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第二十四章

1991年 3月25日 月曜


ラジ: ポール、貴方は要領を得始めています。
これを貴方が理解する必要はありません。
貴方は私と共に居て(スーザンが言った様に)「ドア」に成る必要があるだけなのです。

貴方は何が「狭間」にのし掛かっていて、そこから動き出ようとしているか、全く理解していません。
しかし貴方はプレッシャーを感じています。 貴方はその現れを感じています。

「ドア」には、その機能以外の定義はありません。
「狭間」には、その機能以外の定義はありません。
その(「ドア」/「狭間」の)機能は、「神」がそこを通って「自己表現」をする「場所」に成る事です。

貴方の受けた教育、そして貴方の周りの人達の態度は「貴方には責任があり、だから、貴方は責任を取れる(説明出来る)様になる必要がある」だと云う事は私も良く理解しています。

しかしポール、私は貴方に次の事を言いたいです。
もし{今}「狭間」の機能が起こっていないなら、貴方は「狭間」に成る事に関して責任を取る事は出来ません。{出来ない筈です。}
もし{今}「存在」の動きがそこ(狭間)を通っていないなら、(貴方は)それ(狭間)に対して責任を取る事はできません。{出来ない筈です。}

だから『「狭間」がその機能を果たせる様になる前に、貴方が「狭間」として責任を取れる(説明出来る)様に成る必要がある』と云う前提(条件付け)を貴方は捨てる必要があるのです。
そして「狭間」がその機能を実際に果たした後には、その責任/説明を示す必要は何処にも現れません。

万が一、他者が責任/説明を求めた場合、それに答えるには、自身を説明/定義出来る様に「狭間」がその機能を止める事が必要になります。
{そして狭間がその機能を一旦果たした後、そこで何が行われていたか説明する事は狭間には出来ないでしょう。‐と云う説明がここから抜けていると思います。 訳}

その様な要求に答える事は不可能だと貴方は理解しなければいけません。
だから貴方は「責任/説明を求める要求」に対して答えようとする事を無視しなければいけません。
そして自分に何らかの説明が出せる事を期待するのも止めるべきです。

貴方は、貴方だけでは何者でもの無いのです。 何故なら、貴方は貴方一人では存在していないから。 だから貴方は、貴方一人で貴方自身の責任を負う事は出来ないのです。

彼等(他者達)も彼等自身に対して責任を持つ事が出来ると信じられる様に、貴方が自分で貴方自身に対して責任を負う様に、他者は要求して来ます。 
それに従ってはいけません。
これは、貴方が座った時「貴方の立ち姿がどこかに行ってしまった事」に対して責任を取ろうとする様なものです。

貴方がワークショップをしている時、貴方は事前に「何が起こるか」考えようとはしていません。
貴方は(あたかもプランが存在しているかの様に考えて)自分が「プラン」を理解する事を要求してはいません。
そしてワークショップはただ起こるのです。それは美しい事です。それは意味深い事です。 それは変容をもたらす事です。

ならば何故、貴方は「四次元」に成る事の意味をあらかじめ理解しようとするのでしょうか? またその他の(貴方が些細な事と考えている)行動をどの様に取るか、どうしてあらかじめ理解しようと試みるのでしょうか?
人生/生命はどの様な先入観/前提にも従う事無く開き示されるものです。

貴方は、ワークショップで何が話されるのか前もって考えてみる事も出来ます。
しかしそれはエネルギーの無駄使いです。
何故なら、貴方がプライベートな視点/立場から「生命/人生」の動きを統治する事は出来ないから。
そして、その時実際に自然と起こる事は、貴方の先入観/前提とは関係なく起こるのだから。

貴方が体験しているソワソワした感じは、「動き」が狭間を越えて動いて行く事を「求めている」フィーリングなのだと、私は貴方に指摘したいです。
しかし、もし貴方が「ドアとしての貴方が誰か」理解する事に固執したなら、貴方は「その(ドア/狭間の)機能から分離したもの」に成ろうと(自分一人で行動しようと)してしまうでしょう。

貴方が貴方自身に対して責任を取れる様(説明出来る様)であるべきだ、と云う示唆は、
『貴方の「存在」の機能と関わらない事を貴方が選択して、貴方自身に対して責任を持てる様(説明出来る様)に成ろうとする行動』を促進してしまいます。
その様にして貴方はエゴとして機能し続けようとしてしまいます。 しかし貴方のエゴは崩れつつあります。

過去のどの時点で、貴方は貴方自身に関して良く説明が出来ていたでしょうか(責任が取れていたでしょうか)。今の時点で貴方が貴方自身に対して説明責任を負おうとしたなら、それは酷い失敗を招く事でしょう。 それは完全に失敗してしまいます。
だからその様な事をしようとするのは止めなさい。 貴方の時間を浪費するのは止めなさい。

ポール: 私は静寂を体験しています。
私は(貴方を)ブロックしているのですか? それとも貴方がただ何も言っていないだけなのですか?

ラジ: 私は何も言っていません。

ポール: いずれにしろ私はまだ行き詰っています。
私が言いたいのは「私の目の前に出されている要求は、依然として私の面前にあります。」と云う事です。
私はただここに座って貴方が次に何か言うまで待つべきなのですか?
静寂を感じ、『「私がこの静寂の中に座っている事」が正当な時間の使い方だ』と云う自信を感じるべきなのですか。 (これをしている限り)私はとても厳しい要求と向き合う事を避けている様に思えるのですが?

ラジ:  いいえ、ポール。

「知る事」を熱望する事によって、貴方が「知る事」に許可を与えるべきなのです。
そして何かを「知る」一番簡単は方法は質問する事です。

ポール: 一番シンプルな質問は「責任を取る事の問題に関して話してくれませんか?」だと思います。

ラジ: 喜んで。

人に責任が取れる(説明が出来る)唯一のものは、彼/彼女自身が「創造したもの」だけです。 {人が自分で「創造」したものは、相互合意だけです。 訳}
だから人は、自分以外の人(他者)に対してだけ責任を取る事が出来るのです。
{だから人は、自分以外の人(他者)に対してだけ(相互合意に基づいて)責任を負っている様に見せる事が出来るのです。訳}

何故なら、人が一人で放って置かれたなら{他者と相互定義を共有する関係を築かなければ}彼/彼女は「生命/人生」の豊かさを「生命」自身が「生命」を開いていくに従って体験するだけだからです。
{人は、彼/彼女の「存在」の豊潤さを「存在」がそれ自身を開く様に体験します。}

だからポール、責任を持つ(accountability)とは「人がパーソナルでプライベートな創造者で/(神のみが源である)「創造の動き」から分離していて/それ自身だけで存在している」と云う信念からもたらされたエゴの動きなのです。

責任のゲームをプレーする為には、最低二人の人が必要に成る事を理解して下さい。

「創世記」の第三章の寓話の中で、イブは林檎を食べてそれが美味しい事を発見しました。 そこには恥や罪悪はありませんでした。
彼女がそれをアダムに提供して彼がそれを食べたとき、彼と彼女自身が一緒に恥(羞恥心)を体験している事を彼等が見つけたのです。

つまり、イブは「父」との関係の中で父から裁かれたのではないのです。 これは重要なポイントです。
(イブが林檎を食べた時)そこに居たのは、一緒に「父」に背いている二者ではありませんでした。
そこには、「父」とイブしか居ませんでした。 そこにあったのは、「父」と「父の自己表現」だけです。
罪(罪悪感)は、人(ひとり)と「父」の関係内では不可能な体験です。 例え人(ひとり)が「父」から独立して行動している様に見えたとしても。

この時点では、背く(反抗する)行動の中で{他者と}繋がる事はまだ起こっていません。
だから、この時点では「合意された反抗」の中で{他者と}繋がる事はまだ起こっていません。
この時点で存在していた唯一の関係は、「父」と「父の自己表現」の(いまだ純粋な)関係だけでした。

その時点では幻想は起こっていません、「父」は自身の「自己表現」と倒錯した(欺瞞的)やり方で関わり合う事は出来ないからです。

「父」の居る所に罪が無い様に、そこには恥の体験も無いのです。
だから人が「父」に近づいて行けば、その人がどれだけ「父」から離れていた様に見えたとしても、そこでは罪と恥の解除が起こるのです。

他のエゴ感覚と繋がったエゴ感覚の中だけで 、「恥と罪の体験」が起こりそれがリアルに見えるのです。
アダムが林檎を食べる事に参加した時(この本当の意味は、彼がイブと一緒に「父の意志」に反して行動する事に同意した時、です)に始めて、恥と罪の体験と「赦しを求める声/必要」が発生したのです。

責めているのは「父」ではありません。
貴方を(あるいはその他の誰かを)「恩寵を失った状態」に留まらせているのは、「父」ではありません。
裁きを与えるのは「父」ではありません。 罰を要求するのは「父」ではありません。

さて、これはどう言う意味なのでしょうか?
この意味は「エゴ達がお互いに繋がって、(彼等全員を有罪にする)恥と罪の裁き(判断)の定義を作った(創造した)」と云う事です。
エゴ達の繋がりの結果が、『人が「持って生まれた権利」と「天国」を体験出来る様に成る前にペナルティを払う(罰を受ける)事の強要』として現れるのです。

どうして「目覚め/覚醒」する為に「赦し」が不可欠で、何故これがコースの中心的主題なのか解りますか?(#14)
それは、赦しこそが裁きを撤回する事だからです。
裁きを使って貴方は、『兄弟自身が持っている「父」からの分離感覚』に兄弟を縛り付けているのです。

解りますか? この様にして一人一人の人がそれぞれに対して責任/原因を負わせているのです。

{エゴにより}貴方の良き働きの責任/功績を貴方が負うものとして示唆されています。
貴方は、自分に価値があり/自分が信頼でき/自分に意味があり/自分が有用な貢献をしていると「説明が出来る方法」(自分自身に原因が求められる方法)で貴方自身を管理しなければいけないと{エゴから}示唆されています。

しかしこれらは、貴方の罪に対する責任を隠す為の誤魔化しなのです。
何故なら、貴方が功績を十分に上げられれば、十分な資格が取れれば、十分な信用が築ければ、それによって「暗黙の内に示されている貴方の罪」の責任から貴方を免除する事が出来る(と考えた)から。
『「父」の意志から背いて行動する相互合意』から派生している「相互合意されている恥」』の責任から貴方を免除する事が出来ると考えたから。

この様にして、(罪の意識を持って貴方自身の責任を取るのではなく、プライドを持って自分の責任を取れる様に)貴方自身を管理する事が大切に成ったのです。
{この様にして、(罪の意識を持って貴方自身を説明するのではなく、プライドを持って自分を説明出来る様に)貴方自身を管理する事が大切に成ったのです。}

しかしその様な事をしても、罪への基本的な責任は解除されません。
(「あたかも神が存在しないかの様に、他のエゴと共に行動する」相互合意を手放すのではなく)『分離した良き人間に成ろうとする全ての試み、あたかも私生児であるかの如く行動して「父」の直接で唯一の「自己表現」ではないフリをする全ての試みから発生している罪』への基本的な責任は解除されません。

「卒業」とは文字通り、貴方が基本的な相互合意と恥と罪と「それらに内在/関連している罰」を手放すプロセスの事です。
「卒業」とは、貴方が『私の意志ではなく、貴方/「神」の意志が成されます。』と言って、それからもう二度と「貴方自身の独自に意志を持つ能力感覚」には依存しなくなった時の事です。
貴方は「父の意志」だけを知りたいと希望するのです。

貴方は「聞く事」によってこれを行います。 私が今喋っている時、丁度貴方がしている様に。
これを行えば、貴方は『自分では責任の取れない/説明の出来ない体験、他者から「説明」するよう要求されても答えられない体験』の中に自分を置く事に成ります。 

この様に「責任を取るよう/説明出来るよう強要される事」の原動力は、貴方自身と貴方の周りの人の「条件付けられている思考」から来る強要なのだ、と理解出来なければいけません。

貴方は最低限、イブの寓話のポイントまで戻って行かなければいけません。
イブが林檎を食べた後で、神に逆らった後で、しかし父以外の何者とも未だ関係を結んでいない地点まで、貴方は戻らなければいけません。

彼女は(云わば)反抗行動を探索していたのですが、しかし彼女はその時でもまだ「父」から分離しようのないパーフェクトな「一体性(Oneness)」の中に居ました。
それは、その時点ではまだ(「リアル」な分離感覚を確立する為に必要な)「他者との繋がり」が行われていなかったからです。
この時点ではイブまだ彼女自身を「三次元だけに限定された枠組み」に限定しておらず、まだそれを抱擁していなかったのです。

だから、貴方が私とだけ関係している時、貴方はパーソナリティー/「自己に対する限定された感覚」とは関係していません。
(以前にも言ったように)その時貴方は、『それ自身も完全に「ドア」として立っている者』と関係しているのです。
だから、貴方は私の中に「父の意志」が表現されたものを体験するのです。
だから、貴方は私を通して「父」と直接の関係を持つのです。

他のエゴ達との相互合意から身を引く決意をして、人間として存在する貴方の最上の感覚(プライベートな感覚)から退散する決意をして、私と繋がった時、貴方は「父」と繋がっているのです。

これをしたなら、『寓話の中のイブがまだ「父」との関係内だけに存在していて、しかし「父の意志」に逆らって行動していた時点』まで貴方は自分を戻す事になります。
これが貴方を貴方の「無垢(無罪の状態)」にまで戻します。

イブの反抗が彼女を有罪にしたわけではありません。
反抗の中で(「父」以外の)他者と繋がる行為が、恥と罪の幻想を作っただけではなく、
「エデンの園/天国」と『「神」の表現としての「本当の彼女」』の歪んだ体験全体を作ったのです。

責任(説明責任)に対する要求は、貴方が貴方自身と貴方の真実性を宣言する事への要求なのです。
しかし貴方にはその様な真実性はありません。 貴方はその様な自己も持っていません。
「貴方」の現れは、「神の現れ」の宣言なのです。

これが貴方の「事実」です。 そしてこの「事実」を人間的に説明する事は出来ません。
この「事実」に対して責任を取る事は人間には出来ません。
({神から}分離した自己感覚が「天国」の全ての側面に当て嵌めた)(その様にして「天国」の体験に対する歪みを混乱を作った)定義の範囲内では、この「事実」を説明/確認する事は出来ません。

これをより詳しく見ていきましょう。
私が説明したとおり、イブが林檎を食べた事は彼女を罪人にはしませんでした!
それは「父」からの分離を彼女に体験させませんでした!
だから、彼女個人の反抗行為は幻想を作りませんでした!
だから貴方個人の反抗行為は幻想を作りませんでした。 それは貴方を罪人、失踪した「神」の迷い子にはしませんでした!

罪の感覚と幻想の体験は、『「父」に逆らって行動する事への合意』の中で他者と繋がる事(つまり、「父の意志」と一致していない意図をそれぞれに持つ事)から全て発生しています。 
(分離行為そのものではなく)この相互合意により、全ての幻想が実体と形を持つ様に見え始めたのです。

これがどういう意味だか解りますか? 
この意味は「幻想に対して責任を負っている個人は誰も居ない」と云う事です。

幻想は、{エゴの}同士意識から立ち昇って来たマインドの毒気の様なものです。
これは繋がる事により『どうにかして「父」に対して本当に反抗出来る』と云う(全く間違った)感覚から来ています。

これは二人の子供が物陰に隠れてトウモロコシの糸でタバコを作ってそこに座り、面白がって「父さんは僕を殺すな」、「僕が何をしているか知ったら、母さんに殺されちゃうな」と言う様なものです。

しかし母と父の性質は愛であって、物陰のこの馬鹿げた行動がどの様な裁きの対象にも成り得るとは(つまり、子供の想像の軽い娯楽以外のものとは)考えられないので、彼等には怒る事さえ不可能なのです。

しかしそれでも子供達が、自分達の想像を信じてしまえば、罪と恐れの感覚を作る事が出来ます。 それは彼らの両親への態度に影響を与え、共有されている幻想の行動(共有されているネガティブな夢)を強化してしまいます。
彼等の夢想はリアリティとは全く一致していませんが、それには罪の意識が付随しています。 彼等の両親はその様な罪を子供達に与えてはいないのですが。

しかし子供っぽい夢想の中で彼等が両親に投射した恐ろしい顔故に、子供達は懲罰を恐れ始めます。 そして彼等の両親との関係(きずな)は、お互いとの間に(共有されたネガティブな夢によって)築いた関係(きずな)で取って代わられます。
子供たちは、トウモロコシの糸を吸った行動そのものから苦しんでいるのではなく、共有している夢想体験への信心(罪悪感を感じる相互合意)故に苦しんでいるのです。

時間が経つに従って、子供達は「彼等自身が有罪だという相互合意」に従って自分達を定義し始めます。
夢想/想像した両親の怒りと懲罰故に、彼等は両親からよそよそしく(他人行儀に)成って行きます。

そして子供の一人が自分の尊さに気付いてそれを表明した時、もう一人の子供が「お前は、自分を誰だと思っているんだ? 僕達はお互が有罪だと知っているじゃないか?」と言うのです。
状況が困難になり一人が「僕は、我々がお互いの無知を作っているこの関係にはもう余りエネルギーを使いたくない。 僕は故郷に帰りたい。 僕は父と母との関係を新しくしたい。」と言った時も、その子自身の条件付けとパートナーの(もう一人の)子の(幻想に対する)補強が「貴方にはそれは出来ない」と言うのです。
「時が経ち過ぎている。 貴方の罪の意識から行われた行動は、とても沢山蓄積されており、だから貴方は全く受け入れられないだろう。」と言うのです。

{両親/「神」から隠れた}物陰では{子供達が自分達は両親に背いたと想像しただけなので}本当の行動は何も起こっておらず、英知と愛に満ちた父と母は微笑んで「彼等の苦しみは無意味だ。 彼等が帰って来るのを心待ちにしている。 昔と全く変わらず彼等を愛している。」と言っているのです。

ここでのポイントは『それぞれの人(各個人)は本当は一つの関係しか持っておらず、
その関係は父/母「神」との関係である』と云う事です。
そして自己主張/自己顕示(willfulness)の行動は罪を作っては居らず、それが分離感覚を発生させる事は出来ず、恥や罪悪や懲罰を作る事も出来ないのです。
だから恥/罪悪/懲罰の意識感覚に対して責任を負っている人は誰も居ないのです。
「天国」に対する歪められた感覚に対して責任を負っている人は誰も居ません。
二人の個人が寄り集まって反抗する事を互いに合意した時にも、個人が恥や罪悪や(罪人に値する)懲罰の感覚を作った訳ではありません。
何故なら個人は(懲罰や苦しみがリアルに見えていたとしても)、それぞれ一人一人としては「本来のそれ自身」(「父」の直接表現、無罪)のままなのだから。 

懲罰や苦しみは、『相互合意されている罪悪』と『罪悪の枠組み内」から自分自身に対して知的に正当に愛に基づいて「責任を取って/説明して(相互合意の中からは実存して見える)罪悪を超越しようとする試み」』の結果なのです。

相互合意は知的現象であって、リアルなものではないのです。
取り除かれるべきヴェールは、この相互合意のヴェールなのです。 この忍び笑う/陽気な/恐れに満ちた/スリルに満ちた相互合意、『人が実際に「父」に背き、(「父」こそが「愛」で、「父」にはそれ以外は不可能なのに)「父」の愛を失う事が出来る』と仮想する相互合意が、このヴェールなのです。

だから、「卒業」と「目覚め」はつまるところ、相互合意から身を引き、(「良き人と成る為の自分の内部概念」や「他者が持っている良き人の定義」と同等に成る為に)自分自身に対して(説明)責任を負う事を無視し、代わりに「父の声」を聞く為に自分の中に耳を澄ませる事です。 
「父の声」が狭間を越えて動いていく度に、貴方という「ドア」を通り抜けていく度に、その「父の声」を聴いて、あるがままに{「父の動き」、「創造の動き」に}任せるのです。

幻想が(夢想に浸る事と、夢想が「リアリティ」よりもリアルだと信じる事への)相互合意から発生しているのなら、どの個人も幻想に対して責任を取る事はできません。

_______________________

(#14)A Course In Miracles. (奇跡のコース) 

テーマ : スピリチュアル
ジャンル : 心と身体

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プロフィール

翻訳 岡上

Author:翻訳 岡上
ACIM - A Course In Miracles

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