スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

Q&A

静さん、こんにちは。

あなたには文章を書く才能がありますね。 
そしてここに書かれている文章を読んでみれば、あなたには他者を助ける度量があることが解ります。

あなたと私の境遇は違って見えても、体験はそれ程違わないでしょう。 
でも、もしかしたら私のほうが少し経験が長いかもしれません。だから遠慮なく、この本来自由であるべきギフトを受け取ってください。 
ギフトは受け取られることに意味があり、それは見返りを要求するものではありません。


何が私を苦しめてきたか?
それは「私に聞えていること」と「ラジの言葉」には時に食い違いがあり、その食い違いが私のエゴから来ているのかどうか判断することが出来ない状態が長く続き、その結果「自分に聞えていることであっても、ラジと対立しそうなこと」は言わずに済ませてしまう癖が付いていたからです。
しかし言うべきことを言わないでいることは苦しいのです。


<それにただ囚われているから、ポールや岡上さんの間で今起こっていることも、何かお金に関係したことのように見えているだけなのでしょうか?
いいえ、これはお金に関したことなのです。
お金に対してポールさんには不正直/不正確な言動があると私は言っているのです。 
ポールがその生計を英語の読者に依存していることは間違っていないでしょう。
ラジのテキストの販売を禁じていることにもそれなりの理由があるでしょう。(と同時に、ラジのテキストを販売しない決断は「一時期FIPから全てのACIMスタディーグループに対してACIMテキストの使用禁止が要求されていたこと」に対する対策でもあったようです。何故なら、ラジのテキストには必然的にACIMのテキストが含まれているのだから。)
しかし「自分の必要(自分が必要としているもの)」をポールが人々に知らせる時、彼は自分の必要に関して正直でなくてはならず、秘密を保ってはいけないのです。 何故二つ目の家が必要なのか、そこにはハッキリとした理由があるのだから、彼は自分の口からそれを言えなければいけないのです。そうでなくては明晰なものは現れません。
今までこのことに関して私は口をつぐんで来たので、だから私は苦しんだのです。
そしてピュア(100%)でないものは、不正確なものは、もっと間違ったものを生んでしまいます。 だからピュアである必要があるのです。 あなたの主を心の限り愛する必要があるのです。

そしてポールが「イエスと繋がるサンローズの愛」を認めておらず、「ビジネスにすると教えが歪むから」といってサンローズの本を認めておらず読んでさえいないことにも、私は口をつぐんで来ました。
何故ポールはそう主張したのでしょうか。「自分こそがイエスを代弁している特別な者である、それを人々が認めてくれなくては自分は生計が立てられない」と彼はそう考えていたのです。 彼がそう考えていたことは、その場に居た全ての人達に理解されたことです。彼はプライベートに存在している訳ではないのだから。
そして「出版することはビジネスで、それは歪みをもたらす」ということは聞くに値する意見ですが、出版された全てのものの価値がこの言葉によって決まるものではありません。「出版しなければ、寄付で全てを賄えば、操りがおこらない」という訳でもないのです。

<ほんとのところ、何が起こってるのかわかりません…

起こっていることは下記の通りです。
神は沢山の人々に話しかけています。
しかし人々はお互いの中の神/源をまだ十分に認識出来ていないのです。
宗教/文化/風習の違いを超えてお互いと真摯に関わることが、立場の違いを超えてお互いを尊重することが、これから行なわれるべきなのです。
そして神の声が聞こえている人達はそれ故に、私のクビキ(私の荷物)を背負うべきなのです。本来それはとても軽いものなのだから。

確かにラジ/イエスの言葉を言い続ける為にポールは家計を支える必要があった(二つ目の家の必要に関しては説明が無いわけですが)、それに対して私は自分の活動で家計を支える試みはまだ殆どしていません。
一般的な価値観から見れば私のほうがより無責任な人でしょう。 
であれば私の取り組みには価値が無かったのでしょうか?
いいえ家計が成り立つかどうかは、物事の価値を決めるものではありません。
もちろん生計が立つことは素晴らしいことです。 しかし時には、生計が立たなくてもしなくてはならいない事があるのです。そしてするべき事をすることは容易なのです。

私の行為が家計を支えるように成ることも在るでしょう。
しかしその前に私は真摯でなくてはいけないのです。 間違ったことに対して「これは間違っている」と言えなくてはいけないのです。 
本を出すことが必然的に操りになるのか? 寄付で全てをまかなわなくてはいけないのか? 私は真摯に訊ね聞く必要があったのです。
 


第一に、あなたが文章を読んでくれたことがギフトなのです。
与えられたものは必ず帰って来ます。 あなたが誰かに「何か」を与えたなら、それは必ずあなたのもとに帰って来ます、沢山の友達を引き連れて。 このWEB内の文章があなたと私を引き合わせてくれたように。
そしてあなたの文章を読んで「何か新しい動きが確かに現れている」と私は理解したのです。

ありがとうございます。
岡上



テーマ : スピリチュアル
ジャンル : 心と身体

コメントの投稿

非公開コメント

この教えは?

岡上様、わざわざコメント頂き恐縮です。本当に有難うございます。

やはりお金に関することなのですね。
以前書いていらっしゃったように、ポールがラジというキャラクターを使って、自分の欲(エゴ)を満たそうとしているのではないか?というような疑念ですよね?
そして、岡上さんの目には明らかにポールがお金に関しての言動が不誠実だと見えるし、自分には違うイエスの言葉が聞こえるのに、このままポールが口にする言葉をラジ=イエスの言葉として翻訳して多くの人の目にさらせてしまっていいのか、訳者としての責任を感じて苦しんでいらっしゃるのですよね?
そして、ご自身はせっぱつまった生計のご事情があっても、使命を感じて無償で黙々とポールの言葉を私達のために日本語に訳して下さっているというのに、片やはっきりとしない理由で次々と寄付を募るポールに、そしてその言葉を自分が訳していることに、理不尽な、割り切れない思いを感じてらっしゃるのかもしれませんね。

そういう状態で続けていくことはとても苦しいと思います。こう言うと、私達のために訳して頂いているのに何か人事のように聞こえてしまうでしょうか?もしそうなら許してください。

続けるかどうかを自分で選択しようとして判断しかねて苦しんでいらっしゃるように私には見えるのです。もしそうなら、そのポールに対する判断をしばらく保留にして、ポールの周りで物事がどう展開していくか、楽な気持ちになるまでただ様子を見られてはどうでしょうか?翻訳者という立場を離れて、読者に対する責任から一度離れて、ただ何の判断もせずに様子を見られてはいかがでしょうか?
そうしているうちに気持ちがほどけるかもしれません。

多分岡上さんの金銭感覚と私のそれは対して違わないのではないかという思い込みから申し上げるのですが、ふたつめの家の話を聞いて、まず私に沸いた思いは「そんな、ぜいたくな…」という気持ちでした。岡上さんもひょっとしたら似たような違和感を感じてらっしゃるのではないでしょうか?

ふたつめの家のことは知りませんでしたが、私の記憶違いでなければ、ひとつめの家の購入の際、その家の購入のためラジが高額の寄付をつのっていて、それほど大きな家が本当に必要なのか、というような話が展開されており、ポール自身がそのラジの提案に当初当惑していたこと、そして、寄付を促すようなラジのコメントの後で、岡上さんがめずらしく、最後にご自分の意見を述べてらっしゃったように思います。私もその時岡上さんと同様、その寄付の高額さに(自分が寄付しないにもかかわらず)何か釈然としないものを感じました。そして、よかった、訳者の人は「私の側」だという安心感を感じたのを覚えています。

でも、私や岡上さんの釈然としない思いには関係なく、ラジは多額の寄付を受けて、ひとつめの家を手に入れたのですよね?なら、ラジが言っていたように、それが起こることがやはり必要だったということですよね?それが起こったなのですから。
そして、それが実際起こった後、、私がふと思ったのは、ラジの「全額寄付による高額な家の購入」の意図とは、ひとつにはそういう私達の一般的な金銭感覚を逆なですることにあったのではないか、敢えて不快感、違和感を与えることによって、、お金というものに対する人間の根強い思い込み、人のお金という概念を揺るがす、ことが意図だったのかしら?ということです。(が、勿論、それもただ私の思考にすぎません)

けど、そう思いながらも、その時真剣に問うことをしなかったので、私はまさに今、この回答を頂いたことで、改めて「ところで、このお金っていう代物はいったい何なのでしょう?」とまるで初めてお金というものを目にしたように「問う」とを促されている、と感じました。だから千円札の野口英世を見ながら(残念ながら野口英世しかいません)、つくづくと問うてみました。そこだけが私に起こったと言えることで、後はわかりません。

ふたつめの家も同じことなのかもしれません。或いは全然別の意図があるのかも知れません。
私にわかることは「ほんとうにはたった今全体では何が起こっているかはわからない」ということだけです。
そのまさに「わからない」ということが、ひとつめの家の話や岡上さんの一連の訳や同時期に体験した様々なことから、今私がわかっていることなのです。

何が必要で何が必要でないのか、なんていうことは私達人間の狭い視界、限られた五官では、到底ほんとのところはわからない、実際今何が起きているか確かなことなど何もわからない、ということです。

それは貴方たちの仕事ではない、だからただ静かになって(自分の思いは脇に置いて)神の意志にただ添おうと黙って耳をすませない、それがACIMやラジが言わんとしていることだと私は理解しているのですが、違うのでしょうか?

ふたつめの家の話を聞いて、まず咄嗟に思ったのは「そんな、ぜいたくな…」で、ひとつめの時と大した違いはありませんでした。ただ、ひとつめの家の時と違うのは、私がどう思おうが、実際にふたつめの家がポールに必要ならそれはそんな風に起こるだろうし、必要でないならそうならないだろう、と次の瞬間には手放せるから随分楽だということです。
そして、私が得た平安は岡上さんの訳に負うところが多いのです。

もし、ポールに本当にふたつめの家が必要なら、それは私達がどう思うか、どう感じるかに拘わらずそうなるでしょう。もし、ポールが自分の必要のためだけにそれを望んで寄付を募っているにしろ、それが全体の意志に添うならそうなるでしょうし、全体の意志に添わないなら、仮に岡上さんがどんなにサポートされたとしても、それは起こらないのではないのでしょうか?
なら、岡上さんが何かに責任を感じられる必要は全くないのではないでしょうか?

そして、結局のところ、ポール自身にもその家がなぜ必要かなど、わからないから説明のしようもないのではないでしょうか?

私達がポールの必要性について考えるとき、せいぜい思いやれるのはポールやその家族や話を聞きに集まってくる人達の人数くらいですが、もしかしたら、、ふたつめの家の庭に使われる一本の木や砂粒一つが、全体としてその時その場所にあることがどうしても必要なために、ポールが買うことが必要なのかもしれません。だとしたら、そのひとつひとつの必要性について語りようがないのではないでしょうか?また聞いても私達には理解できないのではないでしょうか?

神は全知全能ですよね?神は遍く隅々まで行き渡っているのですよね?それを信じるかどうかだけが、私達の選択できることではないのでしょうか?そして、一旦それを信じるなら、神の意志以外のことがどうやって起こり得るのでしょう?ポールの振る舞いが今私達にどう見えようと、それがどんな形で連鎖して、全体に何百年先(或いは過去と思える方向に)にどんな形で波及していくか、知りようがないのではないでしょうか?

だから私達は黙ってただ委ねるしかないのではないのですか?
私達はそもそも行為者ではないのではないのですか?なら、自分が判断して何かを決めてそうした思っている、それがそもそも勘違いなのではないのでしょうか?
つまり、ACIMの教えはそういうことなのではないでしょうか?

私にはまだ神の声は聞こえませんし、ポールがが壁紙を愛だと見たように、このパソコンを愛とは見れません。にもかかわらず、この理解が間違ってないと思えるのは、「平安」だからです。

聞こえるまで聞きけろということなので、聞き続けます。今はとても見えませんが、そのうち、パソコンやお金や机が自分が今知っていると思っているものと全く違う様相で、それを自分と同じ命と捉えることができるだろうと信じています。
今のところ、自分のうちのその平安だけが、(自分が狂っているのではなく)正しい方向を、神の方を向いているという徴です。

そして、その平安は岡上さんが負うところが多いのです。岡上さんからもらったのです。そのことを言葉にできない程感謝しているのです。

なのに、どうして私に貴方が苦しまれているのですか?

私は何かとてつもない見当違いのことを言っているのでしょうか?


プロフィール

翻訳 岡上

Author:翻訳 岡上
ACIM - A Course In Miracles

hiro.okaue@gmail.com

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。