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ACIM12-10-21

2021年10月21日

前回わたし達は下記を聞きました。

{Love, too, would set a feast before you, . .1 ]
[愛もまたあなたの前にご馳走/祝宴を広げます。 ]

この体験は、この瞬間あなた達全員がしている存在体験は、愛があなたの前に祝宴(ご馳走)の体験を広げていることなのです。
しかしあなた達はそれを体験していないのです。 何故なら、あなた達は自分達の定義群を通して全てを見ることに夢中なのだから。
それでも「創造の動きとは愛そのものがあなたの前に祝宴(ご馳走)をおいていることなのだ」と言えるのです。
これだけがあなた達の目の前に常に存在していることなのです。
「(創造の全てを作っている)父の愛の動きによってあなたの前に祝宴(ご馳走)が設定されること」だけが常にあなた達の目の前に在るのです。


前回わたし達は下記の文章も読みました。

[ And in a holy instant grace is said by everyone together, as they join in gentleness before the table of communion.]

[そして聖なる瞬間の中で全員が一緒にグレース(食前の感謝の祈り)を言って、コミュニオン(霊的交歓)のテーブルの前で優しく繋がるのです。]

聖なる瞬間の中で、あなたが立ち止まり二つのステップを行ない聖なる瞬間の中に入った時、その時何が起こっているのでしょうか?
その時あなたはあなた自身を挿入して(あなた自身を押し入れて)いないのです。
その時あなたは平和に統治させているのです。
あなたがあなたの思考を止めたので、あなたは平和が存在することを許しているのです。
そして思考なくして意識することをあなたは体験しているのです。
そして瞑想の実践を通して、二つのステップ(聖なる瞬間)の実践を通して、あなたは(少しの間だけではなく)より長い時間静けさの中に留まることを学ぶのです。
あなたが許可したこの平和が恩寵の状態なのです。
これが恩寵の状態なのです。何故なら、静けさの中であなたはジャッジメント(裁き/判断)を実践しておらず、独立を実践しておらず、父からの離縁をあなたは認証(確認)し続けていないのだから。 言ってみれば、その時あなたは子宮の中にいるのです。
その時あなたは孤児院と創造(創造そのものの体験)の間の連絡口に居るのです。
その時あなたはシフト(奇跡と呼ばれている瞬間的知覚のシフト)が起こり得る場所にいるのです。


[. . . And in a holy instant grace is said by everyone together as they join in gentleness before the table of communion.]

[そして聖なる瞬間の中で全員が一緒にグレース(食前の感謝の祈り)を言って、コミュニオン(霊的交歓)のテーブルの前で優しく繋がるのです。]

聖なる瞬間がコミュニオンなのです。
聖なる瞬間とは、あなたが父の臨在(父の現れ)を直接体験していることなのです。
その時あなたは(あなたの正しいマインドに過ぎない、そしてクリアな意識の全てである)聖霊の現れを体験しているのです。 
このコミュニオンの中であなたは真に見ることを学ぶのです。
何故ならコミュニオンが起こっている時、聖霊と私(イエス)と父はひとつの意図しか持っておらず、それはわたし達と共に(わたし達の視点から)あなたに全てを見せることなのです。 あなたが今まで見ていた全てのことを、わたし達の視点/視界からあなたに見させて、それを自分の視点/視界としてあなたが喜べるように。

そしてこの体験の中で「わたし達のこの視点があなたの視点であったこと」があなたに思い出されるのです。
この発見の中で、この意識の中で、あなたは「神の子としてのあなたの生得権」に喜んで譲ることが出来るように成るのです。
{その時あなたは}全てを見て、それら全てを「それそのもの」として(その真の姿で)認識するのです。 何故なら、あなたはそれらを父が見ているように見ており、父が見ているように見ることにより、あなたは創造を認めており、父の意志を認証しているのだから。


では本を読み続けましょう。

[I am made welcome in the state of grace, . .]

[私は恩寵の状態の中で迎え入れられ歓迎されるのです。 ]

(あなたの意図の欠如によって祝福されている)静けさの中で、そしてそのガッカリするような結果として、私は迎え入れられ歓迎されるのです。


[I am made welcome in the state of grace, which means you have at last forgiven me.]

[私は恩寵の状態の中で迎え入れられ歓迎されるのです。 恩寵(グレース)とは「あなたがやっと私を赦してくれた」という意味です。]

これは不思議に聞えるかもしれません。
「自分がイエスを嫌っていてイエスを赦す必要がある」とは考えたことはない人達もいるでしょう。
しかしあなたが創造を見ていて、神が成っている全てをあなたが見ていて、「私はそれを私自身で定義したい」とあなたが言っている時、あなたは創造を否定しているのです。
その時あなたは自分のマインド内で「価値のないもの」として創造を断罪(判断)したのです。
何故なら、あなたのマインドの中で価値在るものに成っているのは「(あなた自身の権威の上で神に成ろうとする)あなたの目的の為に創造を再定義するあなたの能力」なのだから。  
「あなた自身の源(神)を持たずに物事の定義者に成ろうとするあなたの意図」が(あなたが定義している)そこに見えているのだから。


だから、

[I am made welcome in the state of grace, which means you have at last forgiven me.]

[私は恩寵の状態の中で迎え入れられ歓迎されるのです。 恩寵(グレース)とは「あなたがやっと私を赦してくれた」という意味です。]

あなたは静寂の中に入って来て静寂を許可したのです。(静寂を自分で満たすのではなく)静寂の子宮の中に在るものをあなたは尊んだのです。
だからあなたはジャッジメント(断罪)無く来たのです。
全く断罪せずに来たのです。これが赦しです。


[For I became the symbol of your sin, and so I had to die instead of you.]

[何故なら私はあなたの罪のシンボル(象徴)に成っており、だから私はあなたの「代わり」に死ぬ必要があったのです。]


もちろん、これは本当ではありません。
しかしこれ(この見方)が相互合意されており、あなた達の多くがこの定義を受け入れ保っているのです。


[To the ego sin MEANS death, and so Atonement is achieved through murder.]

[エゴにとって罪は死を意味しており、だから{エゴにとっては}アトーンメント(贖罪/和解)は殺人によって達成されるのです。]

独立的立脚点/独立的視点からは罪は死を意味しています。
つまりエゴの宗教の真髄は殺人であり、殺人がアトーンメント(贖罪)なのです。
しかし実際にはアトーンメントは生命であって、生命がそれそのものとして修復されることなのです。 何故なら、あなたは静かに成って、生命が(聖霊の条件の中で、父の表現の中で)あなたに届き響いたのだから。


[Salvation is looked upon as a way by which the Son of God was killed instead of YOU.]

[救済は、神の子が「あなた」の代わりに殺されたこととして見られています。]

しかしこれは真実ではありません。
しかし救済はそのように見られているのです。
これが相互合意されており、救済をそのように見続けることが聖なる瞬間を否定するのです。 {神の子が「あなた」の代わりに殺されたことが救済なのだと信じることにより}「あなたがあなたの正気と繋がり直すこと」が否定されているのです。
神の聖なる子として意識的にもう一度統合されることが、{神の子が「あなた」の代わりに殺されたという}この考えにより否定されているのです。
これが真実です。


[Yet would I offer you my body, you whom I love, KNOWING its littleness?]

[しかし私があなたに私の「体」を捧げるでしょうか? 愛しているあなたに私が自分の「体」を与えるでしょうか? それ(体)が卑小なものだと知っていながら。]

死んだ私の体を私があなたに捧げるでしょうか。 いいえ。 そのようなことを私は決して行わないのです。


[Or would I teach that bodies can [not] keep us apart?]

[それとも私は「体がわたし達を隔てておくことは出来ない」と教えるでしょうか?]

<いいえ、私はそのようなこともしませんでした。{この言葉はラジが原文を「それとも私は「体がわたし達を隔てておくことが出来る」と教えるでしょうか?」と読み間違えたことから発生している間違いです。}
私は「体がわたし達を隔てておくことは出来ない」と教えるのです。


[Mine was no greater value than yours; no better means for communication of salvation, but NOT its Source.]

[私の体はあなたの体より価値のあるものではなかったのです。私の体は{あなた達の体同様に}救済のコミュニケーション手法(伝達方法)でしかなかったのです。しかし体はその{救済の}源ではなかったのです。]

つまり私の体と、そしてあなた達の体は、救済のより良き伝達方法以上のものではなかったのです。


[. . . for communication of salvation, but it is NOT [its] Source. ]

[救済のコミュニケーション手法(伝達方法)でしかなかったのです。しかし体はその源{救済の源}ではなかったのです。]

救済の源は体ではないのです。

[No-one can die for anyone, and death does not atone for sin. Yet you can LIVE to show it is not real.]

[他の人の代わりに死ねる人は誰も居ません。そして死は罪をアトーンしません(死は罪を償いません)。しかしあなたは「生きて」死が「リアル」でないと示すことが出来るのです。]

あなたは生きて、罪がリアルではないと示すことが出来るのです。

[The body DOES appear to be the symbol of sin, while you believe that it can get you what you want.]

[「あなたの望んでいるものを体があなたに与えることが出来る」とあなたが信じている限り、体は罪のシンボル(象徴)に見えます。]

孤児に成ろうとしているあなた達は、惨めな孤児であるあなた達は、実在する個人/存在に成ろうとしているのです。 あなたのプライベートな努力によって永遠に神聖でリアルな個別存在に成ろうとしているのです。
あなた達はどうやってこれをしようとしているのでしょうか?
あなた達は自分達の体を使ってこれをしようとしているのです。
あなたの体は「(あなたとあなたの兄弟を犠牲にした上で)あなたのリアリティをあなたの体験としてコントロールする方法」なのです。  と同時に{あなたの体は}「あなたに対する兄弟の誤用と誤解の上にあなたの体験を作る方法」なのです。


[While you believe that it can give you pleasure, you will also believe that it can bring you pain.]

[「体があなたに快楽(楽しみ)を与えられる」とあなたが信じている限り、「体はあなたに痛みを与えることが出来る」とあなたは信じ続けます。]

あなたが父から離縁を得た時、あなたは想像上の独立状態内でリアリティを否定してるのです。その時「あなたに関する神のリアリティ」をあなたは否定しており、あなたはあなた自身をリアルにしようと試みており、そのプロセス上であなたは喜んだり痛みを感じたりするのです。


[To think you could be satisfied and happy with so little is to hurt yourself, and to limit the happiness that you would have, calls upon pain to fill your meager store and make your lives complete.]

[「あなたがこんなに僅かなもので満足しハッピーになれる」と信じることは、あなた自身を傷付けることなのです。それはあなたの幸福を限定し、あなたの貧しい貯蔵庫(蓄え)を痛みで満たして、あなたの生活を完成させる為に痛みを呼び込むことなのです。]

あなたの健全/全体が欠如している所で、あなたの平和が欠如している所で、あなたの存在の調和と安全と不死身が欠如している所で、あなたがそれらを否定している所で、あなたは、[あなたの貧しい貯蔵庫(蓄え)を痛みで満たして、あなたの生活を完成させる為に痛みを]呼び込んでいるのです。
痛みと罪悪の体験は、あらゆる痛い体験は、「あなた独自の救済プラン(あなた自身であなたの健全/全体性を確保しようとすること)への決意」をより一層強くする為に使われているのです。
そしてこれ(あなた自身で健全/全体性を勝ち取ろうとすること)は達成不可能なので、これをしようとしているあなたは不可能と直面することになり、あなたはこれを「脅威/逆境/道を遮られること」として体験し、「リアルに成る」という目的を勝ち取る為にこの「逆境/脅威」を乗り越えることがあなたの役割であると思われているのです。


[This IS completion, as the ego sees it. For guilt creeps in where happiness has been removed, and substitutes for it. ]

[これがエゴが見る完成なのです。何故なら幸福が取り除かれた所に罪悪が入り込み、罪悪が幸福に取って代わっているのだから。]

そして{幸福が取り除かれた所に}怖れも入り込んでくるのです。
父からの離縁に対して決意を与えた瞬間にあなたは罪悪と怖れのペアに直面したのです。

しかし、
[Communion is another kind of completion, which goes beyond guilt, because it goes beyond the body.]

[コミュニオンはもう一つの(エゴが目指す完成とは別の)完成なのです。これは体を越えて行くものなので、これは罪悪を越えて行くものなのです。]


コミュニオンとは私/聖霊/父と繋がることです。
コミュニオンの中で父と繋がること。 これは「赤ん坊が柔らかな毛布に包まれてその柔らかさや暖かさとコミュニオンを持っているようなこと」だけではなく、「コミュニケーション/対話/双方向のやり取り」の体験が起こるのです。 これが聖なる瞬間の働きなのです。

あなたが聖なる瞬間を持って、自分がコミュニケーションを持っていることを発見した時、自分が「答え/理解/今までの体験を超えた体験で満たされていること」をあなたが発見した時、あなたがガイドや聖霊と共に居て、ガイドや聖霊と共にあなたが「あなたを悩ませていたこと」を振り返った時、そのようにして聖なる瞬間を実践した時、あなたと「あなたの兄弟/私/聖霊の視点」が共に赦された世界を見るのです。
{その時}あなたは天国を見るのです。 その時もうそれ(天国)は「あなた達が抱いている(あなた達が自信を持っている)定義群」によって不明瞭にはされていないのです。

ポールは今こうして聖なる瞬間の中で私と一緒に居て、あなた達やこの部屋のすべての物と関わり合うことが出来るのです。
彼の体は存在しており、しかし彼は体と自己同一(アイデンティファイ)はしていないのです。
コースの中に書かれているように、彼は体をわきに置いたのです。
これは彼が体を死なせて腐敗させ全幻想の虚無の中に消滅させたということではありません。
そうではなく、あなたがコミュニオンの方向を向いている時、それは体を越えてあなたを運ぶのです。 それはあなたを「自己防御(体は頻繫にこの目的で使われています)」を超えた所に連れて行くのです。 あるいはあなたが求めるものを得ようと体を使って強制/強要することが止まるのです。

つまり体が、あなたの意志に従うのではなく、聖なる瞬間の中で開いて行く(展開される)「存在の意味の目的」に従うのです。
「体をわきに退けなさい。」“setting the body aside, laying the body aside.”という言葉に読んでも悩まないでください。
あなたが聖なる瞬間を実践している時、あなたは今まであなたが使ってきた体の使用をわきに退けているのです。
あなたが自分の最上の判断/思考/概念を手放して、それらが存在していない静けさの中であなたは伸び出し「父よ、聖霊よ、ここの真理は何ですか?」と訊ねるのです。
「私が体験するべき生得権(父から来ているもの)は何ですか? 私は健全/全体で、私は神の聖なる子供なので、私は神に向き直り、全てのリアリティに対する私の理解を神から得たいのです。」

あなたの体は消滅しませんが、それはもうエゴが使おうとしていた目的では使われなくなるのです。 そしてエゴの目的とは、愛無くして全ての人と物をコントロールし、「体と自己同一している者」の自分勝手な目的に仕えることなのです。
その結果が戦争なのです。
その結果が殺人/死/病で、ひとつのものが他のものと闘争(攻撃)しており、他のものを屈服させるか破滅させている状態なのです。
これを放棄することは犠牲ではありません。

{上記を話したことにより}聖なる瞬間がどれだけ重要かよりクリアに成りました。聖なる瞬間の意義と働きがより一層クリアに成りました。
そしてあなたが何を体験することを期待出来るかよりクリアに成りました。あるいはあなたの体験するべきことの性質がよりクリアに成りました。

あなたが今まで知ってきた全てに反することをするように私は言っているのです。
そのやり方はシンプルです。「口を閉じなさい」。
これはシンプルです。静かに成りなさい。
静けさを尊びなさい。
何故なら、反発されていない静けさの中であなたは恩寵の状態を体験しており、その中でアトーンメント(贖罪/和解)が発生可能に成っており、その中であなたの正しいマインドの中に帰って行くことが可能なのだから。

そしてあなたは自分が安定を体験していることを発見するのです。
風に揺るがされないジブラルタルの岩のような不動を、オピニオンの変化や「過去にあなたに怖れをもたらして来たあらゆるもの」によって揺るがされない体験を、あなたは体験するのです。
これが「神の法が全てを統治しており、あなた自身の意識の中であなたの神聖があなたに対する否定不可能な事実である場所/状態」にあなたを置くのです。
この恩寵のギフトをあなたの兄弟姉妹(同胞)に持って行きなさい。
これが世界を変容させ、あなたの意識の中で世界をそのオリジナルでパーフェクトな状態に修復するのです。 そして世界はパーフェクトで在り続けて来たのです。

今週中は私が今夜話したことと共に優しく居てください。
そして、これが難しく思えても、これが役立たずに見えても、{聖なる瞬間を実践している時に}あなたが何も達成してはいないように見えても、これを止めないでください。
あなたはあなた達の自信に反することをしようとしているのです。
だからこのあなた達の自信を破るには辛抱強く続ける必要があるのです。
より軽い心で続けられるように成る為には、辛抱強く努力する必要があるのです。
聖なる瞬間の中ではコミュニオンが必然的に起こるのです。
私は聖なる瞬間の中に居ます。
愛があなたの前に祝宴(ご馳走)を広げています。私はあなたの前に祝祭を置いています。聖霊があなたの前に祝祭を置いています。
あなたがここに招待されているのです。 あなたはここに招待され続けて来たのです。
そしてあなたは罪人ではないので、あなたは常にここに歓迎されているのです。
あなたは神の子供なのです。あなたはそれをクリアに体験しているか、そうでなければ、ガラス(知覚/認識の歪み)を通して暗くそれ(神の子)を体験しているのです。
いずれにしろ、あなたはそれを見ているのです。
いずれにしろ、あなたは全く変わることなく神の神聖なる子であり続けているのです。


Chapter 19 – Section: THE ATTRACTION OF GUILT
Sparkly Book – p.463, 4th Full Par. / JCIM – p.194, 1st Par. / CIMS – p.390, Par. 56
First Edition – p. 383, Last Par. / Second Edition – p.411, Par. 17

テーマ : スピリチュアル
ジャンル : 心と身体

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プロフィール

翻訳 岡上

Author:翻訳 岡上
ACIM - A Course In Miracles

hiro.okaue@gmail.com

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