スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

ACIM03-02-06

2003年2月6日


[Cause and Effect]
[原因と結果]


[You may still complain about fear, but you nevertheless persist in making yourself fearful. ]

[あなたは怖れを訴えているかも知れませんが、それでもあなたは「自身を怖れさせること」に固執し、まだ「自身を怖れさせること」を続けているのです。]


ラジ:
自分は怖れていないとあなたが考えていたとしても、あなたは怖れているのです。
あなたが聖壇(あなたの中の神が居る所)に背を向けているなら、「父よ、私はこれを私だけで眺めてこれが何か自分だけで決めたいです」とあなたが言っているなら、あなたは「失楽園/失踪」と呼ばれていることを行なっているのです。
その時あなたは、あなた自身を父から分離してあなた一人の視点/視界を持とうとしているのです。

この意図が発せられた途端、あなたが独立した視点を持った途端、「あなた全体からあなたを分離しようとすることから来る不調和{何かが間違っているという感覚}」をあなたは感じるのです。 その時あなたは分離しようとすることからのフィードバックを受け取るのです。 そのフィードバックは「あなたの正気」なのです。
あなたの正気が「あなたは危険な領域に居ます。あなたは危険な領域に居ます。」あるいは「あなたは物事を不自然なやり方で見ています。不自然な振る舞いは愚かなことです。不自然に振舞うのは愚かです。」と言うのです。

それは警告で、「あなたは自分にとって自然な状態から踏み出しています。だからこれはあなたの正気ではありません。」という気付きなのです。 この気付き/認識をあなたは不快と感じるのです。
あなたはこれを不快に感じて当然なのです。 これ(分離)が安楽に感じられたのなら、それはあなたが完全に狂気に陥っていることを意味しています。
あなたがあなたの存在の源(あなたの在り方の源)に逆らって行動し、そうすることに成功していて、そうしながら安楽であったなら、それはあなたが自分を自分の源から実際に切り離したということなるのですが、それは不可能なのです。

だからあなたが独立的地点から全てを眺め出した時、このように基本的な居心地悪さ(不快感)が現れるのです。 それは分離していなかった時には感じていなかった新しい体験、不自然な体験なのです。

しかしこの居心地悪い体験(不自然なエネルギー)を、自然な状態に帰ることを即しているものと認めるのではなく、それを克服するべきものとして見始めてしまうこともあるのです。
(ナチュラルではない)このフィーリングを上手く克服することが必要なのだと考え始めてしまうことも可能なのです。
するとあなたはこのフィーリングを攻撃し始めます。
そしてこのフィーリングが自分の家に戻る為のサインであることを認識せずに(あなたが自分の住家に現在居ないことを示す警戒音であり、住家に戻りことから気をそらされてしまわないよう気をつけることが重要だと認識せずに)、このフィーリングを克服しようと試みるのです。

つまり不快感/痛み/居心地悪さが「住家/故郷」に帰る必要を訴え掛けているものであることを忘れないようにするべきなのです。
{神からの}独立行動は怖れと傷付き易さ(脆さのフィーリング)をもたらすのです。
だからあなた達が目覚めるまで、あなた達が故郷/住家に戻るまで{あなたが聖壇に向き合うまで}、あなた達の全ての体験には怖れが含まれているのです。

先週わたし達は「あなたが外国に行ってそこであなたがマイノリティーであったなら、その国の人達があなたとは異なるものの見方をしていたなら、あなたは居心地悪く感じることでしょう。何故ならあなたはそれらの人達とは相互合意されている定義群を共有していないのだから。」と言いました。
このことからも解るように、あなたが安楽を感じている時、その安楽の幾分かは「あなたと周りの人達との間に合意されている定義群が存在していること」から来ているのです。
その結果(あなた達が定義群に合意している結果)としてあなたはリラックスすることが出来、防御する必要を感じないのです。

しかしそれは怖れが無いからではなく、あなた達が怖れの代用品である「相互合意されている定義群」を使っているからなのです。「相互合意されている定義群」にあなた達が従って、お互いを怖がらせないようにしているからです。 解りますか?

しかしそれは本当の平和ではないのです。それは怖れが無い体験でもないのです。
あなたはこれを理解するべきなのです。


だから、

[You may still complain about fear, but you nevertheless persist in making yourself fearful.]

[あなたは怖れを訴えているかも知れませんが、それでもあなたは「自身を怖れさせること」に固執し、まだ「自身を怖れさせること」を続けているのです。]


質問者:
これは以前にあなた(ラジ)が言った成就と自己満足の違いを示しているのでしょう?
相互合意されている定義群が{もたらすものが}自己満足で、聖壇に向き合い目覚めている者と繋がった時{もたらされるもの}が成就なのですね?

ラジ:その通りです。


[I have already indicated that you cannot ask me to release you from fear. I know it does not exist, but you do not. If I intervened between your thoughts and their results, I would be tampering with a basic law of cause and effect; the most fundamental law there is. I would hardly help you if I depreciated the power of your own thinking.]

[「あなたを怖れから解放することを私に頼むことは出来ない」と私は既に言っています。怖れが存在していないことを私{イエス}は知っていますが、あなたは知っていません。もし私があなたの思考とその結果の間に分け入ったなら、その時私は(一番基本的法則である)原因と結果の原則を侵害したことになります。あなたの自身の思考の力を私が軽減したとしても、あなたの助けには成りません。]


ラジ:
「あなたの思考があなたがリアリティを体験する方法を完全に統治していること(あなたの思考に従ってあなたがリアリティを体験していること)」を発見するチャンスを誰かがあなたから奪ったなら、あなたは無力にされてしまい、『「現在あなたがバイアス(偏見)と共にリアリティ/天国を体験に対していること」に対してあなたが持っている権威』を認識することが出来なくなってしまします。

すると(あなたのバイアス/偏見に対するあなたの権威を認めていない状況では、あなたの歪んだ知覚に対するあなたの影響力をあなたが自分で認められていない状況では)あなたは風に吹かれている葉っぱのようで、風の流れによってあちらに吹かれこちらに吹かれて{自分とは関係の無いものに影響されて}いるようで、{あなたは自分を無力に感じ}だからあなたは憂鬱に成ってしまうのです。

するとあなたはより一層の機能不全(不具合/不健康/無能力)を体験し、あなたはより臆病に成ってしまうのです。

だからあなたは、あなたの思考とあなたの体験が密接に関連していることを発見しなくてはいけないのです。あなたは自分が権威を持っていること(自分の思考を通して自分の体験に良い影響を与えることが出来ること)を体験する必要があるのです。

それは何故でしょう?
先ず第一に(例えそれがエゴの力であっても)あなたの力が感じられるように{あなたに決定権が与えられていることが理解出来るように}。
あなたはあなたの力を発見し、それにより「より建設的に自分のマインドを使ってより調和した体験(より健全な体験)が出来ること」を体現しそれを自分に証明する必要があるのです。

このことを通して(偶然や運命に左右されているのではなく)全てに対して自分で与えている意味/思考/アイディア/定義/だけに自分が影響{悪影響}されていることをあなたは学ぶのです。

あなたがこれを学んだ時、あなたの思考とあなたの体験の関係が絶対的であることを学んだ時、あなたは決して無罪な被害者(自己決定権を持っていない者)では在り得ないと気付いた時、その時あなたは神を見て下記のように言えるように成るのです。

[もし神が無限の知性であるならば、そして神のマインドが存在の原因(生きとし生ける全てを存在させている原因)であるならば、今私には「神の思考が創造の全てを統治している可能性」を認めることが出来ます。そして神は不可分(分離不可能)で切り分けられておらず、だから神の思考の中には矛盾/闘争があり得ません。だから創造の中には闘争/対立/矛盾はあり得ません。そして聖壇に向き直り神に譲ることが必要なのだと私は学んだので、そして神は気まぐれではないと私は知っているので、神の気まぐれ故に自分が不利に置かれてしまうと心配することなく、私は神に譲ることが出来ます。私は神の怒りを心配する必要はありません。{何故なら神は慈悲深いのだから。}私の思考と私の体験の絶対的繋がりを私は体験しているので、「不可分で分離していない場所から来ている神」は絶対的に安全な臨在(神の現れ)なのだと私は知っています。]

反対に、あなたが自分の思考と体験の絶対的繋がりを見ていないなら、あなたは生命/人生そのもの対して危険を感じてしまうのです。その場合あなたは神に対して完全に自分を譲ることは出来ないのです。何故なら、あなたにとって神とは「あなたが生命を見ているやり方(人生に対するあなたの見方)」を反映しているのだから。だから(あなたが自分の思考と体験の関係を明確に理解し体験していないなら)あなたは神を気まぐれと見てしまい、神が分離している、時には神があなたに対して怒っており時にはあなたを愛している、と見てしまうのです。その場合あなたには神に譲る勇気が持てないのです。

さて以前にも指摘した通り、あなた達が独立的に物事を見ることを選択したとしても、あなた達が全てに対する自分達の定義群を作ったとしても、あなた達が神の子に成り続けること(神の子として在り続けること)を止めることは出来ないのです。
あなたは「あなたが居るそこに神が成っているもの」にあなたが成ることを止めることは出来ないのです。

もちろん、あなたは知性を持っており、あなたは思考を持つことが出来ます。
そして基本的にあなたの思考には力と権威があるのです。

しかし神に譲ってあなたの権威と力を放棄して、あなたの源と繋がり直し、あなたの思考が神から来るようにするまで、そうして神から権威を得るまで(独立的でない権威を得るまで)、あなたが自分の力と権威を見つけることは出来ないのです。

あなたの考える能力(キャパシティー)は、アイディアを体験するあなたの能力は、聖なる能力なのです。

(あなた一人の見方を得ようとして)「父の視点とあなたの繋がりを消す為にあなたが選んだ視点」からあなたがこの聖なる能力(思考能力)を体験している時、あなたの聖なる権威は歪んでしまうのです。
そしてあなたが聖壇に背を向けている時(あなたが自分の源を無視している時)あなたは自動的に怖れの状態入ってしまうので、あなたの全てのアイディアや思考が怖れから発生するようになり、それは常に自己防御的行為に成るのです。

しかしこれはあなたに対する有罪宣言ではないのです。
これは(聖壇に背を向けることは)神の子全員が持っている能力なのです。
あなた達にはその能力(祭壇に背を向ける可能性)が与えられているのだから、{例え長い間祭壇に背を向け続けていたとしても}あなた達は罰に値する何か悪い事をしている訳ではないのです。

例えば、あなたは沸騰したお湯が出ている蛇口の下に手を置くことが出来ます。
そうすることはあまり理に適ったことではありませんが、それであなたが死ぬことは無いでしょう。それは痛いかもしれません、とても酷い妬けどをするかもしれません。{しかしそれは有罪宣言に値する行為ではないのです。}

父の視点から独立して天国を眺めようと試みているので、あなた達は怖れの状態にあるのです。しかしそれは罪悪ではないのです。だからこれは罰に値することでは無いのです。
そして今現在もあなた達は別に懲罰されてなどいないのです。

しかしあなた達は天国での不自然な在り方を選んでいるのです。だからその在り方は居心地が悪いのです。 
居心地が悪いからといって、自分が有罪にされていると感じるのは止めなさい。
気落ちすることも止めて、あなたがしていることを理解しなさい。それ(神から分離しようとすること)を止めるという知的な選択が出来るように。

質問者:私はこれをより実際的な状況に当て嵌めて考えたいのです。
神の動きが解るように学ぶことをわたし達は(少なくとも私は)していると思います。
動きがどこに行こうとしているか私に見える時に動きに譲ることを私は学んでいます。
動きに譲った方が(動きに逆らうよりも)遥かに易しいのだから。 何故なら私が抵抗していても抵抗していなくとも動きはそれが行く所に行くのだから。

ラジ:
しかし神の動きがどこに向かって動いているかあなたに解っていない場合でも、神の動きに譲ることは価値あることなのです。このことは指摘しておきましょう。

質問者:そう出来るようになることが最終的な目的なのでしょう。
わたし達は普段自分達がどこに行こうとしている知っていると思っています。しかし多くの場合譲ることは(わたし達が考えていたのとは)全く違う所にわたし達を導きます。
何故なら、もし神の動きがどこに行こうとしているかわたし達に見えたなら、わたし達はそれ(神の動き)に抵抗しようとさえしないでしょう。自分達がそれに抵抗出来るとも考えないことでしょう。
しかし時には譲ることが苦痛に満ちているのです。

ラジ:いいえ、{神の動きである創造の}流れに逆らうことが苦痛に満ちているのです。

質問者: しかし、例えばあなたの受難(イエスの磔刑)に関して言えば、最終的には神の動きは明確だったわけです。

そしてあなたの母であるメアリー(マリア)やあなたの弟子のメアリー(マリア)やジョン(ヨハネ)は、何も出来ることが無かったので(彼等が磔刑に対して介入することは出来なかったので)彼等は譲っていたわけです。そして十字架を見上げあなたを見て、あなたが彼等から引き千切られていくのを感じました。
その時点での神の動きを信頼することが彼等には出来たのかもしれません。
しかし彼等にも痛みや涙を止めることは出来なかったのではないでしょうか?

これは過激な例かもしれません。しかしわたし達は自分達の生活の中でこのようなこと{自分達の体が自分達の源だと考えること}に慣れ親しんでいるのです。だから変化の動きは時にはとても痛みに満ちているように見えます。

ラジ:ハイ、その通りです。

質問者:それに対する薬(答え/癒やし)が今ある筈なのです。

ラジ:その通りです。
痛みの理由は、慣れ親しんだものにしがみ付きたいという願いです。
(良きものが変化しているのに)その現存している形(今まで良きものが現れていた形)をそのまま保ち続けたいという願いが痛みの原因なのです。
だから私は「痛み/不具合は変化に逆らうことから来ているのです」と言っているのです。

そして答えは「状況の中に残っている良きことに対する定義」を手放すことなのです。
「あなた達が神から分離したままでも安楽を感じられるよう長い間保って来た定義」を手放すのです。それ以上の開示/変化は在り得ないとあなた達が考え始めてしまっている状態を手放すのです。

「聖壇に向き合うこと」こそそのような時(今までの安定/安楽を手放すよう求められている時)に必要とされている答え/癒やしなのです。

「父よ、ここでは何が起こっているのですか?」
「私のガイドよ、ここで起こっているリアリティは何なのですか?」
「予測されていなかった(私があまり歓迎していない)動きが起こっていることに対して私はどうしたら適切に振舞えるのでしょう?」
「どのようにしてこの動きと調和すればよいのでしょう?」

あなたはそう言って答えを期待するべきなのです。

それは何故でしょう?
それは「神が成っている啓示の動き」の真ん中に(真っ最中に)あなたが居るべきだからです。
それは何故でしょう?
それはあなたが(神の栄光を称える)という自分の役割を満たし、その働きを全開にしたいからです。

エゴが見る限りは人間的状況にしか見えない「そこ」に起こっている神の意志の現れ{を見たいとあなたが望んだから、神の栄光が見えるのです}。

しかしあなたには自分が慣れ親しんできたことにしがみ付こうとしてしまう傾向があります。 何故ならそれ(あなたが慣れ親しんできたこと)が失われることは獲得ではなく損失として認識されてしまうから。


「この山を登ろう。」
「でも、私はここの谷に残りたいの。」
「いいや、わたし達は山頂に行くんだ。」
「でもここは空気がしっとりして緑が豊かで、それからここには川だってあって。楽しいじゃない。それに山の頂に昇るのは難しいわ。」
「でもそうする価値がある。」
「うーん、解らないわ。お願いだから今日ではなく明日にしましょう。」

しかしあなたが(聖霊に)譲ってハイと言い、山の頂に行ったなら(聖霊の導きに従ったなら)、そこからの視点はより広大であることが解るのです。
そしてあなたは自分が今まで考えていたよりも多く持っていることを知るのです。
何故なら山頂に上ったその時でも谷(あなたが持っていたもの)はまだあなたに与えられ続けており、それでいてより多くがそこに(あなたのマインドの認識の中に)付け加えられたのだから。

あなた達は失うことを怖れています。しかし現在持っているもの以上を得る為には、今持っている僅かなものをあなたが手放す必要があるのです。 
現在あなたは「自分が所有していると考えているもの/世界に対する自分の認識」を物凄く強く握り締めているので、あなたはそれ以外のもの(現在のあなたの知覚/認識以外のもの)は何も抱擁出来ないでいるのです。

そこにより多くが与えられる(受け取れる)ように、あなたはそれ(世界に対する知覚/認識)を手放す必要があるのです。

質問者: アーメン


別の質問者:
少し前にあなたが言いましたね。 私も解り始めたと思います。
私が一人で考えている状態、それをACIMのこのセクションでは原因と結果と呼んでいるのです。

そして数週間前にあなたは「{エゴの思考の}結果は例えば高血圧であって、思考の結果として拳銃やナイフが出現する訳ではない。 ものを出現させることは創造なのだから。」と言いました。
数年前にあなたは「原因とイベント」というフレーズを使っています。
「原因とイベント」が父の思考なのですね。

ラジ: 神の動きが原因とイベント(出来事)なのです。
質問者: そして私の孤立した思考が、私を恐れに満ちて弱々しく頑なにしているのです。
ラジ: ハイ。
質問者: そこでは創造が見えていないのです。

ラジ:するとそこに現れているのは原因の猿マネ(模そう)とイベントの猿マネ(模そう)で、イベントの猿マネが「結果」と呼ばれているのです。

質問者: おお、10年と掛からずにこれが明確に解りました。ありがとう。
ラジ: どういたしまして。これはあなたにとって向上でしょう。
質問者: 勿論。


別の質問者:
相互合意されている定義群(mutually agreed upon definitions)に関して今晩少し話しましたね。 この意味は重大なので私はこれに関して色々考察しています。

わたし達が他者と話して何らかの主題に関して合意している時、わたし達は本当に自分達が何に対して合意しているのか気付いているでしょうか? そして私の疑問は...

ラジ: 時には、口を全く開かず聞いている(見ている)だけの時にもあなた達が何に合意しているのか{あなた達は良く理解していません}。

質問者:そうです。
わたし達は父と繋がって(わたし達の目の前にある全ての物や事や人に関して)父の視点/視界を訊ねるべきだと私は知っています。

ラジ:何故あなたはそれをするのでしょうか?
あなたの行動(振舞い)が、怖れからではなく愛から行なわれるように、あなたはそれ(父に訊ね聞くこと)をするのです。

質問者:  ええ、そうです。
私の質問は、全てを硬く重くしてしまっている定義群に関してなのです。
これらの定義とは何なのですか? わたし達が作った合意とは何なのですか?
私がこれに関して考えようとすると圧倒されてしまいます。
これが意味することは、全てはわたし達が学んできた噓に基づいているということに成りますね?

ラジ:そうです。 しかしそれらは(全く根も葉もない噓ではなく、根拠の全く無い空想ではなく)真理に対する噓なのです。

あなたが噓に自分の意識を集中させて、噓を研究して、噓がどれだけ大きなものか見たなら、それはあなたを圧倒してしまうでしょう。

しかし必要なのは噓を研究/検査することではないのです。
丁度、自分達の人生がどれだけ怖れに支配されているか(そして今までどうしてそれに気付いて来なかったか)調べることが必要ではないように。
そのようなことは大した違いをもたらしません。

要点は「あなたの注意が父のもとに戻され、目の前のあらゆることの意味を知ろうとして父に訊ねるまで、あなたは怖れの中に居る」ということなのです。

そしてあなたには解決策が与えられているのです。
「父に向き返り、真理が何か父に訊ね、本当の平和を体験することが出来る」とあなたは知っているのです。
するとあなたは神が成っている流れの中でどの様にして適切に振舞い喋るべきか知るのです。 こうしてあなたは夢の中に変革(目覚め)をもたらす仲介者に成ることが出来るのです。

質問者。 なるほど、あなたの言いたいことが解りました。だからわたし達はアジェンダ(自分の計画)を持たずに毎日朝を迎えなくてはいけないのですね。

ラジ: その通りです。
これは何もしなく良いという意味ではありません。
「食べたり、出勤したり、その他のことをしない」という意味ではなく、「あなたは怖れの性癖から行動しようとしなくなる」という意味なのです。

あらゆる行動がどのようにリアリティと関係しているか常に気付いていられるように、『「あなたが食べ働き全ての行動をしているそこ」に在る天国の中で本当は行なわれていること』とあなたの行動がどのように関わっているか気付いていられるように、あなたは「目覚めた者」とつながり続けようと求めるようになるのです。

質問者: 私が質問しているのは「自分はこうするだろうと考えた計画」に私はもうこだわらなく成って来ているからです。
つまり“軽い”計画は今でのあるのですが、「鍛錬」という言葉{に表されている自分の計画へのこだわり}はもう適用されないようです。


ラジ:ハイ

父のリード(導き)に任せた時あなたは、あなたが居るべき所に行き、あなたがするべきことをするのです。

そしてこれは予測不可能で、こう起こるべきだとあなたのエゴが考えた通りには物事が起こらないことが「命/人生が楽しく成っている場所にあなたが居ること」を意味しているのです。

あなたのエゴはこれに反論しようとするでしょう。
「それでは自分は無責任に成っている。自分は失敗してしまう。これを続けたなら惨敗すると。」とあなたのエゴは言うでしょう。

質問者: そうです。すると私は波紋を広げてしまい。皆が私のことを嫌うのです。

ラジ: こうも言えるでしょう。 あなたはもはや「その場に形成されている相互合意されている定義群」に従って行動してはいないので、あなたは「システム」に従わなくなっているのです。

質問者: ルール(社会規範)にとらわれなくなるのです。
ラジ:ハイ。
質問者:オーケー。 私は...に関して理解したい...

ラジ: そして、それが起こっているのではないのです{規定されたルールが物事を発生させているのではないのです}。

質問者: 相互合意されている定義群に関してより詳しく知りたいのです。相互合意されている定義群と言われても何のことか良く解りません。これは何を意味しているのですか?  今の瞬間の中でだけそれを見ることが出来るのかもしれませんが。

ラジ: それは...、それは...わたし達がコースを読み始めてから何度も相互合意されている定義群に関して話して来ました。 わたし達が続けて行くに従って「相互合意されている定義群」が何なのより明確にして行きましょう。

今晩あなた達はお互いに対して比較的居心地良く安全に感じています。
これもまた相互合意されている定義群の結果なのです。
あなた達は一定の行動規範(行動ルール)を持っています。この場においてあなた達は(自分達の職場の行動規範とは異なった)一定の行動規範を持っているのです。あなた達は一定の振舞い方や言葉の使い方に合意しているのです。

あなた達はこの集まりの中で話せること(しかし他の集まりの中では話せないこと)を共有しています。だからあなた達は行動規範と呼べるものを持っているのです。
そして初めて会った人に対する行動規範と知り合いに会っている時の行動規範には違いがあるのです。あなたは自分が対面している人に合わせて振舞いを変えるのです。
だからあなた達は行動規範がどの様なものか理解しています。
相互合意されている定義群をこのように説明することも可能です。

質問者: 解りました。ありがとう。


ラジ:だからあなた達は、自分達が属している各グループに付属している「相互合意されている定義群」を各種持っているのです。


あなたが、どれでもいいから何か一つ「相互合意されている定義群」を真っ直ぐ見てみたなら、それは何一つ「本物/真摯」ではないのです。 
相互合意されている定義群が本物(真摯)でないのは、それらが状況に左右されて変ってしまうからです。

相互合意されている定義群は状況毎に取り替えられるのです。

しかしあなたがどのグループの中に居ようとも(あなたがどの人達と対面していたとしても)本物はそれそのものであり続けるのです。

だから毎日あなた達は状況に合わせて適切な絵(相互合意に合致した絵)を提示して生きています。

そしてそれは、既に存在している相互合意されている定義群故に、上手く働くのです。
あなた達は「これらの相互合意されている定義群がどのようなものか」討議して決めた訳ではないかもしれません。 それらは試行錯誤によって自然と決まったのです。

何が受け入れられ何が受け入れられないかが、失敗と成功を通して学ばれ、それが共有されて来たのです。
だからあなた達はこうして暗黙の内に「相互合意されている定義群(ここでは常識/社会規範/グループ内のルール)」を互いに教え合って来たのです。

そしてコースの要点は、わたしが今まで話して来たことの要点は、どうしたら本物の場所(真摯な場所)にあなた達が到達出来るか示すことなのです。
あなた達の源と繋がり直すことから来る「本物の場所/状態」に行き、あなた達の源に抵抗せずに振舞えるように成ることが要点なのです。
「あなたが居るそこで神が成っている全て」によって構成されている「あなたの存在のエッセンス」に逆らわずに行動出来るように成ることが要点なのです。


[I would hardly help you if I depreciated the power of your own thinking. This would be in direct opposition to the purpose of this course. It is much more helpful to remind you that you do not guard your thoughts carefully enough. You may feel that at this point it would take a miracle to enable you to do this, which is perfectly true. You are not used to miracle-minded thinking, but you can be trained to think that way. All miracle workers need that kind of training.]

[あなた自身の思考の力を私が軽減したとしても、それはあなたを全く助けません。そのようなことはこのコースの目的に反するものです。「あなたは自分の思考を注意深く守っていない」と指摘する方がより有益なのです。「この時点でそう出来るように成る為には奇跡が必要だ」とあなたは感じるかもしれませんが、それは全く真実なのです。あなたは「奇跡的マインド思考(奇跡志向の思考)」にはまだ馴れていません。しかしそのように考えるようあなたをトレーニングすることが出来るのです。全てのミラクルワーカー(奇跡の為に奉仕する人)はそのようなトレーニングを必要としています。]


[All miracle workers need that kind of training.]
[全てのミラクルワーカーはそのようなトレーニングを必要としています。]

ラジ: そのようなトレーニングをしたからと云って、あなたが自分個人の主権の上に奇跡(癒やし)を行なえるようになる訳ではありません。

あなたがもうこれ以上怖れに脅かされなく成るように、あなたはこのようなトレーニングを必要としているのです。 あなたが存在の動き内に潜在的に在る喜びの中でリラックスしそれを浴びることが出来るように、あなたはこのようなトレーニングを必要としているのです。 

あなた自身の中に怖れを発生させることをあなたが止めた時、あなたは「父よ、ここでは本当は何が起こっているのですか? 何が真実か私に見えるように助けて下さい。私が適切に動き振舞うことが出来るように。」と言うのです。

あなたがこれをしている時、あなたはあなたの独立を放棄しており、動きの流れの中に戻っているのです。
こうしてあなたはミラクルワーカーに成るのです。
つまりあなたは変化の仲介者(エージェント)に成るのです。

そうするとあなたの存在はもはや夢の継続を他の人達に対してサポートしなくなるのです。
夢(幻想)へのサポートが軽減されるのです。

そしてあなたの存在が、他者を祝福し癒やすダイナミックなエネルギーの焦点に成るのです。
これは言ってみれば副作用なのです。 このことを私は指摘したいのです。

ミラクル・ワーカーに成ることが要点なのではないのです。
どの様にしたらあなたの存在の源と対立せずに居られるか学び、「あなたが何か/あなたが誰か」よりクリアに示す体験の中にあなたが帰って行き、あなたが怖れをもとに行動しなく成り、あなたが怖れを発生させなく成ることが要点なのです。

するとあなたはもう夢の継続をサポートしなくなるので、あなたは自然と瞬間的に抵抗無く夢を解除する者に成るのです。

それはあなたが夢を解除しようと決めたからではなく、夢への自分の参加を引き抜き、父と繋がって父の意志があなたを通して表現され、それ(父の意志があなたを通して表現されること)が変容を引き起こすからなのです。

だからあなたが目覚めの中を進んで行ったなら、あなたはミラクル・ワーカーに成るのです。
しかしあなたは自分でそのような者(ミラクル・ワーカー)に成ろうとするのでは無いのです。


質問者: では「奇跡的マインドの思考」とは問題に面した時聖壇に向き合って「父よ、あなたはこれをどう見ていますか?」と訊ね聞くことなのですか?
私は奇跡を愛(思考ではなく愛のフィーリング)と考えていました。

ラジ:
奇跡は瞬間的な知覚のシフトです。

「奇跡的マインドの思考」とは、聖壇に向き合う理由をあなたに与えた全ての思考(その思考がどのようなものであれ)なのです。 
あなたが聖壇に向き合い聖壇の言うことを聞いたなら(あなたが聖壇の手足に成ったなら)、あなたは愛されている体験をして、あなたはその愛を自分の中だけに閉じ込めておくことは出来なく成ります。だからあなたの中から愛が溢れ出し、それが全ての人達を祝福するのです。

そしてそのプロセスにおいて、あなたは怖れの声を自分の教師にすることを手放しているので、あなたは「怖れから切り離す事が出来ない知覚」も手放しているのです。
そして新しい知覚があなたに与えられるのです。
だからそこには瞬間的知覚のシフトが在るのです。
これがあなたの癒しであり、この癒やしが(この愛が)あなたから溢れ出って全ての人達を祝福するのです。

質問者:
あなたは数週間前に「あなた達の動機がだらしのないものでも構わない」と言いました。
「理屈に合わない理由からあなた達がこれ(聖霊/神に訊ね聞くこと)をしてもOKだ。」とあなたは言いました。
「自分勝手に見える理由からこれをしても良い」とあなたは言ったように私は受け取りました。

ラジ:
聖壇に向き合うことをあなたにさせた理由が何であろうとも、どのような不明瞭な思考を理由にあなたが聖壇に向き合おうとしたにしろ、(その思考があなたを真摯に聖壇に向き合わせたのなら)それが奇跡的マインド思考なのです。あなたが何らかの理由や思考故に聖壇に向き合ったから、あなたが奇跡を受け取り易くなる(奇跡が体験し易くなる)のです。


質問者: つまりどのような性癖から(どのような不明確な思考から)訊ね聞くことへ決意を与えてたとしても結果(答え)が得られるのですね。

ラジ:その通りです。

質問者:目覚まし時計を(目覚まし時計が周期的に鳴るようにしておいて、それが鳴ったことを)理由にしても良く、どのような理由からこれを行なっても良い訳です。


ラジ:その通りです。
新年の誓いを訊ね聞く理由にしたって良いのです。
それは聖霊に訊ね聞く理由としては少し馬鹿げて見えますが、そう考えることで上手く行くなら、それで良いのです。

ここで一つ明確にして置きましょう。
何が馬鹿げていない理由(訊ね聞く正当な理由)なのでしょうか?

あなた自身と十分繋がり、現状では自分はまだそれ程ハッピーではないと知り、あるいは自分が何かを怖れている(痛みを感じている)と知り、そのような体験をし続けたくはなくと思い至り、別の方法(より良きやり方)があると気付くこと、が正当な理由です。

苦しみを求めず、それ故にあなた達の最上の定義や思考を超えて{神/聖霊に}意識を届けて「ヘルプ」と言うのです。

あるいは自分の兄弟が苦しんでいる(悲しんでいる/痛みを感じている)ことを認識し、兄弟を気遣って、父に意識を届け兄弟の為に「助けて下さい。」と言うのです。

これらはその瞬間のあなた自身との真摯な(本物の)繋がりから(そして苦しみ以外のことを体験していることが自分の生得権だという永遠の気付きから)来ているものなので、そしてこれらはあなた達の最上の思考の外にある源に対して助けを求めることなので、これらが良き理由なのです。
この違いが解りますか?

質問者: 良き理由は瞬間的/自発的なのです。

ラジ: しかし新年の誓いを理由にこれ(訊ね聞くこと)をしたとしても、それでも結果は得られるのです。

[I cannot let you leave your mind unguarded, or you will not be able to help me. Miracle working entails a full realization of the power of thought in order to avoid miscreation. Otherwise a miracle will be necessary to set the mind itself straight, a circular process that would not foster the time collapse for which the miracle was intended.]

[私は、あなたがあなたのマインドを守らないまま(思考を律しない状態)にさせておくことは出来ません。 そのような状態では私はあなたを助けることが出来ないから。奇跡の為に働くには、誤創造を避ける為に思考の力を十分に理解する必要があるのです。でなければマインドそのものを正しくする為に奇跡が必要に成ります{しかしマインドが正しくなければ奇跡は体験出来ません}。この悪循環状態では奇跡の目的である時間の短縮(時間の崩壊)が起こらないのです。]

ラジ:
そして奇跡の目的は、あなたのマインドを真っ直ぐに正すことではなく、知覚のシフトを起こさせることなのです。

比喩的に言うなら、奇跡の目的はあなたの車を正しい方向に向けることで、車のエンジンを修理しようとすることが奇跡の目的ではないのです。

奇跡の目的は、あなたのマインドを真っ直ぐにすることではなく、あなたのマインド内に間違った知覚が入って来ないようにすることなのです。
私が言おうとしていることが解りますか?

自分のマインドを真っ直ぐにすることが奇跡の目的だと考えていたのでは{自分のマインドを正すことだけに集中していたのでは}、奇跡的マインドまで(奇跡の出現まで)辿り着けないのです。

[The miracle worker must have genuine respect for true cause and effect as a necessary condition for the miracle to occur. Both miracles and fear come from thoughts. If you are not free to choose one, you would also not be free to choose the other. By choosing the miracle you have rejected fear, if only temporarily. You have been fearful of everyone and everything. You are afraid of God, of me and of yourself. You have misperceived or miscreated us, and believe in what you have made. You would not have done this if you were not afraid of your own thoughts. The fearful must miscreate, because they misperceive creation.]

[奇跡が起こる必要条件として、ミラクル・ワーカーは本当の原因と結果に対して敬意を払う必要があります。奇跡も怖れも思考から来るものです。 それらのいずれかを選ぶ自由をあなたが持っていなかったなら、あなたはどちらも選ぶことは出来ません。 奇跡を選ぶことにより、あなたは(例え一時的にしろ)怖れを退けたのです。あなた達は全ての人と全ての物事を怖れて来ました。あなたは神を怖れ、私を恐れ、あなた自身を怖れています。あなたはわたし達を誤知覚し誤創造して来ており、あなた自身が作ったもの{あなたが作った誤創造}を信じているのです。あなたが自分の思考を怖れていなかったなら、あなたはこれ(誤創造)をしなかったでしょう。 「怖れている者」は創造を誤知覚している故に、誤創造せずには居られないのです。]


ラジ:興味深いですね。

[The fearful must miscreate, because they misperceive creation.]
[「怖れている者」は創造を誤知覚している故に、誤創造せずには居られないのです。]

ラジ:創造を誤知覚している時、あなたの振る舞いは無知から起こっています。だからその時あなたの行動はあなたの無知を反映しているのです。

ここで私が強調したいのは、誤創造とは(新たな創造ではなく)創造そのものを変化させること{変えて見せること}なのです。
例えば高血圧とか胃潰瘍などが正常な状態からの変化であるように、誤創造とはリアルなものを変えることなのです。

[The fearful must miscreate, because they misperceive creation. When you miscreate you are in pain. The cause and effect principle now becomes a real expediter, though only temporarily. Actually, “Cause” is a term properly belonging to God, and His “Effect” is His Son. This entails a set of Cause and Effect relationships totally different from those you introduce into miscreation. The fundamental conflict in this world, then, is between creation and miscreation.]

[「怖れている者」は創造を誤知覚している故に誤創造せずには居られないのです。あなたが誤創造している時、あなたは痛みの中に居るのです。そのような時には原因と結果の原則が解決を促進させるものとして働くのですが、それは一時的なものに留まります。 本当は「原因」とは神に相応しい言葉で、神の「効果」が神の子なのです。ここにあなたが誤創造の中に導入しているものとは全く違う「原因と結果の関係」があるのです。だからこの世界の根源的対立/闘争/摩擦は創造と誤創造の間に在るのです。]


ラジ: 『創造と「創造に対する変更(干渉)=誤創造」の間にこの世界の根源的摩擦がある』と言っても良いでしょう。


[All fear is implicit in the second, and all love in the first. The conflict is therefore one between love and fear.]
[全ての恐れは第二(誤創造)の中に明確に現れており、全ての愛は第一(創造)の中に現れています。だからこの闘争/対立/摩擦は愛と怖れの間で起こっているのです。]

ラジ:その通り。だから目覚めのプロセスはあなた達がもう一度愛することを学び直すことなのです。
そしてあなた達は怖れの中に居り常に自己防御を行なっているので、どのようにして愛するべきか知らないのです。

だからどのようにすれば愛することが出来るか学ぶ為に、あなた達は今まで自分達が全てに意味を与える為に使ってきたものから(つまり相互合意されている定義群から)顔を背ける{注意/意識を引き抜く}必要があるのです。

そして今まであなたの注意は相互合意されている定義群に与えられて来たので、聖壇に向き合っている時あなたは全く馴染みのない方向に注意を与えているように感じてしまうのです。

しかし聖壇に向き合っている時あなたは住家(故郷)に意識を向けており、あなたのマインドの中で閃きの光を燈す基礎を築いているのです。 あなたのマインドが全体/完全/十全であって、あなたのマインドが十全以外のものに成ったことは決して無いのですが、あなたの独立行動(独立的立ち振る舞い)があなたの注意を「あなたのマインド中のとても狭い帯域」に閉じ込めてしまっているのです。

だからこれは全て愛に関することなのです。そして愛を説明することは出来ません。
愛の体験が待っている方向にあなたを向けさせることが出来るだけなのです。
そして私は常にあなた達全員をその方向に向けさせようとしているのです。
そして前回、愛の体験にはお互いとの関わりが必要だと私は明確に述べたのです。

これには関わり合いが必要なのです。何かに対して「それは修正を必要としている/していない」と調べない{聖霊に訊ねない}ことによって『安全』な所に留まることが出来ると考えるのではなく、関わり合いが必要なのです。
ニュートラルな非参加者/観望者に成るのではなく{聖霊/神に訊ね聞いた上で}何らかの態度を表明することが必要なのですが、これは必ずしも楽しい楽なことではありません。

「(自分達が安全であることを感じ安心出来るように)同じ相互合意を共有しているグループ」を捜しそれに参加することによりあなた達が得ている安楽が「愛が何であるか」あなたに照らし示すことは決してありません。

相互合意された定義群に基づくグループに所属することからあなたが得ている安楽が「愛が何であるか」をあなたに照らし示したことは一度もないので、{そのような安楽にあなたが甘んじている限り}自分の票を投げ入れることによって(聖霊から得た啓示を言い表すことによって)愛の現われに成れる境地にあなたはまだ到達していないのです。

しかしあなた達は曖昧な態度を捨てて意思表示をする居心地悪い状況に直面し続けているのです。

私が何を言おうとしているか解りますか?
あなたの安楽ゾーンは(あなたのエゴ/分離感覚が安楽に感じる場所は)洞察とインスピレーションが起こる場所ではないのです。
そのような場所は神の表現が行なわれていない「安全地帯」なのです。

するとあなた達は「愛が何か」に対する無知の中に留まってしまい、あなたが愛されているその愛のフィーリング(何故なら「あなた」の中心と周縁の全てが神の全体なのだから)を無視してしまいます。 それでは定義としてではなく行為として「愛に成る体験」や「あなたの役目を満たして、その働きが何か発見することにより新しくなる体験」が得られないのです。

質問者:前回その概念が私を困惑させました。
何故なら私は票を投げ入れること(意見を表明すること)をとても頻繫にしており、それは裁きから来ているからです。しかし私が事態を見ている時、それに対してどうしたら良いか(どうしたらよい結果が得られるのか)私には本当は解らないのです。

ラジ:前回私があなたの票を投げ入れなさいと言った時それは...という意味ではなかったのです。 うーん、何と言ったら良いか。

質問者: 「あなた個人の意見/会見を述べなさいと言っていた訳ではない」ということですか?

ラジ: あなたの言う通りです。

質問者:だから聖壇に向き返らなくてはいけない、そして質問をする訳ですね。

ラジ: その通りです。

質問者: そして答えを得て、その答えを得たまま口を閉ざしていてはいけないと言うことなのですね。
ラジ:そうです。

質問者: つまり参加するわけです。

ラジ: そうです。あなたは行動するのです。 あなたは自分の振る舞いの中で答えを体現するのです。

質問者:つまりただ座って「おお、これは素晴らしい考えだ!」と言うだけではないのですね?

ラジ: その通りです。
あなたの首を掛けなくてはいけないのです。少なくともエゴはそう考えます。

その時あなたは自分の魂(ソール)によって真摯に成ろうとしているので、エゴはそれを自分の首を掛けること(自分にとって危険なこと)と見るのです。

しかし{あなたが聖霊と繋がって行動したなら}あなたと相手が繋がり、自分が考えていることをあなたが伝えている時、あなたの感じていることはもう隠されていなくなるのです。

その時あなたの行動と思考が一つに成り、それがあなたの中で分離不能な体験(絶対的に一つに繋がっている体験)に成るのです。

不可分性(分離不可能な状態)は力のように感じられるのです。そしてそれがノーマル(当たり前)に感じられるのです。

あなたは統合されていることを感じ、だからあなたは自分の統合性(誠実)を感じるのです。
あなたが感じる力は、何かに対する力ではなく、それは純粋性なのです。ピュアな状態が力のように感じられるのです。

もしあなたがコップの中に水を満たし、そこから全ての不純物を抜き取ったなら、その時その水の中には小さな隙間が無くなっているのです。その時水は(不純物に邪魔されずに)水自身を完璧に触ることが出来ているのです。

不純物が取り除かれた時、水の中の全ての分子が水の他の部分と完全に繋がっているのです。
これが合一(Unity、一体性)です。これが誠実(Integrity、統合性)です。
そしてこの中で(この状況で)怖れを体験することは不可能なのです。

これが強さのように感じられるのです。だからこれが力に感じられるのです。
これが「愛が何であるかという体験」の一部なのです。

聖壇に向き合った結果としてあなたに知らされたことが行動に移された時、その時あなたの叡智とあなたの意志が統合/全体/不可分性を表現する為に繋がったのです。

その時あなたの意志は「父があなたに示したことを行なう召使」に成っているのです。

だからその時あなたの意志は(分離した視点を持っているエゴではなく)父の召使に成ったのです。

そしてそこには自己主張/自己固執の体験(自分の意志を通そうとすること)が存在していないのです。

それは神の現れ(光臨)に成っている体験で、あなたの全ての真実がその行動の中に体現されている全く真なる存在の現れなのです。

私があなたにこのフィーリングを与えることは出来ません。
私があなたに与えられるのはこのフィーリングに対するヒントだけです。
あなたがこの体験を自分に与えられるように、私はあなたにインスピレーションを与えることしか出来ないのです。

そしてあなたがこの体験を自分に与えられるように成るには、あなたは関わり合い関係を持つ必要があるのです。 
あなた自身や兄弟姉妹の痛みや苦しみを継続させるのではなく、それを否定する(癒やす)必要があるのです。


質問者:
「水の全てが水そのものを触っている状態」とは「無限のグラウンディング」の意味なのですね。

ラジ: その通りです。

質問者: それは自動的に瞬間的に起こるのです。
しかしそれが浸透するまでには(それが認識されるまでには)時間が掛かるのです。
瞬間的に起こったことが浸透するまでには十年の時間が掛かったりするのです。

ラジ: ええ。 しかし何故それは3ヶ月掛かると言えないのでしょうか?
何故10年と決めてしまうのですか?
認識が浸透するまで3秒しか掛からないことも可能でしょう。

それが瞬間的に起こらなかったとしてもあなたが罪悪感を感じる必要は無いでしょう。
しかしあなたがそれを認識出来るように成るまでにとても長い時間が掛かるに違いないと決め付けてしまうのは止しなさい。
何故ならあなたは思考の力を使って「真理が理解され体験されるまでに十年掛かるようにしてしまうこと」も可能なのだから。 あなたは思考の力を使ってそのようは約束/宣言をしてしまうことも可能なのだから。


質問者: 私が言いたかったのは「重要なのは時間の長さではなく真摯さである」ということです。

ラジ:ええ。

質問者:そして時間は、好奇心を発揮した時から成就(神の意図が満たされること)が起こるまでの期間は、より短く成って来ているのです。

ラジ:ハイ。 しかし理解して欲しいのは...一旦テキストに戻りましょう。


[Otherwise a miracle will be necessary to set the mind itself straight, a circular process that would not foster the time collapse for which the miracle was intended. ]
[でなければマインドそのものを正しくする為に奇跡が必要に成ります{しかしマインドが正しくなければ奇跡は体験出来ません}。この悪循環状態では、奇跡の目的である時間の短縮(時間の崩壊)が起こらないのです。]


ラジ:
今わたし達は目覚めのプロセスについて話しているのです。
次のイメージを使って話してみましょう。

あなたは天国の中の芝生の上に寝転がっていて、人間的存在の夢を夢見ているのです。
だからあなたは既にここ(天国/故郷/住家)に居るのです。
あなたは既にキリストと呼ばれている「神の現れが十全に体現されているもの」なのです。
しかしあなたの夢は「存在が時間の中でゆっくりと起こっている」と言うのです。

瞬間的な癒しが起こり得る唯一の理由は、一つの瞬間に現れていた物理的確証が一瞬後に新しい物理的確証で置き換えられる理由は、時間の短縮(時の崩壊)が起こるからです。

そして物理的確証(物理的状況/身体的状況)が変化する唯一の理由は、怪我が幻想だったからです。 怪我は「本来は全く一瞬も歪むことが不可能なもの」に対する歪んだ体験をあなたにもたらした特定の権威思考の結果だったのです。間違った権威思考をあなたは自分に対して事実として示したのです。

あなたはあなたの体験内でリアリティを変えることにより歪めているのです。
そしてあなたは「この歪みの体験を超えるのに10年は掛かる。」などと言うのです。
あなたはそう言って、あなたがそう言うことにより、時間の短縮(時間の崩壊)をより難しくしてしまうのです。


質問者:
そしてポールの手が痛んでいてあなた(ラジ)に助けを求めていた時にこの反対(時間の延長)が起こっていたのですね。
一週間後にポールは焦れ出してしまい短気を起こしたのですが、あなたは癒やしを求め続けるようポールに即したのです。
そして三ヵ月後にポールの手の痛みが無くなったのです。
そしてポールは短気(焦れ出してしまうこと)は癒やしではないと理解したのです。

ラジ:その通りです。
質問者: これも同じレッスンの一つだったのですね。
ラジ:その通りです。

質問者:そして私が学んでいたことは...それは...

ラジ: あなたの学習(浸透/癒やし)を遅らせていたのも、あなたの自己主張(willfulness、自分の意志を通そうとすること)だったのです。

質問者: その通り。そして私は「瞬間的な目覚めは私がそれを許可した速度でやって来ること」を今学んでいます。

そして目覚めが来るまでに一週間掛かったとしても数ヶ月掛かったとしても、それが来てくれたことに私は感謝するのです。

ラジ:正しいです。

コース(ACIM)は理解が難しいものとして意図されてはいないのです。
コースの各ページはあなたが発見を体験し、誤認識が崩壊し消えて行き、(今まで誤知覚/誤解が表れていた)そこに神が存在している光景を真っ直ぐ見られるように成ることをサポートしているのです。
それは未来に保たれていることではなく、今起こるのです。

今目覚めることに対するあなた達の興味と好奇心をサポート出来るように、これらのことが分かち合われることが可能な世の中に成って来ているのです。


以上


Chapter 2 -- Cause and Effect (Part 1)  Section VII: First Edition page 27 Second Edition page 31 



私に寄付をくださる場合:
クレジットカードご使用なら
Available Note http://availabenotes.blogspot.com/
のメインテキストの左下の寄付ボタンをクリックすればPayPalのサイトに移行し、そこからクレジットカードでの寄付が可能です。PayPalのアカウントを取得する必要はありません。カード番号など情報は全てPayPal(eBay)が管理します。
あるいは下記の住所まで小切手かトラベラーズチェックをお送りください。
Hiromi Okaue
2821 2nd Ave Suite 704
Seattle WA 98121 USA
(参照ページ)http://rajpur.blog13.fc2.com/blog-entry-220.html


この文章はサンローズが書き取ってくれた英文を元にしています。彼女へギフトされる場合下記がアドレスです。
Francine Mienik (Sun~Rose)
13 Dunes Lane、Port Washington
New York 11050

この英文はJanisさんが編集/校正してくれました。 残念ながら私はJanisさんの連絡先は存じ上げません。

NFFACIMへの募金は下記のアドレスへ郵送されるか、下記のWEBを通して行なってください。
The Northwest Foundation for A Course in Miracles
PO Box 1490 / Kingston, WA 98346-1490 / USA
Phone: 360-638-0530 Fax: 360-881-0071
Website: http://www.nwffacim.org
E-Mail: paul@nwffacim.org


コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

翻訳 岡上

Author:翻訳 岡上
ACIM - A Course In Miracles

hiro.okaue@gmail.com

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。