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第十二章

1991年 2月12日 火曜


ポール: [皮肉な感じで]私はここで、何に抵抗しているのでしょうか?
これは私の本当の質問ではありません。 何を聞いたら良いのか解らないのです。
だから、この質問に答えてくれてもくれなくても構いません。
貴方の言いたい事を聞きます。

ラジ: ポール、テープレコーダーはそのままオンにしておきなさい。
貴方が戻って来て嬉しいです。

確かに、貴方の思考が貴方に問題を与えています。 それが「貴方が私を聞く事」への明確なブロックに成っています。

貴方は「私を聞く事」の全ての意味を体験している訳ではありませんが、本当に必要なのは、貴方が私との交流(Communion= comm+Union です)状態に居続ける事です。
何故なら、その行為を通してだけ、貴方は「貴方のいるここ」で「意識」を取り戻す体験をする事が出来るのだから。

貴方の思考や知覚の三次元的構造は、貴方の注意を「貴方のいる場所」や「リアルに起こっている事」から逸らせてしまい、(「リアリティに対する記憶」ではなく)「リアリティそのもの」の体験が流入してくる事(それは記憶の様に感じられるでしょう)のチャンスを阻んでしまうのです。
貴方が、自分の注意をリアリティが現れている場所に置いて、それを自分自身に認識させる事で、これ(リアリティ体験の流入)が起こるのです。

貴方は「想像と知性」を弄び続ける事はできません。何故ならそれは崩壊しつつあるから。
それが自身を保つ能力は無くなりつつあり、それが崩壊したなら貴方も倒れてしまう様に感じるでしょう。 何故なら貴方は、自分は「崩壊しつつあるもの」の上に立って来たと信じているから。

しかし、崩壊しつつあるのは「その上に貴方が立っているもの」に対する誤認識であり、誤認識が消えてなくなったなら、貴方は「今まで自分が立ってきたもの」の上に自分が立ち続けている事を発見するでしょう。だから貴方は髪の毛の幅程も落下する事はありません。

何故なら、誤認識は「リアリティ」の中で少しの空間も占めていないからです。

私は、我々の会話が始まった当初から次の事を明確に示してきました。
貴方は常に「リアリティ」に直面しており、それ以外のものは存在していません。
貴方は天国の中に居て夢見ているのです。 そして「愛」とは、「全てのもの」の中の「リアリティ」を認識しようとする事です。

つまり、そこに存在しているものが(貴方の知覚には)全て幻想として見えている時、
貴方の慈愛/人間愛(Humanity)の真ん中で貴方の神聖が見つかるのです。

幻想は(リアリティの)上に掛けれれているヴェールで、この誤認識のヴェールはオーバーヘッド・プロジェクタから投射されている映像の様なものです
スクリーンの上に見えている物体は、実際にはスクリーン上には存在しておらず、(そのイメージ自体は)空間を占めてはいません。

プロジェクタからの投射が止まったなら、そこに初めから在り続けたもの、つまり「スクリーン自体」が知覚出来る様に成る事を邪魔するものはなくなります。
だから幻想が無くなれば、(天国に対して投射され続け、見えているものに対する誤解を生み続けてきた)「罪/病/死を含むモータル(致死的)な物理的な生命/人生のイメージ」が消えるのです。
すると混乱が止まります。

これは例えて言えば、貴方が一つの目で三次元的な枠組みを見て、もう一つの目で「リアリティ」/「存在」に対する四次元的意識体験を見ている様な感じです。
どちらか一つの眼がより優位に成っている事でしょう。 しかしその場合でも、もう一つの眼も確かに見ているのです。
まず初めに左の目の視界が見えて、そのあと右目に意識が移り、また左目に戻るのです。

長い間、三次元的枠組みが利き目だったたので、貴方はそれをより信頼してしまっており、「三次元的な知覚と繋がっている」フィーリングや概念がより正しいと考えてしまう傾向が強いのです。
今貴方の両方の目がそれぞれ違うものを見始めており、その違いが混乱を生んでいます。
だから選択する必要があるのです。

次の様に言ってみましょう。 遠視の人は、特定のやり方で視力を補正する場合があります。 これはユニークではありますが少し不自然なやり方です。
近くが見える様なコンタクトレンズを一つの眼に入れ、もう一つの眼には全く入れません。 それは、遠くを見ている限り(遠視の)裸眼でよく見えるからです。

もしこの様な人が、両方の目を同時に使って、近くや遠くのものを見ようとしたなら、視界はかなり混乱する事でしょう。
しかし、近くを見ている時にコンタクトの入っている目を優勢にして、他の眼のぼやけたイメージを無視すれば、混乱する事無く見ているものを観察したり読んだりする事が可能です。
そして遠くのものを見るときには、もう一つの目を使って、コンタクトの入っている眼から受け取るぼやけたイメージを無視すれば、ここでも混乱は避けられます。

貴方は無限の視界を選ぶ必要があります。
(全体を抱擁していない、部分だけを見ている)三次元的枠組みの近視的/限定的/確定的な視界を選び、あたかもそれが全体像を現しているかの様に振る舞う事を止める必要があります。

貴方は三次元的視界と四次元的視界の間を行ったり来たりする事を止めるべきです。
そして両方の目で四次元的に見ようとしたり、三次元的に見ようとしたりするのは止めるべきです。
何故なら、貴方は無限の視界で限定的な見方をしたり、限定的視界で無限な見方をする事は出来ないから。

もし貴方が「上手く行っていない事/フラストレーション」を体験しているなら、それは貴方が混乱しているからだと云う事を覚えて置きなさい。
もし貴方が混乱しているなら、それは貴方が混合(ミックス)できないものを混合しようとしているからです。

限定的なイメージを「リアリティ」に投射したものを、「リアリティ」と混合する事は出来ません。 その様な事をしても「リアリティ」を変える事は出来ないのですが、それは混乱をもたらしてしまいます。

エゴは、思考を使って「リアリティ」の上に幻想を投射します。

私が何年も言い続けている様に、思考は「存在」に対する四次元的意識体験の一部ではありません。
「知っている事(Knowing)」が、「存在」に対する四次元的意識体験の一部なのです。
そして「知っている事」が、(全くプロセスを含まない)「リアリティ」の直接体験なのです。

だから貴方が無限の視界を選んだなら、貴方は「知っている事」を直接体験する事を選択したのです。
すると貴方は「思考」し続けなくなるのです。

そこで当然次の疑問が持ち上がります。「そうしたら、今まで思考していたマインドはどうなるの?  今までは、思考プロセスの現れが、マインドの存在をデモンストレート(表明)して来たのだから。」

ポール、実際には思考は何もデモンストレートはして来なかったのです。
思考/エゴは、「マインドの現れ/動き」を示しているフリをしていただけなのです。
{思考/エゴは、「自分がマインドの現れ/動きを示している」と言っていただけなのです。}

しかし、いいですか? 「マインドは既に知っているのです」。
『「マインド(の現れ)」が思考プロセスと論理化を通して作られている』と云う仄めかしは、ただの仄めかしにしか過ぎません。
つまり「その様なマインドの現れ」の抱擁は常に仮定でしかありませんでした。
{つまり、「マインドが思考によって現れている」と云う仮説は、受け入れられてはいても、事実ではありませんでした。}

「思考があるからマインドが現れている」と云う主張は仮説であって、証明されている訳ではありません。

幻想は「我思う、故に我あり。」と云う文に要約する事が可能です。
真理は「私は存在している、故に私は知っている。」"I am, therefore I Know." です。

これが転換の核心です。 これが貴方がその狭間に立っている、全ての人が近づきつつある、変更線です。

「我思う、故に我あり」の前提は、間違った前提だったのです。
西洋社会の哲学的思考はこの前提の上に、この誤解の上に築かれています。

私は東洋社会がこの誤認識から自由だと云っている訳ではありません。
しかし東洋社会の方が確かに「私はある、だから私は知っている」が真理だと云う事により近づいています。
東洋は真理を意識的に抱擁して来ました。 しかし、東洋も実際的な日常生活の中では、その真理の反対を実行して来たのです。

さて、もし貴方が思考しないなら、貴方は何をするのでしょうか?
もし貴方が思考のドアの前に立っているなら、ドアをシッカリ閉めて、それをモニターしているだけでなく、どの様なものもドアを通る事を許さなかったなら、その時貴方は何をするのでしょうか? 思考の代わりに何が起こるのでしょうか?

貴方は注意を払うのです。そして貴方が払う注意は、思考によって妨げられる事がありません。
貴方が純粋な意識に成っている体験が保持されるのです。そして「知っている事(Knowing)」が起こります。

もし貴方が静寂/無限の平和を体験していて、「行動の無さ」に戸惑っていたなら、
あのドアを開けて少し思考を呼び入れ、気を紛らわせようとするのは止めなさい。
その様な事をすれば、貴方は確かに紛らわされて/惑わされてしまうでしょう。
『「知っている事」の意識体験以外の「マインドの現れ」が成立している』と云う仄めかし(幻想)が与えられてしまうでしょう。

すると貴方は再度、「(想像力/理屈/論理を使って)思考を向上させる事によりマインドを向上させようとしている」場所に囚われてしまいます。

エゴとは、「それ自身の存在を思考を通して創造し確認している様に見える」マインド感覚なのです。

しかしそれは徹頭徹尾「なんでもない(nothing= no + thing)」のです。
つまりエゴとは「何かがそこにある」と云う仮定でしかないのです。

これは今回初めて言う事ですが、「エゴは思考が止まった時、存在している様に見える事を止めます」。
思考が止まった時、「マインドの現われが思考をしている」と云う仄めかしが止まり、混乱が無くなります。

「マインドを向上させよう」そして「幻想的な自己感覚を実証しよう」とする事から発生している混乱/分裂が無くなり、その時「自身」の体験/貴方という「キリスト」の体験が残るのです。
混乱は、完全な明晰さと平明さの中に飲み込まれて行きます。

貴方のマインドを上手く使って、貴方の時間を向上させようとする事が、時間という幻想を作って来たのです。
思考は直線的/線形なので、思考には時間が掛かります。

「知っている事」は無次元的です。 それは「宇宙的/普遍的」と言う事も出来ます。宇宙的/普遍的と無次元的が同じ事だと貴方が理解しているなら。

これが意味する事は「次元を一次元/二次元/三次元/四次元と呼んだり認識したりするのは最終的には無意味だ」と云う事です。

がしかし、「思考」の直線的次元性質を突き破りそこに『<(思考が作る)無次元的「存在」に対する三次元的な知覚>を超えたもの』を認識させる為に(言わば橋渡しの為に)あえて「この様な考え方をしているのです」。

多くの人は、高次元(5次元/6次元/7次元/10次元)のリアリティについて話しています。

しかし、貴方が現在受け入れている枠組みより「一つ多い次元」に関して述べれば、それで十分なのです。
これは四次元が実際に存在しているからではなく、
この様な用語を使えば、「次元的」対「無次元的」な(あるいは時間対永遠/幻想対リアリティの)ギャップを橋渡しする事が出来るからです。

この会話をすぐに書き出してください。 それが終った後で会話を続けましょう。

テーマ : スピリチュアル
ジャンル : 心と身体

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翻訳 岡上

Author:翻訳 岡上
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