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第二十一章

1991年 3月20日 水曜


ポール: まだ沢山の疑問があります。
それらを考察した時、私はとても混乱してしまいます。 それら疑問そのものが正当なものかさえ解らなくなります。 それらはただの障害なのではないかとも思います。

ご覧の通り私は混乱しています。 ハッキリしている事は「私はより多く知る必要がある」と云う事です。

私の混乱は、「貴方が言っている事」と「我々の日常の必要/現実的な側面」の間の繋がりが見えない事から来ています。
現実的な側面とは、例えば、ニュースレターなどを発行したり配布したりする事です。

つまり、私が正しい方向を向ける様に助けてください。

ラジ:  ポール、問題は、
私と交流(Communion)し始める前に、貴方が問題を考慮し始めてしまう事です。
その様にして貴方は問題(疑問)を「エゴの観点」/「思考し理由付けし結論を下す観点」から考慮し始めてしまいます。 

これは(今まで繰り返されて来た)無知に留まるプロセスです。
だから驚く事はありません。 そして、このプロセスに付随しているストレス/不安を「本当のもの/有効なもの」として受け取るのは止めなさい。

問題は、私と話そうとしている時か、他の人と私の会話を仲介しようとしてる時だけしか、貴方が意識的に貴方自身を「故郷を示している誘導シグナル」に合わせていない事なのです。

例えば「もし自分の一日を、あたかも「我々の会話」を始める如く始めたならどうなるだろう?」と貴方は考えていました。
良いですか、ポール。
貴方は「これをしたらどうなるだろうか?」とか「これがどの様に働くだろうか?」と想像しようとして、自分自身をサボタージュしてしまっています。

例えば、貴方は冗談で「ラジはどの様にピクショナリーをプレーするのだろう?」と言ったりしていました。
「完全に目覚めている人」はどの様にゲームをしたり、日常生活を送るのでしょう?

貴方は論理や推理や推論を通して理解へ到達する事は出来ません。
{それらを通して「どの様に起こるのか/在るべきか/行うべきか」理解する事は出来ません。}

貴方は「それをして{私と繋がって}」見つける必要があるのです。
私はいつも通り、冒険と好奇心の感覚を持って貴方がそれをする様にお勧めします。

ポール、ここでするべき事はいつでも同じです。
自分のセンターに居続け、好奇心を持ち、そして「聞く」のです。
別の表現を使えば、『「聴こうとする事」への一途な献身と共に自分のセンターに留まった』結果として体験される意識から存在し、そして「聞く事」が(より正確には何が適切か「知っている事」が)貴方のするべき事です。
貴方の日常の全ての出来事を、「知っている事(Knowing)」への引き鉄/経路として使いなさい。

貴方が一旦これをし始めれば、『貴方の注意を「聴こうとする事」と「聞く事」へ全て与えて貴方自身を犠牲にしてしまう事』に対する心配は完全に消えて無くなるでしょう。

貴方(あるいは他の人)が私と「会話」し始めたなら、その時貴方(あるいは他の人)は霊的交歓/交流(Communion)をしているのです。
そして、もし貴方が自分の日常と「日常の中で起こっている様に見える要求」と日常の各要素や「日常内に表れてくる力」を、それらがあたかも私と霊的交歓している様にアプローチ/対処し、故にそれら(日常の要求/要素/力)が「貴方」と霊的交歓している如くにアプローチしたなら、貴方の知覚はラジカルに変わる事でしょう。 
貴方自身に対する知覚/認識だけでなく、日常(とその要素や、そこに表れている力)に対する貴方の知覚が過激に変化する事でしょう。

貴方の日常の様々な側面との関与を、霊的交歓体験への聖なるチャンスとして捉えなさい。
貴方が初めて内的ガイダンス(指示)を仰いだ時、「貴方は何を期待したら良いか知らなかった事」を合わせて指摘しておきましょう。
(貴方が「ラジとの会話」や「ワークショップ」を抱擁しているやり方で)貴方の日常の全要素を抱擁して(貴方が既に慣れ親しんでいる)霊的交歓の体験をより豊かにする為に、「何を期待するべきか」貴方が知っている必要はありません。

さてこの時点で我々は一時停止します。 私が今言った事に関して、貴方は考えないで下さい。
貴方は短時間それと共にここに留まって居てください。
その後また話し続けましょう。

[短い中断]

さて、この事に関して現時点ではこれ以上は説明しません。

『他の人達が貴方と共有している「会話」』に対して貴方が持っている敬意と献身を、貴方の日常生活の全ての人生体験にも与えなさい。

「全ての人が彼/彼女自身の神性を認識してもらう為に私を訪ねて来ている事」を貴方は既に知っています。
貴方の日常の全ての要素をこれと同等に扱いなさい。 それが貴方の見ている木であっても、自動車であっても、貴方の妻でも、貴方の息子でも、貴方が受け取る請求書であっても(そして、その他諸々の事も)これと同等に扱いなさい。
それら全ては、その神性を認識してもらう為に貴方の所に来ているので、それら全てがその神性を貴方に認識してもらう為に来ているものとして対処しなさい。
これはとても重要な事です。 これを喜びと共に行いなさい。 これを楽しんで行いなさい。


「War Games」(ウォー・ゲーム)と言う映画の真意は「ゲームに勝利する唯一の方法は、ゲームをプレーしない事。」と言う台詞の中に抽出されています。

後日「失楽園」と呼ばれる様になる、エゴの一番初めの行動は何だったでしょうか?
それは「私は誰だろう?」という質問を発する事でした。
貴方は何故、自分のアイデンティティに関して問題を抱えているのでしょうか?
それは、「故郷から離れる動き」を清算するプロセスの上で、「私は誰だろう?」と云う一番最初の分離行動に貴方が直面しているからです。

もし貴方が今「その質問を訊ねる事」を止めなかったとすれば、貴方は「正気から分離した一番最初の行動」を乗り越えて、貴方の「全体性」の中に戻っていく事が出来ません。

この問題がこの時点で持ち上がって来たのは、全く避けようがなく、完全に自然な事でした。 何故なら、これが解除の最終部分だからです。

貴方は、自分のこの人生の殆どの期間(そして、それ以前の全ての人生においても)、「自分が誰か解っている事」にかなりの自信を持って来ました。

しかし、貴方は過去9年間に亘って「貴方とは認識できない何か」の表現に成り続けて来ました。
そして今貴方は、貴方の居る所に「貴方として認識する事の出来ないもの」以外の何者も存在させない様求められています。
「貴方が誰か」と云う質問が貴方にとってとても重要になっており、それが混乱を引き起こしており、そして二つの別々の事が起こっている様に見えています。

一つは「自分はこういう者であると考え続けて来た、自分が誰だか知っていると思い続けて来た」貴方。  もう一つは「何かとても意味深い(しかし貴方には責任が取れない)ものの現れ」に成っている貴方。 この二つです。

この難所を通り抜けるには『「貴方が誰か」質問して見つけようとする事』を貴方が完全に止める必要があります。

「私は誰だろう?」と云う質問の後に必然的に続いて出てくるものは何でしょうか?
そこでは思考/理論/論理の認知プロセスが必然的に起こり、それが「定義」と呼ばれる結論を引き出すのです。

聖書に書かれている、アダムとイブの寓話の中で、この質問に対する一番初めの答えは何だったでしょうか?
一番初めの答えは「私は恥ずかしい。」です。 一番初めの答えは罪悪感でした。
一番初めはの答えは、赦しを求めるものでした。
それが常にエゴの一番初めの動きの結果です。

そして、男と女である感覚が起こります。
そして、その様な定義が一度確立されるとその後の質問は、「あれは何? あれは何? あれは何?あれは何?」です。
この様にしてより多くの定義群が出てきました。

この幻想のゲームで勝利する唯一の方法はゲームをプレーしない事です。
ゲームをプレーしない唯一の方法は、一番最初の動きをしない事です。
一番最初の動きは、「私は誰だろう?」と質問する事です。

だからもし貴方がこのゲームを解除するつもりなら、「私は誰だろう?」と訊ねる事を止めなければいけません。 この質問にエネルギーを与えそれを確証し続ける事を止めなければいけません。

「貴方」は存在している(You Are!)のです。 「貴方」は「誰」や「何」ではないのです。 「貴方」はただ居るのです。
そして貴方の存在を証明しているのは、「意識」の体験です。
そして「意識」の体験は「知っている事」の体験です。 しかしこれは「もの」ではありません。
これは物体/対象物ではありません。 これは定義出来る「何か」ではありません。
これは「存在する事」の流動的な動きです。

ですから、何故この時点で貴方がこの問題に面しているのか理解しなさい。
「貴方が誰か」に関する混乱と「貴方が貴方であるものを放棄する事に成るのか?」 と云う質問は完全に幻想なのだと理解しなさい。
そして「この質問を貴方の意識から完全に取り去ってしまう事が必要なのだ」と気付きなさい。

これを手放す事が必要なのです。
我々の会話が起こっている時、貴方はこれをしているのです。
この瞬間貴方はこれを行っているのです。
貴方は「自分が誰か」訊ねておらず、「知っている事」の体験が起こっています。

貴方は存在する事に対してとても意識的でいます。
しかし「貴方が何か」は関係ないのです。 何故ならそれ{我々の会話}は「知っている事の意味」で溢れているから。

昔から訊ねられ続けてきた「私は誰?」と云う質問は罠なのです。 これは仕掛け罠の餌なのです。
ここで示唆されている事は「自分が誰か解ったなら、貴方は満たされるだろう。」と云うものです。 しかしこれは嘘です。

だから今貴方は『「故郷」から離れた一番最初の動き』を意識的に解除するチャンスに面しているのです。
だからこれ{自分が誰か知る事}は物凄く重要に思えるのです。

今のところは、ここまでにしましょう。

テーマ : スピリチュアル
ジャンル : 心と身体

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