2012年11月12日
二つのステップを実践している時あなたは平和を実行しているのです。
あなたはあなたの中の祭壇(パーソナルでプライベートで忙しいあなたの思考に占領されていない静けさ)を選んでいるのです。
この内なる静寂の中で、外のものには注意を与えていない所で、真理を知りたいとあなたは求めるのです。
あなたは父の視点を求めるのです。 そして父の視点/視界は初めからあなたの中に置かれており、あなたの中から父の視点が取り外されたことは今まで一度もないのです。
平和を選ぶプロセスには四つの障害があります。
第一の障害は「平和を捨てたくなること」です。(これに関しては既に述べました)
第二の障害は「体が提供しているもの故に体に価値があるという信念」です。(今夜はこれに関して述べます)
第三の障害は「死の魅力」です。
そして第四の障害が「神への怖れ」です。
これらは1234と進むにつれてより難しく見えることでしょう。
だから最後の障害が「神への怖れ」です。
だから一から四まで順番に話していくことで理解がより容易に成るのです。
聖なる瞬間の中であなたの平和を選択することが一番易しいことです。
これは神への怖れ(神の存在への恐怖)を手放すことよりも簡単です。
あなたが現在自分のことを「罪人/必滅者/より向上しなくてはならない欠陥のある存在」として考えている限り、あなたに問題(瑕疵)があり神がそれに罰を与えると考えている限り、神という存在への恐怖を手放すのは難しいのです。
だから初めから神への怖れと向き合うことは無理なのです。
平和を抱擁することは、平和を妨げているものを手放すことは、{四つの障害の中で}一番簡単なのです。
そしてこれ(平和を受け入れること)が聖霊/父とのコミュニオン(霊的交歓)を可能にします。
これが簡単にホンの少しの間ドアを開くのです。
これが僅かの時間でも聖なるガイダンスを聞くことを可能にするのです。
そしてこれ(二つのステップ)を実践し続けることにより、これ(聖なる瞬間/コミュニオン)がより頻繫に起こり、コミュニオンがあなたを変えるのです。
コミュニオンが、平和に対するあなたの怖れを減らし、「平和への第二の障害」に直面する自信と理解をあなたに与えるのです。
そして次の障害(第二の障害)が下記です。
[II. The Belief the Body is Valuable for What it Offers.1]
[II 体が提供しているもの故に体が貴重で大切だという信念]
さて体はあなた達に何を提供しているのでしょうか?
体はあなたの存在を身体的に表現して、力によって押し出し、出現させているのです。
体があなたに提供しているのは「力」であって、この力があなたの存在を身体として押し出しているのです。
体は力を使ってコントロールする能力を提供しているのです。例えそれが誰かを怒鳴って強い語調を使って命令するだけであっても。 それでもそれはコントロールの目的で力を使うことなのです。影響を与えて物事を起こそうとすることなのです。
(過去にも話しましたが)幼児としてのあなたの身体感覚は、あなたの体だけではなく、あなたの父母の(そして兄弟姉妹の)体の感覚も含んでいたのです。
そしてあなたは、あなた自身を個別の体として体験しており、あなたの両親や兄弟姉妹の体をも個別の現れとして体験しているのです。
しかし「あなたは(見かけ通りの)個別の体ではなく、人々も個別の体ではない」ということがあなた達の意識/注意から漏れており、あなたの両親や兄弟姉妹もこれをあなたに教えてはこなかったのです。
しかし彼等は(わたし達は)マインドの現れなのです。 {体として受け取られている}これら全ての形や感触の意識体験もマインドの現れなのです。
「人々はマインドであって体ではない」ということが忘れ去られているのです。
だから発育の全プロセスでこの誤解(誤知覚)が認証され強化され続けているのです。
誰かが瞑想などをして、二つのステップ(聖なる瞬間)などを通して、「(物質や形ではなく)マインドが存在の基盤である」と発見するまで{個別の体が自分だと思われ続けるのです}。
しかし誰かがこれ(体が意識を提供してはいないということ)を発見し全ての人に届く方法でこの存在の真理を教えるのです。
だからわたし達全員はシフトすることを学んでいるのです。
体に対する誤知覚/誤認識があるので、それに関して理解することが重要なのです。
この事に関してコースは次のように述べています。
[I am not a body, I am still free to be as God created me.]
[私は体ではない。私は今でも「神が私を創造した通りに成る自由」を持っている。]
多くの人達が形(体)との完全な自己同一を行なっているので、スピリチュアルな教えは「体は幻想である」と言っているように理解されています。
しかしそれは真実ではありません。
「あなたをアイデンティファイ(識別)するもの」は存在しているのです。
{あなたを示すものとしての体は実存しているのです。あなたの体はあなたが考えるようには存在してはいないのですが。}
「あなたを体験可能にしているもの」が存在しているのです。
私はこのことを繰り返し述べており、奇跡である意識のシフトが起こる為には、これを言い続ける必要があるのです。
あなたは体ではありませんが、あなたが体を持っていない訳ではないのです。
あなたは「あなたを示すもの」を持っているのです。
そしてあなたは「神があなたを創造した通りに成る自由」を持っているのです。
つまりあなたは今でも「マインドに成る自由」を持っているのです。
「(その中で創造の全体験が起こっている)意識体験に成る自由」をあなたは持っているのです。
マインド(意識体験)の中では、「全てのアイディアを作ったマインド」によってそれらのマインドが実感的/体感的に体験されており、しかし{マインドは}「(そこに見えるものとして描かれている)アイディア以下のもの」には成っていないのです。
「{創造の}アイディア以下に成る」ということは、見える様子に成る{見えている様子だけが全てだと信じてしまう}ということです。
{「見える様子{としての体}と自己同一してしまうこと」が誤認識なのです。}
あなたはそれ{見える様子としての体}ではないのです。{あなたの源は体ではないのです。}
目覚めはこの誤認識からあなたを引き抜くのです。
だから平和があなたの知覚をシフトさせた時、「体が提供しているもの故に体が貴重で大切だという信念」の上を平和が流れ渡って行くのです。
あなたが怒っている時、あなたが憤慨している時、あなたがムカムカしている時、あなたは身体的感覚(センセーション)を体験しています。
あなたが憂鬱に成っている時、あなたは頭の中に重さを感じます。
それは頭痛ではないのですが、まるで重いヘルメットを被ってそれがあなたを下に押し下げているような下方向のフィーリングなのです。
あなた達は普段「感覚をまず第一に体験して、それから憂鬱が自分に訪れた」と考えています。 しかし実際には{まず第一に}そこにはアイディアが存在していたのです。
「体と力を使って何かを行いあなた自身を持ち上げることに関して無力である/実行力がない/能力がない/力を失った」というアイディアがまず第一に在ったのです。
そしてあなたはそれを信じたのです。
あなたはそれにチャレンジして(このアイディアに異を唱えて)、「待てよ! 父よ、あなたがこれらの感覚を私に与えているのですか?」とは言わなかったのです。
「聖霊よ、私が得ているこの体験は本当のものなのですか? 私は憂鬱なのでしょうか? 私は自分の体を通して力を使って世界の中に私の存在を確立する方法を発見する必要があるのでしょうか?」
勿論答えは「NO」です。
しかしこれらの試みを放棄することはとても難しいのです。何故ならあなた達は身体的感覚を持っており、身体的感覚を尊んでいるのだから。
あなた達は身体的感覚が重要/大切だと考えているのです。
あなたは身体的感覚を行動に移すべきだ、身体的感覚が自分を動かしており、それ故に自分が苦しむことも致し方ない、と考えているのです。
しかしそれは真実ではありません。
これ(身体感覚を尊ぶこと)は「体があなたを生かし続けているので、だから体は根源的価値を持っているとあなたが感じていること」から発生しているのです。
それ(体/身体感覚)が{神から離れた個別独立存在としての}あなたを成功させ、それが創造と秩序の保持をあなたに可能にしているのです。
しかし勿論それはあなたのプライベートでパーソナルな秩序感覚であって、全ての人々や全ての物を含んだ秩序ではないのです。
だから平和はこの障害の上を流れ渡って行く必要があるのです。
そしてあなたのマインドの枠組み(思考形態)に注意してください。
感情がシフトし動いて、これらの感情が正当に見えており、これらの感情があなたを安全にする為に(何らかの)力の使用を求めているように見えている時、より注意深くしていなさい。
「しかし私か他の人がより大きな調和の為に力を使って変化を起こさなかったなら、私の(我々の)為に成ることは起こらない。物理的力の使用なしには何も起こりえない。」とあなたは言うでしょうか?
しかしそれは真実ではありません。
少し考えてみてください。
何らかの変容を体験したことの全く無い人が居るでしょうか?
あなたか他の人が身を持って愛を表現していた故に、時には奇跡的な変化が現れていなかったでしょうか?
瞬間的な知覚変動の結果として変容が起こったことが無かったでしょうか?
あなたのマインドが(あなたのパーソナルな考える能力を遥かに越えた)何か奇跡的なことで満たされた結果として変容が起こったことが一度も無かったでしょうか?
勿論それは起こっていたのです。
しかしあなたが聖なる瞬間を実践していて、父があなたに与えた愛と恩寵であなた自身(あなたというマインドの現れ)を満たさせていた時、完全な安全が(絶対的不死身が)あなたの生得権であることが{まだ十分に}理解されていなかったのです。
あなたの体験があなたの上に与えられているのは、あなたが以前程強くそれ(父があなたの上に与える愛と恩寵の体験)に抵抗していないからなのである、ということが理解されていなかったのです。
あなたの生得権は(あなたの健全/全体は)「世界の中でのあなたの存在感を強化する方法として体を使用することを放棄すること」に掛かっています。
{独立した力の存在/源として世界の中に存在し世界に影響を与えている「体」の使用を放棄することで、あなたの生得権(あなたが父から受け継いでいるもの)があきらかになるのです。}
これ(このような体の使用)を放棄することが難しいのは、生後直ちにあなた達が感覚の洪水に押し流されてしまうことによってこの誤知覚が開始しており、そして『感覚を体験している「何か(マインド)」がそこにあるという事実』に対してあなた達が完全に無知だからです。
しかし感覚を体験しているマインドが実在しているのです。
本を読み始めましょう。
[We said that peace must first surmount the obstacle of your desire to get rid of it. Where the attraction of guilt holds sway, peace is not WANTED.]
[平和はまず第一に「平和を捨てたいとあなたが思ってしまう」という障害を克服しなくてはならない、とわたし達は言いました。罪悪の魅力が支配力を握っている限り、平和は求められていないのです。]
何故ならあなた達には、平和より重要なことがあるから{あると思われているから}。
怖れと興奮の刺激から沸き起こっているアクティブなことがあるから。
「これ(怖れと興奮)が生命を動機付けているヴァイタリティー(生命力)で、これが自分達を発見に駆り立てている」とあなた達によって解釈されているのです。
あなたは発見しようとする性質を持っているのです。あなたは発見のメカニズムなのです。あなたは発見の為に存在しているのです。{これは間違っていません。}
「平和ぁ? そこでは何もエキサイティングなことは起こっていないでしょう。そこには私を行動に駆り立てる怖れが全くないから。」と言ってあなたは平和を求めないのです。
{ここでは「発見しようとすることは良くないことである」と言っているのではなく、「人々は平和の中には発見がないと考えてしまっている」と言いたいのです。訳注}
[The second obstacle that peace must flow across, . .]
[平和が次に越えていかなくてはならない第二の障害は...]
春一番の雨が川床の上を流れ渡って行くように、平和がこの障害の上を流れ渡って行くのです。
平和は流れて行くのです。ぶつかって粉砕していくのではなく、平和はそれ自身を流れさせて行くのです。
それは流れて行き、力の使用は必要とされないのです。
[The second obstacle that peace must flow across, and closely related to the first, is the belief that the body is valuable for what it offers.]
[平和が次に越えていかなくてはならない第二の障害は(これは第一の障害と密接に繋がっているのですが)「体が提供しているもの」故に体が大切だという信念です。]
そして体が提供しているものは「力の現れ(存在感)、動機を引き出し物事を起こすエネルギーの現れ」なのです。
[For here is the attraction of guilt made manifest in the body, and SEEN in it.]
[何故なら、この信念によって、罪悪の魅力(牽引力)が体の中に顕在化(表現)されており、体の中にこれ(罪悪の魅力)が見られているのだから。]
あなた達が平和を持ちたがらないのは、第一に「自分以上の者に成ろう」とあなたを動かす怖れの刺激に反応出来るようにしていたいからです。
そして第二に{自分以上の者に成ろうとする}これらのゴールを達成する為の体をあなたが持てるように{あなた達は平和を持ちたがらないのです}。
しかし第一部分も第二部分も真実ではないのです。
あなたは体ではなく、神があなたを作ったままのものなのです。
だから「 あなたを示しているもの(としての体)」はあなたを示し続けるのですが、あなたはそれ(体)を行動の焦点としては使わなくなるのです。
あなたはあなたのマインドを認識しているのです。
『「(外からの力なくして)創造の動きと一緒に流れている注意の現われ」としてのあなたの意識体験』をあなたは認識しているのです。
それ(創造の動き)にあなたの注意を与えることにより、それ(創造の動き)と一緒に流れて行くことにより、あなたは「神が成っている創造の動き」を認証しており、あなたは神のパートナーに成っているのです。
あなたは自分の注意を神の動きに与えることにより、神と協力しており、創造の動きを認めて賞賛しているのです。
しかし、
[This the value that you think peace would rob you of.]
[この価値(体の中に現されている罪悪の魅力)が平和によって奪われるとあなたは考えているのです。]
(あなたの存在に力を与えているものとしての)体が失われてしまうとあなたは考えているのです。
[This the value that you think peace would rob you of. This is what you believe that it would dispossess, and leave you homeless.]
[この価値(体の中に現されている罪悪の魅力)が平和によって奪われるとあなたは考えているのです。だから平和がこれ(体の中に表されている罪悪の魅力)をあなたから取り上げてしまい、あなたを宿無し(ホームレス)にしてしまうとあなたは信じているのです。]
「私は体ではない。私は今でも「神が私を創造した通りに成る自由」を持っている。」という言葉をあなたが聞いた時のように、「平和があなたの個性の可視性と可触性(あなたの体と呼ばれており、あなたが生まれて30秒以内に特定の定義をその上に与えていた、見れる様子と触れる様子)を取り払ってしまう」とあなたは考えています。
[This is what you believe that it would dispossess, and leave you homeless. And it is this for which you would deny a home to peace.]
[だからあなたは、平和がこれ(体の中に表されている罪悪の魅力)をあなたから取り上げてしまい、あなたを宿無し(ホームレス)にしてしまうと信じているのです。この信念故に、あなたは平和に棲家を与えることを拒否しているのです。]
さてあなたは「平和」と「聖なる瞬間」とそして「必ず聖なる瞬間と共にやって来るガイダンス」を体験しているかもしれません。
しかしあなたはその体験を長く保つことが出来ないでいます。
だからそれ(聖なる瞬間)は去って行ってしまい。あなたはそれを新しく一から始め直さなくてはいけないのです。
だからあなたは聖なる瞬間を頻繫に行なうのです。
そしてあなたが聖なる瞬間を実践する度に、それはより容易に成っていきます。
あなたが聖なる瞬間を実践する度に、平和の期間がより長く成って行きます。
しかし生活が{聖なる瞬間の}邪魔をして、『物事をコントロール出来るようになる為に「あなたの存在を示す力」として自分の体を使う必要』が表れたなら、平和は失われてしまうのです。
だからあなたは聖なる瞬間をまた実践しなくてはいけないのです。
そしていつの日かあなたは完全な決意(コミットメント)をそれ{平和/聖なる瞬間}に対して与えなくてはいけないのです。
何故なら、「あなたの生得権(あなたが父から得ているもの)の完全な体験」をあなたに戻すことが出来るのはそれ{平和}だけなのだから。
[. . . it is this for which you would deny a home to peace. This “sacrifice” you feel to be too great to make, too much to ask of you.]
[この信念故に、あなたは平和に棲家を与えることを拒否しているのです。『この「犠牲」は大きすぎて、あなたには重過ぎる』とあなたは考えているのです。]
あなたの体が失われてしまうというこの信念故に、この犠牲は大き過ぎるとあなたは考えているのです。
しかしそれは平和に住家を与えることの意味をあなたが理解していないからです。
私の説明していることをあなたがまだ理解していなかったから、あなたはこの犠牲は大き過ぎると考えていたのです。
しかし今あなたはこの理解を得ており、『「あなたが全ての体験の基点(始点)としている体」を放棄すること』がより容易に成りました。
あなたに損失を与えること{を心配すること}なく、全ての体験の立脚点としての体を手放してみることが出来るでしょう。
視点(立脚点)としての体を放棄して、マインドを自分の視点(立脚点)として受け入れことが必要なのです。
「あなた全てを体験している焦点」をマインドとすることが必要なのです。
あなたは初めからマインドで在り続けており、このことに関して想像したり何かを作り上げる必要は全くないのです。
[Is it a sacrifice, or a release? What has the body really given you that justifies your strange belief that in it lies salvation?]
[これは犠牲なのでしょうか? それとも解放なのでしょうか? {これは本当は解放なのです。}「体の中に救済がある」というあなたの奇妙な信念を正当化する為に、体はどの様なものを本当にあなたに与えたのでしょうか?]
体がある程度の(もしかしたらあなたを救っているように見える)コントロールをあなたに与えているように見えています。
体があなたを救っているように見えているかもしれません。体があなたの人生をある程度しのぎ易く見せているかもしれません、あるいは体があなたの人生を物凄く祝福されたものに見せているかもしれません。
しかし重要なことは、あなたは体ではなく、{だから}「自分の視点(立脚点/源)としての体を放棄することは愚かなことだ」とあなたに信じ込ませている体の使用方法を止めなくてはいけないということです。
例えこれが本当かどうか確かめる為だけに実験的に行なうだけであっても、あなたはこれ(自分の立脚点としての体の使用)を放棄しようと思える地点まで到達する必要があるのです。
もしこの実験を行なわなかったなら、あなたはあなた自身を体と(したがって傷付き易い無防備な者と)見続けることでしょう。
あなたはあなたの個人性の可視性/可触性を卵と精子から発生したものとして体験することも出来るのです。
「(聖なる源と全く関係を持っていない完全に物理的な生物としての)あなたの体の体験」は快楽と痛み(相反/闘争する体験)に成るでしょう。 その場合、快楽と痛みを避けることは出来ないでしょう。
あなたが「体との自己同一(body identification)」から「マインドとの自己同一(Mind identification)」へシフトするまでそれら(対立が快楽や痛みとして現れている状態)が続くでしょう。
[What has the body really given you that justifies your strange belief that in it lies salvation?]
[「体の中に救済がある」というあなたの奇妙な信念を正当化する為に、体はどの様なものを本当にあなたに与えたのでしょうか?]
体はそのようなものを何もあなたに与えていません。
[Do you not see that this is the belief in death? ]
[それが(体の中に救済があると信じることが)「死」への信念であることがあなたに見えていますか?]
頭の中の肉片が働いた結果としてアイディアが得られるという奇妙な能力を持っている体。 このような体とあなた自身を自己同一し続ける限り、あなたがアイデンティティとして体をこのように使い続けている限り、あなたは「あなたの永遠と調和/健康/平和の静かな体験である全て=あなたと父の関係」から除外されているのです。
あなたと父の関係が、「あなたが誰か」あなたに知らせており、「父の視点がどのようなものか知りたいと熱望できる場所」にあなたを置くのです。
何故なら、今{父との関係にあなたが注意を与えているその時}父の視点があなたに意味を与えており、父の視点にあなたの注意を与えることが意味深く成っているのだから。
体があなたに何か(価値あるもの)を与えたという信念は、{アトーンメント(贖罪)を殺人として知覚する焦点(視点)}なのです。
[Here is the focus of the perception of Atonement as murder.]
[ここにアトーンメント(贖罪)を殺人として知覚する焦点(視点)が与えられているのです。]
アトーンメントに対するエゴの定義は、「あなたがエゴを手放すこと」ではなく、「あなたがあなたの致死性を確認/体現すること」なのです。
[Here is the source of the idea that love is fear. The Holy Spirit's messengers are sent far beyond the body, calling the mind to join in holy communion and be at peace. ]
[ここに「愛が怖れである」というアイディアの源があるのです。 精霊は、体を越えてより遠くまで送られて「聖なるコミュニオンの中で繋がり平和に成るよう」マインドに呼び掛けるのです。]
何故なら、マインドこそがあなたなのだから。
そして「あなたであるマインドに呼び掛け、聖なるコミュニオンの中で繋がり、平和に成ること」は、あなたの注意を原初の場所(本来の場所)に戻し、あなたの注意を聖なる働きに戻すことなのです。
だからそれ(マインドに呼び掛けること)はアトーンメントを促進し、あなたの目覚めをプロモートするのです。
そしてこれをすることにより、あなたは死の魅力(これが平和への次の障害です)の内実を理解出来るポジションに移行するのです。 怖れることなく死の魅力を理解し、明晰な理解の下に死が誤知覚/誤解であり、死の魅力を放棄することが幻想からの解放を意味しており、死の魅力を手放してもあなたは何も失わないことが理解されるのです。
重要なのは:
[The Holy Spirit's messengers are sent far beyond the body, . .]
[精霊は体を越えてより遠くまで送られて、]
あなたが知覚している体を遠く超えて、体の細々した個別の形を超えて、広大なスペースに比べてちっぽけに見えている体を超えて、聖霊は送られていくのです。
もしあなたが自分の個別の分離した形(体)から他者の個別の形(体)に何かを送っていると考えたなら、マインドの合一(統一)は決して体験出来ません。 その場合「 意識としてのあなたのリアリティ(実情)」と「意識としてあなたとコミュニケートしている人のリアリティ」は決して体験(表現)されないのです。
だから、
[The Holy Spirit's messengers are sent far beyond the body, calling the mind to join in holy communion and be at peace. ]
[精霊は体を越えてより遠くまで送られて、「聖なるコミュニオンの中で繋がり平和に成るよう」マインドに呼び掛けるのです。]
聖霊は体を超えて「全てを内包している無限存在の注意/意識であるマインド」に呼び掛けるのです。
そうして平和が体の価値(体がすることが出来るように見えており、あなたの健全にとって必然に見えていること)を超えて流れていくのです。
[Such is the message that I gave them for you. It is only the messengers of fear that see the body, for they look for what can suffer. ]
[このようなメッセージを私はあなたの為に彼等(愛のメッセンジャー達)に与えたのです。怖れのメッセンジャー達だけが体を見るのです。何故なら、怖れのメッセンジャー達は「苦しむことが出来るもの」を探しているのだから。]
(あなたはこのように考えたことは無いかもしれませんが)あなたは常にコントロールを使用しており、「痛み/被害/その他ペナルティの脅し」を通してコントロールを上手く使っているのです。 あるいは「不親切/無視/認証の与えないこと」などを使ってコントロールを発揮しているのです。 それは意地悪なのです。
あなたはこれらのことが身体的に感情的にメンタル的に痛いことを経験から知っており、これらが機能/影響することをあなたは知っています。
だからこれらを使用することに価値があるとあなたは学んでいるのです。
[It is only the messengers of fear that see the body, for they look for what can suffer. Is it a sacrifice to be REMOVED from what can suffer?]
[怖れのメッセンジャー達だけが体を見るのです。何故なら、怖れのメッセンジャー達は「苦しむことが出来るもの」を探しているのだから。「苦しむことが出来るもの」から取り除かれることが犠牲でしょうか?]
怖れのメッセンジャー達だけが「個別のものとして作り上げられている個人」として体を見ているのです。
上記の文章は、体から取り外されることを言っているのでしょうか? それとも体に対する誤知覚/誤認識から取り外されることを言っているのでしょうか? 勿論これは後者です。
[The Holy Spirit does not demand you sacrifice the hope of the body's pleasure; . .]
[精霊はあなたが体の喜びの望みを「犠牲」にすることを要求しません。]
誤認識(誤解)の中であなたの体は快楽と痛みを楽しんでいるのです。
痛みに関しては既に話しています。
[The Holy Spirit does not demand you sacrifice the hope of the body's pleasure; it HAS no hope of pleasure. ]
[精霊はあなたが体の喜びの望みを「犠牲」にすることを要求しません。精霊は快楽の望みは持っていません。 ]
「あなたが知覚している通りに存在していないもの」がそれ(存在しているとあなたが思っているもの)に対して効果を持つことは出来ません
それ(体)はどのような体験も持ていないのです。
体と自己同一視していなければ失われてしまうとあなたが考えている「喜び」は、初めから不可能な状態だったのです。
そこ(体との自己同一)には全く喜びの体験は存在していなかったのです。
あなたが「体との自己同一」から「(体や樹やテーブルなどあらゆる形を認識している)マインドとの自己同一」にシフトした時、体との自己同一の痛みや快楽の幻想が消えるのです。
[But neither can it bring you fear of pain. Pain is the only "sacrifice" the Holy Spirit asks, and this He WOULD remove.]
[そして精霊があなたに痛みの怖れを持ってくることも無いのです。痛みだけが精霊が求めている犠牲なのです。 そして彼(精霊)はそれ(痛み)を取り除くのです。]
自分の体を使用して問題と対処しようと固執する傾向をあなたが手放した時、それ(痛み)は常に取り除かれるのです。
物事を起こす力を提供するものとしてあなたが体を使わなくなった時、そしてあなたが聖なる瞬間の中に入り聖霊(父の視点/立脚点であり、あなたの正しいマインドに過ぎないの聖霊)と繋がった時、あなたは痛みと偽りの快楽が消えていることを見つけるのです。
そしてそれら(快楽と痛み)が奪われるという脅しが消え去り、それらの効果の脅威が消え去るのです。 何故なら、その時あなたは神の法が全てを統治しているアリーナ(場所/状態)の中で働いているのだから。
しかし神の居ない行為(神を認めていない意識状態から行なわれている行為)を達成しようとする道具として使おうとすることから体を解放した時にだけ、これが起こるのです。
神の居ない行為とは、事態の中に神が呼び込まれていない行為です。 あなたが神と一緒に行動していないことです。
[Peace is extended from you only to the eternal, and it reaches out from the eternal in YOU.]
[平和はあなたから永遠に向かってだけ差し伸べられて(拡張されて)いるのです。そして平和は「あなた」の中の永遠から広がり伸びているのです。]
「体としての(必滅者としての、物理的宇宙の中の生物としての)あなた自身に対する概念」を放棄した時、(間違った自己信念の下に今まで存在し続けて来た)あなたの神聖があなたに照らし出されるのです。
あなたの神聖の光明から、あなたの中の永劫から、それらがわかち合われるのです(あなたの神聖が共有されるのです)。
これが聖なる瞬間の祝福であり、聖なる瞬間の働きなのです。
これ(聖なる瞬間の祝福/働き)が「常にひとつであり続けてきたもの」を全てに対する意識体験として再統合するのです。
この全てに対する意識体験のその中では誰も何も遠ざけられておらず、あなたの不可侵/不死身と平和と喜びが絶対的に存在しているのです。 私が言いたいのはこれなのです。
「体が提供しているもの故に体に価値があるという信念」を放棄することによりこの体験が得られるのです。
「自分が誰か知ることなく、神を何処にも見つけることなく、あなたが体を使っている目的」を放棄するのです。
[Peace is extended from you only to the eternal, and it reaches out from the eternal in YOU. It flows across all else. The second obstacle is no more solid than the first. For you will neither to get rid of peace NOR limit it.]
[平和はあなたから永遠に向かってだけ差し伸べられて(拡張されて)いるのです。そして平和は「あなた」の中の永遠から広がり伸びているのです。それ(平和)は{永遠/平和以外の}その他全てに向かって流れ渡ります。第二の障害は第一の障害よりも確実なものでは全く無いのです。何故なら、あなたは平和を捨てたいとも、平和を限定しようとも、意図していないのだから。]
あなたは本当は平和を捨てたいとも、平和を限定したいとも思ってはいないのです。
[What are these obstacles which you would interpose between peace and its going forth but barriers you place between your will and its accomplishment? ]
[あなたが平和とその進行の間に挟んでいる障害達は何なのでしょう? それらはあなたの意志とその達成の間にあなたが置いたバリアー(防壁)にしか過ぎないではないですか。]
これらの障害達は「あなたの意思」と「あなたのその意識が達成されること」の間にあなたが置いたバイリアーに過ぎないのです。
平和と平和の進行の間にあなたが置いた障害達は、「あなたの意思」と「あなたの意志が達成されている状態」の間にあなたが置いたバリアーに過ぎないのです。
つまり、
[You WANT communion, not the feast of fear. You WANT salvation, not the pain of guilt. And you want your Father, NOT a little mound of clay, to be your home.]
[あなたは怖れの祝宴ではなく、コミュニオン(霊的交歓)を欲しています。あなたは罪悪の痛みではなく、救済を欲しています。そしてあなたは、卑小な土くれの塊ではなく、あなたの父があなたの家になることを求めています。]
これらがあなたの意思なのです。
「あなたの意志(あなたが神と共有している意図)をブロックしてしまうもの」を差し挟むのは止めたなら、あなたはそれ(神の意志)を明確にあなたのものとして体験し、あなたは統合されて「ひとつ」になるのです。
あなたと兄弟姉妹の関係が、
[In your holy relationship is your Father's Son. ]
[あなたの聖なる関係が、あなたの父の子供なのです。{あなたの聖なる関係の中に「あなたの父の子」が居るのです。}]
あなた達の関係の中に居るあなたの父の子が、父の子孫で、あなたと聖なる関係を築いている人は、この聖なる人は:
[He has not lost communion with Him, nor with himself. When you agreed to join each other, you acknowledged this is so. This has no cost, but it has RELEASE from cost.]
[彼(神の子)は彼(神)とのコミュニオンを失ってはいないのです。そして彼(神の子)は彼自身とのコミュニオンを失ってもいないのです。あなた達がお互いと繋がることを合意した時、あなたはこれ(神の子は神とのコミュニオンも神の子自身とのコミュニオンも失っていない)が真実だと認めたのです。これはコスト(損失)ではありません。 そうではなく、これはコスト(損失)からの解放を持っているのです。]
聖なる関係の中で、神の子は神の子自身とのコミュニオンを失っていないのです。
[You have paid very dearly for your illusions, and nothing you have paid for brought you peace.]
[あなたはあなたの幻想の為に大いなるものを支払ったのです。そしてあなたの支払いは、あなたに平和をもたらしませんでした。]
生後数分間に起こった誤知覚をあなたが保っている限り、あなたは幻想の為に多大なコスト(損失)を払っているのです。
何故なら、あなたはこれらの誤知覚を受け入れてそれらをより確実に強め、それらを永続的な定義にしたり、それらを「あなたの体/兄弟姉妹/世界」に対する「意味/意図」として受け入れているのだから。
それ故にあなたは今まで「体との自己同一」から「マインドとの自己同一」へとシフトするきっかけを持っていなかったのです。
[You have paid very dearly for your illusions, and nothing you have paid for brought you peace.]
[あなたはあなたの幻想の為に大いなるものを支払ったのです。そしてあなたの支払いは、あなたに平和をもたらしませんでした。]
何故なら、あなたはまだあなたの誤認識(間違った自己同一)の中に捕らわれているのだから。
そしてこれ(間違ったアイデンティティ、体との自己同一)があなたの聖なる体験の全ての分部を色付けしており、それを不聖なものに見せているのです。
[Are you not GLAD that Heaven cannot be sacrificed, and sacrifice cannot be asked of you? There IS no obstacle which you can place before our union, for in your holy relationship I am there already. ]
[天国が犠牲に出来ないことを、そしてあなたから犠牲が求められないことを、あなたは喜びませんか?わたし達の合一(union)の前にあなたが置ける障害は存在していません。 何故なら、あなたの聖なる関係の中に私はすでに居るのだから。]
「わたし達の合一」とは「あなたと私の合一」です。
あなたは私を探す必要はありません。
病院の出産室であなたが初めて息を吸って「自分は孤立した形である」と急に考え始める前から、私はあなたと共に居たのだから。
あなたが生まれた時私はあなたと共に居り、その時あなたは「聖なるあなた」であって、今でもあなたは「聖なるあなた(神の子)」なのです。
しかしあなたは今やっとこの意味(神の聖なる子供としてのあなたの意義)を再度認識出来る状態に戻って来ているのです。
[We will surmount all obstacles together, for we stand within the gates, and not outside.]
[わたし達は「一緒に」全ての障害を克服します。 何故なら、わたし達は(門の外ではなく)門の中に立っているのだから。]
言い換えれば、わたし達は「存在」の意識体験/注意状態の中に立っているのです。
わたし達は存在意識の中に存在しており、その外に存在しているのではないのです。
あなたは「(空間を通してコミュニケートしている、そして完全に統合することは出来ない、パーフェクトな合一は体験出来ない)沢山の個別の体達の中の一つの体に自分が成っている絵」の中には居ないのです。
[How easily the gates are opened from within, . .]
[門は、いとも簡単に内側から開けられるでしょう。 ]
つまり、マインドとして自己認識している場所から、この障害はいとも簡単に乗り越えられるのです。
[門は、いとも簡単に内側から開けられるでしょう。]
あなたの地球/世界の中の道や都市や国の中で門が開くのではなく、あなたの中の祭壇から外側に門が開けられるように、障害はいとも簡単に消え去るでしょう。
マインドとして自分を認識する体験を受け入れる為に下記を理解することが必要なのです。 何故なら(マインドとして自分を認識する体験を受け入れたなら)門は簡単に開けられるのだから。
[How easily the gates are opened from within, from within, to let peace through. . .]
[この門はいとも簡単に内側から開けられるでしょう。 そして平和が通って行って、]
あるいはあなたの中から平和が広がって行って、
[. . . to bless the tired world! Can it be difficult for us to walk past barriers together, when you have joined the limitless?]
[疲れている世界を祝福するのです。あなたが無限と繋がっている時、わたし達が一緒にバリアーを通り抜けることが難しいでしょうか?]
いいえ。
勇気を持ってあえてこれ(あなたが無限と繋がりわたしと一緒に体を超えて行くこと)を試してください。
わたし達が一緒に体験を持ち、そして「問題を解決する唯一の方法は体を通してストレス/怒り/憤慨/憎しみを表現し、あなたの世界の中であなた自身に力を通したより多くのコントロールを与え続けることだという信念」からあなたが解放されるように。
[The end of guilt is in your hands to give. Would you stop now to look for guilt in each other?]
[罪悪の終わりはあなたの手の中にあり、あなたはそれを与えればよいのです。今あなた達は立ち止まって、お互いの中に罪悪を探そうとするのですか?]
「あなたの良きことを阻んでいる何か」を力で凌駕する為にあなたの体をこわばらせてアドレナリンを漲らせる機会をあなはた探しているでしょうか?
その他の選択肢があるのに?
体が提供しているように見えているもの故に体に価値が在るわけではないという気付き(意識)があるのに。
あなたの中の愛、あなたの中の真理、あなたの中の原則、あなたの中の命が全てを統治しており、インスピレーションを与え、光明を与えて照らし出し、それが創造と呼ばれている動きなのです。
(体が提供しているように見えているもの故に尊ばれている体を持ってはいない)あなた達全員を私は愛しています。 (全てを抱擁しており、全てを一つのピュアな生命の現れとして祝福している)マインドの現れであるあなた達全員を私は愛しています。
Chapter 19 – Section: OBSTACLES TO PEACE – Part: II
Sparkly Book – p.464 / JCIM – p.194 / CIMS – p.391
Chapter 19 – Section: B. THE SECOND OBSTACLE: First Edition–p. 384 / Second Edition–p.412
テーマ : スピリチュアル
ジャンル : 心と身体