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第二十章

1991年 3月19日 火曜


ポール:  私は毎日貴方に話しかけ、色々質問をしていましたが、最後に我々が正式な会話を行ってから数日経っています。

私は、このシフトをどの様に行うべきなのか解らない様です。
これ以外に何を言ったら良いのか解りません。だから、これで口を閉じましょう。

ラジ:  貴方が体験しているシンプルなしかし深い恐れは「私の指示に協力したなら貴方が最早存在しなくなるのではないか?」と云うものです。

もし「私が言っている以外の事」がなにも貴方のマインドに訪れず、なにも貴方の口から出ない様に成るなら「ポール」はその時存在しているのでしょうか?
私の言葉を話し、私が提供しているコミュニケーションを内的に体験している者だけが、ポールの新しいアイデンティティに成るのでしょうか(例えばウォークインが起こってポールが居なくなってしまう様に)?
(その時)ポールはまた友人達と話す事が出来るでしょうか? それとも「ポールが交友を持ってきた人達」とラジだけがコミュニケートする事に成るのでしょうか?
ポールが居た(様に見えていた)所にリアルな大切なものは無かったのでしょうか?
(「真理の声」がポールの唇から表現され始める前に)ポールが居た(様に見えていた)所に、リアルな大切なものは存在していなかったのでしょうか?

これらは、確かに深刻な質問です。 そしてより根源的な質問は「貴方は不誠実な者に騙されているのでしょうか?」です。

この質問に対しては、次の言葉で答え始めましょう。

確かにそこにはリアルで大切なものがありました。 それは貴方に関する絶対にリアルで重要なものでした。
そして今まで行ってきた「貴方自身を真理に対して透明にする行為」の意図と結果は、「貴方に関するリアルなもの」を消し去る事ではありません。 「貴方に関するリアルなもの」が(意識から隠され秘密にされることなく)前面に全て出て来られる様にする事が、この目的なのです。

たった今、我々が話している時も、貴方は貴方に気付いています。 貴方は自分が存在している事に気付いています。
貴方は、これらの言葉を喋っているのが貴方の口であり貴方の声である事に気付いています。
しかし貴方はこれらの言葉を「貴方が自分のセンターに居らず、反応的に成っており、内側に注意を払っていない時に言葉を発する方法」とは別な方法で発しています。

良いですか、ポール。
ここでの笑い話は、(我々のコミュニケーションや会話を別にして)貴方が人生の中で知性を、あたかもそれが本当に貴方の知性であるかの様に(貴方が知性を所有しているかの如く)表現して来た事です。
貴方は、自分が愛情深く、優しく、親切で、思いやりに満ち、寛大だと考えて来ました。
まるでそれらの特質が貴方の所有物であるかの如く。 それらが貴方の欠かせない一部分であるかの如く。

しかし実際には、貴方が愛や真理や知性を表現していた時、それは「貴方が自分のマインドを愛や真理や知性として使うよう意識的に選択していた」と云う事なのです。

貴方は(他のものではなく)それら(愛/真理/知性)を体現しようとし、それらを選び、それらを表現し、他の人達にそれらが「貴方そのもの」の表現だと思わせたのです。 {でも、そうしたからと云って、貴方が彼等を欺いた訳ではありません。}
何故「真理の声」を、「キリストの現れ」を、「キリスト意識」を、同じ様に体現してはいけないのでしょうか?

「ウーン。だってそれは私ではないから。」
しかしポール。 知性だって貴方ではないのです。
愛だって貴方ではないのです。 いいですか? 何も貴方からは発生していないのです。{貴方は源ではないのです。}

これは人間的に言っても同じです。 
貴方は知性を使い、貴方の隣人は使いません。 貴方は愛を表現し、隣人は表現しません。 貴方は赦しを表現し、隣人は表現しません。{と貴方は考えたりします。}

しかしこれら(知性/愛/赦し/その他)は何時だって選択なのです。 
これらは何かを体現する選択です。 それは選択なので、それは「それを選択している者」を表現するのではなく、「それを選択している者」の動機だけを表現しているのです。

「知性を表現している人」の周りにいる事は、気持ちの良い事ではないですか?
「知性を表現する事を選択している人」の近くに居るのは、「知性を表現しない選択をしている人」の近くにいる事よりも、気持ち良くはないですか?
貴方は、「憎しみを選択している人」ではなく、『「愛情深くしている事」を選択している人』と一緒に居たくはないですか?

しかし、もし彼がこう言ったとしたら貴方はどう考えるでしょうか?
「うん。貴方が体験しているのは、本当は私ではないのです。」
「これ(愛情/知性)は私が自分を譲っている時に、ただ出て来るものなのです。」
そう聞いた時、貴方はどう考えるでしょうか?

『そんな事を気にするのは止そう。でなければ、「そんな事を気にしない人」が他に現れて、彼の愛と知性の表現はその人がエンジョイする事になるだろう。』
などと考えたりしていませんか?

なのに貴方は「キリストの現れを表現し、それを私自身として表明する事は不正直だ」と言っているのです。

誰かが、混乱ではなく知性を表現している時、その人は不正直でしょうか?
誰かが、憎しみではなく愛を表現した時、それは不正直でしょうか?
誰かが、不必要な破壊的なものではなく、本当に意味深いもの全てを体現しようと選択した時、それは不正直でしょうか?

貴方が、「成人/成熟している人」を見ていたとしましょう。
貴方が自分の人生の中で表現しようと選択した特質を、彼もまた表現しています。
その時貴方は「余り建設的でない/望ましくない/快くない特質も選択可能だったのに、彼が素晴らしい特質を表現しようと選択したのは嬉しい事だ。」と思ったりします。
そして彼の選択を称えるでしょう。

しかし、もちろん「選択を行った人」が「その人が選んだ選択そのもの」で出来ている訳ではありません。 従って、貴方が彼と共に体験したもの(知性/愛/Etc)は、彼の選択の結果であって、「その選択をした彼そのもの」では無いのです。

ここで私が言おうとしているのは「この時点で貴方に残されているのは選択する事だけだ」と云う事です。

貴方は「真理/愛/原則/マインド/霊/魂」の縛られていない完全な表現を体現しようと選択するべきなのです。 
概念的生活/概念的真理/概念的愛/原則に対する相互合意されている定義/マインドの感覚/それ自体を向上させ育て開発し何者かに成ろうとしている魂/善悪の選択に従って進歩しようとしている霊、などを選択するのではなく、

一般的に「知性を選択する事」は「不正直な事」とは考えられていません。
しかし知性は「それを選択している人のもの」では無いのです。 何故なら彼は無知を選択する事も出来るのだから。

従って「真理の声」を選択する事は不正直だと決め付けるのは一貫性の無い事です。
『「真理の声」を自分の自己表現とする事が不正直だ』と考えるのはおかしいです。
なぜなら、(概念的真理/条件付けられている真理/「リアリティ」とは全く関係のない相互合意された真理ではなく)貴方が「真理の声」を選んだ時、それはとても意味深く、変容をもたらし、皆が感謝するのだから。

貴方は何を体現しようと選ぶでしょう?
「真理の声」ですか、それともポールのプライベートで分離したエゴ感覚ですか?

貴方は「自分を示すもの」として何を選択するのでしょうか?
あるいは少なくとも、どの様な選択を「自分のもの」として、自分の基本的動機として示すのでしょうか?

ここで貴方を躓かせているのは、知性と愛と真理と「その他の貴方の表現してきた特質」は本当に貴方の所有物だ/(貴方に実体の装いと権威を与えている)貴方の属性だと云う信念です。
しかしそれらは、その様なもの(貴方の所有物や属性)ではないのです。
だからここで犠牲に見えている事は、全く犠牲ではないのです。
これは選択をシフト(変更)する事です。 それだけなのです。

『貴方は「自分のエゴ」か「真理の声」のどちらをチャネルしますか?』
これが、ここでの本当の主題(選択肢)です。何故なら『貴方は「真理の声」である以上にエゴである』と云う様な事はないからです。

ここでの偉大な奇跡は、貴方が「真理の声」を体現し表現しようと選択した時、貴方は目覚める!と云う事です。

しかし貴方が自分の限定された「理論を考えて結論付け意思決定する能力」を選択して、権威者として行動したなら(行動している様に見せたなら)、貴方は「存在する事」の夢の中に縛り付けられてしまいます。
その時どれだけ沢山の人達がその夢の中で貴方と繋がっていても、それは夢であり続け、それは夢を具体化しているだけなのです。

だから貴方は、『「貴方の限られた自己認識」と同意している何十億もの人類達』に依存して、『「真理の声」を体現し表現する選択をしない事』を正当化する事は出来ないのです。
また、『その同意から貴方が逸れて行く事』や『「真理の声」を体現しようと云う貴方の選択』を不誠実あるいは「不遜で限定的な自己過大評価」だと裁く事は出来ないのです。
何故なら、貴方にも判っている通り、それ(真理の声を体現する事)は自己評価には成らないから。
貴方が「真理の声」を選択している時、それは「貴方であるもの」を選択している様には見えません。

しかしそれは、『「統合性/誠実(Integrity)」と平和と不可侵性(不死身)の体験を紛れも無く提供しているもの』を選択している事なのです。
エゴの選択と夢は、それらを決して提供しませんでした。
これを鑑みれば、貴方が正しい選択をしている事が解るでしょう。


もう一度言いましょう。
ここでの偉大な奇跡は『貴方が「神の声」を体現し表現する選択をした時、貴方が目覚める』と云う事です。 その時貴方は貴方の正しい「マインド」に戻るのです。
そして貴方がその中にいる「兄弟姉妹の共同体」と「天国」が照らし出されて、「それそのもの」として貴方に見えるのです。 「限定されたエゴの枠組み」の中で知覚されている様に見えるのではなく。

これについては、貴方は私を信頼しなければいけません。
しかし、貴方が「聞く事を」選択したなら、「真理の声」と共に居てそれを表現したなら、貴方「自身」をよりクリアに体験する事に関しては、貴方は私を信じずとも、自分で確認する事ができます。
その時貴方は、貴方「自身」を「誠実/不可侵性/平和を持っているもの」として体験します。  ただ不安が無いだけでなく、貴方の「存在」の全ての部分を生き生きと育む平和、心地よく感じる平和の豊かな深い広い体験がそこにあります。

現在貴方がチャネルしているエゴは、完全に幻想であり、権威者的自己感覚なのです。
もし貴方が権威の感覚とそれに伴う高揚感を体験しているなら、貴方が「リアリティ」から分離していることが判明します。

しかし、もし貴方が「真理の声」を表現していて、どの様な権威感覚や著作感覚をも体験していなければ、貴方は目覚めのプロセス上にいます。 そして貴方は体験的に今までよりも「真理」により近く存在しているのです。

(エゴの観点から体験される)著作者の感覚は「自分は知的であると主張している感覚」である事を知っていて下さい。

これは、「自分は愛情深い存在である」と主張している事なのです。 しかし夢の中でさえ、実際にはこれは間違った認識です。 {愛は貴方の属性ではなく、貴方の一部でもないのだから。}
何故なら夢の中で貴方は、知的であるか/無知であるか、理性的か/理性的でないか、愛情深いか/憎しみに満ちているか、優しいか/非情か、どちらか選択する事が出来る様に見えているのだから。
貴方が「それらの選択肢のいずれかとして存在する事」は不可能です。 何故なら、貴方はそれらのどちらかを意識的に選んで居るのだから。 {貴方は、貴方の選択肢では在り得ないのだから。} 

つまり、貴方はそれらの内のどれかを、「貴方の価値観を表現するもの」として採用したのです。
そして貴方は、自分が行った選択の体現を実施しているのです。
だから、これはリアルな著作行為とは言えないのです。

正直/不正直は、ここでの主題ではないのです。
貴方が間違った主張をしていて、「リアルで(それ故に)主張する必要さえないもの」を犠牲にしている事は、ここでの主題ではないのです。
ここでの主題は、(力を約束している)『エゴの無力な視点』か、それとも『貴方の「存在」の無力な視点』のどちらを貴方が選択するかです。

貴方の「存在」は全能なので、従って力を約束しません。 しかしそれは全能なので、それはパワフルで、その力を使う機会を持っていません。
だから貴方の「存在」は、力の可能性を暗示したり示唆したり話したりする事はありません。

良いですか? 『貴方は「空虚なもの」の為に「何か実質的なもの」を犠牲にしている』と(エゴから)示唆されています。
しかし貴方が認識するべきなのは、エゴの枠組みである「何か実質的なもの」も空虚だと云う事です。
そこ(エゴの枠組み)には「リアリティ」がなく、貴方の「存在」には幻想がありません{だからエゴに空虚だと言われてしまうのです}。

貴方はここで選択しなければいけません。 そして貴方が「真理の声」を選択してシフトが起こった後、その時貴方が望むなら(現在貴方が気に掛けている)不正直について話しましょう。

テーマ : スピリチュアル
ジャンル : 心と身体

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翻訳 岡上

Author:翻訳 岡上
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hiro.okaue@gmail.com

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