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ACIM12-08-11

私は先週皆さんに一つ質問をしました。
「癒やしを拒んでいる人に対してあなたはどうするべきか?」
「病/怪我/事故など不利益として明確に理解されているものを人々が持ち続けようとしないこと」は既に指摘しています。
しかし人々は「(間違った推論/前提を元に)自分で達成しようと決意していること」から癒やされたいとは思っていないのです。
人々は「独立存在/孤児になろうとすること、源を持っていないままリアルに成ろうとすること」から癒やされたいとは思っていないのです。
「独立的存在としてリアルに成ること」を自分の人生の目的としている人は、そのことから癒やされようとは願っていないのです。
人は「この試みを放棄するべきだ(何故ならあなたは既にリアルなのだから)」と聞き入れたくない訳です。 何故なら、彼はまだ自分の主権(権限)の上でリアルに成っていないのだから、だから彼は「自分の権限を使ってリアルに成ろうとすること」を放棄出来ないのです。

「父よ、私は自分のやり方で全てを見たいです。私のやり方で全てを行い、全ての意味を自分で決めたいです。」と神に対して言った途端、彼は「彼自身の正義を証明する必要」に直面したのです。
正義(righteous)とは「自分の権限によって自分自身をリアルにしようとする全てのアイディア」を含んでいるのです。
このようなゴールの最終目的は自己正当(self-righteousness)に到達しようとすることなのです。
これが罪なのです。
罪とは決意を持って「達成不可能なこと(独立/分離)を達成しようとする意図」なのです。

しかし{罪とは}それだけではありません。
「罪とは中毒/耽溺を通して行なわれる行為である」のです。
罪はただゴール/目標であるだけではないのです。罪はただアイディアであるだけではないのです。
罪とは「激しい感情(決意)の力を使って{独立を}達成しようとする意味/意図」なのです。

{分離/独立という}この特定のゴールに向かって人を容赦なく突っ走らせている感情を促進し強化するものは何なのでしょうか?
{神からの独立という}この試みを行なっている者が源を持っておらず彼自身の中から権威/正義を作ろうとしているなら、彼は彼自身をリアルに作ろうとしているのです。彼は彼自身の権威の中で彼自身をリアルにしようとしているのです。
さて彼がこれに成功しなかったならどうなるのでしょうか?
彼はそのような可能性を考慮することさへ出来ないのです。何故なら、彼自身の存在がリアルだと証明する為に彼は{自分をリアルにすることを}成功させなくてはいけないのだから。
だから「これ(自分をリアルに作ること)を達成させようとし続ける事に対する中毒」は「自分がこれに成功しなければ自分は存在出来ないという怖れ」から来ており、それがこの中毒を強化し続けているのです。
つまり彼がこれ(神から分離した自分をリアルにすること)に成功しなかったなら、彼は無の中に消えて行ってしまうのです。
彼は存在しなくなり、彼は死ぬのです。 あなたは死んでしまうのです。
と、そう考えられているのです。
これが{独立的存在に成ろうとし続けることに中毒する}動機になっているのです。
「死への恐怖」や「権威を持ったリアルな者として存在しようとする癒やされない意図」はそれ自身では決して死に絶えないゴールなのです。
これらが自然と消え去ることはないのです。

人はどのようにして{分離の}このゴールを達成しようとしているのでしょうか?
人は考えるのです。
人は考え観察するのです。「自分が観察しているものを自分が創造していない」という事実は無視しながら。
そして「これら(自分達が見ている世界)が何処から来ているか」彼は訊ねないのです。
『勿論これは「ビッグバン」から来ているのです。これは物理的出来事であって、物理的宇宙であって、とても驚異的なものなのです。』 という風に彼は全てを観察したりするのです。
彼は自分のマインドと想像力を使って全てを定義するのです。

そして彼は兄弟姉妹を(そして全てを)評価し、兄弟姉妹に対して結論を持つのです。そしてこの結論の正しさは「兄弟姉妹が兄弟姉妹自身の正義(正しさ)をどのようにデモンストレートするか(話し振舞うか)」によって測られるのです。
「権限とコントロールが実行出来るように自分の正義/権威を証明しようとデモンストレートしている者」がこの中毒の中から(このゴールの中から)作り出されているのです。
そして「他の人々もそれぞれに彼等自身の正義/権威を証明すること」を彼は求めるのです
だから自分のリアルな独立性と正義/権威を上手く証明出来なければ死んでしまうという内的怖れがあるだけでなく、{独立的視点を持ち独立的行動を取っている彼に対して}彼自身の正義/権限を証明するよう他の人々が要求してくるのです。
正しさ/権威を証明しそれを社会的に(会社の中で、国家の中で、グループの中で)実現しようとすることが競争環境を作りこの中毒を煽り続けるので、彼の中毒は他の人々によっても強化されるのです。{独立を試みている人はそのような世界に住んでいるのです。}
この中毒は内的な死への怖れ故に起こっているのですが、「社会の中でお互いに対して(そして自分の中の検査官に対して)自分の権威/正義を正しくデモンストレートする必要」によってこの中毒(狂気)が保たれてしまうのです。

これを理解することが大切です。
このような神の子同士のやり取り(関わり合い)には騙し(欺瞞)が付きまといます。
これは正直ではないのです。
何故なら{この状態では}「自分自身のことを無効だと感じていること、神聖/全体性の中に自分を確実に据える生得権を感じていないこと」を人々全員がお互いに対して表明せずにそれを隠蔽してしまっているのだから。
だれもこれ(自分がリアルではないという感覚)を認めようとしないのです。
「神が自分達にマインドと体と自由意志を与えており、それを使うことが自分達の権利なのだ」と人々がお互いに対して言い合っているのです。
それが{神から分離したマインド/体/意志を使うことが}自分達の権利であるだけでなく、それが自分達に求められていることで、これを実行することが自分達の任務である{と考えられているのです}。

そして人々は「自分が空虚を抱えて生きていること」に関しては黙っているのです。
「私は独立的に振舞うように創造されているのだ。私はこれをする為に創造されたのだ。自分の権威を進化させる為に私は生まれてきたのだ。」と言うのです。
そして正義がコントロールの為に使われることは(そして正義が必ずしも全員の最善の利益の為に使われないことは)明言されないのです。
だから「コントロールしようとしている者」は「それと同じ権限(同じ中毒/同じ行為)を執行している他の者達」に対して油断なく注意していなくてはいけないのです。
だからこの質問に対する答え(真理)は誰からも喜ばれないのです。
あなたが導き(答え)を求めた時あなたに示される真理は、往々にしてこのようなものなのです。 あなたが得る答えは往々にして、あなた達の信念/信心/自信と対立するものなのです。

私は、私がかつて弟子に言ったことによって「癒やしを拒んでいる人に対してあなたはどうするべきか?」に対する答えを述べましょう。
「歓迎されない村々に行った場合、そこを去って“汝らの足から埃を払いなさい“と私は弟子達に言ったのです。
これは「あなたが村を出る時{歓迎されていない場所から去る時}、その村に関する全てを払い落とし、そこで起こったことはそこに置き去り、別の場所に行きなさい」という意味です。
私はこの通り言ったのではなく、このように記録されてる訳ではありませんが、
「{あなたがどこかに行く場合}あなたが歓迎される所に行きなさい。あなたが撥ね付けら拒否されている所からは去りなさい。」ということが要点なのです。
「あなたが別ち合おうとしている真理が否定されない所に行きなさい。癒やされることを拒んでいる人達のマインドを変えようとするのは止めなさい。」
これはスピリチュアルではないように聞えますか? これは神聖ではないように聞えますか? これは愛ではないように聞えますか?

そうではないのです。
あなたが聖なる瞬間の中に入って行った時、「ここの真理は何ですか?」と聖霊かガイドか父に訊ね聞いて真理があなたに示された時、それは『「聖なる行動はこうであるべきだという」あなたの知覚/認識』に基づいた行動をあなたがすることは意味していません。
そのように考え行動してしまった場合、あなたは自分の知覚の隙間から漏れ聞いたことを元に真理を解釈しようとしてしまい、意図されていないこと(するべきでないこと)を実践しようとしてしまいます。

あなたが注意深く訊ね聞いていて、「助けを求めながらそれを受け取りたがっていない人」によってあなたが使われていたなら、あなたは理性/知性を手放すべきではないのです。
あなたは次のように言うべきなのです。
『あなたが私と一緒にしようとしていることは正直なことではありません。あなたは答えを求めているけれども、{あなたが明言していることとは}他の目論見/目的があなたにはあるので、あなたは答えを受け入れていません。
あなたが本当に真実を知りそれを受け取りたいと思ったなら、その時はまた知らせてください。
しかしそれまでは「あなたと行動を共にし、あなたによって操られ、あなたの欺瞞に満ちた行動を承認する」訳には行きません。』

これがルールなのです。物事が働く筋道があるのです。
{これについて説明しましょう。}
例えば、内的ガイドというものがあるとポールが始めて聞いて、彼は定期的に座って内的ガイドを求めました。
数週間に亘り彼はこれを毎晩行ないました。時には一日に数回。
しかし彼は何も聞き取りませんでした。
ある時点で彼は焦れ出し嫌気を起こし、そこにいる誰かに向かって「ここに座りっぱなしで訊ね続けて何も聞えないでいるようなことをしている訳には行かない! こんなことをしている暇は無いんだ。」と言いました。
しかし彼はその夜も答えを得ませんでした。
しかしその後の24時間に彼は理解し出したのです。 彼の短気と要求は「彼が自分で物事をコントロールしようとする場所(状態)に居ること」を示していると。
彼はコミュニオン(霊的交歓)を自分で起こそうとしていたのです。
彼は自分が宇宙の腕を捻ろうとしていること(世界を操ろうとしていること)を理解したのです。
そしてそのようなことをしても上手く行かないと彼も気付いたのです。
次の日彼は謙虚に座りました。
「もし毎晩何の答えも聞えないまま座り続けることを何年も続けなくてはならないとしても、そうしよう。何故なら私はwillfulness(自分の意志を通そうとすること)を持ち込もうとは求めないから。」
私が直接彼に話しかける前に「自分の意識を押し付けようとすることが自分のガイドと話すことを完全にブロックしてしまう」とポールは悟ったのです。

だから独立存在に成ろうとしていながら(自分のマインドに過ぎない)聖霊と繋がろうとした時、あるいは自分のガイドと繋がろうとした時、あるいは神と繋がろうとした時、その人のwillfulness(自己意志の強い主張)がそれをブロックしてしまったならコミュニケーションが起こらないのです。
彼のwillfulness(自己主張)は言わば不調和を作り、(ガイダンスを求める度に誰にでも必ず与えられている)答えが聞えなくなってしまうのです。

これは、このように成っている(このように働く)のです。
あなたがガイダンスの中にwillfulness(自分で操作したり決めようとしたりすること)を導入したなら、あなたは何も聞かないのです。
もし村が真理を歓迎しないのであれば、村人は何も聞かないのです。

ポールが私を聞くことが出来ていてそれをあなた達に伝えているのでない限り、その行動の中には欺瞞(うそ)があるので、それに関わることは不適切なのです。
だからあなたは理性を持ってこう言わなければいけないのです。
「いいえ、それは出来ません。しかし真実を受け入れる用意があなたにあるのなら、あなたが本当に変わることを求めているのなら、その時私も参加しましょう。わたし達は話し一緒に過ごし、そこには癒やしがあるでしょう。」

勿論、聞く意志を持っている人達に話すことは大切なことです。
何故なら真実を聞いたそれぞれの人達が、気付きを体験した各人が、自分の独立を手放してガイダンスを求め、自分の最上の思考よりもガイダンスを尊んだなら、その時自分自身の中に照らし出される父の視点/視界の徳により、変革の使徒に成るのだから。
こうして眠っていた神の子供達がより多く目覚めるのです。
その結果として夢の一体性の同志感覚が薄れるのです。
そして「自分達の独立的スタンスや狂気と中毒の有効性」に対するサポートを感じて来た者達も、自分達の決意が緩んで行くことを感じるのです。 何故なら兄弟姉妹間で相互合意が解除されることにより、このような{独立と中毒への}決意をサポートし続けることが難しくなるから。
そうなったなら私の弟子達が去っていた村も、あなたが関わり合いを止めた人達も、明晰/癒やし/修正を瞬間的に体験し出すのです。
あなたは「真理を聞きたいと思っていない人達、真理に対して論争を挑みたがっている人達、質問に次ぐ質問を続けてあなたに難題を出し彼等を助けようとするあなたのジレンマを見て楽しんでいる人達」に絡め取られる訳にはいかないのです。
これに付き合うこともある程度の満足をあなたにもたらすかも知れません。
そしてあなたが使われていること(彼を助けようとしているあなたに葛藤を抱えさせて彼が楽しんでいること)を理解するまである程度時間が掛かるかもしれません。
しかし理性があなたに訪れて、無駄なことを続ける必要はないと理解しあなたは「ノー」と言うのです。
そしてあなたはその周辺(その葛藤)を去り、未だ辺りに漂っているやり取りの残骸を振り払うのです。
あなたがそこを去ったなら、あなたはそれ(今まで行なわれてきたこと)に対して怒らないのです。
あなたはそこを去らなくてはならないのです。何故ならそれが必要なステップなのだから。
これはとてもシンプルに白黒ハッキリしたことなのです。
これが理性であり、ここにはストレスがないのです。
あなたは欺瞞に満ちた不正直な関わり合いに対して「ノー」と言い、今後の関わり合いが正直であることを求めるのです。
これが神聖なことです。

本を読みましょう。

[It can indeed be said the ego made its world on sin.]2
[まさしくエゴはその世界を罪の上に作り上げたと言うことが出来るのです。]

父からの独立状態内では、第一に独立した自己(リアルに成る為に必要とされる能力を有した者)が想像されたのです。
こうして作り上げられたこの自己がエゴと呼ばれており、これがこの世界を罪の上に作っているのです。
エゴは何の上にこの世界を作っているのでしょうか? 罪とは何なのでしょう?
罪とは「独立的に正義(正当)に成ろうとする中毒的な狂気のゴール」なのです。
そしてこの試みに失敗した場合それは死(無存在、完璧な失敗)を意味しているので、このゴールに絶対失敗出来ないように成っている{考えられている}のです。
そのようにして{そのように考えることで}この中毒が最大限に保たれ続けているのです。
エゴはこの上に{独立的な正義に成れなけれが自分は消滅してしまうという考えの上に}世界を作っているのです。
エゴはこの観点から世界がどのようなものか決めているのです。

しかし罪深いことが実際に行われた訳ではないのです。
しかし「おお、彼は彼女と不道徳なことを行なった!{誰かが罪を実行している}」あなたはそう考えて{憤慨して}気を逸らしてしまっているのです。
これは「罪に対する修正」を妨害すること{分離/独立に対する修正から注意を逸らしてしまうこと}なのです。
何故なら「彼が彼女と不道徳に振舞っていること{誰かが罪深く振舞っていることに対してあなたが憤慨している状態}」から「あなた自身が完全にリアルな独立存在に成ろうとするゴールに中毒していること」に気付くことはとても難しいから。

[Only in such a world could everything be upside-down.]
[このような世界の中だけで全てが逆さまになることが可能なのです。]
180度引っくり返ってしまって、罪/病/死が命/真理/愛に取って替わって(置き換えられて)いるのです。
 
[This is the strange illusion which makes the clouds of guilt seem heavy and impenetrable.]
[これが罪悪の雲を重く硬く見せている奇妙な幻想なのです。]

罪悪の雲?  つまり自分で行なっているとあなたたが想像している罪悪です。
あなたが想像/空想している罪悪は、あなたが(独立存在に成ることに)未だ成功していない結果なのです。  
(一生懸命努力しているにも関わらず)自分のゴールに失敗しているから、罪悪が存在しているようにあなたは想像しているのです。
この罪悪は「父よ、わたしは自分のやり方でやりたいです。私はもうあなたの視界/視点には興味がありません。」と言って父を離縁しようとしたあなたの行動から必然的に起こっているもの(あなたの思考から切り離せないもの)なのです。
{独立的に存在しようと試みる}その中毒性故に、あなた達には存在の喜びが体験出来ておらず、全てに覆い掛けられている重く硬い存在の苦しみが体験されているのです。これは陰鬱なものです。

エゴが作っている世界の基盤の頑丈さは
[The solidness this world's foundation seems to have is found in this. For sin has changed creation from an Idea of God to an ideal the ego wants; . .]
[この世界の基盤の見かけの頑丈さはこれ(罪の幻想)の上に築かれているのです。何故なら、罪が創造を「神のアイディア」から「エゴが求めているアイディア(理想)」...に作り変えているのだから。]

エゴがリアルでない宇宙を作れた訳ではないのです。

[For sin has changed creation from an Idea of God to an ideal the ego wants; . .]
[何故なら、罪が創造を「神のアイディア」から「エゴが求めているアイディア(理想)」...に作り変えているのだから。]

これ(罪が創造を作り変えていること)は意識のシフトであって、それが実際に天国/創造を変えた訳ではなく、天国/創造に対する体験を変容させたのです。
だから{癒しが起こっても}宇宙が消え去る訳ではなく、「正当/正義に成ろうとすることへの中毒が起こしている歪み」が創造の真の姿をブロックしており、この中毒が手放された時創造が現れ出るのです。
あなたが自分の独立を手放して父と繋がり、父からの答えを受け入れる意欲を持って訊ね聞くまで、創造のありのままの姿は見えないのです。

[For sin has changed creation from an Idea of God changed creation from an Idea of God to an ideal the ego wants; a world IT rules, made up of bodies, mindless and capable of complete corruption and decay. ]
[何故なら、罪が創造を「神のアイディア」から「エゴが求めているアイディア(理想)、マインドを持たない体達によって作り上げられている世界、エゴが統治している世界、完全に堕落し腐敗することが可能な体の世界」に作り変えているのだから。]

リアリティ/天国を変えることは不可能なので、実際に世界/リアリティが変わった訳ではなく、世界/リアリティに対する知覚が変えられたのです。
罪/病/死(つまり人間的状況)はパーフェクトな創造に対する誤知覚なのです。

[If this is a mistake, it can be undone easily by truth.]
[もしこれ(このエゴの世界)が間違いであるなら、これは真理によって簡単に解除出来るのです。]
これが罪ではなくエラー(間違い)であるなら、これは修正可能なのです。

[If this is a mistake, it can be undone easily by truth.]
[もしこれ(このエゴの世界)が間違いであるなら、これは真理によって簡単に解除出来るのです。]

「私にはそんなこと(間違いの修正)は全く起こってない!」とあなたは言ってしまうでしょうか?
しかしそのような傲岸な意識を持って真理を(ガイダンスを)聞き取ろうとしないようにしなさい。
「このようなことは私には簡単ではありません。」と云うような傲岸で愚鈍な見方を持ち込むのは止めなさい。
そのような考えは感情なのです。それはアイディアなのです。
それは評価であり、そのエネルギーによってあなたは聞くことが出来なくなっているのです。
だからこれ(疑い)は有益では無いのです。
そうではなくあなたは「私はそれを感じられる」と言うべきなのです。

フィーリングと感情には違いがあるのです。
あなたが憤慨して怒っている時、あなたが憂鬱に成っている時、あなたが嫉んでいる時、あなたは感情を体験しているのです。
これらの感情は魂(ソール)とは全く関係ありません。
しかしフィーリングは魂とだけ関係しているのものなのです。
フィーリングは愛/喜び/平和/驚きなのです。 
フィーリングとは「(どのようなことにも邪魔されることなく)良きことを認識していること」なのです。
あなた達が普段フィーリングと呼んでいる「感情」は、あなた達がマインドの中に大切に保っているもので、それはマインドの中に長い間持ち続けることが出来るものなのです。
あなたはそれ(感情)を感じることが出来るので、それ(感情)を表明することがあなた自身を正直に表現することなのだと考えられています。
しかし感情はあなたをリアリティ体験(天国と天国の意味を感じること)から遠ざけてしまう誤解であり誤謬なのです。

[Any mistake can be corrected, if truth be left to judge it. But if the mistake if the mistake is given the STATUS of truth, to what can it be brought?]
[もし真理にその裁き(判断)を任せなたら、どのような間違いでも修正出来るのです。しかし、もし間違いに対して真理のステータス(地位)が与えられている場合、この間違いを何の下に持って行けば良いのでしょうか? ]

「正義に成ろうとするゴール」に対して真理のステータスが与えられていた場合{修正が起こらないのです}。
間違いに対して真理のステータスが与えられていた場合、間違いが「最上権威者」に成っており、だから間違いがあなたを統治してしまうのです。
こうして死の恐怖(リアルな独立存在に成ろうとして失敗することに対する恐怖)から立ち昇ってくる中毒から解放されなくなってしまうのです。
しかし「独立存在に成ろうすることに対する中毒からの解放」が目覚めなのです。
これがアトーンメント(贖罪/和解)なのです。

[The "holiness" of sin is kept in place by just this strange device.]
[罪の「神聖」はこの奇妙な装置(間違いに対して真理のステータスが与えられていること)によって保たれているのです。]

「奇妙な装置」とは何のことでしょう?
「間違いを真理(正義)のステータスまで引き上げてしまうこと」がこの装置なのです。

[As truth it is inviolate, and everything is brought to IT for judgment.]
[真理というステータス(立場)が与えられている(真理として認識されている)罪は不可侵で、全てがその下に持って来られて裁かれるのです。]

一生懸命全てが罪の下に持って来られているのは{あなたが思考から全てを判断しているのは}、これを(全てを罪の下に持って行くことを)執拗に明確に理論正しく行ない続けなければ、あなたが権威を持った独立存在としてリアルに成ることが遅れてしまい、あなたが死んでしまう{と信じられている}からです。

間違いが真理のステータスに引き上げられている限り、
[As truth it is inviolate, and everything is brought to IT for judgment.]
[真理というステータス(立場)が与えられている(真理として認識されている)罪は不可侵で、全てがその下に持って来られて裁かれるのです。]

しかし、
[As a mistake, IT must be brought to truth.]
[しかし間違いとして認識された罪は真理の下に持って行かれます。]

あなたが間違いを真理の下に持って行こうとしていないのは、あなたが間違いに決意/信心を与えているからです。
だからあなたが信じている間違いには「罪」という言葉が当て嵌まるのです。
何故なら、{そうしている時}あなたは眠り続けることに決意を与えているのだから。しかし眠り続けることに成功することは不可能なのです。それは達成不可能なのです。
そしてあなたが間違いの影響下に居る時、あなたはその間違い(独立を達成することが可能だという考え違いとそれに付随した誤解)を認識することが出来ないのです。

[It is [however] impossible to have faith in sin, for sin IS faithlessness.]
[罪に対して信心を持つことは不可能です。何故なら罪こそが不信心なのだから。]

そして不信心とは『「自分は父から独立している」とあなたが主張し、あなた自身に依存しようとすること』なのです。

[Yet it IS possible to have faith that a mistake can be corrected.]
[しかし「間違えが修正出来る」ということに対して信心を持つことは可能なのです。]

だから全人間的状況は、あなた自身の権威の下に何者かに成ろうとする試みは、達成不可能であると私は言っているのです。
だから「これ(神からの独立)を達成出来ると考えているあなた達の中毒的信念」は間違いに過ぎないのです。
これは間違いなので、これはエラーなのです。
そしてエラーは修正可能なのです。
そしてエラーの修正はとてもシンプルです。

[There is no stone in all the ego's embattled citadel more heavily defended than the idea that sin is real; the natural expression of what the Son of God has made himself to be, and what he IS.]
[エゴの戦いの砦の中で「罪がリアルであるというアイディア」以上に強く守られている石はありません。「罪がリアルであるというアイディア」が「神の子が{神に逆らって}自分として作り上げた存在」のナチュラルな表現であり、彼が(神の子が自分としてでっち上げた存在が)そのアイディアなのです。]
そのような主張がされている訳です。

[To the ego, this is NO MISTAKE.]
[エゴにとっては、これは間違いではありません。]

正義(自己正当性)への決意はエゴにとっては正しいことで、これを間違いとして見ることは出来ないのです。
これ(自己主権)はとてもリアルに正当に見えるのです。
しかし正義(自己正当化)のゴールは、正義そのものではなく、「リアルでないものをリアルにしようとすること、実在していない自己をリアルにしようとすること」がその最終ゴールなのです。

[To the ego, this is NO MISTAKE. For this IS its reality; this is the "truth" from which escape will always be impossible.]
[エゴにとってはこれは間違いではありません。何故なら(エゴにとっては)これがリアリティで、これが(そこから決して逃れることは出来ない)真理なのだから。]

だから、{分離した独立存在に成ろうとする}この中毒の影響下に居ない者からの視点が提供されなければ、これ(目覚めること)は不可能なのです。

[This is his past, his present and his future.]
[これが彼の過去であり、現在であり、未来なのです。]
「分離のゴールを達成しようとしている者」にとっては、これが彼の過去であり、現在であり、未来なのです。

[For he has somehow managed to corrupt his Father, and changed His Mind completely.]
[何故なら、彼は何とかして自分の父を堕落させ、父の「マインド」を完全に変えさせたのだから。]

本当に父とそのマインドを堕落させる(劣化させる)ことは勿論出来ません。
しかしそのように出来たと信じられてしまっているのです。
父のマインドが完全に変えられてしまっていると信じられていなかった場合、「自己主張/正義/自己主権に中毒する行為をしようとする人」は誰も居なくなるのです。

[Mourn, then, the death of God, Whom sin has killed! And this would be the ego's wish, which in its madness it thinks it has ACCOMPLISHED.]
[ならば、罪が殺した神の死を嘆きなさい!これがエゴの願いなのです。 この狂気の中でエゴはこれを達成したと考えているのです。]

これは実際には達成されておらず、これは真実ではなく、「人間的状況に結び付けられている苦しみ」からあなたは簡単に解き放たれることが出来るのです。 何故ならそれはエラーなのだから。それは間違いに過ぎないのだから。

[Would you not RATHER that all this be nothing more than a mistake, entirely correctable, and so easily escaped from that its whole correction is like walking through a mist into the sun? For that is all it is.]
[あなたはこれが唯の間違いであった方が良いとは思いませんか?これが完全に修正可能で、簡単にそこから逃れられることが出来、この修正が霧を通り抜けてお日様の前に進み出るぐらい簡単なら良いとあなたは思いませんか?そしてその通りのことが実際に可能なのです。]

信じ難いですか?
失礼ですが、そのようなフィーリングやアイディアを持ち込みながら「ここの真理は何ですか?」と訊ね聞くこと(真理を知ろうとすること)は止めなさい。
「あなたの道に影を投げ掛けて光りを見難くしてしまうもの」を持ち込むのは止めなさい。「影が指し示している者」に成るのは止めなさい。
影(疑い)を手放しなさい。間違いを放棄しなさい。

[Perhaps you would be tempted to agree with the ego that it is far better to be sinful than mistaken.]
[もしかしたらあなたはエゴと合意するよう誘惑されるかもしれません。 「罪深くしている方が、間違っているよりもまだマシだ」とあなたは思っているかもしれません。]

「間違えるぐらいなら「成就/充実/自己権威を約束している中毒的ゴール」を持ち続けるほうがましだ!」(と思ってしまう訳です。)
何故なら、もしあなたが間違っていた場合、あなたは自分の生命を保証している筈のことを止めなくてはならないのだから。
だからもしあなたが間違っていたなら、あなたの生命は保証されないことになり、それはあまりに危険なのです。 それは余りに非リアルだと考えられるのです。
しかし{あなたが独立のゴールを手放そうとする}ここが全体性/健全/神聖への入り口であるということが事実なのです。

[Yet think you carefully before you allow yourself to make this choice. Approach it not lightly, for it IS the choice of hell or Heaven.]
[しかし自分にこの選択をさせる前に注意深く考慮してください。この選択を軽々しく行なわないで下さい。 何故なら、これは天国と地獄の選択なのだから。]

あなた達は罪/病/死を体験していたり罪の被害に遇っているように見えているので、あなた達は既にこの選択を行ったのです{父からの独立/分離を選択したのです}。
だから「聖霊/あなたのガイド/イエス/神」が中毒の外から真理をあなたの意識まで持ってこなければならないのです。 そして中毒的視点を突き破り、「中毒と関わっていないアイディア」を導入して、するとあなたはインスピレーションを受け取り「おお!別の見方をすることが出来る。違う視点からこれを見ることが出来る」と言うのです。
こうしてあなたは{聖霊/神の視点/インスピレーションを}招待するのです。

罪とエラーの主題はとても複雑で重いものに思われるかもしれません。
罪はとても巨大で重くあらゆる所に在ってあなたをコントロールしており、罪があなたを不利にしているので、あなたは罪を無視して残りの人生を何とかやり過ごした方が良いように考えています。
しかしこれを考慮してみることが必要で、これは興味深く、罪とエラーの違いを理解することは簡単なのです。
わたし達は「あなたが罪をどのように使っているか、あなたがどのように目覚めをボイコットしているか」話して来たので、これがより解り易くなって来ています。

あなた達はすぐに後戻りしてしまい、あなたの最上の思考/判断/限定/共同合意に依存することに戻ってしまいます。
しかしそれらの「共同合意されている定義/限定された見方/常識」を尊ぶ必要は無いのです。
あなたは自由にそれらを手放し「罪の幻想を解除し修正する視点」を選ぶことが出来るのです。 それは(罪だと思われていたものは)間違いなので修正可能なのです。



Chapter 19 – Section: SIN VERSUS ERROR
2 Sparkly Book – p.454, 3rd Full Par. / JCIM – p.190, 3rd Full Par. / CIMS – p.382, Par. 22
Chapter 19 – Section: HEALING AND FAITH
First Edition – p. 375, Last Par. / Second Edition – p.403, Par. 6

テーマ : スピリチュアル
ジャンル : 心と身体

ACIM12-08-04

新しいセクションに入ります。

[SIN VERSUS ERROR]
[罪とエラー]

何故ここで唐突に「罪」や「エラー」という言葉が出てくるのでしょうか?
先週わたし達は下記の文章を読んでいたというのに。

[Let then, your dedication be to the eternal, and learn how NOT to interfere with it and make it slave to time. For what you think you do to the eternal you do to YOU. Whom God created as His Son is slave to nothing, being lord of all along with his Creator. You can enslave a body, but an IDEA is free, incapable of being kept in prison, or limited in any way except by the mind that thought it. For it remains joined to its source, which is its jailor or its liberator, according to which it chooses as its purpose for itself.]

[だから、あなたの献身は永劫(eternal)に対して与えなさい。そして、その(永劫の)邪魔をしてそれを時間の奴隷にしてしまわないように学びなさい。何故なら、自分が永劫に対して行なっているとあなたが考えていることを、あなたは「あなた」に対して行なうのだから。「神が自身の子として創造した者」は何者の奴隷でもなく、創造者と共に立っている全ての主なのです。あなたは体を奴隷化することが出来ます。 しかし「アイディア」は自由で、それを牢獄に押し込めたり、何らかの方法で限定することは出来ません。「それ(アイディア)を考え出したマインドだけが、それ(アイディア)を限定することが出来る」ということだけが唯一の例外なのです。何故なら、それ(各アイディア)はその源と繋がり続けており、それ(マインド内のアイディア)がそれ自身の目的としてそれ自身の為に行なった選択によって、それ(マインド)は体を監獄に閉じ込める者にも体の解放者にも成れるのだから。]

コース(ACIM)のより前の部分には「信心を持つことが癒やすことなのです。」と書かれていました。
そしてどのようにすれば信心の実践を通して癒しが起こるか(何故ならば癒やしと信心の実践は切り離せないのだから)示す文章を読みました。

それから、
[Let then, your dedication be to the eternal, . .]
[だから、あなたの献身は永劫(eternal)に対して与えなさい。]

そして今唐突に「罪とエラー」というセクションが表れました。
わたし達は「聞くこと」と「考えること」に関して話しており、それらが全く異なる対岸の上に立っていること{聞くことと考えることが全く異なる状態であり、異なる結果を引き出すこと}を示しました。 それらはお互いと全く繋がっていないのです。
わたし達は「信心」と「不信心」に関して話しました。
これら二つは断絶した対岸にそれぞれ立っているのです。
「信心」と「不信心」はお互いと繋がっていないのです。

そして信心は、あなたが表現/表明することではなく、あなたが与えるもの{そしてあなたが受け取る}ものであることをわたし達は示しました。 
あなたは父か精霊に注意を与え「真理が何か知りたい」と求め訊ねるのです。そしてあなたは思考を静まらせ聴くのです。 
だから「考えること」と「聞くこと」は相容れないのです。
あなたは耳を澄ませ、あなたに聞こえて来ることがあなたを満たすことを許すのです。そしてあなたは「聞き取れるまでどのような邪魔にも気を取られないように」決意するのです。 何故なら聞くこと/聞き取ることが{聖なる瞬間の}要点なのだから。
そしてあなたが聞いた時、あなたは自分が理解と(神からのギフトである)信心で満たされていることを見つけるのです。
信心は、あなたが実践するものではなく、あなたが受け取るものなのです。




信心は(あなたが理性的マインドと呼んでいる)エゴにとっては理屈に合わないのです。 何故ならエゴが使っている不信心は、独立した変革の使者に成ろうとしてあなたがあなた自身だけに依存している状態なのだから。



{上記の翻訳文は原文を大幅に書き換えたものなので、原文とそれを忠実に訳した文も載せておきます。 原文もその忠実な訳文も意味は不明瞭です。

Faithlessness, on the other hand—and I am repeating myself because it’s important for these things to be very clear—faithlessness doesn’t make sense to the ego, to what you would call the rational mind, because faithlessness is when you’re relying on yourself alone as an independent agent for change.

それに対して不信心は(あなたが理性的マインドと呼んでいる)エゴにとっては理屈に合わないのです。 何故なら不信心とは、独立した変革の使者に成ろうとしてあなたがあなた自身だけに依存している状態なのだから。

つまり一番初めの「不信心」は「信心」の言い間違いなのです。 このような混乱はACIMテキストそのものにも(そして神からのアイディア/インスピレーションを元に書かれている他の多くの文章にも)頻繫に見受けられる現象です。 訳注}

これ{自分の思考を使って神から独立した存在に成ろうとすること}は信心の行為に見えるのです。何故ならその時あなたは自分の信心(確信/信念)を状況の中に導入しようとしているのだから。
『「真実が何か?」自分の源/父/神に訊ねて知ろうとする熱望』を全く持たずにあなたが自分自身だけに依存している時、あなたは確実に孤児として振舞っているのです。その時あなたは全てを誤解するポジションに自分を据えているのです。
あなたはこうして「天国を天国として見ることが出来ない積極的無知の状態」にあなた自身を置いてしまうのです。 その場合あなたは天国を、天国としてではなく、物理的宇宙として体験してしまうのです。

つまり信心と不信心は対等/同質ではなく、全く違うものなのです。
それらはそれぞれ違う岸の上に立っており、それらが立っている岸の間には変えようのない亀裂が在るのです。 そしてあなたが信心と不信心のどちらの岸の上に立つかによって、リアリティに対するあなたの体験(真の体験をするか偽りの体験をするか)が決まるのです。
{あなたが不信心を使うか、信心を父から受け取るか}この選択が世界を決めるのです。
何故なら、天国の調和は生命そのものだけを体現/表現しているの対して、「天国以外のもの」は「罪/病/死、その他の人間的状況のあらゆるネガティブな要素」を表現しているのだから。

さて先週のわたし達の話を聞いた後では、「父に向き合って聖なる瞬間の実践だけをすればそれで全てOKな筈だ」とあなたは考えてしまうかも知れません。
父の反応(答え)があなたに届き理解されるまで父に注意を与え続けて、あなたの中に流入して来る父からのインスピレーションによって、あなたの兄弟姉妹を真理の光りの中で見るのです。 
何故なら、信心があなたにギフトとして与えられるプロセスの中で兄弟姉妹の真理が示されるのだから。
するとあなたのヴィジョンの無垢故に「兄弟姉妹に対して癒しが自動的/瞬間的に起こること」が見える筈なのです。
しかしこれが常に起こっては居ないのです。だから{何故癒しが常に起こっていないか説明する為に}わたし達は罪とエラーの違いを説明するテキストを今から読むのです。

(今まであなたが体験していなかったような)「信心/理解/スピリチュアルな明晰」であなたが満たされ、あなたの兄弟が光りで(驚異的癒やしの視界で)照らし出されたなら、
そうなった時あなたの振舞い(在り方)が瞬間的に変るのです。何故なら、その時あなたは「あなたが体験している新しい明晰/洞察」の中から兄弟と関わらずにはおれないのだから。
その時そこに修正の必要(call for correction)が在ったなら、あなたが修正の必要を見て信心と理解があなたを満たしたなら、その時二つの可能性があります。
その時、瞬間的な癒しが起こるか、それとも瞬間的な癒やしは起こらないのです。
もしかしたら癒しが受け取られるかもしれません。癒しがあなたの兄弟姉妹よって許可され、あなたの兄弟が癒やしを受け入れ、彼自身を縛ってきたものを手放すかもしれません。
しかしあなたの兄弟が修正を求めない可能性もあるのです。 

あなたはこれを理解する必要があるのです。私が教えていることが無意味である(間違っている)とあなたが考えてしまわないように。 あるいは「自分は聖なる瞬間を正しく実践していないに違いない、修正が行われないのは自分のせいに違いない」とあなたが考えてしまわないように。
例えばあなたが「コースを学習している他者」と話していて、その人が聖なる瞬間を自分だけで(聖霊の助けを得ずに)理解してたなら、その人が彼自身だけの視点から「わたし達が先週話していたこと」を理解していたなら、その人は「私に関してはどんな修正も必要がありません」と言ってしまう傾向があるでしょう。
「それはあなたの視点であって、その視点は間違っており、あなたはそれを私に投射しているのです。」と、彼は言ってしまうかもしれません。
彼がそう言ってしまうのは「必要とされている修正を遅らせようとしてしまうこと」がその理由なのです。

他者の視点を非難して(「そのような誤った理解をしているあなたは間違っている」と言って)他者に罪悪感を与えて必要な修正を避けてしまうのはとても容易です。
しかしこのようにしてお互いに言い合ってアイディアをやり取りすることは、「罪悪が本来所属していない場所」に罪悪を置こう(見よう)とすることは、修正を遅らせる方法でしかないのです。
「罪とエラー」は基本的に「思考」と「聞くこと」に対応しています。 「罪」と「エラー」は「信心」と「不信心」に対応しています。

本を読みましょう。
[It is essential that error be not confused with “sin,’’ and it is this distinction which makes salvation possible.]
[エラーと「罪」を混同しないこと(エラーを罪と考えないこと)が重要なのです。この違いが救済を可能にするのです。]

何が罪とエラーの違いなのでしょうか?
「あなたは罪を保とうとしてしまう傾向がありますが、あなたはエラーを保とうとは願いません。」
これが罪とエラーの違いなのです。
エラー(間違い)は痛みをもたらしますが、あなたは痛みは求めません。
あなたはエラーは喜んで手放すのです。
しかし「あなたが持ち続けたいと願っているエラー」が罪なのです(とここではそう言いましょう)。 罪とは「あなたが手放したくないもの」なのです。

例えばあなたが熱を出していたとします。あるいはお腹が痛かったり、突き指をしていたとしましょう。
それらのこと(怪我/病)をあなたは保ちたいとは絶対思わないでしょう。
あなたが「ヘルプ」と言っている時、あなたは痛み/ストレスを本当に手放したいと願っているのです。
何故なら「痛みやストレスを持つこと」はエラーであって。エラーは確かにあなたのマインドの中にあるのです。あなたが苦しんでいるのなら「あなたの神聖、神聖なあなた、神が作ったままのあなた」に対する誤解があなたのマインドの中に在るのです。
そしてそれらを体験し続けることはあなたの生得権(当然の権利)ではないのです。
だからあなたはそれらの誤解/痛み/ストレスから解き放たれるべきなのです。
あなたの体験内にそれら(痛み/ストレス/誤解)が入ってこないようにするだけでなく、それらがあなたの体験内から瞬間的に出て行くようにすることがあなたの生得権なのです。 何故なら、神はそれら(痛み/ストレス/誤解)を定めておらず、従ってそれらが居残ることは正当ではないのだから。

癒やしとは不快なことからの解放なので、だからあなたは癒やしを求めるのです。
思考の結果が罪/病/死(あらゆる形の痛み)であって、だからあなたが思考を止めた時、あなたが思考を放棄して答えを聞こうと選択した時、あなたは聞く意志を持っているのです。
「あなたが痛みから解放されるようにあなたの為にあなたの真理を聞こうとしている兄弟」と「あなた」が繋がった時、あなたは「あなたを解き放つ答え」を聞こうとしているのです。

では罪とは何なのでしょうか? 罪とは思考のようなものです。 
いええ、もっとクリアに言いましょう。
思考が罪なのです。

思考とは「神の聖なる息子/娘であるあなた」があたかも「自分は神の子ではない、自分は独立した存在であって、自分はエーテルや物質的物体などが偶然に進化し始めて出来たものなのだ」と言ってそのように振舞おうと固執することなのです。
この思考が誤認識を作り、天国に対する歪んだ体験を作っているのです。

では罪はどのようにして始ったのでしょうか?
本当のところ、これ(罪)は一つのことから始まっているのです。
それは{罪の実体は}「あなた達が話し続けている複雑な罪深さ」とは関係がないのです。
罪とは(神の子供達である)あなたとあなたの兄弟姉妹が神に対して「父よ、私はあなたから離縁したいです。父よ、私は自分だけで立っていたいです。父よ、私が全ての意味を決定したいです。」と言っている状態を記述/説明しているのです。
「私、私、私、私が私を偉大にしたい。 私は私を神にする行動を行ないたい。」
{罪とはあなた達がそう言っている状態なのです。}

これはどのような状態なのでしょうか?
これを神に対する攻撃と呼ぶことも可能です。 何故なら、この状態のあなたは、あなた自身を神(あなたの源、あなたの父、あなたの母)から分離しようとしているのだから。
この時あなたは、あなた自身に対する新しい源を作ろう{自分が自分の父に成ろう、自分が自分の源になろう}としているのです。
だからこれは原罪(根源的罪)と呼ばれているのです。 これはあなた達の根源/出生に関する間違った信念、つまり間違いなのです。
そしてあなた達はこの間違いを現実化しようとしてしまうのです。これは独立的存在として自分を現実化しようとする試みなのですが、あなた達(わたし達)がそのように存在することは不可能なのです。
あなた達がこれを試みることが出来るのは、あなた達が既に創造されているからです。 あなた自身の手によってではなく...{神が既にあなた達を作っているので、あなたは既に存在しており、そのあなた達がより独立的な存在に成ろうとして試みているのです。}
「父よ、私は自分自身でやりたいです。父よ、私が自分で物事を決めたいです。」とあなたが言っている時、あなたは不可能なことをしようと試みているのです。 その時あなたは罪を行なおうとしているのです。
しかしそれだけではありません。
何故なら「創造のここを変えて、創造のあそこと遊んで、という風に創造と戯れること」と「決意を持ってそれをすること(創造を変更して神から分離しようとすること)」は違うのだから{それらは根源的に異なる体験をもたらすのだから}。
独立的に働こう(独立的に振舞い存在しよう)とする決断が一旦行なわれたなら、この不可能なことを成功させようとして「あなたの存在のパワー(それは感情的なエモーショナルなものです)」が決意と共に立ち上がってくるのです。
この不可能なこと(独立/分離)を成功させようという決意が、中毒の本来の(そしてリアルな)意味なのです。

様々なことに中毒することがあなた達には可能です。
ヘロインやマリファナに中毒したり、ジュジューブ(ナツメの実のキャンディー)に中毒したり。物凄く酷くはないものに中毒することも可能です。蝶を集めることに中毒することも可能です。
しかしあなた達は何かに耽溺し切っており、これらのより軽症な中毒症状は『本当に存在している唯一の中毒』を反映しているだけなのだ、という事が要点なのです。
それは「目覚めないこと」に対する中毒なのです。 「あなたという神の聖なる子供に成らないこと」への中毒なのです。

あなた達は「目覚めたい」と言ったり「私はコースをとても愛しています」と言ったり「ラジが言っていることを私は愛しており、私はそれを学んで実行しています」と言ったりしています。
しかし自分達がその実践において躓いていることをあなた達全員は知っています。
「そういう癖が付いているもので、私は考えることに慣れ切っているから、私は物事を見極めようとすることに慣れ親しんでいるから、私は躓いてしまうのです。」 {とあなた達は言っています。}

しかし{あなた達が躓いている理由は}それだけではないのです。
あなた達は「父無し子/母無し子/自治的独立存在に成ろうとする試み」を放棄したくないのです。
あなたはそれ(独立/分離しようとすること)に中毒しており。だからあなたは躓いてしまうのです。 あなたは本当にそれを(独立の試みを)尊んでいるのです。
{あなた達は、父と共に在ることよりも、独立したままで居ようとすることを好んでいるのです。}
だからあなた達は「兄弟姉妹や家族や隣人が修正/癒やしを拒んでいること」を見ているのです。
そして目覚めていないあなた達一人一人は今全員全く同じことをしているのです。

「不可能なことを強迫観念的に達成しようと試みること」だけが罪の意味(意図)なのです。
『あなたのマインド構造/構成を完全に変えて「あなた自身を神の子として知覚することが考えられなくなるようにしよう」とこだわり続ける試み=分離/独立』に関してわたし達は話しているのです。

だから、
[It is essential that error be not confused with "sin," and it is this distinction which makes salvation possible. For error can be corrected, and the wrong made right.]
[エラーと「罪」を混同しないこと(エラーを罪と考えないこと)が重要なのです。この違いが救済を可能にするのです。何故なら、エラー(間違い)は修正することが出来るのだから。 ]

何故ならあなたは修正を求めているのだから。 あなたは痛みは求めておらず、あなたはエラーを持ち続けようとは思わないのだから。
何故なら{罪とエラーを混同しなくなった}あなたはもうそれら(罪)を使ってあなた自身を偉大にしようとはしていないのだから。あなたはもうそれら(罪=思考)を使って(偉大なコントロールとパワーを持った)自己を作ろうとはしていないのだから。

[But sin, were it possible, would be irreversible.]
[しかし罪は(もし罪が可能だったとしたなら)変えようがないのだから。]

もし罪が可能だとしたなら、それを修正することは出来ないのです。

[The belief in sin is necessarily based on the firm conviction that MINDS, not bodies, can attack.]
[罪の信念(罪への信頼)は必然的に(体が攻撃するのではなく)「エゴの卑小なマインドには攻撃することが出来る」という硬い確信に基づいているのです。]

そしてあなた達全員はこの技(マインドによる攻撃)をとても巧妙に使っているのです。もしかしたらあなたはこれを頻繫に行ってはいないかもしれませんが、もし必要になったなら、あなたはそれを何時でも行なう用意があるのです。

[The belief in sin is necessarily based on the firm conviction that MINDS, not bodies, can attack. And thus the mind IS guilty, and will forever so remain unless a mind not part of it can give it absolution.]
[罪の信念(罪への信頼)は必然的に(体が攻撃するのではなく)「エゴの卑小なマインドには攻撃することが出来る」という硬い確信に基づいているのです。このようにしてマインドが有罪にされており、「それ以外のマインド(マインドは攻撃することが出来ると信じていないマインド)」が「そのマインド(マインドには攻撃が可能だと信じているマインド)」に赦免を与えない限り「マインド」は永遠に有罪であり続けるのです。]

実際に修正されるべき「攻撃の形」とは『あなたが「父よ、私は自分の為に物事を行いたいです。私は離縁を求めます。」と言っている状態』だけなのです。
それ以外の全攻撃は、このこと(あなたの独立の主張)を反映/猿真似しているだけなのです。だからそれらの真似事を解除したとしても、原初の攻撃は解除されないのです。
しかしあなたが原初の攻撃を解除したなら、全ての真似事(攻撃)が止まるのです。

[And] thus the mind IS guilty, and will forever so remain unless a mind not part of it can give it absolution.]
[このようにしてマインドが有罪にされており、「それ以外のマインド」が「そのマインド」に赦免を与えない限り「マインド」は永遠に有罪であり続けるのです。]

「それ以外のマインド」とは、「それ(攻撃したマインド)を免罪することが出来るマインド」とは、聖霊のことです。
あなた達に無視されている神の聖なる子供が、自治的に独立する試みに関わらなかった神の子が、聖霊なのです。
聖霊の役割は父との離縁を取り消すことなのです。
聖霊の役目はあなたの正気を取り戻させることなのです。
聖霊の働きは「この罪{分離/攻撃}が罪(リアル)ではなかったことをあなたに明確に示すこと」により、あなたのマインドを癒やすのです。
起こったことはエラーでしかなかったので、それは取り返しよう(修復しよう)がない訳ではないのです。
あなたが{神/聖霊/ガイドと繋がって}この全てを見たなら、それはあなたが持ち続けようとは思わないエラーなのです。 丁度盲腸炎の盲腸や、足の指の出来物のように{あなたはそれを喜んで手放そうとするのです}。

[Sin calls for punishment as error for correction, . .]
[エラーが修正を必要としているように、罪は罰を呼び求めるのです。]

エラーが修正を呼び求めているように、罪は懲罰を呼び求めるのです。

[Sin calls for punishment as error for correction, and the belief that punishment IS correction is clearly insane.]
[エラーが修正を必要としているように、罪は罰を呼び求めるのです。そして罰が修正であるという信念は全く狂気なのです。]

人々は、その狂気の中で、修正の道具として懲罰を使っているのです。
人々は懲罰を修正として使っており、あなたはそのことを知っています。
「罪がリアル/現実である」とあなたが考えている時だけそれ(懲罰)が有効に見えるのです。 「自分が追い求めている独立は本当に現実化出来る」とあなたが考えている時だけ、罪がリアルに見え、懲罰が有効に見えるのです。
しかしこの独立をリアルにすることは出来無いのです。
そして懲罰はそれ(独立の試み/間違い)を決して修正しないのです。
それ(独立)を放棄することだけが、それ(エラー)を修正する唯一のことなのです。

[Sin is not an error, for sin entails an arrogance which the idea of error lacks.]
[罪はエラーではないのです。 何故なら、罪は(エラーのアイディア内には含まれていない)傲慢(おごり高ぶる心)を内包しているから。]

傲慢から盲腸炎に成っている人は誰も居ないのです。傲慢から足に出来物を作っている者は誰も居ないのです。傲慢から肺炎に成っている人は誰も居ないのです。

[To sin would be to violate reality, and to SUCCEED.]
[罪とはリアリティを侵害しようとして、それに成功することです。]

真理を知らせることが私の役目なのです。
これら全て{あなたがリアリティを侵害しようとしておりそれに成功していると考えていること}はエラー(間違い)であって修正可能で、「逃れることの出来ない懲罰を必要とするような罪」は起こっていないと示すことが私の役目なのです。
あなたが{聖なる瞬間/二つのステップを行なって}兄弟と聖なる関係を持ったなら、「何が兄弟に対する真理か?」あなたが父に訊ねたなら、その時あなたは「兄弟の問題は(その懲罰を逃れることが決して出来ない)罪の結果ではなく、兄弟の問題は修正可能な間違いであること」という事実のデモンストレート(実行)を支援しているのです。
あなたが聖なる瞬間を実践して父から真理を知りたいと願った時、あなたのその行為の働きが癒やし(兄弟によって受け取られる修正)の原因になるのです。

[Sin is the proclamation that attack is real and guilt is justified.]
[罪とは、攻撃がリアルだという宣言であり、罪悪が正当化されているという宣言なのです。]

罪とは「あなた(私)が確かにあなた(私)の父を否定しており、父があなた(私)を赦すことは決してない。そしてあなた(私)は決して故郷に帰れず、だからあなた(私)は自分だけで生きていかなくてはならない。」という宣言なのです。
しかしこれは実際にはエラーであり。真実ではないのです。

[It assumes the Son of God is guilty, and has thus succeeded in losing his innocence, and making himself what God created not. Thus is creation seen as not eternal, . .]
[それは神の子が有罪だと想定し、だから神の子が自身の無垢を失うことに成功しており、神の子が自分自身を「神が創造しなかったもの」として作り上げていると想定しているのです。このようにして創造が永遠ではないものとして見られており、]

あなた達は独立しようと試みることにより不信心を実践しており、それにより天国が物理的宇宙/世界に見えているのです。

[Thus is creation seen as not eternal, and the Will of God open to opposition and defeat.]
[このようにして創造が永遠ではないものとして見られており、神の意志に反逆してそれに打ち勝つことが可能だと見られているのです。]

これは真実ではないのですが(神の意志に打ち勝つことは出来ないのですが)、あなたは思考をだらしなく使うことも出来るのです。 それがあなたの目的に合致するなら、あなたは何でも信じることが出来るのです。
そして神が打ち負かされたと考えることも可能なのです。 何故なら、もし神が打ち負かされていないなら、避けようのない酷い懲罰があなたを待っていることになってしまうのだから。
あなた達は{神からの懲罰に対する}この怖れ故に「独立的に存在しようとすること」により強く中毒しようとしてしまうのです。
神の懲罰に対するこの怖れは、あなたに出来ないことをあなたに一生懸命させて、『「聖なるあなたに成る自由」は「あなたへのギフト」としてあなたの目の前に捧げられている。』という事実に対してあなたを無意識/無自覚にし続けてしまいます。
どのような理由も正当化も無しに知りたいとあなたが願った瞬間に、あなたはこのギフト(聖なるあなたに成ること)を受け取ることが出来るのです。

[Sin is the "grand illusion" underlying all the ego's grandiosity. For by it, God Himself is changed and rendered incomplete.]
[罪とはエゴの誇大妄想を強調している「壮大な幻想」なのです。それにより神自身が変えられ、神が不完全なものとして描かれたのです。]

しかしこれは真実ではありません。
しかしあなたが自分一人で考えようとするなら、あなたが不信心を実践しようとするなら、あなたは天国に(そして神の子に)関して暗い意地悪な辛い体験をするのです。
その理由は、天国の中に居るあなたが「自分は神の子では無い」と信じることに決意を与えているからなのです。
だからそれが罪なのです。{「自分は神の子ではない、自分は神を否定することが出来る」と信じることが罪なのです。}
あなた達は幻想に対して決意を与えており、幻想に中毒しているのです。
これはとても強い決意なのです。

[The Son of God can be mistaken; he can deceive himself; he can even turn the power of his mind against himself. But he CANNOT sin. ]
[神の子は間違えることが出来ます。彼(神の子)は自分自身を欺くことが出来ます。彼は自分のマインドの力を自分自身に向けて攻撃させることさへ出来るのです。しかし彼(神の子)は罪は犯せません。]
あなたは間違えることが出来ます。

[But he CANNOT sin. There is nothing he can do that would REALLY change his reality in any way, nor make him really guilty.]
[しかし彼(神の子)は罪は犯せません。 彼に出来ることで「彼のリアリティを本当に変えられること」や「彼を本当に有罪に出来ること」はありません。]

しかしあなたは罪は犯せません。あなたに出来ることで、あなたのリアリティを本当に変えることは何もなく、あなたを本当に有罪に出来ることも何もないのです。
上記の文章は自分は変わりたくないと思っている人をとても喜ばせることでしょう。
あなたに出来ることで、あなたのリアリティを本当に変えたり、あなたを本当に有罪に出来ることは、何も無いのです。
「おお、ハレルヤー! 私は自分の間違いへの修正を遅らせる正当性(言い訳)を持っているのだ! 私は私が愛しているものをより長く持ち続けられるのだ。」

[There is nothing he can do that would REALLY change his reality in any way, nor make him really guilty.]
[彼に出来ることで「彼のリアリティを本当に変えられること」や「彼を本当に有罪に出来ること」はありません。]
しかし「修正されるべきもの」は依然として修正されなくてはいけないのです。
『「あなたでないもの」に成ろうとする狂気の試み』に対する誤った信念と決意を止める必要があるのです。何故なら、それが(その中であなた達が罪を犯し病気に成り死んで行っている)天国をあなたに物理的世界/宇宙として体験させており、あなたが天国を物理的世界として体験している限りそれ(死/病/罪)は避けられ無いのだから。

これ(神の子以外の者に成ることが出来るという信念とその決意)に対する修正が起こらなくてはならないのです。
これは{あなたが神から離れた独立的存在として物理的世界の中に棲んでいることは}真実ではなく、あなたがこれを知覚していることはキチガイ沙汰なのです。
しかしそれは罪(懲罰されるべきこと)ではないのです。
それは病なのです。
それは間違った理由/理屈により保たれている誤知覚/誤認識なのです。
「あなた達の現在の意識(志向/見方)を共有していない者」があなた達と繋がり、「聖霊のマインドを持っている者」があなた達と繋がり、「あなた達がしていることには修正が必要とされており、この修正から懲罰が下ることはありません」とあなた達に知らせたなら、これらの誤知覚は修正可能なのです。
「それ(間違い)を修正させないことによりあなた達が体験している罪/病/死」から解放されることが可能なのです。

そして私はこれ(間違いの修正)をしているのです。
そして聖なる瞬間の実践を選択した時、あなた達一人一人も聖なる関係の中でこれを行なうのです。

もう一度読みましょう。
[There is nothing he can do that would REALLY change his reality in any way, nor make him really guilty. That is what sin would do, for such is its purpose. Yet for all the wild insanity inherent in the whole idea of sin, it is IMPOSSIBLE.]
[彼に出来ることで「彼のリアリティを本当に変えられること」や「彼を本当に有罪に出来ること」はありません。それら(彼のリアリティを本当に変えること、彼を本当に有罪にすること)が罪の目的で、罪はそれをしようとしているのです。しかし罪というアイディア全体の中にある狂気を持ってしても、それは不可能なのです。]

もし罪が不可能であるならば、罪が起こっているように見えていたとしても実際には罪は起こっていないのです。何故なら、「あなたには成れないものにあなたが成ること」が罪なのだから。
罪とは、神を上手く否定して、そうすることによって神の存在を消すこと(神を殺すこと)なのです。
これをやり遂げることは出来無いのです。これは不可能なのです。
だからあなたのジレンマへの解決は簡単なのです。

[For the wages of sin IS death, and how can the immortal die?]
[何故なら、罪の報酬は死なのですが、不死身な者がどうしたら死ねるのでしょう?]

確かに罪の報酬は死なのです。それは避けようが無いのです。 しかし不死身な者がどうしたら死ねるのでしょう?
だから罪は不可能なのです。

[For the wages of sin IS death, and how can the immortal die?]
[何故なら、罪の報酬は死なのですが、不死身な者がどうしたら死ねるのでしょう?]
罪は無意味で非論理的なのです。

[A major tenet in the ego's insane religion is that sin is not error but TRUTH, and it is INNOCENCE that would deceive.]
[エゴの狂った宗教の主要な教義は「罪はエラー(間違い)ではなく真理だ」ということです。そして「無垢があざむくのだ」(とエゴは言うのです)。]

エゴは「無垢を教える者は欺いているのだ」と言うのです。
あなた達が兄弟と対峙して聖なる瞬間を実践し彼自身の無垢を教えたなら、彼はそれを否定するかもしまうかもしれません。
私があなた達の無垢に関して教えている時、私は真実を述べているのですが、「あなた達の条件付けられている思考」はそれに対してノーと言ってしまっているのです。
「それは良いアイディアですね。 私は神の子なのですね。 しかしそれを私が今体験出来る程それはリアルではないですね。
私は自分の神聖を主張してエラーに直面したままエラーによって動かされないこと(エラーに影響され続けないこと)は出来ません。
私自身の真理と共に存在して、盲腸炎が(5分とか、より短い時間で)消え去ることを見ることは私には出来ないのです。 私にはそれは出来ない。」

私があなた達にこれらのこと(真理)を告げて、その理由をあなたの無垢(神聖)とした時、そして私があなたの無垢を教えた時、それは噓に変えられてしまっているのです。
あるいは何か遠い未来に起こること(しかし今起こってはいないこと)にされてしまっているのです。
こうしてあなたの無垢は否定されてしまい、あなたは苦しみ続けなくてはならないのです。あるいは「自分の神聖をデモンストレート(実現)することはとても難しい」と仮定されてしまうのです。

二つのステップを行なわず聖なる瞬間を持たないことが不信心なのです。
フォロースルーと共に二つのステップを行わないことが不信心なのです。
{天国以外のものが見えていたとしてもそれを信じてしまわず、父に「ここの真理は何ですか?」と訊ねて答えを聞き続けることを(父からの答えを求め続ける状態を)保ち続ける献身と決意がフォロースルーです。}

「あなたを縛っているものは何もないのだから、フォロースルーと共に聖なる瞬間を行ない続けなさい。あなたは罪は犯して居らず、あなたは『成れる筈のないもの/不可能な状態』には成っていないのだから。 あなたは自分が父から離縁していると空想していますが、あなたと父の一体性は全く変わっておらず、それが変わることは決してないのです。」とあなた達に言う為に私はここに居るのです。

[Purity is seen as arrogance, . .]
[純潔/純粋が傲慢として見られ、...]

純粋は『力と操りを使って何でも出来る「憎まれっ子」として存在すること=傲岸』に対する貧しい代用品(より劣ったもの)として見られているのです。
人々は憎まれっ子(有能な独立者)として振舞うことに非常に長けており、このような傲慢は受け入れ易いのです。
そしてあなたがより上手く憎まれっ子(有能な者)に成れたなら、あなたはよりパワフルに成り、あなたに対して私が「ストップ」と言った時あなたがそれを聞き入れる可能性は低いのです。

「問題の修正は、罪/病/死の経路から抜け出す道は、思考を止めて聞き始めることなのです。 あなたの父と繋がることなのです。そしてあなたの父は神なのです、神の聖なる子供よ! 私はあなたに関する真理を告げているのです。」
しかしあなたが「不可能なことを試みてそれを成功させようとすること」にまだ大いなる決意を与えていたなら、あなたはまだ聞こうとは求めないのです。

あらゆる良き者が傲慢として見られ、
[Purity is seen as arrogance, and the acceptance of the self as sinful is perceived as holiness.]
[純潔/純粋が傲慢として見られ、自己を罪深い者として受け入れることが神聖として認識されるのです。]

「私は憎まれっ子(有能な奴)で。私はそれを旨くこなしている。これにも何か意味が在る筈だ。 長い間にはこのことにも何か意義が在る筈だ。時間の中でこのことにも有意義なものが含まれているに違いない。ここにも何か意味があるのだから、私はこれをし続けるのだ。」

[And it is this doctrine which replaces the reality of the Son of God as his Father created him, and willed that he be forever.]
[この教義が「父が創造したままの神の子のリアリティ、永遠にかく在れと父が意図した神の子のリアリティ」に取って替わるのです。]

これがリアリティに取って替わってしまうのです。
あなたは自分のマインドを使って自分自身をリアリティに対して盲目にしており、そしてあなたはこのことにある程度は気付いているのです。
だからあなたは自分が父を否定し攻撃したことを知っており、だからあなたは自分が有罪であることを知っており、だから自分が懲罰を避けることは出来ないとあなたは知っているのです。
こうしてあなたは巧妙にあなた自身を不利にしている(あなた自身に有罪の証拠を言い渡している)のです。
しかしあなたがマインド体操(思考の操り)を全て止めた途端、あなたが思考を止めて「父よ、ここの真理は何ですか?」と言った途端、「あなたは有罪だという証拠」は全て消え去るのです。
罪は起こっておらず、エラーが起こってるだけなので、修正はシンプルなのです。

[And] it is this doctrine which replaces the reality of the Son of God as his Father created him, and willed that he be forever. Is this humility? Or is it, rather, an attempt to wrest creation AWAY from truth, and keep it separate? ]
[この教義が「父が創造したままの神の子のリアリティ、永遠にかく在れと父が意図した神の子のリアリティ」に取って替わるのです。これが謙虚でしょうか? それともこれは創造を真理から捻じ曲げて、真理から隔てておく試みでしょうか?]

[Any attempt to re-interpret sin as error is always indefensible to the ego.]
[罪をエラーとして解釈し直す試みは、エゴにとっては全く許せないのです。]
今さっき私はこれを説明しようとしていたのです。

「このような文章を許可出来なくしてしまう論争」や「罪をエラーとして解釈し直すこの試みを馬鹿げているとあなたに思わせてしまう論理」があなたのマインドの中で起こっている時それに気付けるよう注意深くしていなさい。
あなたの中に沸き上がって来るそれらの論争や理屈の目的は、あなたを動けなくして、あなたが入っている牢屋には鍵が掛かっていないことが発見されないようにしようとすることでしかないのです。

[The idea of sin is wholly sacrosanct to its thought system, and quite unapproachable except through reverence and awe.]
[エゴの思考システムの中では、罪のアイディアはこの上なく神聖で、尊敬と畏怖なくしてはそれに近づくことさへ出来ないのです。]

神の関与を全く必要とはしていないダーウィンの論理(進化論)を考えてみなさい。
{生命が偶然から始ったという主張は}創造と存在が「生きている神/原初の知性/愛/生命/真理/原則/マインド/魂/霊」の証拠ではないと傲岸に主張しているのです。
これは巧妙な思考システムです。
そしてこの思考システムは「あなたは初めから父(神)などというものを持っていなかった、離縁を求めるべき父など初めから存在していなかった」というアイディアを認証しているものなのです。
この思考システムは「あなたは風に吹かれて(あなたは環境/状況が偶然作り上げて来た生物で)、源を持っておらず、存在を持っていない」と言っているのですが、これは真実ではないのです。

{ダーウィン自身は生命が神とは無関係に生まれたとは言っていなかった筈です。 しかし進化論は往々にして神の不在を説明する論理として論争の対象に成っているようです。訳注}

[It is the most "holy" concept in the ego's system; lovely and powerful, wholly true, and necessarily protected with every defense at its disposal.]
[それ(罪のアイディア)はエゴのシステムの中の一番「神聖な」概念で、(エゴの中では)愛に溢れてパワフルで全く正しく、だからエゴが持っている全ての防御によって(罪のアイディアは)必然的に守られているのです。]
つまりエゴのシステム内の一番神聖な概念は「罪が真理であって、罪はエラーでは在り得ない」なのです。

[For here lies its "best" defense, which all the others serve. Here is its armor, its protection, and the fundamental purpose of the special relationship in its interpretation.]
[何故なら、ここに{罪のアイディアはこの上なく神聖で、尊敬と畏怖なくしてはそれに近づくことさへ出来ない、という考えの中に}その最上の防御が存在しており、その他全て(の防御)はこれの為に働いているのだから。]

それはあなたを何から守ろうとしているのでしょうか?
それは「神が存在しているという真実、あなたは神が全ての瞬間に新しく行ない続けている直接表現なのだという真実」に対してあなたを防御しようとしているのです。
生きている現在の神の生きている現在の表現があなたで、あなたは神聖で、あなたが無限に存在している環境が天国で、あなたはそれをどのような歪みも無く体験しているべきなのです。
そしてあなたはこの体験を持つことが出来るのです。
あなたは取り消せないようなことは何一つ行なっていないのだから。自分の生得権を体験出来なくしてしまうようなことをあなたは何一つしていないのだから。
「修正可能なエラー」だけが「栄光に満ちたクリアなリアリティ体験」からあなたを別け隔てている唯一のものなのだから。
この間違いは、それ自体で永遠に意味を持ち続けられるようなもの(それ自身で永遠に存在し続けられる様なもの)ではないのです。
あなたがこの間違えをただ手放したなら、それは消えて行くのです。
これだけシンプルなことなのです。

さて今晩は次のことに関しても少しだけ話しましょう。
『「修正されるべきこと」を保ち続けようと固執してしまう者達』が居るので、聖なる瞬間の実践が必ずしも修正をもたらさないと知った今、そのような状況に直面した時どうするべきか(今までとは違うどのようなことをするべきか)あなたは考慮する必要があるのです。
自分がどのようなことをするべきか想像/考察するのではなく、あなたには聞いて欲しいのです。
あなたの内側に訊ねて欲しいのです。 「何をするべきか?」と。
「癒やしを拒んでいる人に対してどうすれば良いか?」あなたの内部に訊ね聞いてください。


Chapter 19 – Section: SIN VERSUS ERROR
1 Sparkly Book – p.453 / JCIM – p.189 / CIMS – p.381
Chapter 19 – Section: HEALING AND FAITH
First Edition – p. 374 / Second Edition – p.402


テーマ : スピリチュアル
ジャンル : 心と身体

フリフリしっぽさんへ、追伸

私にも話させなさい。
『ハイハイ、どうぞイエスさんでーす。』

私が必要としているのは、「神に対して無意識なまま問題なく過ごして居たり素晴らしい人生を送っている人」ではなく、神に従順な人です。 
神に従順な人は、お金が在っても無くても私(聖霊/神/イエス)の言葉を聞くのです。 
神に従順な人は、健康でも病気でも私の言葉を求めるのです。 
もしあなたが破滅を体験した結果として自分の独立(自分一人だけの視点)を放棄して、あなたの意識の中に余白が生まれ、そこに私が侵入して、あなたが私を認めたなら、それがあなたの永遠の命なのです。

あなたに聞こえる私の言葉があなたの幸福なのです。
お金が足りても足りなくても揺ぎ無く私と繋がっていること、これを私はポールに(そしてあなたに)教えているのです。

例えあなたが病気だったとしてもあなたが罪を犯している訳ではありません。 病気であるあなたは無知なのです。 死んだり生きたりを繰り返しているあなたは生命を誤解しているのです。 そして神とひとつに成るまであなたは死んだり生きたりを繰り返すのです。

『ゲー! これを書いて出すのー。 まあいいか。俺が考えたんじゃないし。 でも編集はしてます。そうでないと誤解される表現になってしまうから。 編集の必要はラジの翻訳にも当て嵌まります。 インスピレーションや啓示をそのまま出すだけでは真意が伝わらない場合も多いです。』

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翻訳 岡上

Author:翻訳 岡上
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