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第十三章

1991年 2月13日 水曜


ポール: こんばんは、ラジ。

ラジ: こんばんは、ポール。

昨日私が言っていた事に注目して下さい。
そこで言われていた事の意味と総括的性質を貴方が認識出来る様に成る事がとても重要です。

貴方は重要な場面に差し掛かっています。貴方は(こちら側に)移動して来れるポイントに来ています。
貴方は思考を本当に手放して、それを「聞く事」で置き換える事が可能なポイントまで来ています。

注意深さが「意識」の性質/機能/役割ではないでしょうか?
自分で作った「想像のガラクタ」で(例えそれがどれだけ首尾一貫しており、その行動がどれだけ首尾一貫していたにしろ)それ自身を一杯にする事が「意識」の役割なのでしょうか?

「意識」の役割とは「気づいている事」ではないでしょうか?
『純粋な「気付き」に成っている』と云う偉大な喜び(満たされる事)は、(マインド行動が邪魔していない時に)リアリティを直接体験する事からもたらされるのです。

純粋な「気付き」は、「知っているマインド」です。
マインドは何を知っているのでしょうか?

マインドは、『「神」が知っている事』を知っています。
では神は何を知っているのでしょう? 神は彼/彼女自身を知っています。

「神がそれ自身を知っていると云う事」はどの様に現れるのでしょうか?

それは「創造」として現れます。それは父母の、第一原因の、「彼/彼女自身を知っている事」の(特定の状態として)見えている様子、(特定の状態として)触れる様子として現れるのです。

これは、「貴方が既に気づいている事と、それ以外の限りなく沢山の事」を神の視点から体験するという事です。

しかし思考の忙しさが手放され、(純粋な「気付き」と呼ばれている)基本的内在的な「存在」が『意識を持っている「個人/自分」の現れ』として認識されるまで、貴方が神の視点を直接歪み無く体験する事は不可能です。

この「自分」の体験が、「神」の視点の体験です。
その時「自分や自身」と言う言葉は、もはや「分離したアイデンティティ」を示しておらず、無限の意識「存在」の事を示しているのです。

貴方があえて常に思考を止め続けるまで、『「存在」に対する無限の意識体験』の意味が体験される事はありません。

では「気付いている事/意識(Awareness)」の意味について見てみましょう。
これは「全てを詳しく調べる事」について言っているでしょうか? 全然違います。

「気付いている事」とは貴方が行う行動ではありません。 それは思考が起こっていない時に、自動的に起こる事なのです。
それは「何か貴方がする事」ではないのです。 それは貴方(の在り様)なのです。
この様な言葉は前にも聞いた事があるでしょう。 これは目新しい考えではありません。

『「考えている人」として存在しようとする』想像上のポジションを空けた時、貴方は上記の言葉の意味を体験する狭間に立っているのです。

「考えている人」の時は、既に来て去って行きました。
『意識的に在る』べき時が、『「意識」に成る』べき時が貴方の下に来ています。

貴方は今その様に成っています(タバコを吸いコーヒーを飲みながら)。
そして貴方は車の音を聞き、目の端から部屋の明かりの光を感じており、スーザンがここに居て聞いている事を知っています。

しかし、貴方は「意識」に成っているのです。 貴方は何も達成/執行してはいません。
しかし、存在/生命/人生は続いています。行動が起こっており、「動き」が起こっています。

そして貴方は、そのどれに対しても責任を持っていません。
{そして貴方は、そのどれをも自分で発生させてはいません。}

もし貴方が責任を負っている事(しようとしている事)があるとすれば、それは『意識的に聞こうとしている事と、<「存在」の意識体験として開き示されている表現>に成ろうとしている事』だけです。

そしてこれは、貴方がそこに座ってマイクを手に持ち、手でジェスチャーを示し、自分の口を動かして喋っている様に見えているのです。(#10)

貴方は誰かに向かって喋りかけていますか? 貴方はスーザンに向かって喋りかけていますか? いいえ。

しかし貴方は、啓示の動き(自身を開き示す動き)になっているのです。

確かにこれは(貴方に与えられている)「創造」の動き全体を抱擁しては居ません。
しかし貴方は実際に「リアリティ」の真ん中に立って、「リアリティ」の動きのより多くの現われに成っており、これを貴方が続ければ、この範囲(体験の広さ/深さ)がより大きくなり、それは『貴方が「神」の現れのより豊潤な表現に成っている事』として見えるのです。

これ(貴方が神の現れに成っている事)が起これば起こる程、これが起こっている事は貴方にとって重要ではなくなります。
何故なら貴方は段々「体と自己同一しなくなる」からです。 しかし体はますます、「神」の動き/「キリスト」の現われをより多く示す様になるでしょう。

だから目覚める事はとても難しく感じられるのです。 
何故なら、貴方は{まだ}エゴの視点から自分が目覚める事を見ているから。
そして貴方は無限の中を覗き込みます、貴方は「目覚めている事」の性質の中を覗き込みます。 しかしそれは(エゴを立証せず)エゴの観点から見て意味のある事を何も確定/認証しません。

だから、「目覚める事」は「とても魅力的ではない」体験、「満たされない」体験に見えます。
しかしそう見えるのは、「目覚める事」が、エゴや『エゴにとって重要なもの全て(それらが「生命に対する貴方の知覚」を形作っています)』を立証しないからです。

この9年間貴方は、「存在」に対する四次元的意識体験の中に自身を置き続けました。
これを弛まずし続けたので、貴方はいま「思考を手放す事」を正当な行為と考える事が出来ます。 何故ならこの9年間の体験が、「存在/いるもの」の現れと存在を立証して来たからです。

貴方が(パーソナルで「体」主体の)「ポールと云うプライベートな感覚」を放棄した時でも、貴方は完全に崩れ去ってしまわず、「知性を現す事」が出来なくなったりはしませんでした。

そうではなく、貴方はより意味深い「知性と英知と愛の現れ」に成ったのです。
貴方は、それらの事に関して所有権を主張出来る訳ではありません。
貴方は、それらの事を開発したり作ったりした訳ではありません。
貴方は(「自分を退かせて、その結果起こる事を尊重する」という以外の)自分のスキルを通して、これらの表現を見つけた訳ではありません。

しかしエゴの観点からは、これは貴方が犠牲を払ったという事になるのです。
貴方は、「独立した者」として存在する「権利」を放棄したのです。
貴方は、「(<自己主張/自己表出として達成する事>にプライドを持っている)自己創造/自己保持している者」として存在する「権利」を放棄したのです。

貴方が「存在」の四次元的意識体験に成っている時、「自分が何をしているか本当は説明出来ない事」を貴方は知っています。 何故なら、それは全自己意志の表明を超えて起こっている事だからです。
貴方は、自分が意図的(自己主張的)に行った事だけに、責任を持ち/手柄とし/説明する事が出来るのです。

9年間の実践を通して貴方は、『「永遠の意識的気づき」/「気付きの状態」に成り切る事が満足をもたらすだろう』と考えられる地点まで来ています(それがどの様な満足なのか貴方には解らなかったにしろ)。

そして貴方が「これは満足をもたらす事だろう」と考えて見る事が出来るのは、貴方自身が純粋な「気付き/意識」に成る事を許可していて、貴方が世界の中の意味深い現れに成っている様に見えていた時、貴方が貴方の「存在」の平和を感じ、「全てのもの」との調和を感じ、「存在する全て」との合一を感じ、それ故に神聖な満足を感じていたからです。

だから私は貴方に、一つ新しい任務/目標を与えましょう。
私と常につながり続けるだけでなく、貴方が思考する事を止める様、私は要請します。
つまり、貴方が私と話していてもいなくても、貴方が私を感じていてもいなくても、貴方は「静けさ」の中に居て下さい。

もし貴方が私と話していなかったなら、もし「貴方が抵抗していなければ起きている筈だった事」を貴方が許可していなかったなら、その時も「静けさ」の中で譲って、それが起こる事を許可してください。
そしてもし「自分が考え始めている事」に気付いたなら、瞑想している時の様に、「静けさ」の中に戻ってください。

もし貴方の言葉が、貴方が体験しているガイダンス(精霊/ガイドからの指導)から起こっていないなら、何も言わず思考を使わずにいなさい。

貴方が思考の任意的な刺激を受けていなかったなら、貴方は自分が交流/霊的交歓を求めている事を発見するでしょう。

貴方は「静けさ」の中にただ長く座り続ける事は出来ないでしょう。

だから貴方が「静けさ」の中に居て「聞いている」事、あるいは「純粋な気付き/意識に成っている事」を実践している度合いに比例して、貴方は(リアリティに対する完全な理解と共に)(貴方が本当に存在している、私が本当に存在している)「ここ」で目覚める事を強く求める様に成るでしょう。

思考は、「孤独でありたくない」と云う貴方の望みの邪魔をしてしまいます。
エゴの発達は、孤独に耐えられる様に成るだけではなく、孤独が刺激的になり、それが満足を約束する様に成る事なのです。
しかしその満足は「孤独でありながらも、孤独に苦しまないで居られる事」に依存しています。


この時点で、もう貴方に「私の言った事を考えて見なさい」と指示出来なくなっている事は興味深いですね。

「私が言った事」と共に居なさい。 何故なら「私が言った事」が貴方に関する真理だから。 そして貴方に関する真理が「貴方」だから。 そして「貴方」は貴方と共に居るのだから。

貴方は体験される為に存在して居るのです。
だから貴方は(思考する事無く)「純粋な意識としての貴方という」真理と共に居る事が出来、「静けさ」の中に留まる事が出来、合一(Unity)の体験(今それが起こっています)内に留まる事が出来るのです。

これはコミュニケーションと云うよりは交流/霊的交歓の体験です。

今現在起こっている事に関しては、「曖昧さ/どっちつかず」はありません。
交流は「曖昧さ」の感覚を橋渡しします。 交流とは「曖昧さ」の不在です。

分離していないと同時に「貴方が貴方であり、私が私である事」が、どの様にして可能なのか?
これを知的に理解する事は出来ません。

しかし貴方がこの交流体験に注意を払えば、貴方は「これが何なのか。どの様にしてこれが可能なのか。」知り始めます。
貴方がどれだけ「自分が知っている事」を「他の人達と分かち合おう」としているにしろ、これは「貴方の」狭間である事、これはシフト(それは自動的に起こります、貴方がそれと共に流れていてもいなくても)と共に流れて行く貴方のチャンスである事を覚えて置きなさい。
それ(貴方の知っている事/貴方が体験しているシフト)が「他の人達にとっても価値ある事」なのは素晴らしい事ですが、それは一番重要なものではありません。

貴方が「これを他の人達と分け合う事」に夢中になってしまい、「それが一番重要な事だ」と考えてしまったなら、シフトが貴方を不意打ちにして、驚いた貴方から三次元的感覚の反応を引き出し、貴方はこれを三次元的枠組みの中で(三次元的な人間の利益の為に)起こっている出来事として見てしまいます。
その様な状態に居る時、世界の中で意味深い事をしようとしたなら、貴方は失敗するでしょう。 貴方(の現れ)は無意味に成ってしまうでしょう。

だから、何が重要な事なのか間違えないようにして下さい。

_____________________

(#10)私は速記用口述録音機(ディクタフォン)を使って会話を録音していました。

テーマ : スピリチュアル
ジャンル : 心と身体

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翻訳 岡上

Author:翻訳 岡上
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