決定しており、その結果としてあなた達は創造をパーフェクトなものとしては見ていないのです。
だからあなた達は創造を「何か間違ったもの/何か怖ろしいもの/何か危険なもの」として見ているのです。
だからあなた達は「いいえ、それ(あなた達が知覚/体験している不具合)は創造の真理(世界の真理)ではありません」と言い聞かされる必要があるのです。
あなた達が毎日日常的に体験している世界こそが創造(神の動き)なのです。これが真理なのです。
神が世界の中に居る訳ではなく、あなた達が体験している世界が源の全ての側面を反映しているのです。今生きている神の動きを示しているのです。
あなた達が創造/世界の神聖そのものをそれそのままに体験していた時もあったのです。
前にも言った通り、あなたは(もう一人の神の子である)相棒/パートナーと繋がって「わたし達は全てに対する定義を自分達で決めたい。全てに対して別の意味(神の定義とは異なる定義)を与えたい」と一緒に言ったのです。
あなた達はそう言って父から離縁することを決めたのです。
これが起こった時点であなた達のマインドは全体/十全だったので、「神のマインドがあなた(達)として体現されている」ものがあなた達のマインドなので、あなた達が行なったこの選択は偉大な自信と共に行なわれたのです。
分離の決意を行なった時点では、あなた達はまだ全知と遍在の体験に満ちていたのです。
だからこの行為(あなた達が父を離縁すること)は怖れを伴わずに行なわれたのです。
あなた達二人だけで相互合意に基づいて全てに対する意味を作り上げ始めた途端、あなた達が予測していなかった事が起こりました。
あなた達の源(原動力)から外れることにより、あなた達は無限の視界/視点を失い、あなた達は「体と呼ばれているもの」と自己同一しているように見え始めたのです。 しかし本来「あなた達の体と呼ばれているもの」は無限な創造の一部で、あなた達の可視性と可触性(見える様子と触れる様子)を示しているものなのです。
すると体の形の卑小さ(体が創造の他の部分から分離しており、創造と体の繋がりが感じられなく成っていること)故に、二つのものが見え出したのです。それは怖れと罪悪です。
分離以降(あなた達が父を離縁することを決めてから)は、怖れと罪悪があなた達の全思考を色付けし出したのです。あなた達二人の全ての思考が怖れと罪悪で彩られ始めたのです。
だから(あなた達が体験出来る唯一のものである)天国全体が怖れと罪悪のレンズを通して体験されるようになったのです。
次のことを明瞭にしたいので、私は上記を今一度説明しているのです。
あなた達が無限の視界/視点を放棄した時、あなた達が「父よ、(あなたのやり方ではなく)私のやり方でやりたいです。」と言った時、あなた達は偉大な自信と共に(怖れなくして)これを行なったのです。
だからそれ(分離)は簡単に行なうことが出来たのです。
しかし一旦この行為(分離)を行なった後は、全ての体験が怖れと罪悪で色付けされるようになり、故郷に帰ろうとするあなた達の試みも怖れと罪悪で色付けされることになったのです。
だからあなた達は自分達の中に「故郷に帰る力、父と繋がり直す自信」を見つけることが出来ないでいるのです。
これは懲罰ではなく、分離した視点がもたらす特質なのです。
これは双眼鏡を逆さまに覗くようものです。
全てが小さく見ているのはあなたが何か間違ったことをしているからではなく、それはレンズを逆さまに覗き込んだ当然の結果なのです。
だから故郷に戻ることへ決意を与えてそれを体験をしようとした時、それが難しく見えても驚かないでください。
二つのステップ/聖なる瞬間の実践は(あなた達が見ている全てと行なっている全てを色付けしている)怖れと罪悪に逆らうことなのです。
自分の最善の判断の外に助けを求めることを決意して「父よ、聖霊よ、ここの真理は何ですか? 私が見ていることを超えている真実は何なのですか?」と言った時、それは「怖れと罪悪が統治しているマインドの枠組み/孤児的マインド」に対して異を唱える行為なのです。
これが理解出来たなら、二つのステップ/聖なる瞬間の為に必要な努力を行なうことをあなたは厭わなくなるでしょう。
これは(怖れと罪悪は)あなたが去ろうとしている場所/アリーナに内在しているものなので、あなたが行こうとしている方向に動いた時にもこれが(怖れと罪悪が)現れるのですが、あなたはこれを(怖れと罪悪を)無効化することが出来るのです。
「私が直面しているこの怖れと罪悪の体験は(私を動けなくさせているこの怖れと罪悪は)有効でなく、現実でもない。」とあなたは理解することが出来るのです。
「これ(怖れと罪悪の体験)は私が故郷に帰ろうとする時必然的に現れるもので、これ(怖れと罪悪)は「私は神から離れており、神から分離している。私は神聖ではない。私は自然から偶然に出来たもので、私は物理的な宇宙に属している。」という私の信念の一部なのだ。」と言うことがあなたには出来るのです。
次のことを考えてみてください。「何故あなたは常に聖なる瞬間を実践し続けていないのでしょうか?」
先週あなたは何回も聖なる瞬間を実践していたかもしれませんが、何故聖なる瞬間に留まり続けること{そして全ての振舞いと言動を聖なる瞬間の中から行なうこと}をあなたはしていないのでしょうか?
何故あなたは聖なる瞬間を常に行なっている状態まで行けないのでしょうか?
「聖なる瞬間があなたの正しいマインドへ帰る道なのだ。聖なる瞬間の結果が父の視点の流入になるのだ。聖なる瞬間を実践したなら、神の神聖なるマインドがあなたを満たし、それが全てに対するあなたの意識に成るのだ。」と言われているのに、何故あなたは聖なる瞬間を保ち続けることが出来ていないのでしょうか?
何故上記があなたにとって十分な理由に成っていないのでしょう。
それはあなたが自分を守らなければならないと考えているからです。
「物理的なリアルな危険」あるいは「マインド上の危険」に対してあなた自身を防御する必要があるとあなたは考えているのです。
そして「これが自分に安全を提供して来たとあなたが考えているもの」を気楽に放棄することは(例え、それが目覚めて父のマインドを受け取る為であっても)出来ないのです。
自己コントロールを放棄することに近づくと、あなたの怖れが大きくなるのです。
ここで私が自己コントロールと言っているのは、あなたのマインドの判断と行動によってあなたが全てをコントロールしている状態のことです。
あなたが自己コントロールを本当に放棄する寸前に(それはあなたが自分の甲冑を捨てることを意味しているので)怖れが現れるのです。何故ならその時あなたは「これが自分に安全を与えて来たとあなたが考えているもの(自己コントロール)」を放棄しようとしているのだから。
つまり「父からの離縁を決断したこと」が怖れの原因なのですが、この決断そのものは怖れなく行なうことが出来たのです。
そして故郷に戻った時(父の御許に戻った時)それが喜びをもたらすのですが、これを遂行している過程において喜びはまだもたらされておらず、コミットメント(決意)も簡単には得られないのです。
これは殆どメカニカルな(自動的な)ものなのです。
だからこれには(自己コントロールを放棄しょうとすることからくる怖れには)本当の感情は与えられていないのです。
これは自動的に(メカニカルに)発生している怖れなのです。
「故郷に帰ろうとする----> 怖れと罪悪が感じられる-----> 自分を守らなくては!!聖なる瞬間を実践している暇はない、事態に注意を与えて自分を守らなくてはならない。」{という連鎖反応が自動的に起こっているのです。}
「他の孤児達の前で自分が愚か者に見えないようにしなくては。孤独になる為に(怖れと罪悪が私の体験を統治している場所に留まる為に)相互合意の中で私が繋がっている者達と調和していなくてはいけない。」{と考えてしまうわけです。}
しかしこの知覚/認識は間違っており、「聖なる瞬間を実践することによりあなた自身を守ることを放棄することは出来ない」という示唆は間違っているのです。
あなたはこれを理解するべきなのです。あなたはこれを覚えておくべきなのです。
あなたがあなた自身に依存している時、あなたは不信心を実践しているのです。
「これが自分だとあなたが考えている自己」をあなたが放棄して、自己を超えて「あなたには未知に感じられるもの」に手を伸ばし、存在の源(あなたの父)に対して「ここの真理は何ですか?」と訊ねた時、あなたは信心を実践しているのです。
信心{が必要とされている}という言葉の中には自信の欠如が示唆されており、それが何か力強いものや何かを起こす力には成り得ないように感じられるかもしれません。
しかしこの知覚/認識は違っており、この結論は間違っており、この論理は間違っており、それらに逆らう必要があるのです。
さてア・コース・イン・ミラクルズ{のテキスト}そのものはあなたが実践出来るものではないかもしれません。
しかしア・コース・イン・ミラクルズはアイディアの表現で、それは特定の行為へあなたを導くものなのです。
その行為とは聖なる瞬間を実践することです。
ACIMの実践は(どのような振舞いを隣人がしていたとしても)隣人に対して愛を表明することだとあなた達は考えており、そうわたし達も言って来ました。
あなたの隣人が自分自身を(あるいはあなたのことを)どのように認識していたとしても、隣人の認識が正しくても間違っていても、隣人の振舞いや考えに動ずることなく、どのようにして隣人を愛したら良いか学ぶことがACIMの実践だとあなた達は考えています。
しかしあなたがそれ(愛)によって動かされていなかったなら、修正は起こりませんね。違いますか?
あなたが愛によって動かされていなかったなら、その場合あなたは無知の表明に協力しており、表明されている無知に対して異を唱えない(愚かな行為を否定しない)ことによって無知を認識/肯定してしまっているのです。
それでは駄目なのです。
呼び掛け(愛を呼び求める声)は愛を求めています。
しかしあなたが「愛として」振舞おうとしても駄目なのです。
つまり「愛に対する自分の概念を満たそうと振舞っていてはダメだ」と私は言いたいのです。
愛に対するあなたの最善の判断/アイディアを表明しようとしては駄目なのです。
もしあなたが愛を表明しようと求めているなら、あなたは(愛に対する自分の考えは手放して)聖なる瞬間を実践しなくてはいけないのです。
あなたは二つのステップを行うべきなのです。
「兄弟に対する愛に溢れた評価や思考を表明したり話したりする」のではなく、あなたはマインドを黙らせ、自分の中の静寂に入って行くべきなのです。
あなたは「愛を呼び求める声(愛には見えない行為)」を言い立てている兄弟とやり取りすることは止めて、「父よ、聖霊よ、私はここで何を知るべきですか。ここで私は何を言うべきなのですか? ここの真理は何ですか? この状況に対して私は自分の最善の判断には依存しません。私はあなたから真理を聞きたいです。それが聞えるまで私は聞き続けましょう。」と言うべきなのです。
あなたが真理を聞いた時、それが愛なのです。それが必要とされている愛の表明なのです。
真理を聞いたあなたの行為が、真理を聞いた結果として現れるあなたの行為が、あなたの兄弟の「愛を呼び求める声(愛に見えない行為)」を「愛を受け取ること」に変容させるのです。
もし「愛への呼び掛け/愛を呼び求める声」が兄弟からあなたへ向けて発せられている意地悪/脅し/身勝手だったらどうでしょう?
するとあなたは「おお、聖なる瞬間を行なっている暇は無い。私自身を守らなくては。」と言い出してしまうのです。
しかしそのような必要は本当は無いのです。
あなたがどのような状況に置かれていても、不信心を実践することは正しくありません。
何故なら、不信心を使うことは{良い}変化を全くもたらさないから。
不信心は何も明瞭にはしないのです。
不信心は、偉大な調和の動きをもたらさず、成就ももたらさないのです。
自分の身を守ることは、あなたを孤児院に留めてしまうだけなのです。
自分の身を守ることは、あなたを不信心のアリーナに留めてしまうだけなのです。
これはシンプルでかつ絶対なのです。
このことを考慮してみたなら、聖なる瞬間を続ける度量があなたの中で育つでしょう。
あなたは悪魔のように見える天使と格闘するべきなのです。
あなたは修正の必要を見据えるべきなのです。
愛には全く見えない「愛を呼び求める声」をあなたは真正面から見るべきなのです。
それを見続けながら「父よ、ここの真理は何ですか?」と言うべきなのです。
「愛を呼び求める声(醜さ)が表明されている『ここ』の神聖なる事実は何なのですか? 父よ!」と言うのです。
「兄弟を気遣うこと」とは「兄弟が無法に/脅威に/醜く見えている所で神の真実を見ようと努力すること」なのです。
何故なら上手く機能するように神は創造を作ったのだから。
そして創造は良く働いているのです。
創造は上手く働くように作られており、創造とはそのようなものなのだから。
(愛を呼び求める声を上げているように見えている)神の本当の子供は(彼を「上手く働くように作られている神の子供」ではなく見せている)その狂気の振舞いにも関わらず神の本当の子供で在り続けており、だから「愛を呼び求める声を上げている彼」は実際には神のデザイン通り上手く働いているのです。
兄弟を愛することとは、彼と共にそこに立って彼を見捨てず、(彼が神の子では無いという不正な言い立てから自由に成るために)真理を知りたいと願うあなたの気持ちを捨てずに真理を求め続けることなのです。
兄弟を愛しているあなたは「この兄弟は神の子ではなく、この兄弟の為に聖なる瞬間を続けるには値しない」という不正な言い立てを聞き入れないのです。「彼はあなたの正気には値しない。彼のリアリティに対する揺るがぬ知覚認識があなたに得られるまで努力するには値しない。」という言い立てを無視するのです。
するとあなたはリアリティに対する知覚認識を得て、それを自動的に瞬間的に兄弟に知らせるのです。
ACIMは「あなたを人間的状況内に留めて、そこであなたを慰める為の思考やアイディア」ではないのです。
この本の中に書いてある言葉を逐一記憶する必要などなく。 それらの言葉はあなたを聖なる瞬間の実践へ駆り立てる為のものなのです。 何故なら聖なる瞬間が故郷への道なのだから。 そしてあなたは自分の正気を取り戻すべきで、その為に必要な全てのことをすべきなのだから。
故郷に帰る為には「怖れと罪悪によって統治されている領域」を通り抜ける必要が絶対にあるので、故郷へ帰る為の行動は怖れと罪悪を引き起こさずにはおれないのです。
しかし怖れや罪悪は幻想でしかなく、あなたに投げ掛けられている懲罰や脅威の可能性は実際には実現しないのです。
物事を判断し評価しそれに基づいて自分を懲罰に縛り付けている「あなた自身」の外には裁判官など居ないのです。
父から離縁する為に一緒に繋がった「あなたとあなたのパートナー」だけが「自分達の注意を特定の幻想に与えてその幻想を信じ込む特定の方法」を得ているのです。
しかし(あなたが自分のプライベートなコントロールを放棄しようとした時に立ち昇って来る)怖れと罪悪は幻想で、あなたが聖なる瞬間を実践し続けたなら、怖れと罪悪の幻想があなたを押し留めたり罰したりすることは不可能なのです。
これらのことを怖れる必要があなたにあるでしょうか?
{怖れるのではなく}あなたは好奇心を発揮するべきなのです。
勇気を持って楽しんでみなさい。目覚める体験をする勇気を持ちなさい。
あなたは目覚めることを怖れる必要はないのです。
怖れと罪悪がその鎌首を持ち上げ始めたなら、「おととい来やがれ!」と言い渡しなさい。
怖れと罪悪を尊重することが止められるように、(怖れと罪悪をからかい、それらが無意味で馬鹿げており、それらがあなたの注意には値しないことを示す)何らかの言葉を(あなたの好きな言葉を何でも)発しなさい。
そしてあなたの注意を聖なる瞬間に戻すのです。
「(グズついている子供や怒り狂っている大人が『愛を呼び求める声』を怒鳴り立てている)ここの真理が何か?神がここでどのように存在しているか?知りたいと求める熱望」にあなたの注意を取り戻すのです。
『愛を呼び求める声』は全く愛には見えないでしょう。 それは喧嘩/論争の始まりか、永遠の反目の始まりのように見えることでしょう。
あなたの生活がどれだけ心地良かったとしても、あなたが目覚めていなかったなら、あなたは調和と平和と成就の本当の意味をまだ知らないのです。
調和/平和/成就とは、ただ単に脅威が現れていないだけではなく、安楽になっていることだけではないのです。
創造はスピリットのエネルギー(愛)で照らし出されており、創造は輝いており生命と真理と愛で沸き立っているのです。
とても正直に言いましょう。私はとてもラジっぽく次のように言わなくてはなりません。
全てがとても安楽に見えていたとしても{もしあなたが目覚めていないなら}あなたが自己満足的にハッピーに成る正当な理由は存在していません。
もしあなたが自己満足でハッピーに成っているなら、あなたは愚かな休息(stupid rest)の状態に陥っており、それは止めるべきなのです。
愚かな休息は、あなたを変化に導かないので、それは中断されるべきなのです。
愚かな休息はあなたに癒やし/啓示をもたらしません。
愚かな休息は麻酔薬のような働きしかしないのです。
愚かな休息の中であなたは自分が良い状態に在ると考えています。しかしあなたは喜びに溢れてはいません。
あなたは平和の中に居て怖れは体験していないかも知れませんが、意識すること(気付くこと)が出来ていません。
あなたはあなたの中の「マインド」を体験してはいません。 その「マインド」は私(イエス)の中にも在ったものなのです。その「マインド」は私の中にも在るものなのです。
あなたは神の子としてのあなたの生得権をまだ体験していません。
どのようなこともあなたをあなたの生得権(当然の権利)から隔てるべきではないのです。
コースはこれを言おうとしているのです。
コースが言おうとしているのは次のことです。
兄弟や姉妹と聖なる関係を築きなさい、するとその関係の性質(本質)から行動した結果としてあなたは聖なる瞬間を活性化させ「父があなたに示したもの(それはパートナーの真実であり、あなたの真実なのです)」をあなたはパートナーに与えるのです。
するとあなた達は全く新しい在り方(新しいレベル)で「一緒に居る」ようになります。
これは無知のレベルではなく、真理に関して考えることのレベルではなく、理解/叡智のレベル、真理を知るレベル、「全てに対するあなたの理解」としてあなたの中に埋め込まれている真理のレベルなのです。
次のことも理解してください。
故郷に戻る動きは、あなたが怖れと罪悪に悩まされることを必然的に含んでいます。
この怖れと罪悪は示唆されているだけのもの(あなたが有罪であなたには何かを怖れる理由があるという言い立ては実現し得ないもの)なので、これを笑ってやり過ごせるように成ってください。
「(人間的状況が起こっているようにしか見えない)そこで起こっている真理を知りたいと熱望すること」よりも「怖れと罪悪に自分の注意を与える必要がある」という言い立ては「言い立て/空言」でしかないのです。
好奇心を持って{聖なる瞬間の実践を}粘り強く継続してください。
怖れと罪悪には笑って取り合わず、怖れと罪悪に自分の注意を与えず、怖れと罪悪に自分を統治させてしまわず、怖れと罪悪を有効でないものにしなさい。
二つのステップを実践して自己防御(あなた自身の手で自分を守ろうとすること)を放棄しようとする度に、怖れと罪悪があなたの周りに現れるので、怖れと罪悪の歌を笑って軽んずることが出来なければ、怖れの瞬間が長引いてしまうように見えるでしょう。
そしてあなたが自分の誠実/統合性/実在性を保つ為に自己防御の行為を全て放棄しない決意をしていた場合、この罪悪と怖れが時間の中で(数日/数週間/数ヶ月と)長引くように見えるでしょう。
それは何故でしょう? なぜこれが起こるのでしょうか?
自分を守る必要があるとあなたが感じているのでこれ(罪悪と怖れの延長)が起こるのです。
自分を守ることが他の何よりも重要だとあなたが感じているのでこれが起こるのです。
あなたの最善の判断から行動し続けることが、あなたの独立した尊厳/統一性/実在性を確保し続けることが、目覚めることより重要にされているので、これが起こるのです。
あなたが自分の意志に固執することが、聖なる瞬間を時間の中で引き伸ばし、怖れと罪悪があなたを捕らえているように見えるのです。
しかしそれは本当はあなたが自身を守る権利の為に戦おうとしていることなのです。 何故なら、あなたは「父に出来ること」よりも「あなた自身に出来ること」により多くの信心を与えているのだから。
そして現在あなたは孤児院(怖れと罪悪と弱さの場所)の中から全てを眺めているので、「父に出来ること」を理解していないのです。
これは「魂の暗い夜”a dark night of the Soul”」と呼ばれているものです。
私がこのことを言っているのは、これが自己意志の表明/体験を極限まで推し進めた結果の一例だからです。
しかしこれは自己意志を放棄してあなたの注意を別のもの(二つのステップ/聖なる瞬間)に与えることで簡単に修正出来るのです。
自己意志の行為によって、物事がドラマ(あなたが体験出来るように見える闘争)に変換されてしまうのです。
確かに「魂の暗い夜」をあなたは通り抜けられるでしょう。
これはあなたが車でロサンジェルスから南に移動している時に左に曲がったならデスバレー(死の谷)を通ることになるようなものです。 そしてあたかもデスバレーが本当に死の谷という意味を持っているように考えて、デスバレーを通過しそれ(死の谷)を体験しようとするようなものなのです。
自己主張にこだわり続ける行為が「魂の暗い夜」という一般的な概念に作られており、「そのような体験をあなた達が通り抜けるだろう」という期待が殆ど世界中に(キリスト教圏内に)広がっているのです。 そしてこれがどれだけ長く続くか誰にも解らない?{と思われているのです。}
誰がこれ(魂の暗い夜)を起こしているのでしょうか? 勿論あなたがこれを起こしているとは考えられないですよね?
自己意志にこだわるシンプルな行為が、「聖なる瞬間を実践し、信心を実践し、奇跡を作る信心の現れに成ること」を拒否することが、これの原因であると考えるのは困難なのです。
これ程シンプルに解決出来る訳はない。{とあなたは考えていませんか?}
違いますか?
だから気をつけなさい。
「魂の暗い夜{がある程度の期間中起こらざる得ない}」というアイディアを目指したり示唆したり繰り返したりするのは止めなさい。
何故ならそのようなことをするのは見当外れ(無意味)で、{このようなアイディアをそのまま受け入れていた場合}「これは自分にはどうする事も出来ない複雑な状況なのだ、この困難が過ぎ去りこれが自分を変容させるまでこれを耐え忍ぶことしか出来ないのだ。」とあなたは考えてしまうから。
しかしここで本当に必要とされていることは「(状況に対する勝利を自分のものとして、それを自分の業績に数え上げられるよう)自身を守るための自己主張を続けること」以上の自己責任をあなたが認めることなのです。
だからこれはよりシンプルに対応出来ることなのです。
そして私は何よりも、毎日常に聖なる瞬間を実践し続けることを皆さんに薦めているのです。
(聖なる瞬間を実践する為に)これ程の努力はしなくても良い筈だと決めてしまう権利を主張することなく。
そう決めてしまうことは「本当に意識的になる(目覚める)努力をしない権利」を主張することなのです。
意識的に成らないこと(気付かないこと)を求めることは、怠惰に成り騙され中毒することであり、(常にあなたが直面している唯一のものである)創造の奇跡を理解出来なくなることなのです。
だから{聖なる瞬間を実践し続ける努力を怠ってしまっては}あなたは神の現れや「聖なる瞬間を永遠に続ける理由」を見逃し続けてしまうのです。
以上
{「魂の暗い夜 ”dark night of the Soul”」‐ 神秘主義者であった十字架のヨハネがその著書「暗夜」などに書き示した、神が訪れる前の救いが得られない苦悩状態。 訳注}
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