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ACIM10-05-01#1

May 1, 2010 ©NWFFACIM
2010年 5月 1日

原文テキスト
http://www.nwffacim.org/tgp/forums/thread-view.asp?tid=29412&mid=142194#M142194
オーディオ&ビデオ
http://www.nwffacim.org/tgp/forums/thread-view.asp?tid=29401&mid=142164#M142164

ページ位置の確認。
Chapter 16 – Section – ILLUSION AND REALITY OF LOVE
1 Sparkly Book – p.388, 1st Full Par. / JCIM – p.163, 2nd Full Par. / CIMS – p. 326, Par.38
First Edition – p. 315, 2nd Full Par., 6th Line / Second Edition – p. 339, Par. 9


今晩は、ようこそ。  
今日はいつもとは違う形式でいきます。今夜はコースのテキストは読みません。 コースを読み進める前に言うべき事があります。

少し瞑想しましょう。

我々が話してきた事は、我々が直面している事は、とてもシンプルなレッスンなのです。
今までにこれを色々な名前で呼んできました。
「二つのステップ」/躊躇/静寂の中に入って行く事/虚無の中に入って行く事/思考の放棄、など。

この三週間でポールに明確に解ってきたのは「彼が考えている時には、彼は私と話していない」です。 その時彼は意識的に「精霊」とも繋がっていません。 彼は「父」に自らを差し伸べてもいません。
そのような時ポールは、自分だけで知ろう/理解しようとしています。 無防備に成らない様に自分を護ろうとしています。

(貴方達の状況そして解決は)次の様にシンプルな事なのです。
人が思考していて繋がっていない時、つまり「精霊」か私(の様なガイド)か「父」と一緒に居ない時、彼/彼女は電源に繋がれていないトースターの様なものです。
トースターはそこにあって、トースターの様に見えています。
そこにパンを入れてレバーを押したなら、あたかもトーストが作られている様に見えるでしょう。
しかし実際には、そこでは何も起こってはいません。

例えば過去三週間の間に、ポールの注意が必要とされている事がありました(貴方の注意が必要とされている事があったと同様に)。
殆どの場合、それらの問題に対してどの様に対処するべきか、ポールは直ちに考え出そうとしてしまいます。 彼は様々なシナリオや解決法を考えて、それらが本当に上手く行くか、どちらがより適切か心配します。
そして彼は急に思い至る訳です。「オー・マイゴッド! 私は考えている。 私は繋がっていない。私は聞いていない。だから私のマインド内で起こっている事は、全て無意味だ。」

ポールは、自分が考え始めている事に気付いた時、短いフレーズを口ずさむ様にしています。
「しかし私はまだ答えを持っていない。 しかし私は答えを得ていない。」

例えば、恐れが立ち昇って来て、彼がそれに引き込まれ、それに関して30分ぐらい真剣に熟考したとしましょう。 そして彼は思い出して「しかし私はまだ答えを持っていない。」と言うのです。
その時、彼は「自分が答えを持っていない事」に気付いただけではなく、「思考の結果として自分が答えを得る事がない事」にも気付きました。
そして彼の全人生が教えてきた「(とても知的な、とても妥当な)思考プロセスをする事」が不毛だと気付いたのです。
だから「唯一の解決は、質問/必要を(それがどの様なものであっても)私あるいは精霊に尋ね、答えを聞く事だ」と気付いたのです。

しかし貴方達は全員、ミステリー(神秘)を愛してしまっています。  {自分の置かれている状況が}判っていない体験を、そして発見のプロセスを愛しています。
そして「自分達の前にもたらされるであろう答え」をワクワクと期待する事を愛しています。
そして「答え/真理を瞬時に得る事」は全く退屈な事に成ると、事実貴方達は感じているのです。
「そうなったら、発見の喜びが得られなくなってしまう。物事がミステリアスではなくなってしまう。そうなったら、思案(Wondering/あれこれ思い巡らすこと)が無くなってしまうではないか?」
「答えの不思議/驚き(wonder)、その素晴らしさ、が無くなってしまう。」

しかしWondering(思案)とWonder(驚き)はそれぞれ異なる意味を表しています。
Wondering(思案)とは「知らない{状態に居続ける}事」です。 Wonderingとは無知である事です。
そして、思案(あれこれと考え悩むこと)をそのミステリー(未知)故に楽しむのは、無知を「価値あるもの」、「抱擁に値するもの」として受け取る事です。

その様な事をしている限り、貴方は答えを得ることが出来ません。
その様な時、貴方はまだ「答えがある場所」に行っていないので、まだ答えを得ていません。

「答えがある場所」は貴方の思考プロセスの中ではなく、それは「静けさ/静寂」の中にあります。
貴方が自分の最上の論理と判断を放棄して、「ここの真理は何か?」と「真理を知っている者に」訊ねたなら、その時貴方は(貴方の正しい「マインド」でしか在り得ない)「精霊」か「父」か「キリスト」である「答えを知っている者」に訊ねたのです。
その時貴方は「はじまり」から存在し続け、全くどの様な変動も体験していない、「平和だけを与える知識」を授ける「答えを知っている者」に訊ねたのです。
「答えを知っている者」つまり貴方の正気/「父」/キリストは、貴方に未知のミステリーと想像上の発見の喜び(それらは全て孤児のマインドの中で行なわれている事です)は与えません。
そして孤児のマインドとは、電源の入っていないトースターなのです。

だからここでのシンプルなレッスンとは「貴方が考えている時には何も起こっては居ない」です。
貴方が理由付けを行っている時、貴方が論理的推論を行っている時、そこでは何も起こっていません。
その時貴方はまだ答えを得ていません。

もし貴方のミステリーや思案の最中に答えが現れたなら、それは貴方がそのとき答えに対して一時的に無防備に成っていたからです。 その時貴方は「自分で答えを探す事」にエネルギーを投入してはいなかったのです。
その時貴方は『「自分には成れないもの」に成ろうと試みる事』から無罪/無垢だったのです。
だから「精霊」が入って来て、貴方は答えを得たのです。 その答えは、体現された(表現された)平和なのです。
その答えは、全体性が体験される事なのです。
その答えは、その瞬間に状況内(それがどの様なものであったにしろ)で貴方が完全に適切に成る事だったのです。

今貴方は電源(源)と繋がりたくなっています。 貴方は目覚めたがっています。
ここでのシンプルな事実は「貴方が思考している限り、貴方が繋がっていない限り、貴方は無意識だ(意識を失っている)」と云う事です。
貴方は「私が意識を失っている訳はない。 私は車を運転している。私は人々と係わり合っている。私は意識を持っている。」と言うかもしれません。

しかし、貴方は真理に気付いていますか?
貴方は(その中では病が存在していない、貴方がその中に居るのでそれが貴方の癒しに成っている)「リアリティ」を意識出来ていますか? その中では瞬間的に癒しが起こっており、病気は消え去るのです。
もしこれが起こっていないなら、貴方は真理に気付いてはいません。
貴方はいまだ無意識で、「生命の神秘/ミステリー」のファンタスティックな体験を楽しんでいる事以外には、何も意味のある事は起こっていません。 
アー「Sweet Mystery of Life」美しい歌。
貴方は「生命の神秘」を、美しさの概念の中に奉っています。
止めなさい! 無意識/無知/無意味を奉り、それを体現しようとするのは止めなさい。

もし貴方が答えを欲していて、もし貴方が沢山思考しているなら、自分に言い聞かせてください。
「しかし、私はまだ答えを得ていない」と。

この事実を自分に思い出させる事によって、自分の独立を放棄し『「父」よ、ここの真理はなんですか?』と言って下さい。 『「精霊」よ、ここの真理は何ですか?』と訊ねて下さい。
「イエスよ、真理を見せて下さい。道を示して下さい。真理のアイディアではなく、真理の体験を私に示して下さい。」と言って下さい。
『貴方(イエス)が自身を「父」から隔てていない時に体験している事を、私も体験したい。キリストとしての貴方が「父」と共に創造している時の体験を、私も体験したい。
私がその体験を持てる様に助けて欲しい。 私という「キリスト」の完全性の中で、私が「父」と一緒に創造出来る様に、(そこでは、もはやミステリー感覚が存在していない)「神の法」が統治している場所に私も居られる様に。』

「発見するべき答えを持たない退屈」はどの様な損失にも当たりません。 何故なら、これ(独立を放棄して父に訊ねる事)をする事により、貴方は「神」と全く分離のない一体性(Oneness)の交流(Communion)を直接体験するのだから。

そして貴方は、「神」が「成って」いる「創造の動き」の中で「神」と共に立ち、全ての瞬間に『「神」が新しく「成って」いるもの』を貴方が発見/体験し、それを混乱する事なく「それそのもの」として認識する自由を得るのです。 「それそのもの」を体験する為に、ミステリーのプロセスを通り抜ける必要はないのです。

だからこれは退屈な事では全くありません。 しかし、これには「何者かに成る」と云うエゴのプロセスは含まれていません。 エゴのプロセスは実の所、意味の欠如を意味しています。
それはトーストが焼けない事を意味しています。 それは貴方が(本当は意識を取り戻したいのに)無意識に成っている事を意味しています。

例えば、貴方は人生の状況の中で「うーん、奇跡とは知覚の急激なシフトだ!」と言います。
そして「これは世界の中であの様な体験からこの様な体験へと移行する為の知覚のシフトに成る筈だ。 悪い状況から、より良い状況へのシフトに成る筈だ。」と考えたりしています。
しかし違います。 このシフトは、「無意識である事」から「意識的に成る事」へのシフトなのです。
これは、思考する事から聞く事へのシフトです。
これは、孤立から「合一/繋がる事/一緒に成る事」へのシフトです。
これは、空虚から「満たされる事/全体」へのシフトです。

シンプルな事は、人々の注意を引きません。 何故なら彼等は、思考の力に絶大な信心/信用を抱いているから。
貴方達は自分達の考える能力に大きな信頼を与えています。 
しかし、歴史上の偉大な発見はどれも思考の結果ではありませんでした。 それらは何時でもインスピレーション(霊が入ってくる事)の結果にしか過ぎないのです。

貴方が尊ぶべきはインスピレーションであって、思考プロセスではありません。
(特定の方法でとても特定な秩序を表すように、縛られ自由でなく「啓示」を受け付けない)学習を受けたマインドではなく、条件付けられていない無垢なマインドが尊ばれなければいけないのです。
何故なら、「啓示」は概念を超えているものだから。

「神の動き」は思考を超えて行くものです。 それは知的に秩序立った様子を越えて行くものです。
それは完全にオリジナルで、どこにも(どの様な思考にも)当てはまりません。

テーマ : スピリチュアル
ジャンル : 心と身体

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翻訳 岡上

Author:翻訳 岡上
ACIM - A Course In Miracles

hiro.okaue@gmail.com

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