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ACIM12-10-09

先に進む前に明確にしておきたいことが幾つかあります。
目的を満たす(成就させる)ものは決断/選択であると私は言いました。
これは「決断が目的を満たす」という意味だと取られてしまう可能性があります。
決断/選択という言葉はかなり好ましいものとして受け取られています。
何故ならそれは力を思い起こさ、物事を起こす能力を思い起こさ、何かを特定の方向に動かす能力を想像させるからです。

選択の力とはニーソート(New Thought=昔のアメリカのスピリチュアル・ムーブメント)/形而上哲学/ニューエージが流行らせたものです。
多くの人達はコントロールを保って安全でいたいと願うので、選択の力が安全をもたらすなら、それを学び熟練し実践したいと願うのです。

しかし私が「目的を満たすのは常に選択である」と言っている時、それは「コントロールを実践する為に選択すること」とは関係がないのです。
選択することは広く行われており、それは非常に尊ばれていることですが、目覚める為に必要なのは「選択の実践を放棄すること」なのです。
聖なる瞬間に入る為に、孤児院の状態/必滅状態に人を押し留めている自治を破る為に、「選択の実践」を止める必要があるのです。

目的/意図の選択(目標設定)には二種類のものしかありません。
一つは想像上のもので、もう一つはリアルなものです。
しかしそれらは両方ともリアルなものとして扱わられています。
第一の目的の選択(目標設定)はあなたを夢の中に留めるもの(あなた達を孤児院の中に輪廻転生させ続けるもの)です。

それはあなたのロジックから来ている選択で、コントロールを保とうとすることから来ている選択で、それはある程度の平和を保つ為にあなた自身のマインドをコントロールしようとするだけでなく、あなたの同胞(孤児院内の同胞)をコントロールする為の選択決定です。
だからこの選択(決意)は夢を継続させてしまうのです。真実に対する無意識状態を続けてしまうのです。
何故なら、これは孤児のあなたが「リアルで有効な人間に成ろうとしているあなたのプライベートなゴール/目的」を確立しようとして使っている選択だから。
そしてこれ(ある程度の平和を自分の為に確立すること)は「あなたの同胞である孤児達に自分達は孤児だと信じ続けさせること」によってなされるのです。
それは勿論{独立を保持しようとしている}あなたの利益になるのです。
「自分達は利益を得ていると同胞達に感じさせること」をあなたはするのです。それはあなたが彼等に本当に利益を得てもらいたいからではなく、あなたは彼等に{独立存在としての}あなたの実在性/有用性を認めてもらいたいからなのです。

もう一つの目的の選択(目標設定)は常に決断の結果で、それは目覚めようとする決断です。 罪/病/死の夢の中から抜け出る決断です。
神の居ない宇宙の中で、全てのものが偶然に発生しており、偶然に委ねられていることから飛び出す決意です。
これをする方法が「ACIM(ア・コース・イン・ミラクルズ)」に記載されており、これがわたし達が話して来たことなのです。
そしてわたし達は近年このことを「二つのステップの実践」として言い表して来ました。
あなたのロジック/理屈/理由から出て来ている「パーソナルでプライベートな意思決定」を放棄して、パーソナルなマインドの動きを止めて、重要な決定をする時に普段行うプロセスを全て止めて、その静けさの中で「父よ、聖霊よ、私の同胞に関する、ここの真理は何ですか? 私と関係しているこの人の真理はなんですか?」と訊ねるのです。
自分自身をより良く知ろうとして訊ねるのではなく、あなたの兄弟をより良く知ろうとしてこれを訊ねるのです。
そして兄弟に関する真理の答えの中であなた自身の真理が自動的に瞬間的に学べるのです。 そしてあなたとあなたの兄弟が癒やされ、天国が微笑むのです。

コースの中には下記の文章もありました。
[You have no purpose apart from each other.1] Ch19-5
[あなた達はお互いを離れた目的は持っていません。]

この文章があなたの世界の全ての問題に対する答えなのです。
さてあなた達は「自分達は自分達から離れた目的を持っていない{自分達は共通の目的を持っている}」とある程度は信じています。
しかしあなた達が共有しているその目的(意図)は、お互いをコントロールして殺し合いが起こらないようにしながら、お互いを決定的に台無しにはせずに、あなたの兄弟の不利益の上に自分が成功することです。
そして{お互いをコントロールしようとする試みの下に}あなたの成功の為に努力するということは、必然的にあなたの兄弟達があなたの成功を阻んで兄弟達自身の利益を守ろうとすることに成ります。
このように社会的生存が終らぬ競争に成っており、しかしあなた達にはある程度の知性があるので、比較的平和な{生存競争の}スタイルを確立して来たのです。
しかし私がここで言いたかったのは{「目的を満たすものは決断/選択である」という言葉の意味は}、そのようなことではないのです。

下記がシンプルな事実です。
[You have no purpose apart from each other.]
[あなた達はお互いを離れた目的は持っていません。]

そしてこれはゴールデン・ルール「人々からこうしてもらいたいとあなたが思っているように、人々に対して行いなさい。」と同じようなものなのです。

“Do unto others as you would have them do unto you.2 “
{マタイ書では“So whatever you wish that men would do to you, do so to them; for this is the Law and the prophets.”  人々にこうして欲しいとあなたが願っていることを何でも人々に対して行ないなさい。何故なら、これが法で、これが預言者達{が言い表していたこと}なのだから。}

ゴールはあなたの兄弟へ愛を拡張する(愛を差し伸べる)ことであって、怖れやコントロールを与えることではありません。
現在地球上に表れている境界(区切り)は、地表に描かれている境界線ではなく、特定地域に住んでいるグループがなんらかの理由で他の地域のグループを排除しようとしていることなのです。

そして愛さない選択がされているのです。憎む決断がされているのです。

例えそれが軽い反感であっても、それはまだ愛{ダイレクトな愛の表現}ではないのです。

[You have no purpose apart from each other.]
[あなた達はお互いを離れた目的は持っていません。]

とするとあなた達は目的をもっており、その目的は:

Do unto others as you would have them do unto you.
[他者達から自分はこうしてもらいたいとあなたが思っている通りに、他者に対して振舞いなさい。]


つまり、あなたは常に自分の前に{自分を気遣う前に}あなたと関係している全ての人(全てのもの)に対して気遣いを差し伸べる(気遣いを与える)のです。
「えー、私がそうしたら誰々が怒って、私のことを拒否して、私が言うことは受け入れない! 彼は頑固だから。彼等は頑固な人達だから。」
こう言ってあなたは「愛を遠ざけるべき対象」として彼等を「カテゴリ分け」してしまうのです。

そして「豚に真珠を与えるべきではない。自分自身を彼等に対して差し伸べるべきではない。」というスピリチュアルなスタンスの中で考えたりするのです。
愛の拡張を(愛を差し伸べることを)する為に、あなたは時にはリスクに見えることをしなくてはならないのです。
父があなたに差し伸べている(あなたを満たしている)愛の現れの前に立って、その愛を差しの出さなくてはいけなのです。 時にはそれが良く受け取られなかったとしても。
「それはリーズナブルではない?」
しかしそのような愛を遠ざけること(意地悪なこと、反発的なこと)を言う余裕は(スピリチュアルな余地は)あなたにはないのです。

福島の原子炉がメルトダウンした時{常識的に考えたなら}その問題を安全に(作業者の健康を損なわずに)修正する方法はなく、もし問題が修正されなかったなら日本全体が影響を受けたでしょう。
だからこの問題を修正する必要があり、人々は危険の中に飛び込み、危険を否定し、危険が去るまで信心{自分達の振舞いに対する信頼}を通して危険を否定し続けなくてはならなかったのです。
人生においては「メタフィジカルな、スピリチュアルな高み」から出て、とても実際的に対処し関わり合わなくてはいけない場面があるのです(例えそうすることがリーズナブルに見えなくとも)。

[You have no purpose apart from each other.]
[あなた達はお互いを離れた目的は持っていません。]

あなたの国が経済的問題を抱えているなら、あなたの国人々が(人類が)不当に扱われているなら、その時「父よ、ここの真理は何ですか? 父よ、私の兄弟に関する真理はなんですか?」と言うべきなのです。
ここにリアルな意味があるのです。「父よ、私の兄弟の必要は何ですか?わたし達の隣国は何を必要としているのですか?」
何故なら、あなたが知りたいのは状況/必要の真理だけではなく、あなたは必要に答える真理(必要を満たす真理)が知りたいのでだから。
だからあなたは修正に参加しなくてはいけないのです。
どのようにして?
(反発的思考やコメントがあなたの口やマインドから飛び出して来なくなるまで)二つのステップを辛抱強く続けることにより{あなたは修正に参加するのです}。
「あなたに出来ることが何もない。あなたは何もしなくて良い。このことに関わり合うよりも適切なことがある。」という様な信念に騙されてしまわないように。

愛が必要を満たすのです。
しかしあなたが必要を無視していたなら、愛が必要を満たすことは出来ません。
あなたがタイムアウトして(関係を無視して)いたなら、それ(神の動きである愛が必要を満たすこと)が起こりません。
けれども神の聖なる子に成ることがあなたの役割なのです。
つまり(「あなただけ/あなた独自」という卑小な存在を残さないことにより、神のマインド以外の余地を残さないことにより)あなたのマインドが神のマインドに成ることがあなたの目的(使命)なのです。
二つのステップを行うことで、聖なる瞬間に入ることで、そしてあなたのマインドがチャージされて(霊で満たされて)あなたに真理が見れるまでそれを続けることにより、兄弟の必要にあなたが答えられるように、必要を解決する役割が果せるように、「兄弟の必要を見ようとする意欲」が必要なのです。

あなた達は論理的(知性的)過ぎるのです。
わたし達はそれを放棄して、何らかの進歩を体験し、何らかの恩寵を体験出来るように成るべき時点に来ているのです。

友達の家の植毛紙の壁紙が貼られていたリビングルームでポールがした体験について私は話しました。
彼は植毛紙に関して(植毛紙と彼の関係に関する)変容的体験を持ったのです。彼はこの内的体験から「植毛紙の実体は(そして全ての実体は)生きている愛だ」と学んだのです。
ポールはこの体験を期待していたでしょうか?
もし彼が「このことに関する真理」を知りたいと求めていたなら、彼は説明を求めなかったでしょうか?
答えは「その通り」です。

背徳者(ならず者)にしか見えないあなたの兄弟にこれを応用してみましょう。ジャンキーに見える、ろくでなしに見える、意地悪なクズに見える、兄弟姉妹にことを当て嵌めてみましょう。
「ここの真理」にあなたを満たさせた時、あなたの意地悪なろくでなしの兄弟姉妹が急に明確に生きている愛の現われ(愛の臨在)に成るのです。
その人が居る所で(その体が消える訳ではないのですが)あなたは楕円の光を体験し、楕円の光りが照らしている中であなたはその人を本当にはじめて見ていることがわかるのです。
この光りは生きている光りです。
その光は(あなた達が慣れ親しんでいる)人間の体の特徴は備えていませんが、それでもあなたはその人を明確に神の子として認識するのです。
そして今までのあなたの概念が(例えそれがどれだけ良いものだったとしても)あなたの期待を超えて変容されて行くのです。

「私が兄弟を癒やせるために、私の兄弟の真理は何ですか?」と訊ねているとあなたは考えたかもしれません。
しかし「あなたが兄弟の真理を学んだ時、あなたが兄弟を癒やす必要が無いことをあなたが見ることが真理」であったならどうでしょう。
だからロジックはどうでも良いのです。
そして意味(あなたが学んだ真理)を述べる為に、体験した後からあなたは言葉を捜す必要があるかもしれません。


だからこの宗教が何を信じているとか、あの宗派はどれを信じているとか、それらの違いはどうでも良いのです。
信心が神の子なのです。
神が全てを表現していて、神が自身を表現していて、{様々な宗教を信じてる}彼等が居るそこで神が自身を表現し体現しているのです。
あなたの思考が何の為か自分で知っていると頑なに成ったり、コースの意味が何であるか自分はわかっていると執着するのは止めなさい。
コースはロジックや言葉を使っていますが、そして変容を引き起こすアイディアを美しく語っていますが、そのゴールは「あなた達の現状に対するセンス(感覚)を超える変容」を目指しているのです。
そして聖なる瞬間の実践は、この瞬間、この瞬間、この瞬間に限定の拘束(あなた達が全てのものに与えた定義群)からあなたが逃れる方法なのです。

だからお喋りを止める選択が、常に目的を満たす選択なのです。

そしてあなたの最上の思考を超えて聞き、今今今創造者が現している特定のアイディアを知りたいと求めるのです。創造者が今現している特定のアイディアがあなたであって、そしてあなたと関係している全ての者/物なのです。

これは全くシンプルなことです。
聖なる瞬間の中で「目覚めの呼び声に対する答え」が与えられているのです。
これを私が繰り返し言っているのは、あなたがこの点をまだ完全に把握していないからです。
あなたが父の答えに聞き入っている時、あなたは存在している全ての者/物と関係しているのです。「全ての中に父が体現している意味」を父があなたにコミュニケートし伝えるのです。
つまりどのような行動をあなたがしているにしろ、一日中「父よ、ここの真理は何ですか?」と言い続けること{そして聞えたことを体現し行動に移すこと}以外にするべき事は何もないのです。 「自分は{真実を}知っていないという好奇心に満ちた(知りたいと願う子供のような)注意に成ること」だけがあなたのするべきことなのです。
これがシンプルなことなのです。

これを難しくしているのは、静けさから出てしまう方法をあなた達が開発していることです。 「何か他のもの(現在の自分以外のもの)が聞けるだけ十分静けさの中に留まらない方法」をあなた達は持ってしまっているのです。
それだけなのです。
そこ(静けさの中)にはあなたの権威に認証を与えるものは何も無いので、{その意味では}これはエキサイティングではなく魅力的でもないのです。
真理を知ることが平和なのです。
真理を知ることは平和の中で起こるのです。
平和は刺激的ではありません。
しかし平和の中から創造の動きが立ち上がっているのですが、あなた達は長い間この事に関する認識を体験して来ませんでした。
そしてこれ(平和の中から現れ出る創造の動きを体験すること)は「あなたのマインドのビジネス(心配事)の中の体験より」も遥かにエキサイティングなのです。

しかし一体何がエキサイティングなのでしょうか?
罪悪はエキサイティングです! 罪悪はとても刺激的です。
罪悪はあなたを奮い立たせ、より一層の努力へ駆り立てます。
罪悪によってあなたは自身を向上させようとします。
だからあなたは人生の刺激と罪悪を同一のものと考えています。
このことに関して少し静に見てみなさい。
「人生/生命が起こるままにしている時にこそ完全に生きているのだ」ということを想像するのは難しいでしょう。
しかし目覚めたいのならば、自分の生得権(父からあなたへ与えられている力)を体験して「罪/病/死/神の居ない状態(これが継続され続けている闘争状態なのです)」から解放されることを求めるなら、あなたはそうし始めるべきなのです。


新しいセクションのタイトルは:

[THE ATTRACTION OF GUILT]
[罪悪の魅力(牽引力)]

罪悪の魅力の刺激が、あなたを抜け目無く忙しくさせており、問題を乗り越えることにより生き残ろうとさせているのです。
しかし問題が起こっているのはあなたが時間を掛けて二つのステップを行なっていないからなのです。

[The attraction of guilt produces fear of love, for love would never look on guilt at all. It is the nature of love to look upon only the truth, for there it sees itself, with which it would unite in holy union and completion. As love must look past fear, so must fear see love not.]

[罪悪の魅力は愛に対する怖れを作り上げます。愛は罪悪を全く見ようとしません。真理だけを見ることが愛の「性質」なのです。何故なら愛はそれ自身しか見ておらず、聖なる合一(統合)と完成の中でそれ自身と一緒になるのだから。愛は怖れを越えて見ており、怖れは愛を見られないのです。]

もしあなたが罪悪を認めなかったなら 、もしあなたが罪悪を実践しなかったなら、あなたが罪悪に抵抗しようとして罪悪を使ってしまわず、罪の使用に異を唱えて罪悪を実践してしまわず、その代わりに愛を実践したなら、罪悪の表明/表現が消え去るのです。 何故なら愛の明晰の中では(愛がクリアに表現されている状態内には)罪悪が存在していないのだから。
{あなたが罪悪を使っていなかったなら}生きている愛の現われである植毛紙 を誤解することは出来ず、それを怖れることもありません。 それは「全ての実体は生きている愛であるという叡智を突然あなたに提供する」以外のことはしないのです。
あなたは突然「あなたが見ているもの」に関する宇宙的(普遍的)叡智/知識を得るのです。
そしてあなたはこの体験と共に留まり、このヴィジョンと共に留まり、「あなた自身で物事(存在)を引き起こすこと」には戻らないのです。 
その場合ヴィジョンが続いて行きアトーンメント(和解/贖罪)が起こり得たのです。

[As love must look past fear, so must fear see love not.]
[愛は怖れを越えて見ており、怖れは愛を見られないのです。]

怖れが愛を見られたのなら{愛を見ることが怖れている人に出来たのなら}、体験されていた全ての怖ろしいことが無に成り、怖れは存在しなくなります。
これが要点なのです。

[For love contains the end of guilt, as surely as fear depends on it. Overlooking guilt completely, it sees no fear.]

[何故なら怖れが罪悪に依存していると同じ位確実に、愛の中には罪悪の終わりが含まれているから。愛は愛だけに惹き付けられるのです。愛は罪悪を完全に無視して(見越して)怖れを見ません。]

「愛がそのようなものであると知ることは素晴らしいですね。でも私にこれは当て嵌まりません。」とあなた達は言ってしまっているのです。
だから「あなたにとって愛がこのようであるべきだ」とわたし達は言っているのです。
怖れがあなたのお腹にしがみ付こうとしている時、怖れを認証(実体化)してしまうことをあなたが無視するだけで{怖れを認めないだけで}これは可能なのです。
あなたが怖れを認証することを無視した時、怖れが不当なものであるという揺るがぬ確信を持ってあなたが怖れを去らせた時、怖れは去って行き、対処するべき怖れは無くなり、「自分自身を向上させなくては生きていけない」とあなたを駆り立てるものは何も無くなるのです。
聖なる瞬間を実践することによりヴィジョンを保ち続けて、「怖れを認証/有効化すること」をあなたが無視したなら、あなたは神の如きヴィジョンの安定を確保するのです。

[Being wholly without attack, it COULD not be afraid. Fear is attracted to what love sees not, and each believes that what the other looks upon does not exist.]

[愛は全く攻撃を持たないので、愛には恐れることは出来ないのです。恐れは「愛が見ていないもの」に魅了されます。そして(怖れと愛は)それぞれに、他方が見ているものは存在していないと信じるのです。]

勿論、愛は怖れが実在していないことを知っています。怖れは存在しておらず、「愛は怖れを見ないこと」を{怖れは}知ってもいないのです。{何故なら怖れは存在していなのだから。}


[Fear looks on guilt with just the same devotion that love looks on itself. And each has messengers which they send forth, and which return to them with messages written in the language in which their going forth was asked.]

[愛がそれ自身を見ている時と同じぐらい強い献身でもって、恐れは罪悪を見ます。そして(愛も怖れも)自分達が送り出すメッセンジャーをそれぞれに持っており、それらは(それらが放たれた時の言語で書かれた)メッセージを持って帰って来ます。]

では何があなたの役目なのでしょう。何があなたの目的/意義なのでしょう。
あなたの役目は、どのメッセンジャーを送るか決めることではなく、愛を送る選択をすることです。 
愛を見つけ探し出し、愛の確証をもって帰ってくる、愛のメッセンジャーを送り出す選択をすることがあなたの役割なのです。
他の...をするよう私が言うとあなたは考えたでしょう。 しかし何か他のことをするのではないのです。
私は「怖れや憎しみのメッセンジャーを送り続けることを止めて、愛のメッセンジャーを送りなさい」とは言いません。
「愛のメッセンジャを送り出しなさい」と私は言いましょう。
もし自分がこれをしていないと気付いたなら、その時していることを止めなさい。そして愛のメッセンジャーを送り出しなさい。

あなたはどのようにしてこれ(愛のメッセンジャーを送り出すこと)をするのでしょうか?
これは“Mother, may I?”(お母さんこれをしても良いですか)というゲームをするようなものです。


つまり「父よ、私はしても良いですか?」。

あなた個人で(あなただけで)行動することを止めて、父に向き直り、聖なる瞬間を持って、父が何をしろと指示するか聞き入るのです。

そして父があなたに教えたことを実際にするのです。

そして父は常に(父があなたを満たしている愛から湧き出る)愛の使者を送り出すようあなたに言うのです。

[Love's messengers are gently sent, . .]
[愛のメッセンジャーは優しく放たれ、]

つまり怖ろしいメッセンジャーを送り出すスリルや興奮はないのです。
あなたの兄弟を脅し何かをさせようとする罪悪のメッセンジャーではなく、あなたの進行を刺激する罪悪のメッセンジャーではなく、

[Love's messengers are gently sent, and return with messages of love and gentleness.]
[愛のメッセンジャーは優しく放たれ、愛と優しさのメッセージと共に戻って来ます。]

{愛のメッセンジャーは}それ程刺激的ではないかもしれないけれど、愛の意味で満たされて優しく放たれ{愛のメッセージと共に戻って来ます}。

あなた達はお互いから離れた目的/使命は持っていません。
そして「あなた達がお互いに対して持っている目的」とは愛のメッセンジャーを送り出すことなのです。
どれだけ危険に見えてもメルトダウンの中に入って行くのは、あなたの兄弟と兄弟に関する真理がそれだけ重要だからです。
そしてあなたが与えたものをあなたは{自分の為にも}保つのです。
だからあなたは危険をかえりみず(危険と呼ばれているものを信じず)進んで行って、それが危険でないこと(その行動の中に危険が無かったこと)を暴き示すのです。
そしてあなた達両者はパーフェクションの中に保たれ癒やされ、(パーフェクトな状態/認識が行き渡って全てを統治しているが故に)癒しが必要でない状態に成るのです。

しかし怖れのメッセンジャーは、

[The messengers of fear are harshly ordered to seek out guilt, and cherish every scrap of evil and of sin which they can find, losing none of them on pain of death, and laying them respectfully before their lord and master. Perception cannot obey two masters, each asking for messages of different things in different languages. What fear would feed upon, love overlooks. What fear demands, love cannot even see.]

[怖れのメッセンジャーは罪悪を探す為に厳しく命令され、見つけることの出来た悪と罪の全ての破片を大切に扱い、痛みや死によっても何も手放さず、それらを自分達の主でありマスターである者の前に丁寧に並べます。知覚は(それぞれのメッセンジャーに異なる言語で異なる要求をしている)二人のマスターの命令は聞けません。「怖れが滋養にして貪っているもの」を愛は無視します。 愛には「怖れが要求しているもの」を見ることさえ出来ません。怖れに対して罪悪が放っている強い魅力は、愛の優しい知覚からは全く欠落しています。「愛が見ているもの」は怖れにとっては無意味で、怖れには「愛が見ているもの」は全く見えないのです。]

例えばあなたがコース(A course in miracles)を読んでいる時、ロジック/論理とあなたのバックグラウンド(過去)故に、「あなただけで、あなた一人で、怖れと罪悪の酷さを耐え忍び、変容をもたらす能動的な愛の現れに成る方法を学ぼう」としてしまいます。
しかしそれは起こりません。何故なら必要とされていることはこれ(あなただけで、あなた独自にしようとすること)ではないのだから。
必要とされているのは『あなたの兄弟の必要故に「自分自身の手で偉大に成ろうとするあなた」を静まらせて父と繋がること』なのです。

あなたの兄弟の真理の為にどのようなメルトダウンの中にでも歩いて行ける意欲を持ちなさい。
「兄弟をあなたの注意に値しないものにしているメルトダウン」など在り得ないという真理の為に動きなさい。
『父に向かって「ここの真理は何ですか?このことの意味は何ですか? ここの体験は何ですか?」と訊ねて兄弟にあなたの注意を与えること』があなたを傷付けることは在り得ないのだから。 その真理の為に働く意欲を持ちなさい。

「自分で他の人のマインドを変えなくてはいけない」という期待が多すぎるのです。
それよりも{そのような期待を持ち続けるのではなく}、父と繋がったあなた自身が無防備に成って、(他の人に対するあなたの信念/確信/決断にも関わらず)そこに在り続けて来た真理を父に暴き示させるのです。
今が癒やされるべき時です。
今あなた達全員が「自分達の誤認識/誤知覚」と「それら(自分達の誤認識/誤知覚)への確信/決意」から癒やされるべき時なのです。
今、神の恩寵があなたの上に置かれるべき時なのです。神の恩寵があなたにインスピレーションを与え、あなたが「自分の兄弟姉妹の真理の証人、癒しをもたらす真理の証人」に成れるように。
それは{真理が暴き示され癒しが起こるのは}「何が癒やしをもたらすかあなたが初めから知っていて、あなたが自分の偉大なスキル(技)を実践したから」ではないのです。
「あなたの無垢」とそして「兄弟と共にメルトダウンの只中に突入して行くあなたの意欲」故に、父の愛が今一度現れ出られる場所にあなた達は居たのです。何故なら、その時あなた達は父の愛をブロックしていなかったのだから。
これがシンプルなことです。

二つのステップを行う勇気を持つことが、実際に口を閉じることが、余りシンプルに思われて来なかったのです。 
「父が表現している意味を聞こう」という好奇心に満ちた注意を与えることが、今まで十分シンプルにとらえられて来なかったのです。
「父の表現している意味/意義」を父があなたへ暴き示し、父とのコミュニオン(霊的交歓)の直接体験をあなたに与えること{がまだシンプルに体現されていなかったのです}。

これらの言葉をスピリチュアルな戯言(たわごと)と考えることは容易いでしょう。
しかし私はあなた達一人一人の中に在るものに関して話しているのです。
メルトダウン/危険に面してあなたが体験するコミュニオンに関して話しているのです。「あなた達が全ての上に被せている限定」にあなたが直面している時あなたが体験するコミュニオンに関して話しているのです。
あなたの普通(普段の行動)から外れたことをする時間を取って、「何かが上手く行かない理由をあなたへ叫んでいる言葉」を静まらせなさい。
「兄弟や隣人や隣国に対してあなたが訊ね聞くべきではない正当な理由を述べている言葉」を静まらせなさい。 特定の人達を気遣わない(ケアーしない)理由を黙らせなさい。
何故なら、気遣う行為をしていないなら、あなたは繋がる行為をしていないのだから。
その時、あなたはあなたの正しいマインドに立ち戻る唯一の方法を行なっていないのだから。

目覚めのプロセスの殆ど大部分は、口を閉じるプロセスです。
「あなた一人であなた自身の権限の上で何かを行なうこと」を減らすプロセスです。

これはあなた一人だけでは何もしていない境地に至るプロセスなのです。

自分ですることだけがあなた達の慣れ親しんでいる唯一のことで、自分自身ですることだけが上手く働いている様に見えていますが、そうしている時あなたは「物事の働き」を取り逃がしているのです。
そしてあなたは喜びと不可侵/不死身と祝福と安全と罪/病/死の不在などの全てを取り逃がしているのです。
何故あなたは考えたいのでしょう。あなたは何故これらのこと(自分一人で自分の権限の下に考えること)をしたいのでしょうか?
それは罪悪の興奮が「あなた自身の権限で、あなた自身の手で、何者かに成ろう(そしてあなたの存在/有効性/実在性を証明しよう)とする意欲を動かしているエンジン」だからです。
これをしている時(自分一人で考えて自分の実在性を証明しようとしている時)あなたは「あなたの為に既に達成されていること」をしようと試みているだけなのです。

そして「あなたの注意を必要な場所に向けること」を私は続けるのです。
そして「(例えそれが上手く行くとあなたが考えていたとしても)上手く働かないことを手放すよう」私はあなたを励まし続けるのです。
少なくとも「私が言っていることが真理かどうか決意を持って試して見るよう」あなたにインスピレーションを与えることが私の役割なのです。
これが真実/真理であると証明する体験をあなたに与え、それがあなたにインスピレーションをもたらし、あなたの内側により聞き耳を立て続けられるように成り、目覚め/アトーンメント(贖罪/和解)をより頻繫に体験させることが私の役目なのです。


Chapter 19 – Section: THE ATTRACTION OF GUILT
Sparkly Book – p.461 / JCIM – p.193 / CIMS – p.389
First Edition – p. 382 / Second Edition – p.410
2 Mathew 7:12 and Luke 6:31
3 Matthew 7:6



テーマ : スピリチュアル
ジャンル : 心と身体

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答えは…既にありました

岡上さん

私はさっきの投稿を終えた後、初めてあなたの「ACIM12-10-09」を全文読ませて頂きました。
幾度かそれを読もうとした記憶はあるのですが、
私はどうしてもそれを読み続けることができませんでした。

そして、さっきの投稿を終えた後、その記事が自然に目に入り、
その全文をようやく読め通すことができました。
「どうして読めなかったのだろう?」と一瞬思いましたが、
「あっ、全体の介入…ってこと…ですね?」と
それ以上は追求しませんでした。

私があなたに「問う」たことの「答え」がここにありました。
あなたは私が実際に問う前に、
これをすでに翻訳してアップして下さっていたのですね(笑)。

なんとすばやい、用意周到な…
それはそうですよね?神さまの手足なのですから(笑)

それ位はお茶の子サイサイ、なのでしょう
…お茶のこ…はて?それは??…脱線しそうなので、それはいいです。

メッセンジャーについても、私はあなたに打ち明けたいことが山程あります。
善と悪のメッセンジャーとしかいいようがないものが、
まさに本来のメッセンジャーの形、膨大なメールという物質的な形をとって
私に「実際に届きました」。

私はそれらを全て貴方もご存知のサラさんからのものだと勘違いしていましたが、
…あれはそんなものではありません。

私は昨日も6時間以上またそれらに翻弄されました。

私はこれがあの(あの、という程詳しいわけではありませんが)

「これが悪魔の誘惑というやつか?、仏教でいう「魔境」っていうやつか!お~!!そうなのか??・・・・」

と一時また大混乱に陥りました。

これはこれでおもしろいのですが、
それについてここで書き始めると収拾がつかなくなるので控えます。

ただ、私が今伝えたいのは、私は今まで「目覚め」という何か境界線が引かれたような境地があり、
そこを過ぎたら、いきなり別の、不死の次元のようなものに移行できるのかと勘違いしていたのですが、
そうではなくて、それは続いていくのですね。


ここに答えがありました。

「喜びと不可侵/不死身と祝福と安全と罪/病/死の不在などの全て」

を私が体験するまで、つまり私が「不死を体験する」まで、
ひたすら二つのステップを続けることが求められている、ということですね?

そして、それまでイエスさまは(ありましたメールの中にそれらしきものが)

私の「注意を必要な場所に向けること」を続けて下さり、

私に「インスピレーションをもたらし」

私の「内側により聞き耳を立て続けられるように成り」、

「目覚め/アトーンメント(贖罪/和解)をより頻繫に体験させる」

ことを続けてくださるということですね?

そして、それは

私達「全員が「自分達の誤認識/誤知覚」と
「それら(自分達の誤認識/誤知覚)への確信/決意」から癒やされる」

時まで続く、
そういうことですよね?

シフトが続くというのは。


そして、私が「目覚めていないゲーム」にまた巻き込まれるを怖れて
『私はもうなるべく人と関係しない方がよいのでは?』
というような怖れを手放し、
「兄弟や隣人や隣国に対してあなたが訊ね聞くべきではない正当な理由を述べている言葉」
を静まらせ、
「特定の人達を気遣わない(ケアーしない)理由を黙らせ」
せて、
これまでどおり知覚できる人達の関わりながら、

「あなたの正しいマインドに立ち戻る唯一の方法」
を行なっていく必要がある。


と、そういう理解で大丈夫でしょうか?






Re: 答えは…既にありました

静さん

大丈夫です。

No title

ありがとうございます。
プロフィール

翻訳 岡上

Author:翻訳 岡上
ACIM - A Course In Miracles

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