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第十五章

1991年 2月20日 水曜


ポール: 私は沢山の不快/挫折と多くの怒りを体験しています。

「私が見ているものは何も意味がない。」"Nothing that I see means anything,"と云うフレーズは唯の文章やアイディアではなく、私は今全てを実際その様に体験しています。
自分が見ているどの様なもの、起こっているどの様な事、私がしているどの様な事に対しても意味が見えていません。

「アポイントメントをこなす事」だけが行われている様に見えています。
私が会っている人々は、その事から何らかの意味を得て居る様ですが、私はどの様なものも得てはいません。

貴方と最後に話してから何日経ったか忘れてしまいましたが、その間、無思考で過ごす事は全然出来ていませんでした。 そして、貴方と一緒に居る事を特に意識出来てはいませんでした。

これが我々の一番最初の会話と似かよった状態である事は認識しています。(#11)

例えば、「貴方の言っている事」は(私の状況とは)関連がない様に見えます。
私の体験は変わっていない様に見えます。
それはより悪く成っている様に見えます。 それが満足をもたらす事は以前よりも少なくなっていると思います。
私は人々と親密に繋がっていない様に見えます。私は意味(意味ある物事)と親密に繋がっていない様に思えます。

そして私が今から言う事は、今現在の私のフィーリングを正確に示している訳ではありませんが、 しかしそこにはある程度の(んー、言葉が出てきません)快感、ある程度の「良いフィーリング」が在るようです。

何故なら、挫折している様に感じているにも係わらず、何も向上していない様に見えているにも係わらず、私はどうにかやっと成長した様に感じています。

そこには「動き」が感じられている様です。 「貴方と初めて話した時」感じていた、打ち破る様なストレスのフィーリングが感じられています。
だからその意味では、(「他の人たちにとって」と言うより)私にとって何かが起こっている様に感じられています。

しかし前回と比べても、私はこれを少しも優雅に行ってはいない様です。
いずれにしろ...私はその様な状況に今います。

貴方の言う事を聞いてみたいです。

ラジ: ポール、本当にこれはとても簡単な事です。

貴方はアイデンティティ(自己認識)の危機に面しているのです。
貴方はアイデンティティの感覚を保持しようとして戦っているのです。 崩れ行こうとしているアイデンティティの感覚を掴み続けようとしているのです。

しかしアイデンティティの「感覚」は、「アイデンティティそのもの」の代わりには成りません。
それは「アイデンティティ」に対する不当な誤解ですが、しかし、それが貴方が「今までの人生」で知っていた唯一のもの(自己認識)です。

そして、これが現在貴方が意識的に抱擁している(受け入れている)「貴方の無限の全て」なので、(貴方が「アイデンティティ」に対する自分の感覚を手放せば)貴方のアイデンティティが崩壊してしまうように見えるでしょう。

だから今、全てが無意味に成っているのです。
何故なら、貴方がもし「誰がそれを見ているか」知らなかったなら、それ(自分が見たもの)を「どう解釈したらいいか」貴方に解る訳がないのだから。

そしてもちろん、「リアリティ」を解釈する事は、それを他の表現で置き換える事になります。 『オリジナルな(原初の)形の「リアリティ」の表現』以外の表現で置きかえる事に成ります。

もし貴方がアイデンティティ「感覚」を通して、「リアリティ」に対する解釈の中にこれまで住んで来たなら、貴方は本当は何処に居たのでしょうか?
答えは「何処でもない所」ですね。 つまり貴方は何処にも居なかったのです。

そして「アイデンティティ」の感覚が崩壊したなら、その次には「リアリティ」に対する解釈が崩壊するのです。
貴方が『自分の「アイデンティティ」だと考えてきたもの』と、それが(貴方の偽りのアイデンティティが)『「リアリティ」として解釈して来たもの』が消え始めているのです。 それら「実体の無いもの」が無に帰しているのです。

これが意味する事は、『無限の中の意識点であり、その意識点から全てを意識している(故に全てに対する「全く間違った感覚」を作っている)貴方自身』が、「意識そのもの」に対して自己を譲り始めていると云う事です。

「全てを抱擁している意識」こそが、「アイデンティティ」の感覚ではなく「アイデンティティそのもの」なのです。

しかしそれ(全てを抱擁している意識)は無限なので、それは「それ自身に対する感覚」を「他のもの」から得る事はできません。
だから「アイデンティティ」と「意識/気づき」は、同じものを指しているのです。

もし「自分が誰か」知りたいと貴方が思ったなら、注意深くして(意識を保って)体験に注意を与え続けなさい。
そして、目覚める事は、確かに「アイデンティティを喪失する事」だと理解しなさい。
つまり「目覚める」とは、この時点まで、貴方によってアイデンティティ(自分自身を示すもの)として定義され体験されて来た「全ての事」を喪失する事なのです。
私はこれ以上シンプルに言う事は出来ません。

貴方が抱擁している(受け入れている)「アイデンティティ」感覚は、限定されており肉体的なものです。 それは、周りから拾い集めた「環境に関する解釈」と「周囲環境がこの解釈へ反応する様子」を基に、自身に対する感覚を作り上げます。

これが(貴方の)無意識を構成しているのです。

貴方が意識的に得ているアイデンティティ体験は一つだけで、そのアイデンティティ体験は、本当のアイデンティティではなく「アイデンティティ感覚{アイデンティティの代わりとして機能する「感覚」}」なのです。

この「アイデンティティ感覚」が「失われるもの」なのです。
しかし「存在体験」は、「意識として存在する体験」は失われません。
より詳しく説明すれば、「アイデンティティ感覚」が失われても「意識」が失われる訳ではありません。

だから、このアイデンティティの危機は、癒しの一部であり、「目覚め」の一部なのです。
これに抵抗するのではなく、これを抱擁して下さい。

これは喜ぶべき事なのです。 貴方には、これが明確な損失の体験としか見えなくても。
しかしこれ(アイデンティティ感覚の喪失)は、「リアリティ」の上に投射されている概念的イメージ(これが「リアリティ」に対する知覚を変質させ曖昧にしています)が失われているだけなのです。
そしてアイデンティティ感覚が、本当に「リアリティ」そのものを変えた訳ではありません。 それは少しも『「貴方」を変えたり、消滅させたり』はしませんでした。

貴方の「性癖/条件付け」は、なんとかして「アイデンティティ感覚」を再構築しようとしています。
しかし、ここで本当に必要とされている事は、「アイデンティティ感覚」を手放して、貴方自身を「意識の虚無、気付きの虚無、シンプルに存在する事の虚無」と見えるものの中に入れることです。 その中にシンプルに留まって、注意を払うのです。

「意識」体験の上に「アイデンティティ感覚」を上塗りしなければ、「意識」が「アイデンティティの意味」として(「貴方」の中で)確立される機会が与えられます。 そして「リアリティ」が「知られる」機会が与えられます。

だから現代的な用語を使えば、これはアイデンティティ・クライシス(アイデンティティ崩壊の危機)ではなく、癒しをもたらす危機ですが、もし貴方がこれに抵抗する事に成功してしまえば、癒しはもたらされません。

「自分はただ声を聞いているだけで、それらの言葉は自分とは余り関連が無い、実際的な意味が無い、それらは曖昧な理想主義的、使えないパラダイム(論理)でしかない。」と貴方が考えているのは知っています。

しかし、それらの言葉は貴方の奥深くに届いており、我々の視点から見れば、「貴方」のより大きな存在を通して、貴方はよりハッキリと目覚め始めています。

貴方は、この「表面的な無意味さ」と「アイデンティティの喪失」をただ耐え忍ぶのではなく、それを「純粋な意識存在に成る為の典型的シフト」として、とても望ましい健康的で正気に満ちた体験として、意識的に抱擁しなさい。

これは、理由があって起こっているのです。
これが起こっているのは、貴方が9年間に亘って「聞く事」を実践して来たからです。
貴方が9年間に亘って聞き続けて来た事が、貴方の目覚めの必要不可欠な部分だったのです。

それにより、貴方の正しい「マインド」内で「貴方」が十分に刺激され、これが(三次元的意識選択の結果ではない)より鮮明な自発的「目覚め」の引き金に成っています。

このプロセス内で貴方が出来る唯一の三次元的選択は、「聞く事」を選択する事、「知っていない場所{三次元的アイデンティティ感覚を使って知っていない場所}」に留まる事を選択する事です。

このアイデンティティ危機は、健康の危機です。 貴方が直面しているこの苦しい体験は、前回我々の会話が終った後から始まりましたね? 違いますか?
そして、これは以前の苦しい体験よりも、より鋭角的ではないですか? より避け様が無く、よりハッキリしていませんか?

もしそうなら「事態が進展していない」とは言えないでしょう。
「ストレスを生んでいる」と貴方が考えている「動き」が、「目覚め」の重大な動きなら。

「貴方は、もしかしたら、自分が誰か解らなくなるポイント」まで到達するでしょう、と私は冗談で言ってみましょう。
ここで冗談なのは「もしかしたら」と云う言葉です。

しかし、貴方は「貴方が存在している、と云う事が解らなくなるポイント」には到達しません。
貴方は「意識/気付き」を失うポイントには到達しません。

「アイデンティティ」に対する定義は存在していません。 
あるのは「アイデンティティ」の体験だけです。 
そして「アイデンティティ」の真の意味は、「意識や気付き」のポイントの中ではなく、「意識」として存在する体験の中で見つかるのです。

実際には、貴方は常に意識的であり続けました。 しかし、貴方は「それ(意識)が意味する事の定義」を考える事が必要だと感じ続けて来ました。
定義とは概念で、概念とは解釈/翻訳です。

そして現在貴方は、『「貴方」というスピリチュアル的にオリジナルなもの』へ(自身を)解釈し直す事に関与しています。 そして「(貴方「自身」の体験を失う原因と成ってしまっている)貴方自身を貴方自身に対して定義する行為」を解除しようとしています。

三次元的枠組みは、定義群の領域です。 だからそれは時間と空間から構成されている様に見えるのです。

原初に(一番初めに)「神が」全てを創造しました。 少なくとも貴方の「聖書」の初めの章にはそう表現されています。
そして第二章では、人が定義を加えています。「神が作った全てのもの」に対して人が名前を与えています。

それ以来、人は自分の定義群の世界に住み続けて来ました。「リアリティそのもの」に対して無意識な状態で、(神が「自身の意識の動き」の中に自身を認識している)「意識/マインド」としての彼自身の「アイデンティティ」に対して無意識な状態で、人は存在し続けて来ました。

貴方がここ数日間体験して来た問題は、実際には癒し/「目覚め」だったのです。 思考者としてだけでなく、定義者/解釈者としての貴方の自己感覚の喪失だったのです。

(聖書の中の)言葉は「神は自身が作った全てを見て、それを良いものと解釈した。」とは言っていません。

貴方の癒しは良好に進行しており、貴方は癒しに良好に反応しています。
そして「貴方自身に対する自己感覚」と「全てに対して意義を与えている様に見える定義群」の喪失は、問題ではなく解決なのです。
貴方はその中に留まって、「自分が誰だか知る」能力の欠如を、その無意味さを、完全に許可していなさい。
この体験から安らぎを得なさい、この体験を良くないものと定義して、これに抵抗するのではなく。

我々の会話が始まった頃、貴方は貴方自身が「知っていない所(知っていない状態)」に居る事を許していました。

その当時、「知っていない所」は「{貴方が}知的に知っていない所/状態」でした。
現在「知っていない所」は、「アイデンティティ感覚、そして、定義されている全ての事の意味」のど真ん中を叩いており、そこを突き通っています。

定義のない所で、貴方自身をアイデンティファイ(自己確認)する手段のない所で、「天国」/「キリスト」としての貴方「自身」/「神」の直接表現/「神」の視点から全てを体験する事、が貴方に示され始めます。

貴方が注意を払い続け、その全てを概念の中に/思考者の把握の中に閉じ込めようとしなければ、「(アイデンティティ感覚としての)貴方が良くやっているかいないか」知ろうとはせず、「貴方の定義を保持出来ているかいないか」知ろうとしなければ、この「目覚め」の動きは進行しており、(定義、解釈、アイデンティティ感覚の)解除が完了するでしょう。

「リアリティ」に対するこのイメージの投射が消えて行き、「リアリティ」がクリアにパーフェクトに示されている間も、貴方は先入観/偏見を持たず、好奇心を示していなさい。


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(#11) それは1982年に起こっていました。

テーマ : スピリチュアル
ジャンル : 心と身体

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途中経過

2010年4月26日 月曜

目覚める事は、苦しい事でしょうか?

私の体験が全て楽で楽しいと言えば、嘘になるでしょう。
目覚める途中では不快感があるのかもしれません。

今までに私が受け取った一番のギフトはきっと体験です。
もしかしたらこれが唯一のギフトで、これだけで十分なのかも知れません。

ラジの言葉の殆どは、既にどこかで読んだ事のある様な概念やアイディアです。
(そうでなければ翻訳はかなり難しかった事でしょう)

しかし翻訳している時、私にもこれが体験として体感されています。
もちろんラジのオーディオを聞いている事も、テキストを読んでいる事もまた体験です。

しかし翻訳している時には必然的に、より求め、より訊ね、より聞いています。
ここで何が言われているのか、何が意図されているのか、各所で立ち止まって見てみます。

これを読んでいる人の体験は、どんな感じでしょう?

私もやっと「目覚める事は確かに可能」と感じる様に成ってきました。

me too

行ったり来たりしてます、このワタシも。

行ったり来たりしながらも、
目覚めのプロセスにあることを、
同時進行で、このブログでRajは教えてくれています。
それは、
「目覚める事は確かに可能」だということですよね。

もりG

もりGさん。

> それは、
> 「目覚める事は確かに可能」だということですよね。

はい。 そう思います。

No title

いつも 本当にありがとうございます。

私の体験ですが・・

ほとんど 考えることをやめてしまいました。

全てを手放し、
ただ 内なる声に 従う・・

そんな 日々になっています。

私は行為するとき、 行為が起きるように
私はその場では そっと、私を引いている・・
(解りますか?上手く表現できませんが・・)
そういう状態です。

ココに来ると、
Rajの言葉は
私の内なる言葉になっていて、

頭で理解してはいるのでしょうが・・

自動的に落としこまれている・・
そんな 感じです。

促されているような日々です。

これから どんな 風に なっていくのか
楽しみです。

この不思議な 信頼と安堵感は
ほんとうに 心地よいものです。

心からの感謝をこめて

蓮さん

> ほとんど 考えることをやめてしまいました。
素晴らしい。

> 私は行為するとき、 行為が起きるように
> 私はその場では そっと、私を引いている・・
成る程。

私の体験は、例えば訳し終わった後そのままボーとしてて、
何か見てて何か起こっているんだけど、
体や思考は動いてない、みたいな。

普通にボーとしてる時とあまり変わらないんだけど、
すこし方向性が付いている感じ。

誘導シグナル

誘導シグナルに従うには
強い意志が必要で

この三次元で慣れ親しんだ感覚では
それに従うには
不確で不安になるのだけれど
Rajは 詳しく、細やかに 言及してくださっている。

私の場合、
気づくことは シグナルの一つだと
教えられ、
そこを 意識している 感じ・・

それにしても
言葉がおぼつかない

新しい表現が必要なのかもしれない・・

扉になるような表現

そこに在って
初めて 発せられる 表現

(いつも シェアしてくださる真心に感謝・・ありがとう!)
プロフィール

翻訳 岡上

Author:翻訳 岡上
ACIM - A Course In Miracles

hiro.okaue@gmail.com

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