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ACIM10-03-20#1

March 20, 2010 ©NWFFACIM
2010年3月20日

原文テキスト
http://www.nwffacim.org/tgp/forums/thread-view.asp?tid=29166&mid=141597#M141597
オーディオ&ビデオ
http://www.nwffacim.org/tgp/forums/thread-view.asp?tid=29176&mid=141620#M141620


ページ位置の確認。
Chapter 16 – Section – THE REWARD OF TEACHING
1Mathew 26:42

2 Sparkly Book – p.384, Last Line
JCIM – p.161, 7th Full Par.
CIMS – p. 323, Par.25
First Edition – p. 312, 3rd Line from Bottom
Second Edition – p. 336, Par. 5, Sen.9



今晩は。ようこそ。  

我々は“The Reward of Teaching.”  「教えの報酬」と云うセクションを読んでいます。

教えの報酬(教える事のご褒美)とは何だと思いますか?
教える事の報酬とは喜びです。 誰の喜びでしょうか?
教師の喜びです。 

では何故教師は喜びを体験するのでしょうか?
それは生徒が学んだからです。 教師が教え、生徒が学びます。
{精霊が教え、貴方が学びます。 と同時に貴方が教え、貴方の周りの人も学びます。}

閃きが発生し、認識が起こります。 教えられている事に対する認識が起こるのです。
今まで暗闇(無知)が在った所に認識の光が当たります。 それは、光明をもたらす為に教師がした全ての事に報いるものです。
教師の役割を生徒が認知する(教師の役割が上手く機能している事を生徒が示す)事により、生徒は教師に喜びを与えるのです。

さて、生徒はどの様にして学んだのでしょうか?
生徒が学べる唯一の方法は、[知っている事(Knowing)]への抵抗を生徒が放棄する事によってです。 「そこで照らし出されている事」に対する抵抗を放棄して、それを自分の中に受け入れるのです。
生徒は聴く事により学びます。 シンプルです。
「二つのステップ」 = 躊躇して「ここでの真理は何ですか?」と訊ね、そして耳を澄ませるのです。 
もし人が抵抗なく嫌がらずに聞けば、真理が示されます。
閃きが起こり生徒が学びます。 そして何が起こるのでしょう?

生徒は畏敬(awe/聖なる驚き)を喜びと共に体験し、彼(生徒)はそれを教えるのです。 彼がそれを教えているのです。
次の様に言ってみましょう。 彼(生徒)は自分自身がそれを教えている事を発見するのです。

これは頭の中で計画された事ではありません。
生徒が「私はここで、先生の言っている事をとても注意深く考えて、その意味を完全に把握し、閃きを受けて、大きく微笑み、先生が教える事に成功したと知らせる事に成るだろう。」と考えたのではないのです。
いいえ、{この様に前もって計画されたもの}は教えではありません。
学びが実際に起こっており喜びが感じられたなら、そこで瞬間的に起こっている「喜びの体験」と「喜び(故)の行為」が「教え」になるのです。

もしその日教師{としての貴方}の具合が優れず気分が悪ければ、教師は「教え」が起こっている事に気付かず、教師{貴方}は喜びを体験しないかもしれません。
しかし重要なのは、(それにも関わらず)そこで「教え」が起こっていた事です。
そして最重要なのは、「教え」は計画されたものではなかったと云う事です。
「教え」は計算出来る様なものではないのです。
「教え」は生徒がしようと{計画}していた事ではないのです。

私はここで何を言おうとしているのでしょう?
私が言おうとしているのは次の事です。
全ての人が(孤児的存在の実在を証明しようとする試みが人生の目的に成ってしまって居る)孤児的マインドから行動/思考しているので、私が「聴きなさい、学びなさい、しなさい」と言った時「何か特定の目的に向かって計画的/計算的にするべきなのだろう」と受け取られてしまっています。
しかし(唯一意味をもつ)行為とは「聴いて、学んで、する」という言葉の中に現されているものであり、それは貴方の「存在」が瞬間的/自動的に光り出し、(貴方の思考の中で)計算されていなかった驚きの表現が現れる事です。  これが「する」と云う事です。

これは孤児的マインドにとっては余り満足出来る事ではありません。
これはエゴにとっては物足りない事です。
何故なら、意味深い教えが、プランや如何様なコントロールも受けずに自発的に起こるなら、起こった事に対する信用/名声/評判/名誉/賞賛を得る者は誰も居なく成ってしまいます。 信用に価する価値ある個人として確立/認識される事(これがエゴの人生の全てです)が出来なくなってしまいます。

私が「貴方は自分が誰か知らない。」と言ったなら、貴方は『「自分が誰か判っていない」と言うなんて、この人は自分が誰だと思って居るのだろう? もちろん私は自分が誰か解っています。 自分の証明書を見せたり家系を示したりだって出来ます。』と反発するでしょうか?
しかし私が次の様に言ったとしたらどうでしょうか? 
「貴方は自分が誰か知っていない。 神の聖なる息子よ、娘よ!」

「ああ、そういう事を言っていたのですか。 うーん、それは大変結構ですね。 もし私が神の子供なら? もしかしたら、そうかも知れません。 しかしその可能性を深く追求するのは止めておきます。 それが本当かどうか調べるのは遠慮しておきましょう。私の行動が私の神聖を明確に現してしまう様にするのは止めておきます。」 (この様に、二の足を踏んではいませんか。)

貴方がそれ(「自分は神の子である」)を抱擁する(受け入れる)のを躊躇している事が、「自分が誰か」貴方には解っていない事を示しています。
貴方は自分で考えている様な孤児では無いのです。 貴方は、自分で考えている様な独立した存在ではないのです。
そして貴方は偶発的な(自然の中で偶然に現れた)ものでもありません。
貴方は精子と卵子故にただ出現し、ある一定期間生き延びてから死に、もう二度と現れない存在ではありません。

「貴方は神の聖なる子供である」と誰かが云わなければならないのです。 貴方がこれに抵抗しなくなるまで、私はこれを確信を持って何度も繰り返し貴方に言って聞かせる必要があるのです。
貴方は、(新しい事を学ぶことによって)自身も変化して行く生徒の様になる必要があります。

貴方は今現在「神の現れ(Presence of God)」なのです。
たった今貴方は(貴方が今居る所で)「神が成っているもの」なのです。
より正確には、今貴方は神から隔たっていない(神と違っていない)意識的気付きという「マインド」なのです。  意識的気付きとして貴方は、神と異なっておらず、神が知っている全てを内包しており、だから神の全ては貴方なのです。
貴方と貴方の父は一つです。 そして神がその一つです。 貴方の父がその一つなのです。

今現在起こっている一番大きな学びは、今教えられている主要なレッスンは、「貴方が生徒に成る事(縛られていない好奇心と共に謙虚に聞く事)により教師としての役割を十全に満たす事が貴方の使命である」と云う事です。
何故(貴方は生徒に成らなければいけないの)でしょう? それは「創造」と呼ばれている「神が満たしているもの/神が成っているもの」で貴方が満ちる様にです。

そうして貴方が「創造」の前に立って聖なる驚き(awe)を体験し、それを体験した喜びが貴方の「存在」を照らし出し、(それが)他の人達に教える様に。 そしてこれが行われている間、(それを見た)他の人達も自分達が教えている事を発見します。 「神が成っているもの」の意識体験を彼らも自然と体験している事を発見します。
何故これが起こるのでしょうか? それは彼等がその時、自分達を隔てる事/独立して存在する事/自分個人のアイディアを持つ事/自分のだけのもくろみを持つ事、を怠ったからです。

神の共同創造者としての貴方の役割は、(次に神が何をするか注意深く見ている)その「マインド」の(無防備な/個人的目論見に影響されていない)現れに成る事です。
そして(そこで起こっている)「創造」体験故に発生している「聖なる驚き」の表現が(皆がそこから学ぶ)教えに成るのです。
と同時にそれが、「天空の音楽」(宇宙的ハーモニー/喜びと愛の完全な表現)として聞える喜びに成るのです。

私は確かに壮大な大きな表現を使っていますが、これら全ては「二つのステップ」と云うアイディアに内包されているものです。
だからもし貴方が教師に成りたければ、{良き事を}「する人」に成りたければ、受け取る人に成りなさい。
男性的で高圧的になるのではなく、女性的で無防備に成り、生命を受け取りそれを呼び込みなさい。
侮辱された{自分が神から独立した存在ではないと認められる}孤児に喜んで成れる様になりなさい。

価値ある事に対するどの様な所有権や功績を主張する事も無く、「創造」の起こる子宮に成りなさい。
貴方は「創造」を起こしている場所に成っているのではなく、「創造」を許可している場所に成っているのです。
これ(「創造」が起こる事)を許可する事により、「創造」の全体を(「その中で神が成っている意味」と共に)体験する事が出来るのです。

その時貴方は、貴方自身が貴方を体験し認識している事を発見します。
そこ、そこ、そこに、「神に対する貴方の認識」を貴方が創造しています。 そこにあるものが貴方の創造です。 これが創造に対する貴方の役割です。
認識されていない「神」は存在していません(non-existent)。

もし貴方が自分一人だけで何かをしようとしたならどうなるでしょうか?
「自分が承認者/権威者に成ったフリをしよう」と貴方が考えたなら?
「私は自分だけで物事を創造しているフリをしよう。 私はここに神を認識する私の役割を満たす事を止めよう。 私は物事を行い、ここに私自身を認識したと言い、ここに私自身を認識しよう。」

貴方が「何かのフリ」をして遊んでいる時に、貴方は真の貴方以外のものに成っていると思いますか?
貴方が「何かのフリ」をしている時、貴方のフリが事実になり、本当の貴方が蒸発して消えてしまうと思いますか? もちろんそんな事は絶対にありません!
だから、あたかも二つの自身が存在する様に見えるのです。

貴方がエゴやエゴ感覚と戯れようと決めた途端、真の貴方の全ては(貴方が自分以外の者に成ったフリをして遊ぶ事を止める迄)「父」に預けられているのです。 (これはもう何度も私が言って来た事ですが。)
この様にして預けられている(貴方)「自身」が精霊と呼ばれているのです。
「父と子と精霊」の精霊です。

しかし「父が子に成っている事」、つまり「創造の動き」しか実際には起こっていないのです。
でも「子」が「フリ遊び」をしよう、「真の自分」を無視しようと決めた瞬間、父が「ギフト」を与えたのです。 これが本件に関する一番簡単な言い方です。
この「ギフト」が貴方の神聖/神性なのです。 これが貴方の想像力に触れられずに預けられているのです。 これが「精霊」と呼ばれているものです。
この様にして、聖なる三位一体があるのです。

貴方が「自分が誰か」思い出した途端、「貴方が誰か」と云う意識体験に抵抗しなくなった途端、永遠の生徒に成る事によって貴方が真の教師に成った途端、そこにあるのは「父と子と精霊」ではなくなります。そこにあるものは(その子供が自身の源として理解し認めている)「父」になるのです。 (そこにあるのは)全ての創造の{中の}「父」なのです。 

そしてこれは余り正確な言い方ではありませんが、
「父」の「創造」行為に対して承認/認識を与えるのが「子」の役割なのです。 これが「創造」をリアルにするのです。
「貴方が承認の印を与えたもの全て」が貴方の創造です。 貴方の創造とは、貴方が真実として認めた「しるし」です。
そして貴方が「全てのもの/事」の中に「父」を認識する事が、「天国/リアリティ」にとって不可欠なのです。

さて、我々が二週間前に話してから、貴方は以前より多く「二つのステップ」を行えたでしょうか?
ここで私は二つの質問をしましょう。
正直に考えて、このアイディア(二つのステップ)が余り好きではないと思っている人は何人位居るでしょうか?
何人の人達が、これ(二つのステップをする事に)に抵抗しているでしょうか? これをしたけれど、嫌々ながらした人はどれだけ居るでしょうか? したけれども出来れば本当はしたくなかったと考えながらした人は何人位いるでしょうか?

これを知るのは良い事です。
何故なら、殆どの人は、自分達が悟りを開きたい/目覚めたい/救済を得たいと考えていると思っています。
しかし事実、殆ど全ての人はこれ(目覚め/救済)に対して抵抗しているのです。
そして貴方がこれに抵抗している理由は、貴方が自己重視{自分の分離感覚を尊ぶ事}に耽溺しており、これを絶えず麻薬の様に得続けなければ居られないからです。

その場合、ここでの学びはなんでしょうか?
それは貴方がこれ(二つのステップ)をするつもりに成っているけれども、驚いた事に、貴方はこれをする事に関して余り喜んでいない、と言う事です。

ここで学ぶべき事は「この件に関しては、貴方はハッキりと決断しなければいけない」と云う事です。
条件付けられている躊躇を前にしても、貴方はし続けなければいけません。
(「これが自分の信用を保つ」と貴方が信じている)条件付けられている躊躇は貴方の神聖(孤児ではない、自然の中の偶然の産物ではない、神の子としての本当の貴方)の体験を否定してしまうので、貴方は(「二つのステップ」/聖なる瞬間を持つ事を)あえてし続けなければいけないのです。

これに関して文句を言って時間とエネルギーを浪費するのは止めなさい。
文句を言いそうになったら、ただ「それはしない。その様な反応は起こさない。私は怒る必要は無い。」と言いなさい。
「私がする必要があるのは、「(これを続ければ)私の存在にとって重要なものが無くなってしまう」と云う示唆を受けても進み続ける事だけだ。 何故ならその様な示唆は噓だから。」(と言いなさい)
これは練習と自己鍛錬を必要とする事です。

過去二週間の間に「ガイダンス」を聞き、次の事を訊ねられた人は何人いるでしょうか?
「私はどれだけ(信じる)リスクを取ることが出来るだろう。私はどれだけ神が存在すると云う事を信じ、それに賭けることが出来るだろう。 私はどれだけ(コントロールを)放棄して天国が目の前にある事、奇跡と呼ばれている瞬間的知覚の変容が起こる事を求めているだろう。」
貴方はどれだけ、「現在の自分の感覚から驚異的に異なった事」が体験出来るか試してみる気に成れていますか?
もし一定常識内でこれをするつもりに成ったのなら、貴方は「二つのステップ」を行って繋がり、そして聴くのです。

ポールは前のミーティングの次の日から、これをしました。
そして我々は久しぶりに沢山話しました。 少なくとも、より頻繁に話しました。
そして私は彼を導きました。 彼が「ここでは、どうする事が適切ですか?」と訊いた時、私はその適切な事を彼に教えました。
私は「適切な事/するべき事」を教えるだけではなく、適切な事をする時のフィーリング(感情)、動機、そしてエネルギーを彼と共有しました。

こうする事により、彼は通常よりも少しアグレシブ(行動的)に成っていました。
誰かが躊躇している時、誰かの狭間越えを後押しする事に関して、ポールは少し「押しが強く」成っていました、
彼は普通そう云う事は極力したがりません。 しかし、これ(強い後押し)もまた「関わり合い」なのです。

ある人に、どうしてもするべき事がありました。
ポールはそれを知っていて、それが重要な事だと気付いていました。 何故それが重要なのかポールにも解らなかったのですが。
その人が行動を起こす事に自信を持てないでいる時、「その行動を取る事が必要なのだ」と云うアイディアとフィーリングをポールが示す事が適切だったのです。

「ポールは、そうする事を嫌がったのですか?」と聞く人もいるかも知れません。
あるいは「何故ポールはそうする事を躊躇したのでしょう?」と疑問に思う人もいるかも知れません。

まず第一に、これはポールの普段のマナー(やり方)ではありませんでした。
通常彼は、とても薄い「関わり方を」好むのです。 
彼は誰かに何かを強く薦める様な事は滅多にせず、(その様なやり方で)何か動きの力を示す事は余り無いのです。
だから、これは(ポールにとって)少し居心地の悪い事でした。

しかし自分の「良きもの」の為に、私が教えた全ての事の為に、(貴方達の前で)彼が口にしている全ての言葉の為に、彼はリスクを取る意志と決意を言い、それを感じたのです。
だから彼はそれをしました。

しかしここで古い(繰り返されてきた)習慣が出て来てしまったのです。
彼は「これは私がしているべき事ではない。 これは私の聖なる仕事ではない。」と言い始めました(これが彼の躊躇、彼の条件付けられている抵抗なのです)。

彼が今笑っているは、(私が笑っているからだけではなく)彼自身もまた笑っているからです。
彼はこの可笑しさを、私と同じ様に感じています。

その時、彼が参加していた事(関わり合い)は、スピリチュアリティとは全然関係が無いものでした。
それは、とても一般的で平凡な(必要を満たす)事だったのです。
「私はテキストをウェブに未だアゲてない。 私は前のミーティングで話していた事に関して考察していない。 私はラジが前回読むように指示したセクションを読んでいない。」
{だから}「私は、これ(こんなに平凡な事)をしている暇はないのだ!」
{とポールは言って/考えてしまったのです。}

この様な体験をしているのはポールだけではありません。 貴方達の多くもこの様に行動して来ました。
貴方は注意深くしていなければ、「これが自分の本当の聖なるワークだと(条件反射的に)貴方が信じ込んで来た事」に戻ろうとして「二つのステップ」を完全に放棄してしまいます(自分の神聖を隠しておきたいにも関わらず)。

私が言いたいのは次の事です。
貴方が訊いた時に得るガイダンス(指示)は、それが貴方のガイドから来るにしろ私から来るにしろ、それは精霊(貴方の正しい「マインド」でしかないもの)から来るものと一緒です。
何故なら、貴方達は全員同じ必要を持っており、従って我々は全員同じ役割を持っているのだから。
そしてここでの必要は、貴方が貴方「自身」(真理を「知っている」もの、貴方がエゴと戯れている間真理を保っているもの)と再度親しくなる事です。

貴方は「二つのステップ」を行って「ここの真理はなんですか?」と聞く意志を持たなければ、(真理をそのまま全体として受け入れる事が出来る)「完全にオープンな意識、全く無抵抗な意識」に成る気に成らなければいけないのです。
自分が受け取る真理に合致させる為のフィルターや意見やプランを貴方が持っていては駄目なのです。
もし貴方が目覚めたいのなら、貴方は「自分が期待していない事(貴方の孤児意識の判断には合致しない事)」を聞く意志を持たなくてはいけません。

前回のミーティングの後の一週間、ポールは我々が話してきた「(風の)動き/愛の動き/創造の動き」の中で過ごして来ました。
彼は、今まで学んできた前提や判断基準に基づくコントロールは手放して、(創造の)流れの中に居てそれと共に流れて行く事を自分に許した結果、今までの彼の(行動/判断)基準には合わない全く新しい行動様式をとる様に成りました。
それは全くオリジナルで、とても自発的で、と同時に全く真摯なものでした。

この様な体験を貴方もする様に成ります。 これは突然なんの前触れも無く起こるのです。
すると貴方は「どうして私は、これをしているのだろう?」と言うでしょう。
と同時に貴方は、この新しい行動をサポートする後押しを得ます。
貴方が「動き」と完全に一致して、貴方が「今迄貴方が抱擁して来なかった基準」に基づいて適切に行動する事を助けるサポートです。

ポールがこれ(動きと共に流れる事)をした結果、(先週土曜まで毎日)「先週のミーティングを行わない(で代わりに何か他の事をする)」と私が言う度にポールは「私はそんな事をしているべきでは無い筈だ。 私はACIMのスタディー・グループを行いラジに話させるべきなのだ。」と感じていました。

本当にそうですか? {この様な時}貴方のガイドは「本当にそう? 本当にそうですか?」と云う様なコメントを貴方に与えるでしょう。
「貴方は毎土曜を神に縛り付けて、自分が期待している事を厳密に行う積りでいるのですか?」
しかしその時、もしかしたら神は(「創造の動きの一部として」)今までとは違うやり方で「貴方に成る」のかもしれないのです。 そして貴方は、それを許す過程で、それが起こる事を許可する過程で、何か新しい事を学ぶかもしれません。

ポールは何を学んだのでしょう? 彼は自分がどれだけ彼自身の善悪/正誤/適不適の概念に縛られていたか学びました。
そして彼が自分の先入観に自身を縛りつけておいたなら、今週起こった数々の奇跡は起こらなかったでしょう。

そして貴方が「二つのステップ」を行い自分を譲って精霊か貴方のガイドに自身を導かせたなら、「偏見/先入観/目論見を持って聞く事、あるいは、どの様に物事が起こるべきか自分は既に知っていると考える事」がどれだけ不毛で馬鹿げた事か内的に解る様に成るでしょう。

“Thy will not mine be done.” 1
「私の意志ではなく、貴方の意志が成されます(貴方の意志が成されます様に)。」

テーマ : スピリチュアル
ジャンル : 心と身体

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プロフィール

翻訳 岡上

Author:翻訳 岡上
ACIM - A Course In Miracles

hiro.okaue@gmail.com

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